日々文句異議アリ

回転寿司

あのめまぐるしく、せわしない回転寿司で、

それぞれ五つの醤油が並んでいるのが贅沢そうなので、

一応それぞれの味をいちいち舐めてみるも、

まるで味が分からないのは何故?

思うに、気分はまわるおどる寿司に夢中で、

醤油なんぞ味わう余裕も舌もなく、

とりあえず北海道の日高昆布醤油がいいなぁと思ってしまう自分の舌を、

どうしてくれよう。

住宅展示場

住宅展示場にモデルハウスを見にいくということは、

いわばクモの巣に飛び込む虫と同じであると。

どんな家が好みかなんて、

一目で選別できるほどの目が利く訳もなく、

営業マンが良いことずくめを話しまくるも、

モデルハウスを見るにつけ、すげぇなぁと…

結果、個人情報が丸見えで、

後々まで追いかけられるのがオチである。

シンガーソングライター

地方の民謡演歌のようなものが混じった

斬新なシンガーソングライターの姉ちゃんのライブを聴いてしまい、

それが脳みそにこびりついてしまってアクが抜けないまま

買い物を続けるも、

ダウンパーカーもGパンも、みんな醤油臭く感じてしまい、

駄目だ今日は買うのよそうと休日を無駄にしてしまったと思うも、

まだあの甲高い声がアタマに響き渡る。

おでん

たまにはコンビニで熱々のおでんが食いたくなるも、

あれだけ人の出入りの激しいところで煮込んでいる食いものってどうだろうと思案するも、

なんだかホコリとか咳払いした親父のが飛び込んでいたりと想像するに、

やっぱりやめたとなり、いつものカレーピザマンを買うも、

このまんじゅうの皮は泡みたい、という食感にああそうだったとまたゲッソリ。

ここはやはり冷えたつめたい突き放されたようなおにぎりで決まり!

生きるを、デザインする、ということ。

松尾芭蕉の奥の細道に、

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり

とある。

これを解釈すると、

松尾芭蕉は、自ら旅をしているにもかかわらず、

時の流れを旅人として詠っている。

これは、中国、唐の時代の詩人、李白の『春夜宴桃李園序』の

「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」を意識し、

自分なりにアレンジしたものとして伝えられる。

こうしたことばには、壮大な宇宙観が漂い、

その隅々に至るまで、計り知れないロマンが宿っている。

解釈は違うが、

人が生きていくことの感慨に触れ、

その過程を、旅と解釈することはよくある。

凡人の私には、こちらがしっくりくる。

これをマーケティング的に捉えると、

旅におけるバリューを考える、などとなる。

旅の価値を高めることこそ人生における最大のテーマだ、

と誰かにプレゼンすることもできる。

さて、人生を旅であると定義すると、

旅をするのなら素敵な旅を、と誰もが考える。

そして旅における「素敵」とはを追求すると、

これは高度な話となり、

尚且つ、人それぞれの価値の分だけ多岐に渡る。

そもそも実際の旅とは、

時とともに空間を移動することにある。

そこに感動やよろこびなど人の心が凝縮され、

旅は完成する。

辛い旅もある。が、そんな旅は誰もしたくない。

バリューは、欠かせないのだ。

それを人生に置き換えると、

夢であり、志であり、愛なのかも知れない。

このすべてが、生涯のバリューの素材である。

こう考えると、マーケ的に捉えた旅も、

自分をみつめる上で、試す価値はありそうだ。

またこれを、

旅をデザインする、

人生をデザインする、と言い換えると、

若い人は将来のプランを、

定年退職を迎える人は老後の有意義な過ごし方等を、

かなりビジュアル的に分析することもできる。

落書きでOK。

思いついたことをメモしたりスケッチすることは、

自分のなかに眠っているものを吐露するのに最適だ。

このように、商業的な用語の中にも、

人生考える元となるノウハウは潜んでいる。

「人生をデザインする」とは、

突き詰めれば、これからどう生きるか、

未来の「私」と真剣に向き合うきっかけにもなる。

光陰矢の如し。

芭蕉や李白に迫る必要はなくとも、

時の流れのなかにいる私たちは、

やはり旅人だ。

そこにバリューがあれば、と皆思う。

やはり、生きるデザイン力は必要だ。

時代の気風

自分に降りかかる現象を

どう受け取るか

幸不幸のすべては

ここから始まるのだろう

人はせいぜい100年の命なので

その時の流れのなかで培う心の在り方が

人をつくり

人生を決める

辛いことも悲しいことも

ひっくるめて生きてゆく

すべては心に始まる

決して他人にみえないものが

今日もその在り方を探している

おもしろき こともなき世を おもしろく 

すみなしものは 心なりけり

高杉晋作のように生きてみようか

せめて彼のように考えてみようか

市井の人も誰も

その在りようが

いま問われている

そんな時代に

こんな時代にと考えるのか

それをいま突きつけられているのは

紛れもない私たち一人一人なのだ

モノではなく、物語を売る

少々前だが、

日産のセレナというクルマのテレビコマーシャルは、

「モノより思い出」というコピーで締めくくっている。

セレナはクルマ。当然モノだが、このクルマを買うと、ファミリーで

楽しい思い出がつくれます

ーーーそんなメッセージが込められている。

セレナの売り上げに関して、私は資料を持っていないので

分からないが、悪くはないと思う。

というのも、街中を走っていて、よくセレナをみかけるので、

そう思っているだけではあるが…

最近、モノが売れなくなっている、とはどこでもよく聞かされる話だ。

不況というモノサシで計ると、なるほどと理解できる。

だが、その逆の事例も数多くある。

曰く、商品の売り方を変えたら売れるようになったという化粧品や

健康食品、観光地のおみやげまで、

そうした現象は、現実に起きているのだ。

では、その売り方とは、どのようなものなのか?

それが今回のテーマである。

例えば、スーパーにキャベツがズラッと並んでいるとする。

あなたはどれにしようかと迷い、アレコレ手にはするが、決め手がない。

が、ひとつ、早起きの朝どりキャベツ! というカードのついたキャベツに目が止まる。

よくよく見ると、栽培した農家のおじさんの顔写真が添えられ、

このキャベツは柔らかい歯ごたえの品種で、

その良さを引き出すために、

私が早起きして収穫し、

さきほど私が直接納品致しましたーーー

というメッセージが書かれている。

あなたは、すっとこのキャベツをカゴに入れ、

さっさと、次の買い物に精を出すことになるだろう。

モノをセレクトする際の基準は、こうした工夫にある。

この仕組みはすでに使われてはいる手法ではあるが、

こうしてモノの背景を語ることにより、

売り上げを伸ばす方法は、他でも転用可能である。

まず商品ではなく、その背景を語ることに終始するということ。

いま、消費者は、商品の向こうにあるなにかに期待している。

それが物語であり、いわゆる付加価値なのかも知れない。

今後、商品にまつわる背景、物語のニーズは、

より重要になってくるだろう。

※この記事は、弊社ビジネスブログより転載しました

後悔と知恵と

私たちには、後悔するという習性があるらしい。

時間を遡る、ということ。

が、ものごとがやり直せる訳ではない。

後悔はそして、心に暗い影を落とす。

なので、

或る人はいつからか後悔しないと言い張るようになった。

後悔という心の動き。

すなわち、立ち止まり、立ち尽くすこと。

が、立ち止まることは、即ち思考のときであり、

自らの日々の点検にも適しているともいえる。

そして、立ち尽くすことは時間と思考の海原をさまようことであり、

ここから、創意する術が旅立つことに気づくべきだ。

さまようことは後に生きる糧となり、

自らを知ることと心得えたとき、

辛く、奈落のような時間も、

それをかみしめてこそ、救いとなるのかも知れない。

このように、閉ざされた時間には意味があり、

役割がある。

私たちはこうしたものを避けず、尽力すべきであり、

この思考なくして、

生きる意味を見いだすことはできない。

疾風のように過ぎる、たかだか百年幾ばくかの人生に、

息づかいを吹き込む術があるとするならまた、

時間の中に立ち止まることも悪くない。

そこに何があろうと、

過ぎてゆくものと来るべき時の中に身を委ね、

自身、消えそうな程小さい宇宙の生命なのかもしれないことを認識し、

それを感じ、味わい尽くすことで、

私たちは苦痛の中からでさえ、

生きていることの意味についての序章を、

新たにつくることができる。

こうして人は、立ち止まり、立ち尽くすことでのみ、

生きてゆく真意について考え、

やがてそれについての制作物のひとつとして、

自分というもの、そして人生についてのなにがしかを、

ぽつりぽつりと

語り始めるのかも知れないのだから。