花伝説

No.1

峠でひと休みしていると

一匹の子ギツネが

草むらからノロノロと出てきて言うには

この森を抜けた先に

あなたの探している老人が待っている、とのこと

腰をおろして食べかけのパンをかじる私は

やはりこの道に間違いがなかったと安堵した

赤い鳥が二羽、洋松の枝で鳴いている

キキキキッッっと、鳴き声が山を越えてゆく

森を抜けると

遙か峰の重なりが見える

中腹まで下ると池が見えた

傍らに、人影があった

木の幹に腰をおろしている

あのときの老人だ

背を向け、池を眺めている

私が近づくと

すでに誰だか分かっていたかのように

話し始めた

「やはり来たか」

老人は立ち上がると

こちらを向いて微笑み

白い衣をたぐり寄せると

杖を空にかざした

「しばらくぶりです」

私が言うと

「うん」と

分かっている風に

老人は背筋をピンと張り

歩き始める

薄暗い森をふたつ通り過ぎる

やがて視界がひらけ

次第に急斜面に広がる丘が見える

その丘から更に上を見上げると

反ったように天に伸びる

断崖のようなものがそそり立っていた

目を凝らすと崖の遙か遠い中程に

大きな穴のようなものが空いている

遠くに見えるその穴からは

絶えずヒューヒューというごう音が

ここまで届く

不気味としか言いようがない

その辺りの空気は

遠目に白じれて

突風が吹き出ているのが分かった

老人は再び杖をかざして

「あそこがそうじゃ」

と私に振り返る

「はい」

そう言い、私は背負っている大きいリュックに触れ

再度中身を確認した

崖の洞穴までは粗く削った階段のようなものが刻まれている

私の決意に変わりはない

「では」

「うん、気をつけるのじゃぞ」

私は老人に会釈をして階段を上り始める

「決して引き返してはならん」

「はい」

雲が低く垂れ込めてきた

上に登るに従い高い峰のつづらが見えてくる

それは緊張からくるものなのか

足はガクガクと震える

そして次第に息が上がってきた

私が背負っている荷物は20㌔はあろうか

そして不気味な音だけが次第に近づく

雨がポツポツと降り出してきた頃

ようやくその巨大な穴の真下へと辿り着く

洞窟の入り口は思ったより広く

飛行船位は飛べそうな大きさだった

中を覗くと暗闇が続き

どこまでも底なしのように思えた

ゴーゴーと吹き上げる風は

私を拒むように凄みを増し

それは地の底から吠えるような

人々の叫びのようにも聞こえた

私はふと

ここまでの道程を振り返ってみた

思い起こせば、私は以前

ふもとの街で

何の変哲もない花屋をやっていたのだ

この頃までは平和なときだった

しかし、あの戦争が始まったのだ

(つづく)

モーレツなコマーシャル

Oh! モーレツ

その昔、小川ローザという素敵なモデルさんがいて

クルマが通り過ぎるとスカートがまくれ上がった。

軽快な音楽に乗って、Oh! モーレツ

となる。

このCMは60年代後半に大ヒットして、

それは幼少(?)の頃の私の記憶にも残っている。

商品は、ハイオクガソリン。

丸善石油のCMで、確か「ダッシュ」というハイオクを入れると、

クルマが格段に速くなる、というもの。

それがホントなのか否か、真偽の程は不明だが、

当時はそんな広告が多かったたように思う。

広告表現も途上だったが、このTVCMはインパクトがあった。

当時の日本は高度成長の真っ最中で、景気も年々良くなるばかり。

文字通り、どこのお父さん方の誰もが、猛烈に働いていた。

そこには明日への夢があり、よりよい未来が約束されていたように思う。

きっと現在の中国の景気に似ているのかも知れない。

当時のサラリーマンは、憧れの職業。

みんな自信に満ちていて、数多くの猛者サラリーマンが、

世界に繰り出していた。

そして、日本で売れそうなものを世界の果てまで探しに行って仕入れ、

また、日本の製品を地球の隅々にまで売りに行ったりしていた。

こうして後、この国は世界から、

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるまでに成長したのだ。

まさに日本の経済事態がモーレツに急伸していた時代だ。

「モーレツ」のコマーシャルは的を射ていた。

時代背景をも、的確に表現していたと言える。

私と同世代のサザンの桑田さんも、

このコマーシャルの印象が強かったらしく、

小川ローザの白いミニのワンピースとヘルメット姿がアタマから消えないとみえ、

茅ヶ崎の実在したホテルの思い出を歌った「ホテルパシフィック」で

当時の彼女と同じ格好の女性を登場させている。

これぞ、印象に残るモーレツなコマーシャル。

昔のテレビコマーシャルが如何に影響力があったかという、

典型的な例だ。

※この記事は、オールアバウトプロファイルコラム及び弊社ビジネスブログを転載したものです。

ラブソング

いつだって僕は

自由だった

思うがままに振る舞い

世界の中心はいつも自分でね

だけど

ホントはずっと孤独だったんだよ

独りだった

そんなとき

すれ違いざまに

君の涙をみたんだ

その憂いた横顔

僕が惹かれないとでも?

孤独のなかに

やがて

君は棲んでくれた

だから僕は思うんだよ

振る舞いなんていうものは

いつだって変更可能だし

僕の自由なんていうものは

どれほどものでもない

だから

ちょっとした違和感なんて

気づかないほどに

分からないくらい

すっと躰に馴染むのさ

ホントは

ずっと誰かを待っていたんだ

ずっとね

それは

僕の自由を捨ててもいいくらいに

ああ

なぜこんな話をするのかって

変なことを言うねって

だからさ

僕はいま君に

こうして告白しているつもり

なんだけどね…

モノではなく、物語を売る

少々前だが、

日産のセレナというクルマのテレビコマーシャルは、

「モノより思い出」というコピーで締めくくっている。

セレナはクルマ。当然モノだが、このクルマを買うと、ファミリーで

楽しい思い出がつくれます

ーーーそんなメッセージが込められている。

セレナの売り上げに関して、私は資料を持っていないので

分からないが、悪くはないと思う。

というのも、街中を走っていて、よくセレナをみかけるので、

そう思っているだけではあるが…

最近、モノが売れなくなっている、とはどこでもよく聞かされる話だ。

不況というモノサシで計ると、なるほどと理解できる。

だが、その逆の事例も数多くある。

曰く、商品の売り方を変えたら売れるようになったという化粧品や

健康食品、観光地のおみやげまで、

そうした現象は、現実に起きているのだ。

では、その売り方とは、どのようなものなのか?

それが今回のテーマである。

例えば、スーパーにキャベツがズラッと並んでいるとする。

あなたはどれにしようかと迷い、アレコレ手にはするが、決め手がない。

が、ひとつ、早起きの朝どりキャベツ! というカードのついたキャベツに目が止まる。

よくよく見ると、栽培した農家のおじさんの顔写真が添えられ、

このキャベツは柔らかい歯ごたえの品種で、

その良さを引き出すために、

私が早起きして収穫し、

さきほど私が直接納品致しましたーーー

というメッセージが書かれている。

あなたは、すっとこのキャベツをカゴに入れ、

さっさと、次の買い物に精を出すことになるだろう。

モノをセレクトする際の基準は、こうした工夫にある。

この仕組みはすでに使われてはいる手法ではあるが、

こうしてモノの背景を語ることにより、

売り上げを伸ばす方法は、他でも転用可能である。

まず商品ではなく、その背景を語ることに終始するということ。

いま、消費者は、商品の向こうにあるなにかに期待している。

それが物語であり、いわゆる付加価値なのかも知れない。

今後、商品にまつわる背景、物語のニーズは、

より重要になってくるだろう。

※この記事は、弊社ビジネスブログより転載しました

娘よ

恋の悩みに

なにも応えてあげられず

とれたマスカラと黒い涙が

カッコ悪いから拭きなさいと

そんなことしか言えなくて

他の事柄なら

なにを置いてもやるだけやってあげようと

だけど

頭を撫でてあげることくらいしかできないよな

この話は…

いろいろと傷ついて

思い通りにはいかず

おまえは仕事でもいろいろあるだろう

この先

不安もいっぱいだよな

だけど

きっとそういうものなんだよ

世の中は

「おとなになって俺もね…」と言いかけたところで

もう2時だね

寝ろよと

切なさが伝わり

無力だなと

自らに

今更そんなこと分かっているつもりだったけれど

娘よ

私はよく言うだろう

幼い頃から

おまえの笑顔は

それは

まわりも巻き込むほどに素敵だったし

いまのおまえも変わらないよと

笑顔は人を幸せにするんだよ

娘よ

明日の朝

私はこう言うだろう

「おまえならきっと乗り越えるよ」

だって俺の娘だろうと

素っ気ない素振りの内に

いつも守っていてあげたい

抱きしめてあげたいけれど

娘よ

やはり

おまえもおとなになったら

独りでなんとかするんだ

独りで歩きなさいと

私には

それしか言えないけれど…

日本のメシ

外出が続くと、ついパンとコーヒーとかで

軽く済ませている場合が多い。

が、これが続くとなんだか違和感が出てくる。

体が、違うぞと言っているように思う。

で、ご飯とか蕎麦が無性に食いたくなる。

飯系はおにぎり、蕎麦系はたぬきそばとなる。

なぜおにぎりとたぬきなのか、そこは判然としないが、

この2種を摂取すると、

なんだか体がリセットされた気になる。

不思議。

西洋に行くと(表現が古いな)、朝食は、パンだ。

安宿に泊まると、朝食に出されるパンもかなりまずい。

まず堅いし、なにより素っ気ない味。

シンプルといえばそうだが、私には馴染めない。

紅茶もティーバック、で薄いのばっかり。

運んでくれる女の子も、なんだかふて腐れているから、

余計にまずい。

日本で食う安い食パンのほうが、よっぽどうまいのだ。

で、東南アジアはどうだろう。

私はまだ東南アジアへ行ったことはないが、米系はありそうだ。

が、辛かったり香辛料が入っていたり、汁物の飯のイメージ。

きっと味噌汁もお新香もないんだろうな。

ムカシ、南の島へ行ったときも、数日で米が食いたくなり、

日本から持って行った農協の温めて食えるご飯と

即席の味噌汁に救われたことがある。

あっ、梅干しもね。

これから海外を考えている私にとって(?)、

食い物の問題はかなり深刻だ。

最低、数日に一度は、正しい日本の飯でなければならない。

向こうの日本食をいくつかチェックしたが、

かなりの高額。

全然お財布にさやしくない。

うーん。

向こうの言葉とか気候とか習慣とか、

まあクリアすることはいくらでもあるが、

私の場合は、まず飯なのである。

飯の問題をクリアすると、だいたい大丈夫。

生きていけそうな気がする。

そこんとこのみ、柔軟性に欠けるな。

特に、朝の飯にはこだわるね。

まず、寝起き。

うまい緑茶を一杯飲みたくなる。

コーヒーは後ね。

で、味噌汁は、味噌と具のコラボに期待する。

海苔でも卵焼きでもうまいのが食いたい。

魚はアジの干物だろう。

佃煮はどうだ。

濃すぎず、薄すぎずがご飯に合うんだよな。

とまあ、私の場合は面倒くさいのです。

いっそ向こうで日本食の朝飯屋をやるか。

と、これはやけくそ的ビジネスの発想。

閑話休題

以前は我が家も、朝飯はパンの時代がありました。

しかしです。もう、朝からバターだのジャムだのと、コテコテ。

もっと遡ると、ケロッグとかそういうもの。

シリアルしか食わないときもありましたね。

が、年がいくと米です。

米に戻ります。

米はいいですね?

なんといっても味噌汁とのマッチングが素晴らしい。

これは、日本人の知恵ですね。

皆さん、日本のメシ、食ってますか?

夜の童話

智に働けば角が立つ

情に棹させば流される

意地を通せば窮屈だ

…こんな訳で

かつての恩師

石川先生の言われるの如く

兎角に人の世は住みにくい

私にはもう行く所はないな

仕事でのストレスもピークに達し

いい加減に転職にも疲れた

住む所にしてもそうだ

ああ

引っ越しもすでに26回を過ぎたし…

私は疲れ果てていた

或る夜

溜息混じりに独りで酒を飲んでいると

ベランダ越しに男が現れた

ぎょっとして私は立ち上がり

「ドロボー」と怒鳴ろうとすると

いえいえ私はジョバンニですと…

(どこかで聞いた名だな?)

彼は

美味しそうなパンを山盛りに抱えている

ふん?

ジョバンニが手招きをして私を誘う

そして角砂糖を私に差し出し

早朝

街のはずれから汽車が出発しますよ

酔いがまわっていた私は

ジョバンニが

夢の住人と思っていた

眠りから醒めると

午前4時を過ぎている

口に甘いものが残っていた

(角砂糖?)

ベランダへ出て外を見渡すと

まだ暗闇だ

街はまだ眠っている

空に星が瞬いている

そのとき

遠くで汽笛が鳴った

(今日はゴミ出しの日だな

あっ

会社へ行ったら

昨日のお客さんの

クレーム処理の電話をしなくては)

頭がずきずきしてきた

私はいつもの出張用の鞄を手に

アパートを後にした

街のはずれに行くと

見たこともない駅舎に

薄く紫色に光る汽車が停まっている

私の先を行く人が

その汽車へと乗り込んだ

佇んでいる私の肩へ

軽く手が触れた

振り返ると

美しい女性が微笑んでいる

腕に腕章を付け

細身にピタリとした制服をまとっている

私が呆気にとられていると

女性が空を見上げ

こう言った

「あの星まで私とご一緒しません?」

或る秋の日に

懇意にしている方の有機栽培農場へお邪魔する

元設計技師のT氏が定年後に拓いた農場は

今年で12年になるそうだ

現役時代のT氏は

東京の会社で工場のライン設計をしていた

現在はその緻密な頭脳を農業に傾ける

農場の片隅にあるT氏自慢の小屋は掘っ立て小屋だが

中は農業に関する本やノートがずらっと並ぶ

土がこぼれている机に足を投げ出し

二人で缶コーヒーを飲んで一服する

馬鹿っ話でお互いの疲れを癒やし

程々に政治の話なども飛び出すが

この美しい景色の中では

やはり収穫ものの話が似合う

たばこの煙がアケビの弦に絡まり

そして秋の空へと消えてゆく

聞けば

近くの荒れた農地は作り手が不在で

毎年草のみが刈られて地肌をさらす

どこも農業を放棄する

理由は食えないからだと…

T氏はずっと

農業への可能性を探っている

それは効率ではなく

なにか人が感動するような農業

そして

食べることを慈しむことができるような

豊かな農作物の収穫だという

T氏の農場では

すべてが実りの秋だった

雑多なつくりもののなかに

理知的かつ

農業に対する崇高な思想が流れる

東に山が迫り

小川を挟んで陸稲と畑に分けられ

細長い耕地は西に伸びるが

その先の広がりのある農園には

たわわに実った稲穂が光る

秋の夕陽はオレンジ色に景色を照らすが

それでもまだ汗ばむほどの勢いで

私たちを照らす

T氏が再び草刈り機を回し

山々へエンジン音がこだまする

最近は保護政策で増え始めた

山の野猿との知恵較べだと笑う

幾種もの名も知らない虫が飛び

数え切れない程の数のバッタが跳ねる

栗の木の下に

いくつものイガグリが転がっている

豚の糞でつくったという堆肥に

化学肥料とは違った実りが期待できる

小川を渡り

アケビをかじりながら

放し飼いの鶏を観察していると

赤とんぼの集団が滑るように通り過ぎる

此所へ来るたびに

本当の豊かさを噛みしめる自分は

さあこれから何処へ行こうか

さて何を始めようかと

いつもの如く戸惑ってしまう

僕らにとってのコカ・コーラという存在

いまでは、どうということのない飲み物だが、

コカ・コーラを子供の頃に初めて飲んだときは、

ホントに驚いた。

それは味であり、色でもあったと思う。

当時の炭酸飲料といえばサイダー位しかなかったので、

コーラはなんというか、

表現しづらい不思議なインパクトがあった。

うまいといえばうまい、かな?

そんな初めての味が、みんなを虜にしていったと思う。

しかし、薬っぽい味といえば、そんな気もする。

そもそもコーラを発明?した人が薬剤師だったというから、

当初は疲労回復とか、そんな売り方をしていたらしい。

しかし、全然売れない。

で、この権利を買い取った人が飲み物として売り、

大ヒットした。

商品のポジションって重要だな。

中身に関しても、当時はいろいろな噂が飛んだ。

南米産のコカの葉(麻薬の一種)が入っているとか、

飲み過ぎると骨が溶けるとか…

これはいまでも都市伝説のひとつだろう。

コーラといえば、日本の場合はコカ・コーラなのだ。

ペプシが強い国もあるらしいが、

日本はペプシではなく、コカ・コーラ。

コカ・コーラが日本に根付いた理由は、やはりコマーシャルの力だと思う。

味ではない。

ペプシもそれなりに頑張ってはいたが、

コカ・コーラのプロモーションのうまさは、

当時から群を抜いていた。

この飲み物は、まずアメリカというリッチな国の生活を

体現させてくれた。

その頃は、

映画・若大将シリーズで大人気だった加山雄三が、

実にうまそうにコーラを飲んでいた。

もちろんCMでだが、僕らへの売り込みは成功した。

日本がこれからリッチになろうという時代に、

コカ・コーラはタイムリーに上陸したのだ。

贅沢な生活シーンとコカ・コーラ。

この憧れが、徐々に世間に広がりをみせた。

で、コピーはまずこんな具合。

♪コカ・コーラを飲もうよ

コカ・コーラを冷やしてね♪

実に単純なコピーだか、

当時はこの「冷やす」という行為が贅沢だった。

いまは冷えている飲み物は当たり前だが、

電気冷蔵庫が普及したての当時の日本では、

冷やすというのは、なかなかリッチなことだったのだ。

余談だか、この頃のコカ・コーラのボトルは、

個性的な曲線でつくられ、

それが独特の存在感を表していた。

一説では、

女性のボディラインを元にデザインされたということで、

後に、僕がいまの仕事についたとき、なるほどと思った。

その頃の僕らにしてみれば、

コカ・コーラは、ひとつのお洒落なアイテムだった。

これもコマーシャルの力だ。

夏場は、コーラとの付き合いも親密で、

海ではサンオイルじゃない、コパトーンじゃない、

コーラを振りかけて陽に焼くというのが、流行った。

で、夜はいまでいうカフェバーみたいた店に集まり、

アメリカンロックなんかを聴いて踊ったりしたが、

そのときの飲み物が、ウィスキー&コーラ。

要するに、コークハイだ。

冷静に味わえばうまくはない。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

バーベキューをしながらコーラを飲む、

というシーンをテレビで観たときも、

僕らは、その初めてのスタイルに驚いた。

肉をガンガン喰いながらコーラをグイグイ飲むーーー

これは贅沢の極み以外のなにものでもなく、

そのインパクトは日本中に伝搬したに違いない。

アメリカン・ライフ・スタイルは、

こうして世間を席巻し、

僕はぼんやりと、

ああ、アメリカという国には勝てないな、なんて思ったものだ。

ま、こうした驚きもインパクトも当然意図的だが、

それが素直に伝わったというのも当時の日本を映しているし、

コマーシャルにもパワーがあったといえるのだろう。

こうして時代も流れ、日本も豊かになると、

コカ・コーラもコマーシャルスタイルを変え、

日本という国に併せたコマーシャル展開となる。

町の魚屋さんのおっさんとかOL、

サラリーマンとか京都の舞妓さんとか、

普通に働く人と日常の生活シーンのなかにコカ・コーラがあるという

スタイルをとるようになる。

これで外資、

いや、コカ・コーラ文化が日本に確実に根付いてゆくこととなる。

僕らが大人になっても、

コカ・コーラのコマーシャルは相変わらず印象に残るものが多かった。

それは、

映像の秀逸さに併せるように、コピーに共感できるメッセージ性があったからだ。

スカッと爽やか、も素晴らしいコピーだが、

僕が凄いと思ったのは、単なるコーラのコマーシャルが、

愛だの自由だの、人間を語り出したことだった。

♪本当のひととき 本当の人生

生きている心

自然にかえれと誰かが呼んでる

そうさコカ・コーラ

この広い空の下

生まれてきてよかった

そうさ

人間は人間さ

コカ・コーラ♪

※この記事は、オールアバウトプロファイルコラム及び弊社ビジネスブログを転載したものです。

書籍について考察

仕事柄か、本が大好きなので、

読むものが常に3冊~5冊くらいが同時進行している。

また、私の場合、書籍類は経費として認められている。

名目は研究費。

別に研究などしていないが、

帳簿では、そうした項目となる。

お役人が考えた仕分けなのか?

で、研究費はあまり節約しないようにしている。

結果、部屋は本だらけ。

先日も久しぶりに本屋へでかけ、主に雑誌類をあさる。

普段は、ほぼアマゾンで賄っているので、

久しぶりに町の本屋へ行くと、うきうきする。

あの、本がズラリと並んだ爽快感は、ネットでは味わえないです。

まず手に取ったのが、

枻出版の「Daily U・S・A」。邦題、アメリカの日用品図鑑。

ざらついた手触りの紙質は、良い意味で引っかかりがあり、

漂白してなさそうな、

少しくすんでいるところに好感。

ページ数はP200あるので重いかなと思ったが、

そこはペーパーバックの如くライト。

アメリカンなのである。

制作者がそこまで気を回わすと、やはり本はいいなぁ、

高価でも欲しい本は買うな、と思ってしまう。

これは、ネットが幾ら頑張っても、出せない感触だ。

当たり前だが、存在感が違う。

ページを開くと、

アメリカン・クラッシックな雑貨やチョコ、

お菓子、家電やケミカル製品がズラッと並ぶ。

ひとつひとつの製品写真が少々荒れ気味に、

かつ大胆なデザインでレイアウトされている。

イメージ写真やイラストもポップで、

これは学ぶべきところが多いな、と思う。

眺めるにつれ、

バットマンやグリーンホーネットが活躍していた時代に

アメリカ文化の基礎は、すでにできあがっていたように思う。

↑はジョークだが、イメージとしては分かって頂けると思う。

日本や中国、欧州とはひと味違うアメリカン・カルチャーは、

ときとして、気になる魅力を発する。

さて、2冊目に、月刊「ペン」に目がいった。

クリエイティブの最前線という特集を組んでいたので、

中をペラペラとやってみて、衝動買い。

クリエイティブといっても、その範囲はプロダクト、

写真、広告、グラフィック、建築と多岐に渡っていて、

各分野のスグレモノがズラッと載っている。

普段は、こうした分野にまで網を張っていないので、

目から鱗とは、このことか。

出版社は阪急コミュニケーションズ。

いいものつくるなぁ~と、つくづく感心。

そういえば先日、歯医者の待合室で読んだ、

「GQ JAPAN」も良かった。

もう廃刊された名雑誌「NAVI」の編集長だった鈴木正文さんが編集長をしている。

記事は硬軟入り交じり、お洒落なのにかつ原発などの話題にも触れ、

鋭い言及がなされている。

他では読めないレポートは、迫るものがあった。

で、この雑誌は「NAVI」に似て、

その文字の組み方やレイアウトなどか踏襲され、

素人のデジカメ写真とは全く次元の違う写真も贅沢に使い、

プロの仕事をいかんなく発揮している。

こうなると、本の強みが見えてくる。

e-ブック(電子書籍)とは異なる価値が、明快だ。

デジタルは、デジタルとしての役目があるだろうし、

アナログ本は、それと異なる方向に活路がある。

また、コストやエコの問題に加えて、現在は

「フリー論議」も盛んだ。

フリーとは、要するにタダのこと。

世の中、タダの情報やソフト、サービスが蔓延しているが、

行く末はどうか、気になる話題ではある。

フリーは、本も例外ではない。

すでに中身がネットで見れるものの他、

著作権切れの書籍なども含め、

タダに近い状態になっているものもある。

で、このタダビジネスはどうやって儲けているかだが、

おおかた、広告などの間接的な稼ぎのスタイルが多い。

例えば、タダで読める書籍サイトがあれば、皆が集まる。

サイトアクセスが増えるので、訪問者にタダで本が読める代わりに、

そのサイトに広告を出稿する企業がお金を負担することとなる。

フリーの仕組みの一例は、簡素に話せば、こんな具合だ。

で、話を本屋の本に戻すと、

フリーという概念を吹き飛ばす価値の高いものは、

まだまだ存在する。

書籍の生きる道は、この辺りにあるような気がする。

で、その他の書籍はどうなるのかというと、

前述した価値のないものは、やはり淘汰の道を辿ると思う。

書籍も進化の真っ最中なのだ。

なんだか、

ダーウィンの進化論と重なるような気がする。