色褪せないコトバ

 

「オトコは愛するオンナの最初のオトコになることを願い、

オンナは愛するオトコの最後のオンナになることを願う」

 

アイルランド出身の詩人で劇作家・オスカー・ワイルドの言葉だ。

彼はまたこうも言う。

 

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、

六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

 

なるほど!

さらに…

「社会はしばしば罪人のことは許すものだよ。

しかし、夢見る人のことは決してゆるさない」

 

彼によれば、

犯罪者というものはときに許されるものであるらしい。

しかし、夢見る人というのは決して許されない。

 

人がもつ複雑かつ深層のようなものを、

彼は、この頃すでに指摘している。

 

例えば、あなたが夢を語ると、

即座に「それは無理だ」という人がいる。

夢を追うことに対しても何故か「いい加減にしろよ」

などと不機嫌になる人もいる。

 

こう言う彼ら彼女らは、

実はみな一様に自分に自信がなかったり強さがなかったりで、

夢をはるか遠いムカシにあきらめてしまった人たちなので、

あなたが夢を実現してしまうのではないかと不安を感じ、

悔しくて仕方がないから、ただ足を引っ張っていると思って

間違いない。

 

これもオスカー・ワイルドによる分析。

 

私たちは訳知り顔でそう助言してくれる相手の言葉に、

不思議にありがたがり、揺り動かされ、振り回され、

自体はさらに混迷へと向かってしまうのだが。

 

と言う訳で、

オスカー・ワイルドという人は、

神がかり的に人生の総てを見抜いていた。

友人、恋人、社会の入り組んだ糸の仕掛けが、

彼にはくっきりと見えていた。

 

真実をみつめた言葉は、いつの時代も変わらない。

だから、彼の残した言葉は普遍的で色褪せない。

 

とここまできて、では、オスカー・ワイルド自身は、

どんな人生を歩んだのか?

 

記録によると、とても残念だけど、

彼の最後は、酷く孤独で惨めな死に方だったと言う。

 

うーん、そういうこと?

 

実のところ、ここがポイントなのである。

 

人生って結局よく分からない。

予測不能でミステリアス。

 

だから、とりあえず幸せを求めて、

誰もが一生懸命生きている。

 

ありきたりだけど、結局のところ、

私たちの知恵って、それで精一杯なのではないでしょうか?

 

 

コピーライター返上

 

最近つくづく思うのだけれど、

コマーシャルと名の付くものに

惹かれるところが全くない。

これは言い過ぎではない。

 

だって、大半のCMが電波チラシと化しているのだから。

 

番組そのものも、全局を通してほぼつまらない。

もちろん、一部を除いて。

よって観たい番組は録画して、

さらにコマーシャルを飛ばしての鑑賞。

他の人はどうか知らないが、僕はそうしている。

こうした現象は僕だけなのか。

 

広告代理店の評判もよろしくない。

(そんなことはムカシから知っていたが)

それはそうだろう。

あれは利権屋のやることであって、

手数料で太り、末端のギャラは雀の涙。

 

この広告代理店からなる

ピラミッド構造を破壊しない限り、

良いものなんかうまれないし、

第一良いクリエーターが育たない。

そのうち死滅してしまう。

(だから新興勢力が頑張っている訳だが)

 

番組づくりも同様ではないのか。

永らく続いている不況で予算は削られ、

コロナで萎縮し、

新しい企画などやる意欲も、

もはや失せているようにもうかがえる。

 

ネットも同様。

いろいろなチャレンジや暗中模索は続いている。

けれど、ネガティブな面が目立ってしまう。

よく皆が口にする「ウザい」という感想がそうだ。

 

コピーライティングに関して言えば、

中身はほぼセールスレターの大量生産であり、

アレコレと手を変え品を変え、

訪問者を説得しようとする説教のようなものが

延々と続くようなものが主流。

これはもはやコピーではなく、

単なるネチネチとしたtextである。

 

で、僕たちが以前から書いてきたコピーだが、

これが正解かというと、それも違う。

もうそんな時代ではない。

僕たちが以前からやってきたコピーライティングは、

いまでは穴だらけの欠陥品かも知れない。

それが統計に数字で示される。

いまはそういう時代なのだ。

 

では、どんな方向性・スタイルがよいのかと考えても、

いまの僕にはいまひとつよく分からない。

或るアイデアはあるが、まだ試したことはない。

またネット上に幾つか良いものも散見されるが、

まだ暗中模索なのだろう。

新しい芽であることに違いはないのだが。

 

さて、いまという時代は、流れに加速がついている。

よって皆があくせくしている。

その原因は、本格的なデジタル時代に突入したことによる

変容現象とも言えるが、その他にも要因がある。

それが経済的な問題による疲弊であり、

それが相当な比率で絡んでいるのではないかと

僕は考えている。

 

余裕のない生活には、当然だが心の余裕もない。

いまはすべてに於いて何に於いても

即物的になってしまう。

 

「タイムイズマネー」でしか価値を計れない時代に、

誰も余韻を楽しむ余裕などあるハズもなく、

世知辛いとはまさにこの時代のことを指す。

 

とここまで書いて、

「ではコピーライターのキミはいま、

いったい何をやっているのかな?」

と問いかける自分がいる。

 

「僕ですか?

そうですね、越境ECの立ち上げですかね?」

 

「それってコピーライターの職域なんですか?」

 

「できることは何でもやりますよ。

肩書きなんてものはあまり関係ないですね。

特にこれからの時代は」

 

「そういうもんですか?」

 

「そういうもんです、ハイ!」

 

 

セレブの考察

 

トランプ大統領は、言わずと知れた富豪である。
ZOZOの前澤さんもいまや富豪である。

マイクロソフトのビル・ゲイツ、
ユニクロの柳井さんに至っては大富豪である。

アラブの石油王とかは、金余りである。

では、富豪、大富豪でなく、

セレブと聞いてイメージするのは誰かというと、
ちょっとイメージは変化する。

思い浮かぶのは、アメリカではパリス・ヒルトンとか、
韓国のペ・ヨンジュンとか、フランスのジャン・アレジとか、
で、日本では叶姉妹とかデビ夫人とかだろうか?

セレブレティの語源は、ラテン語なんだそうだ。

意味は、ずばり有名人。

欧米では、有名人のことをセレブと呼ぶそうな。

 

こうなると、貧乏な人でも有名人ならセレブなのである。

日本においての意味合いは少し変化する。

日本のセレブは、 ホントは金持ちかどうか分からないが、
そのような雰囲気を確実に醸しだしている。
で、なによりゴージャスさが前面に出ている、というところか。

ゴージャス?

うん、

確かにセレブという言葉からは、

そんなオーラが発せられている。

成金とは違う訳。
成金は、働き者+ぎらぎら感が漂う。

その点、セレブはきらきらしているのである。

女優の泉ピン子は、全身をシャネルで決めているが、
そのいでたちは、セレブとは程とおい。

そこが訳もなく辛い。

 

さて、正真正銘?のセレブは、

モナコやニースなどで優雅に暮らしていそう。
日本では、鎌倉の披露山とか神戸の芦屋あたりに、生息していそう。

根拠などないが、雰囲気で書いている。

 

ちなみに、セレブってるという言葉があるが、

これはたいした収入もないのに、
高級レストランなどのランチへでかけたりして、

その気分を低料金で味わい、
抜け目なくインスタに上げるとか、
質屋とかで手に入れたバーキンを何気にみせるとか、

結構涙ぐましいらしいのである。

かようにセレブとして世間に認められるには、

大変なんだなぁ。

 

セレブの意味合いがいまひとつ安定しない。

しようがないと思う。

もともと、ふわふわした言葉なんだから。

 

なのに、そこをあいまいにしたまま、

このセレブの話は、さらに難しい領域に突入する。

意識高い系セレブとはどういう人たちか、

というのを検討してみた。
これには、かなりいろいろと気難しい事、

ものが付随しているように思うのだ。

たとえば、である。

1.セレブは1年に2回、セドナでヨガをやってくる。
これは、心身ともに解放された己をめざすセレブなのである。

2.青山、湘南で犬を連れて歩いている。
セレブは一等地に住んでいる証拠を何気にみせるのである。

3.生活がオーガニックに侵されている。
高ければいいという訳じゃなく、己の食うもの・

着るものは素材から吟味するのがセレブなのだ。

4.鎌倉に実家がある。
これはどうでもいいんですが、

ちょっとそんなイメージが出てまいりまして。

5.世田谷は蚊が多いと代官山へ引っ越した 。
これは私が以前住んでいたマンションにいらした方の実話です 。

6.先祖は公家であると言ってはばからない。

かなりあやしい話をされるセレブがいるようで。

7.世俗ごとより、太陽のフレア現象・宇宙嵐のみやたら敏感である。
こういう方が割と多いように思います。

8.デビ夫人のケータイ番号が入っている 。
これは私のジョーク!

9.広尾の明治屋でセレクトしたブルーチーズがいつも冷蔵庫に入っている
ここまでくるともうフツーですね 。

10.いきつけの蕎麦屋では、黙っていても、隠しメニューの国産十割蕎麦が出てくる。
もうこじつけです 汗!

11.飲み水は航空便でくるフランスのペリエしか飲まない。
ここまでくるともういい加減です。

さて、どうでしょうか?

皆さんのお近くにセレブさんは生息しておりますか?
言っておきますが、こうした方々は、はま寿司とか丸亀うどんとか
いきなりステーキとか幸楽には絶対にいませんから!

 

オリジナル睡眠法

長く寝ると、だいたい調子が悪い。

時間にして、6時間を超えるとイケナイ。

最近では、本やテレビで睡眠負債などと命名され、

吹聴されている。

―――

僅かな睡眠不足が積み重なり「債務超過」の状態に陥ると、

生活や仕事の質が低下するだけでなく、

うつ病、がん、認知症などの疾病に繋がるおそれがあるとされる。

日本人のおよそ4割は睡眠時間が6時間未満で、睡眠不足の状態にある。

―――

(ウィキペディアより)

これ、私には脅かしともとれる訳で、かといって

毎日6時間以上も寝ていると、ホントに不調なのだ。

だいたいが長く寝た日ほど、身体のどこかが不調なことが多い、

だから長く寝る、というのが私の身体の事情のようだ。

ロングスリーパーとかショートスリーパーとか、

睡眠はその人の個性のように様々という考え方は、

どこへ行ってしまったのだろう。

私はこっちの考え方に賛成!

手首には毎日の睡眠時間及びその質が計測される

ウェラブルを付けているので、

一応、毎朝チェックをするが、

ベスト睡眠時間は、だいたい5.5時間あたり。

睡眠品質は、私の場合は5段階で4つ星がベスト。

5つ星だと寝起きがとても悪い。

あとは昼寝の有無となるが、

これはその日の成り行き次第だが、

時間があれば数分~15分位は寝るようにしている。

一時期、ヒマ~なときに2時間の昼寝をしたことがあるが、

起きた後は全く使いものにならなかった。

テレビでは健康番組が花盛りだし、

かといってあんなもんを毎日観ていたら

頭がこんがらがって健康矛盾に陥ってしまう。

しまいには知識の詰め込み過ぎで、

妙な病気になってまうような気がする。

真面目な人ほど真剣になってしまうので、

できれば斜に構えてさっと観て

さっさとチャンネルを回してしまおうではないか。

そしてそれらバラバラの、

一種適当な健康知識を自分なりに編集して、

マイ健康法を仕上げてしまう、

なんていうのはどうだろう。

一応、それでもその人なりのオリジナルにはなるし、

そんなんでいいのではないかなぁ。

だって万人に通用する完璧な健康法など、

私はこの世に存在するとは思っていない。

健康法だけでなく、

ビジネスも人付き合いも、

いや、生き方さえも、

その人なりが考えたオリジナルでいいんじゃないかと。

凄く稼ぐ人がいるからといって、

そんな人のまねをしたところで、

そのまま上手くいくとは限らないのは、

数多くの成功本が即捨てられるのをみれば分かる。

人間関係も然りと思う。

要は、まず自分なりに考えねばならない。

悩むとは、必要善である。

いろいろな情報を取捨選択するためには、

頭を使うべきだし、

それらの情報を元に、

自分に合ったものに編集するには、

かなりの苦労を要する。

こうして作り上げたものは、まず身につく。

愛着もうまれる。

そしてなにより揺らがない。

この程度のオリジナルだって、

模倣ではないし、

独りよがりともまた違う。

それは、この現代に於いて貴重な示唆ともなりうるし、

人とはちょっと違う人生観も育つと思うのだが。

東京の流儀

最近はよく神田に行くが、

その度に違う地下鉄に乗ってたどり着く。

で、私がとにかく把握できないのは、

この界隈に潜っている3つの駅の位置関係だ。

新御茶ノ水駅、小川町駅、淡路町駅。

どの駅で降りても必ず迷う。

自分の行くべき方向が

電車を降りた瞬間から分からない。

地下なので、余計に感が働かない。

私の目的場所は神田美土代町で、

いまだにどの駅が一番近いのか把握できていない。

当然、帰りも迷う。

だって地下鉄の入り口に、

駅名が3つ並んで書いてあるんですよ!

一度、iPhoneを頼りに歩いたが、

まあ馬鹿らしいのでヤメにした。

私は古い人間なので、

どうもああいうのを見ながら歩くことに

馴染めていない。

さらに、男は地図が読めないといけない。

その地を把握せねばならない。

そして感を働かせて歩く。

自らの力で目的地に近づくに連れ、

ワクワクするもんな。

iPhoneはダメだ。

ああいうのは、まず地形を覚えない。

そしてなにより街の全体像が掴めない。

偉そうに書いているが、

そうやって感を頼りに毎回迷っている。

私はよく近所の山にハイキングに行くが、

地下鉄は近所ハイキングより、結果、水を欲する。

景色が爽やかである訳もなく、爽快感もなく、

やたら喉だけが渇くのだ。

カラッカラ!

万歩計を見ると、

いつも軽く1万歩を超えてしまうから、

これはもう都会限定でチャレンジできる

サブウェイアウト・ドアと言ってしまおう。

んんん、地下鉄ってヘビー!

で、話を戻すが、

いったい、あの神田の地下鉄の3駅は、

平面図に起こすとどうなっているのだろうか?

そして立面図は?

おのおの近いような気がするが、

実は相当離れているような気もするし…

こうした疑問は、

渋谷の地下でも新宿でも大手町でも、

要は東京の至る所で、

沸々と湧き上がってしまうのだ。

これって私の性癖なのか?

地下鉄の改札口で、

独りで難しい顔をして出口を確認していると、

通り過ぎる人は皆、何の迷いもなく、

スマフォを眺めながら淀みなく流れてゆく。

すると、

どこからともなく囁きが聞こえてくるのです。

「都会の流儀に反していますよ、そこのご老体…」

もうクルマはつまらない

いつものように運転席に座る。

シートベルトを締める。

そしてイグニッションキーを捻る。

こうして何十年もの間、車を動かしてきた。

エンジンが始動すると、

なんともいえない吹けの音と振動が、体中に伝わる。

そしてマシンを操る自分に緊張を強いるよう、

交感神経もまた目を覚ます。

翻って、

最近のハイブリッド車などはキーを捻るでもなく、

スタートボタンを押すとそれでスタンバイOK。

そしてわずかにキーンと鳴ってスッと走り出す。

まあ、静かといえばその通り。

しかし私的には、正直気味が悪いのだ。

このとんでもない技術革新は産業革命以来か。

新しいものへの飛び付きの遅い自分は、

そうした車を「ほぉ」とか「へぇ」とか感心するも、

実のところ、なんの魅力も感じない。

いま自分の乗っている車は、

あの悪名高きワーゲン社製のゴルフで、

排ガスのCO2量も今となっては実に怪しいほど、

よく吹け上がる。

悪気もなく、よく加速もするのだ。

これはこの時代に於いて、「悪」である。

がしかし、

ここでこんな話をするのは

面白くもなんともないので、

論点を戻そう。

要するにエンジン車の良さって、

そのメカニカル性に寄るものと思うのだ。

車内に伝わるそのエンジン音は、

ドライバーにメカの好・不調の具合、

そして走行速度などを感覚を通して教えてくれる。

いわば生き物の心臓の鼓動のようなものとして、

私は捉えている。

長距離を走り終わった後など、

エンジンルームからの熱気と共に、

荒い息づかいのようなものが伝わる感覚。

車が汗をかいているのではないかと思うほどに、

生き物のそれとよく似ている。

対して、ハイブリッド車などは、

すべてにおいてクールだ。

端的に表現すれば、あくまでモノそのものである訳で、

なんというか人造人間的。

とんと心が動かないのだ。

現在、ハイブリット他電気系駆動の車の性能は相当のもので、

高速道に於いても私の車なんぞ軽く静かに抜き去る性能を誇る。

が、どんなに飛ばしてもなにも熱くはならない、

そのクールさになにか違和感を覚えるのだ。

人馬一体という言葉があるが、

いまやアナログとなってしまったレシプロ(ピストン駆動)車なんぞ、

これに近い感覚。

走りそのものを五感で感じ取ることができる。

ハイブリッド車はこの感覚に欠ける。

それが新しい車の感覚であり、

今後、この新たな車よりの五感というものが、

益々拡がるに違いない。

これはもはや人馬一体ではなく、

カー雑誌などは、これをどのように表現するようになるのか、

そこが興味深い。

しかし自分もいつの日か、

こうした車に慣れなければならないのだろうか?

大袈裟な例えだが、

明治維新も敗戦後も、皆大きな転換を迎え、

物事の価値観もひっくり返った。

このとき、古い者にしがみついている者だけが、

面白くないハメに陥ったようなのだが、

今回のこの話も同様の道を辿るのだろうか?

いまが思案のしどころなのだろう。

だが、希に時代遅れが優勢に立つこともある。

残存利益ということばも実際ある訳で、

近未来の自動運転の先行きも見据え、

たとえば、旧車レシプロエンジン6段マニュアルギアを

操れる運転職人とか…

うーん、希少な人材としての引き合いは、

どうもなさそうだな。

日々文句異議アリ

回転寿司

あのめまぐるしく、せわしない回転寿司で、

それぞれ五つの醤油が並んでいるのが贅沢そうなので、

一応それぞれの味をいちいち舐めてみるも、

まるで味が分からないのは何故?

思うに、気分はまわるおどる寿司に夢中で、

醤油なんぞ味わう余裕も舌もなく、

とりあえず北海道の日高昆布醤油がいいなぁと思ってしまう自分の舌を、

どうしてくれよう。

住宅展示場

住宅展示場にモデルハウスを見にいくということは、

いわばクモの巣に飛び込む虫と同じであると。

どんな家が好みかなんて、

一目で選別できるほどの目が利く訳もなく、

営業マンが良いことずくめを話しまくるも、

モデルハウスを見るにつけ、すげぇなぁと…

結果、個人情報が丸見えで、

後々まで追いかけられるのがオチである。

シンガーソングライター

地方の民謡演歌のようなものが混じった

斬新なシンガーソングライターの姉ちゃんのライブを聴いてしまい、

それが脳みそにこびりついてしまってアクが抜けないまま

買い物を続けるも、

ダウンパーカーもGパンも、みんな醤油臭く感じてしまい、

駄目だ今日は買うのよそうと休日を無駄にしてしまったと思うも、

まだあの甲高い声がアタマに響き渡る。

おでん

たまにはコンビニで熱々のおでんが食いたくなるも、

あれだけ人の出入りの激しいところで煮込んでいる食いものってどうだろうと思案するも、

なんだかホコリとか咳払いした親父のが飛び込んでいたりと想像するに、

やっぱりやめたとなり、いつものカレーピザマンを買うも、

このまんじゅうの皮は泡みたい、という食感にああそうだったとまたゲッソリ。

ここはやはり冷えたつめたい突き放されたようなおにぎりで決まり!

生きるを、デザインする、ということ。

松尾芭蕉の奥の細道に、

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり

とある。

これを解釈すると、

松尾芭蕉は、自ら旅をしているにもかかわらず、

時の流れを旅人として詠っている。

これは、中国、唐の時代の詩人、李白の『春夜宴桃李園序』の

「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」を意識し、

自分なりにアレンジしたものとして伝えられる。

こうしたことばには、壮大な宇宙観が漂い、

その隅々に至るまで、計り知れないロマンが宿っている。

解釈は違うが、

人が生きていくことの感慨に触れ、

その過程を、旅と解釈することはよくある。

凡人の私には、こちらがしっくりくる。

これをマーケティング的に捉えると、

旅におけるバリューを考える、などとなる。

旅の価値を高めることこそ人生における最大のテーマだ、

と誰かにプレゼンすることもできる。

さて、人生を旅であると定義すると、

旅をするのなら素敵な旅を、と誰もが考える。

そして旅における「素敵」とはを追求すると、

これは高度な話となり、

尚且つ、人それぞれの価値の分だけ多岐に渡る。

そもそも実際の旅とは、

時とともに空間を移動することにある。

そこに感動やよろこびなど人の心が凝縮され、

旅は完成する。

辛い旅もある。が、そんな旅は誰もしたくない。

バリューは、欠かせないのだ。

それを人生に置き換えると、

夢であり、志であり、愛なのかも知れない。

このすべてが、生涯のバリューの素材である。

こう考えると、マーケ的に捉えた旅も、

自分をみつめる上で、試す価値はありそうだ。

またこれを、

旅をデザインする、

人生をデザインする、と言い換えると、

若い人は将来のプランを、

定年退職を迎える人は老後の有意義な過ごし方等を、

かなりビジュアル的に分析することもできる。

落書きでOK。

思いついたことをメモしたりスケッチすることは、

自分のなかに眠っているものを吐露するのに最適だ。

このように、商業的な用語の中にも、

人生考える元となるノウハウは潜んでいる。

「人生をデザインする」とは、

突き詰めれば、これからどう生きるか、

未来の「私」と真剣に向き合うきっかけにもなる。

光陰矢の如し。

芭蕉や李白に迫る必要はなくとも、

時の流れのなかにいる私たちは、

やはり旅人だ。

そこにバリューがあれば、と皆思う。

やはり、生きるデザイン力は必要だ。

時代の気風

自分に降りかかる現象を

どう受け取るか

幸不幸のすべては

ここから始まるのだろう

人はせいぜい100年の命なので

その時の流れのなかで培う心の在り方が

人をつくり

人生を決める

辛いことも悲しいことも

ひっくるめて生きてゆく

すべては心に始まる

決して他人にみえないものが

今日もその在り方を探している

おもしろき こともなき世を おもしろく 

すみなしものは 心なりけり

高杉晋作のように生きてみようか

せめて彼のように考えてみようか

市井の人も誰も

その在りようが

いま問われている

そんな時代に

こんな時代にと考えるのか

それをいま突きつけられているのは

紛れもない私たち一人一人なのだ

モノではなく、物語を売る

少々前だが、

日産のセレナというクルマのテレビコマーシャルは、

「モノより思い出」というコピーで締めくくっている。

セレナはクルマ。当然モノだが、このクルマを買うと、ファミリーで

楽しい思い出がつくれます

ーーーそんなメッセージが込められている。

セレナの売り上げに関して、私は資料を持っていないので

分からないが、悪くはないと思う。

というのも、街中を走っていて、よくセレナをみかけるので、

そう思っているだけではあるが…

最近、モノが売れなくなっている、とはどこでもよく聞かされる話だ。

不況というモノサシで計ると、なるほどと理解できる。

だが、その逆の事例も数多くある。

曰く、商品の売り方を変えたら売れるようになったという化粧品や

健康食品、観光地のおみやげまで、

そうした現象は、現実に起きているのだ。

では、その売り方とは、どのようなものなのか?

それが今回のテーマである。

例えば、スーパーにキャベツがズラッと並んでいるとする。

あなたはどれにしようかと迷い、アレコレ手にはするが、決め手がない。

が、ひとつ、早起きの朝どりキャベツ! というカードのついたキャベツに目が止まる。

よくよく見ると、栽培した農家のおじさんの顔写真が添えられ、

このキャベツは柔らかい歯ごたえの品種で、

その良さを引き出すために、

私が早起きして収穫し、

さきほど私が直接納品致しましたーーー

というメッセージが書かれている。

あなたは、すっとこのキャベツをカゴに入れ、

さっさと、次の買い物に精を出すことになるだろう。

モノをセレクトする際の基準は、こうした工夫にある。

この仕組みはすでに使われてはいる手法ではあるが、

こうしてモノの背景を語ることにより、

売り上げを伸ばす方法は、他でも転用可能である。

まず商品ではなく、その背景を語ることに終始するということ。

いま、消費者は、商品の向こうにあるなにかに期待している。

それが物語であり、いわゆる付加価値なのかも知れない。

今後、商品にまつわる背景、物語のニーズは、

より重要になってくるだろう。

※この記事は、弊社ビジネスブログより転載しました