夜の童話

智に働けば角が立つ

情に棹させば流される

意地を通せば窮屈だ

…こんな訳で

かつての恩師

石川先生の言われるの如く

兎角に人の世は住みにくい

私にはもう行く所はないな

仕事でのストレスもピークに達し

いい加減に転職にも疲れた

住む所にしてもそうだ

ああ

引っ越しもすでに26回を過ぎたし…

私は疲れ果てていた

或る夜

溜息混じりに独りで酒を飲んでいると

ベランダ越しに男が現れた

ぎょっとして私は立ち上がり

「ドロボー」と怒鳴ろうとすると

いえいえ私はジョバンニですと…

(どこかで聞いた名だな?)

彼は

美味しそうなパンを山盛りに抱えている

ふん?

ジョバンニが手招きをして私を誘う

そして角砂糖を私に差し出し

早朝

街のはずれから汽車が出発しますよ

酔いがまわっていた私は

ジョバンニが

夢の住人と思っていた

眠りから醒めると

午前4時を過ぎている

口に甘いものが残っていた

(角砂糖?)

ベランダへ出て外を見渡すと

まだ暗闇だ

街はまだ眠っている

空に星が瞬いている

そのとき

遠くで汽笛が鳴った

(今日はゴミ出しの日だな

あっ

会社へ行ったら

昨日のお客さんの

クレーム処理の電話をしなくては)

頭がずきずきしてきた

私はいつもの出張用の鞄を手に

アパートを後にした

街のはずれに行くと

見たこともない駅舎に

薄く紫色に光る汽車が停まっている

私の先を行く人が

その汽車へと乗り込んだ

佇んでいる私の肩へ

軽く手が触れた

振り返ると

美しい女性が微笑んでいる

腕に腕章を付け

細身にピタリとした制服をまとっている

私が呆気にとられていると

女性が空を見上げ

こう言った

「あの星まで私とご一緒しません?」

或る秋の日に

懇意にしている方の有機栽培農場へお邪魔する

元設計技師のT氏が定年後に拓いた農場は

今年で12年になるそうだ

現役時代のT氏は

東京の会社で工場のライン設計をしていた

現在はその緻密な頭脳を農業に傾ける

農場の片隅にあるT氏自慢の小屋は掘っ立て小屋だが

中は農業に関する本やノートがずらっと並ぶ

土がこぼれている机に足を投げ出し

二人で缶コーヒーを飲んで一服する

馬鹿っ話でお互いの疲れを癒やし

程々に政治の話なども飛び出すが

この美しい景色の中では

やはり収穫ものの話が似合う

たばこの煙がアケビの弦に絡まり

そして秋の空へと消えてゆく

聞けば

近くの荒れた農地は作り手が不在で

毎年草のみが刈られて地肌をさらす

どこも農業を放棄する

理由は食えないからだと…

T氏はずっと

農業への可能性を探っている

それは効率ではなく

なにか人が感動するような農業

そして

食べることを慈しむことができるような

豊かな農作物の収穫だという

T氏の農場では

すべてが実りの秋だった

雑多なつくりもののなかに

理知的かつ

農業に対する崇高な思想が流れる

東に山が迫り

小川を挟んで陸稲と畑に分けられ

細長い耕地は西に伸びるが

その先の広がりのある農園には

たわわに実った稲穂が光る

秋の夕陽はオレンジ色に景色を照らすが

それでもまだ汗ばむほどの勢いで

私たちを照らす

T氏が再び草刈り機を回し

山々へエンジン音がこだまする

最近は保護政策で増え始めた

山の野猿との知恵較べだと笑う

幾種もの名も知らない虫が飛び

数え切れない程の数のバッタが跳ねる

栗の木の下に

いくつものイガグリが転がっている

豚の糞でつくったという堆肥に

化学肥料とは違った実りが期待できる

小川を渡り

アケビをかじりながら

放し飼いの鶏を観察していると

赤とんぼの集団が滑るように通り過ぎる

此所へ来るたびに

本当の豊かさを噛みしめる自分は

さあこれから何処へ行こうか

さて何を始めようかと

いつもの如く戸惑ってしまう

僕らにとってのコカ・コーラという存在

いまでは、どうということのない飲み物だが、

コカ・コーラを子供の頃に初めて飲んだときは、

ホントに驚いた。

それは味であり、色でもあったと思う。

当時の炭酸飲料といえばサイダー位しかなかったので、

コーラはなんというか、

表現しづらい不思議なインパクトがあった。

うまいといえばうまい、かな?

そんな初めての味が、みんなを虜にしていったと思う。

しかし、薬っぽい味といえば、そんな気もする。

そもそもコーラを発明?した人が薬剤師だったというから、

当初は疲労回復とか、そんな売り方をしていたらしい。

しかし、全然売れない。

で、この権利を買い取った人が飲み物として売り、

大ヒットした。

商品のポジションって重要だな。

中身に関しても、当時はいろいろな噂が飛んだ。

南米産のコカの葉(麻薬の一種)が入っているとか、

飲み過ぎると骨が溶けるとか…

これはいまでも都市伝説のひとつだろう。

コーラといえば、日本の場合はコカ・コーラなのだ。

ペプシが強い国もあるらしいが、

日本はペプシではなく、コカ・コーラ。

コカ・コーラが日本に根付いた理由は、やはりコマーシャルの力だと思う。

味ではない。

ペプシもそれなりに頑張ってはいたが、

コカ・コーラのプロモーションのうまさは、

当時から群を抜いていた。

この飲み物は、まずアメリカというリッチな国の生活を

体現させてくれた。

その頃は、

映画・若大将シリーズで大人気だった加山雄三が、

実にうまそうにコーラを飲んでいた。

もちろんCMでだが、僕らへの売り込みは成功した。

日本がこれからリッチになろうという時代に、

コカ・コーラはタイムリーに上陸したのだ。

贅沢な生活シーンとコカ・コーラ。

この憧れが、徐々に世間に広がりをみせた。

で、コピーはまずこんな具合。

♪コカ・コーラを飲もうよ

コカ・コーラを冷やしてね♪

実に単純なコピーだか、

当時はこの「冷やす」という行為が贅沢だった。

いまは冷えている飲み物は当たり前だが、

電気冷蔵庫が普及したての当時の日本では、

冷やすというのは、なかなかリッチなことだったのだ。

余談だか、この頃のコカ・コーラのボトルは、

個性的な曲線でつくられ、

それが独特の存在感を表していた。

一説では、

女性のボディラインを元にデザインされたということで、

後に、僕がいまの仕事についたとき、なるほどと思った。

その頃の僕らにしてみれば、

コカ・コーラは、ひとつのお洒落なアイテムだった。

これもコマーシャルの力だ。

夏場は、コーラとの付き合いも親密で、

海ではサンオイルじゃない、コパトーンじゃない、

コーラを振りかけて陽に焼くというのが、流行った。

で、夜はいまでいうカフェバーみたいた店に集まり、

アメリカンロックなんかを聴いて踊ったりしたが、

そのときの飲み物が、ウィスキー&コーラ。

要するに、コークハイだ。

冷静に味わえばうまくはない。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

バーベキューをしながらコーラを飲む、

というシーンをテレビで観たときも、

僕らは、その初めてのスタイルに驚いた。

肉をガンガン喰いながらコーラをグイグイ飲むーーー

これは贅沢の極み以外のなにものでもなく、

そのインパクトは日本中に伝搬したに違いない。

アメリカン・ライフ・スタイルは、

こうして世間を席巻し、

僕はぼんやりと、

ああ、アメリカという国には勝てないな、なんて思ったものだ。

ま、こうした驚きもインパクトも当然意図的だが、

それが素直に伝わったというのも当時の日本を映しているし、

コマーシャルにもパワーがあったといえるのだろう。

こうして時代も流れ、日本も豊かになると、

コカ・コーラもコマーシャルスタイルを変え、

日本という国に併せたコマーシャル展開となる。

町の魚屋さんのおっさんとかOL、

サラリーマンとか京都の舞妓さんとか、

普通に働く人と日常の生活シーンのなかにコカ・コーラがあるという

スタイルをとるようになる。

これで外資、

いや、コカ・コーラ文化が日本に確実に根付いてゆくこととなる。

僕らが大人になっても、

コカ・コーラのコマーシャルは相変わらず印象に残るものが多かった。

それは、

映像の秀逸さに併せるように、コピーに共感できるメッセージ性があったからだ。

スカッと爽やか、も素晴らしいコピーだが、

僕が凄いと思ったのは、単なるコーラのコマーシャルが、

愛だの自由だの、人間を語り出したことだった。

♪本当のひととき 本当の人生

生きている心

自然にかえれと誰かが呼んでる

そうさコカ・コーラ

この広い空の下

生まれてきてよかった

そうさ

人間は人間さ

コカ・コーラ♪

※この記事は、オールアバウトプロファイルコラム及び弊社ビジネスブログを転載したものです。

書籍について考察

仕事柄か、本が大好きなので、

読むものが常に3冊~5冊くらいが同時進行している。

また、私の場合、書籍類は経費として認められている。

名目は研究費。

別に研究などしていないが、

帳簿では、そうした項目となる。

お役人が考えた仕分けなのか?

で、研究費はあまり節約しないようにしている。

結果、部屋は本だらけ。

先日も久しぶりに本屋へでかけ、主に雑誌類をあさる。

普段は、ほぼアマゾンで賄っているので、

久しぶりに町の本屋へ行くと、うきうきする。

あの、本がズラリと並んだ爽快感は、ネットでは味わえないです。

まず手に取ったのが、

枻出版の「Daily U・S・A」。邦題、アメリカの日用品図鑑。

ざらついた手触りの紙質は、良い意味で引っかかりがあり、

漂白してなさそうな、

少しくすんでいるところに好感。

ページ数はP200あるので重いかなと思ったが、

そこはペーパーバックの如くライト。

アメリカンなのである。

制作者がそこまで気を回わすと、やはり本はいいなぁ、

高価でも欲しい本は買うな、と思ってしまう。

これは、ネットが幾ら頑張っても、出せない感触だ。

当たり前だが、存在感が違う。

ページを開くと、

アメリカン・クラッシックな雑貨やチョコ、

お菓子、家電やケミカル製品がズラッと並ぶ。

ひとつひとつの製品写真が少々荒れ気味に、

かつ大胆なデザインでレイアウトされている。

イメージ写真やイラストもポップで、

これは学ぶべきところが多いな、と思う。

眺めるにつれ、

バットマンやグリーンホーネットが活躍していた時代に

アメリカ文化の基礎は、すでにできあがっていたように思う。

↑はジョークだが、イメージとしては分かって頂けると思う。

日本や中国、欧州とはひと味違うアメリカン・カルチャーは、

ときとして、気になる魅力を発する。

さて、2冊目に、月刊「ペン」に目がいった。

クリエイティブの最前線という特集を組んでいたので、

中をペラペラとやってみて、衝動買い。

クリエイティブといっても、その範囲はプロダクト、

写真、広告、グラフィック、建築と多岐に渡っていて、

各分野のスグレモノがズラッと載っている。

普段は、こうした分野にまで網を張っていないので、

目から鱗とは、このことか。

出版社は阪急コミュニケーションズ。

いいものつくるなぁ~と、つくづく感心。

そういえば先日、歯医者の待合室で読んだ、

「GQ JAPAN」も良かった。

もう廃刊された名雑誌「NAVI」の編集長だった鈴木正文さんが編集長をしている。

記事は硬軟入り交じり、お洒落なのにかつ原発などの話題にも触れ、

鋭い言及がなされている。

他では読めないレポートは、迫るものがあった。

で、この雑誌は「NAVI」に似て、

その文字の組み方やレイアウトなどか踏襲され、

素人のデジカメ写真とは全く次元の違う写真も贅沢に使い、

プロの仕事をいかんなく発揮している。

こうなると、本の強みが見えてくる。

e-ブック(電子書籍)とは異なる価値が、明快だ。

デジタルは、デジタルとしての役目があるだろうし、

アナログ本は、それと異なる方向に活路がある。

また、コストやエコの問題に加えて、現在は

「フリー論議」も盛んだ。

フリーとは、要するにタダのこと。

世の中、タダの情報やソフト、サービスが蔓延しているが、

行く末はどうか、気になる話題ではある。

フリーは、本も例外ではない。

すでに中身がネットで見れるものの他、

著作権切れの書籍なども含め、

タダに近い状態になっているものもある。

で、このタダビジネスはどうやって儲けているかだが、

おおかた、広告などの間接的な稼ぎのスタイルが多い。

例えば、タダで読める書籍サイトがあれば、皆が集まる。

サイトアクセスが増えるので、訪問者にタダで本が読める代わりに、

そのサイトに広告を出稿する企業がお金を負担することとなる。

フリーの仕組みの一例は、簡素に話せば、こんな具合だ。

で、話を本屋の本に戻すと、

フリーという概念を吹き飛ばす価値の高いものは、

まだまだ存在する。

書籍の生きる道は、この辺りにあるような気がする。

で、その他の書籍はどうなるのかというと、

前述した価値のないものは、やはり淘汰の道を辿ると思う。

書籍も進化の真っ最中なのだ。

なんだか、

ダーウィンの進化論と重なるような気がする。

泣きたいときに泣けないって

悲しいね

なぜなのかと

心のなかをまさぐっても

応えの用意もない

空っぽのセンチメンタルなんだなぁと

オトナになったんだなぁ

いや

オトコだからかなぁと

そうして

なにもみつからないから

とりあえず

今日は笑顔でいようと

思うのだけれど

そんなことを繰り返し

分からない心を置き去りにして

日々が過ぎてゆく

或るとき

膨大な記憶のなかから

ひとつの懐かしい映像が流れて

僕等は

暖かい春の野辺にいて

一面に広がるよもぎを

ひとつひとつ摘んでいて

僕の危なっかしいナイフ使いを見守ってくれるあなたは

とても若くて

健康で

その笑顔は

間違いなく幸せだと

そうして

傍らでしゃがんでいる

あなたの子供である僕も

悩みなく

世界は限りなく小さく

あなたに育てられて

とても嬉しいと

僕はその映像を

名画でも観るように

名作でも読むように

じっとみとれていると

途端に

自己欺瞞は崩れ

積み重ねた面倒な構造が露わになり

僕は日常のすべてを忘れ

そうして

涙がこぼれて…

面倒な人間だね

ややこしい性格だねと

誰かが肩に触れてくれると

涙は

余計にとめどなく

流れるのだ

September(セプテンバー)

海なんか、もう行かないよ

そんなに若くないし…

そうだね、

泳げなくなっているかもね

だけど最近、

若い友達からオーストラリアの海での話を聞いて

それが、気になってね

彼は、パドリングの最中

透明な波しぶきの向こうに

太陽が重なって

その水と光の間を

一瞬

極彩色のエンゼルフィッシュが飛んだのを

見たって

ああ

それは幸せな偶然だね

太陽と海の奇跡なんだろうねって

で僕もムカシの話を

彼にしてみたんだ

さとうきび畑って

ホントに

ざわわ、ざわわっていうのさ

で、波の音を頼りに

背の高いさとうきびをかき分けて行くと

なんていうのかな

絵に描いたような海原が広がっていて

珊瑚礁に泡立った

真っ白いリーフを境に

海は水色から遠く群青に変わり

その上を

一隻の小さな古い漁船が

ぽんぽんぽんと音を立てて

滑っていったのさって

いいですね!

その絵、いいですねって

(だけど

海なんか、もう行かない

そんなに若くないしね)

そういえば

あのサーフショップのオヤジって

たしか還暦を過ぎても

古いロングボードを赤いトライアンフのオープンに乗せて

毎日毎日

海に入っていたよね

ムカシの話だけど…

あのオヤジ

若い頃より筋肉はかなり落ちてしまい

長い白髪が潮焼けしてよけいに目立ったけど

あの茶色い目は

相変わらずどこか少年だったし…

秋だね

いまごろ浜は静かで

今日あたり

風はオフショアだろ?

いい感じに波は荒れていると思うよ

あのコットンのシャツを着て

一応ボードも積んで

ああ そうだね

もう一度

海へ

行ってみようか

スパンキーのツィード

フェイスブックで、ついイイネ!
ちょい偽善的な迎合なのかなと…

コピーライターの売り込みのコピー、
どれもヘタなのは何処も同じ(笑)

俯瞰して考える。地を這って実践する。
両眼ですべては成立する、ような

国内だけで尖閣売買成立。
こうゆうことは回りを見てやれ、と思うのだが

民主、自民没落。橋下上昇で、
この国はどのみち、リセット必要でしょ?

震災より1年半。もう過去なのか、
現在進行形なのか? それが現実の深度

この時期にナショナリズムを煽る石原某。
人でなしの他に言葉がみつからず

居間の卓上に、ガラス鉢のりんどう。
救われるのは、気遣いなんだなぁ~

病院で「帰る」と母きかず。
いまは無理と…
気性の強さは母似と納得…

空を見て、雲を追って、歩く。
汗も涙もでる夏だなぁ

おふくろ、苦しくなければ、
生きてくんないか?

知り合いより自殺したいとのTEL。
ふざけるなよ、お前!

人に寄りかかることしか知らない甘ちゃん。
そういうの大嫌いです、と声に出していえるかなぁ?

カネがないは皆同じでしょ、
が、情がないのは、救われないんだよ

スタバやドトールより、
サークルKのコーヒーが美味い。これ、ホント!

今年の横浜と鎌倉と箱根と山中湖は、
なぜこんなに遠いんだろう?

日帰り温泉にハマってしまった!
あの湯のやわらかさと外の木漏れ日は、値千金!

村上春樹より、藤沢周平より、
真実は、アンパンマンなのかも知れないよ

歩いて、ストレッチをして、泳いで鍛えて…
が、ふと、死はいつも隣で待っていると思うと…

気になる教え

人を助ける人を、天は助けるそうだ。

出典は不明だが、

福沢諭吉が言いそうな気がする。

納得。

昔、人でなしには、必ず罰が当たった。

幼心に、道徳を躾けられた身には、

そうして世の中は回っているようにみえた。

だから、自らの行いに良からぬ事があると、

怖れが芽生える。

怖れは悪夢を呼び、不安をかき立てる。

私は、

悪事ばかり働いていたので、

心の休まる暇がなかった。

万事急須! 

しかし、悪人といえども、

心を入れ替えれば、天が助けてくれる。

これも、出所が不明だが、納得。

人は、やり直すことができる、らしい。

人生のリターンマッチで、

なんとか辻褄を合わせる。

誰も最後は、

穏やかになりたい、のだ。

なので、心を入れ替える。

曰く、

心が変われば、態度が変わる。

態度が変われば、行動が変わる。

行動が変われば、習慣が変わる。

習慣が変われば、人格が変わる。

人格が変われば、運命が変わる。

運命が変われば、人生が変わる。

これは、ヒンドゥー教の教えだが、

あのマザー・テレサも同じような言葉を残している。

曰く、

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

ちなみに、私たちの親しんでいる仏教も、

広義にはヒンドゥー教の流れを汲んでいる。

妙な成功本より、よっぽど面白いのだが、

いざ、実行するとなると…

そこが難しいんだよね?

静寂と退屈(ふたつの音楽)

そのときは突然訪れたので、困惑した。

まだ、中学生の頃。

私も人並みに受験勉強に励み、

寒い夜中に、石油ストーブをつけて、

ラジオを聴いていた。

たまに深夜の外を眺めて新鮮な外気に触れ、

英語の勉強をしていたときだと思う。

ふと気がつくと、

私はそのメロディーに魅了される。

シャープペンを置く。

ストーブの上のやかんの煮え立った音が、消える。

少し頭痛が出て、

そのメロディーは、外からきこえた気がしたが、

ラジオのジーっという雑音も消えてなくなり、

溢れ出るメロディーに、時が止まった。

後日、このアーティストが、

サイモンとガーファンクルと知る。

いまではたまに聴く程度だが、

当時は折りに触れ、

擦り切れるように、聴きいっていた。

「サウンド・オブ・サイレンス」は、静かに流れる。

その音楽は、

確かに静寂のなかのサウンドだった。

以来、私は窓を開け放ち、

夜空をじっと見上げる癖がつき、

その空を突き抜けた先に、意識は向かっていた。

夜のしじまに流れる、

宇宙の交信の気配を気にするようになったのは、

こうした習慣が常態化してからだと思う。

後、静寂はメメント・モリのときであり、

自分というちっぽけな存在の生を意識する儀式となり、

都会生活に於いても欠かせない確認事項であり、

独りを意識し、この世の孤独と向き合う、

格好のときとなったのだ。

一方、数年後、

私は高校生になり、

「よい子」が集っている吹奏楽部が肌に合わず、

退部する。

そのときから、学校へ行かなくなる日が増え、

家を出ても、私は反対方向への電車に乗っていた。

そして、世間で言う不良仲間が溜まっている

アパートへとしけ込む。

学校や職場からはぐれた数人の仲間とは、

たいした話もなく、

気だるい心身を引きずって、

ただパチンコ屋へ通い、

出玉でその日をどう過ごすか、

そんな日々だった。

考える事を拒絶し、

これから先に、

自分のなにが広がっているかなどとも思わず、

目の前のテレビがなにを言っているかも分からず、

ただ、こんな時間が永遠に続くとなると、

生きていることに、

とてつもない退屈さを感じた。

その頃の私にとって、

時は、継ぎ接ぎだらけの寄せ集めで

辛い時間だけ止まっている、

そんな観念さえ抱いていた。

生の輝きもなく、

それは真綿で首を絞められるような拷問に思えた。

そんなとき、

仲間の自慢のJBLのスピーカーから、

吉田拓郎が唄っていた「人間なんて」が、

いつも流れていた。

乾いた砂漠を宛てもなく歩く…

そんな自分の姿が、脳裏に映っていた。

人間なんてらららららららら…

人間なんてらららららららら…

この歌詞のらららに、

私は、むなしさのすべてを詰め込んでいた。

いまとなっては、

その時間が益であったのかどうか、

思い出す度に、

困惑する自分がいるのだが…

海辺のホテルにて

海を見ようと

海辺のホテルに行った

7階の部屋から

窓を開けると

水平線の波の上に

お袋が座っている

目がうつろだな

お袋

どうしたの

お前

あの日約束したのに

来てくれなかったね

さみしかったよ

それで

私はね

遠い所へ行くことになったんだよ

お前

なんできてくれなかったんだよ

お袋を抱き寄せると

あの祭りの太鼓がきこえる

夜店に集まる人の声も

顔をのぞき込むと

瞳のなかに

古びた写真が一枚

置き去りで

よく見ると

お袋の生まれた

わらぶきの家の

軒先に

懐かしいおばあちゃんと

若いお袋と

お袋の姉さんと、

戦争から帰った兄さん

そして学生服の弟と

雪駄を履いた

若い

僕の会ったことのない

お祖父ちゃんらしい人

みんな笑って写っている

家へ帰るよ

私はね

家へ帰る

おまえ

あとはしっかり生きるんだよ

あのね

もう恨んじゃいないよ

世の中には

どうしようもないことも

あるもんだよ

おまえも

体を大事にしなよ

ゆっくり

きょうはゆっくり

寝るんだよ

せっかくホテル

とったんだろ

海に夕焼けが映って

朱に染ると

波も静まり

お袋もいない

今夜も関東一円は晴れだそうで

やがて夜空がまたたく頃

僕はもう

仕事とかニュースとか

世間など

どうでもよくて

早々とぐっすり眠り

明け方の垂れ下がっている月に

起こされた僕の掌に

見覚えのある新勝寺の

身体健全のお守りが

おいてあった