春のうつろい

春一番が吹いた頃、

僕はいろいろ背負ってきた嫌なものを下ろそうかと考え、

あいつにはっきり意思表示のメールを出し、

断絶を宣言する。

あの仕事も、もう限界だと考え、

「御社は…」という書き出しでメールの準備をする。

部屋の、

いまはもう使わない書類をわんさか整理し、

後は廃棄処分場へ持って行くだけとする。

こんな奴もいたなと、

将来決して使わないであろうメルアドを消去する。

すべてが廻りはじめ、

それはなにかが一巡して新たに始まるかのような春だった。

梅の花が咲いているので、まだ寒いけれど、

嬉しくて、着ているものを一枚減らす。

くすんだ部屋の壁紙を、

薄く光るベージュに貼り替えようかと、奥さんに話す。

グーグル画像で、ある絵が目にとまり、

その作者に絵を譲ってもらおうかなどと、また余計なことを考える。

今年こそと、

早めに、カヌーを浮かべる湖とその準備を、

着々と計画する。

そして、いつものように空を眺めていると

思いはさらに加速し、

あと数年なのか数十年なのか知らないが、

私は確実に死ぬのだということを改めて認識し、

それなら好きに勝手に生きようと、

さらに自由度の高い生き方にシフトしようと企む。

山が芽吹く頃、

街が一望に見渡せる丘にクルマを止め、

iPadを取り出して、マレーシアの地図をみていると、

銀色のスーツケースが欲しくなった。

ネットショップで銀色のスーツケースを眺めていると、

やはり私はひとりなのかなと思い、いやそうではないと、

家族に電話し、あいつにメールを出し、

元気ですかと…

結局、どうやって生きてゆけばいいんだろうという思いは

空回りをはじめ、

それは哲学の書にあると確信して、図書館を検索し、

街の本屋へ足を運ぶ。

銀色のスーツケースのことはすでに忘れ、

帰りに古びた喫茶店でコーヒーを飲んでいると、

ガラス窓の向こうに見える夜のネオンが、

とても毒々しくて美しいことに気がついた。

ああ、すべては絵空ごとなんだと思うと、

なんだかコーヒーはいつにも増しておいしく、

人は浮き草なんだと思うと、

なんだか嬉しくなり、

読みかけの哲学書を閉じ、

代わりに、

私は、

地球最後の日を、考えるに至った。

化石の森

冷たい肌をもったその女は

深い緑の瞳で

森を眺めていた

一度その女と

ドイツ・シュヴァルツヴァルトの

黒い森を

ジェットで飛んだことがある

一面の松林はモミの木の群生で

その広大さに驚いたが

荒廃がすすんだその森は

ところどころが剥げ

木が倒れ

それが病のように広がっていた

我々の助けを求めているようだった

女は悲しい顔をしていた

その森の上空で女は抱擁を迫る

それが何を意味するかは分からなかったが

その女の仕草は不思議だった

煙草をくわえる唇を歪ませると

指を次の煙草に絡め

それを潰して

いつまでも古い詩を歌う

赤いヒールにメノウの石が飾られ

そのメノウに従い

歩く方向を決めているようにも思えた

気まぐれに歩くその足で

私を誘い

或るとき森へでかけた

白いマニキュアの付いた細い手を

僕の首に巻きつけ

そしてこう言う

この森の先に私の家があるの

(そんな筈はない)

メノウに従うように

その女は暗い森を歩く

やがて

女のふくらはぎに

うなじに

見慣れないしわのようなものが

浮き立つ

足取りが遅くなり

やがて女は前かがみに

息を上げていた

顔をジョルジュのスカーフで覆い

金髪の前髪は

やがて

グレーの輝きのない髪色に変わっていた

手を引こうとその手を握ると

冷たさが石のように

こちらの体に伝わる

やはり森は荒れていた

不意に飛び立った鳥が

不気味に鳴き

空一面に雲が沸き立つ

もうすぐよ

女の声はかれていた

大丈夫かい

女の首筋に手をやり

そのしわを確かめた

しわはみるみる肩に広がり

そして

風が止まった

雨が落ちる

その女が振り返ったとき

女が初めて笑ったその目には

美しいメノウの石が

光っていた

1989夏

木の枝葉の隙間から

静かに花火が上がるのが見える

それは視覚の中でとても小さく

あわれなほど可憐だった

会話を閉じ、じっと耳を澄ましていないと

その音は数秒後にさえ聞き逃す

二人のクルマは喧騒を避け

海から遠い山の中で花火を見ていた

辺りは鬱蒼とした木々に囲まれ

こんな所から花火を見ようなんて物好きは

他にいなかった

ラジオをかけながらエアコンを回す

1986年型のビュイックは、柔な足回りに

頼りないエンジン音をはき出す

虫が多いので窓は少ししか開けられない

湿度の高い夜だった

遠い浜からまた花火が上がる

海の上の漆黒の空に小さな花が咲く

時折目の前の葉が揺れ

そのわずかに見える花さえ隠すこともあり

そんなときはラジオで紛らわすことにした

ちょっと離れすぎたかな?

そうね、ちょっと花火が小さすぎるわ

調度1時間過ぎた頃だろうか

男はビュイックを遂に動かすことにした

クルマは草や枝を擦りながら

山道を走る

幅はほぼクルマ一台がやっとの未舗装道路なので

その道路からの突き上げも激しい

どうしても見たい?

うん

ウィンドウに虫がぶつかる

その度ごとに白いものが残り

視界は益々悪くなる

きっと蛾のりんぷんかなにかなのだろう

ワイパーを動かしウォッシャーを使う

足元からきしみが聞こえる

クルマのドアを擦る枝や草の音がひどくなる

もうラジオは聞こえない

訳も分からず走っていると草木も途絶え

急に視界がひらけて

夜の黒い海と遠くの灯台の明かりが見えた

クルマを止めて外へ出ると

そこは崖の上だった

ビュイックを置いて

二人で崖の端に立つ

そこはやはり誰もいない

ただ風が強く遠くに黒い海が広がっていた

そして崖の斜め遠くの下方に明かりが見え

そこから大きな花火がドドーンと上がるのだった

やったね!

凄い

でもここって何処?

わかんねぇーな

こんなとこってあるんだね?

絶景ポイント

でもなんで誰もいないの?

分からない

不思議ねぇ

花火が上がると

花が黒い海に映る

夜の空が彩られる

ここ、特等席ね

そういうことになるね

花火が終わっても

二人はずっとそこにいた

夜は静まり

ただ強い浜風だけが吹いていた

「冷えてきたね」

「帰る?」

二人はクルマに戻り

生ぬるい飲みかけの缶コーヒーを飲む

キーを回してキュルキュルとセルモーターが唸る

突然ラジオから激しいロックの音が響き渡る

「あっ、そうだ」

「なに?」

男が無造作にGパンのポケットから

何かを取り出すと

女の手を取り真顔になった

「なに、それ?」

「いや」

「なに」

「一緒にならないか、俺たち」

男は女の手に指輪をはめた

女は指輪をじっとみつめていた

「一緒になろう」

「………」

女の目が潤んだ

静かな漆黒の海に

灯台の明かりが規則正しく回る

「ありがとう」

女はずっと下を向いていた

「俺って駄目だと思うけれど

なんかそう、もっとうん頑張るよ」

ラジオの音に負けないように女が言う

「いまだって充分頑張っているじゃない」

男が女の髪をなでる

「こういう海の見える所に

いつか家を建てたいな」

「そうね、海いいわね」

フロントウインドウの向こうに

いつの間にか上弦の月が出ていた

古いビュイックが草むらをUターンする

女は窓を開けて腕を外に伸ばす

風が車内を吹き抜ける

指輪を夜空に向かって高く照らすと

暗闇のなかでそのリングが

一瞬何かの光を浴びて

キラリとした

男もそれを見ていて

「さっきの遠い花火みたいだな」

と言った

「そうね」

真夜中のビュイックは

今度はゆっくり慎重に動き始め

暗くて細い雑木の中を照らして

静かに走り出した

選挙

かあさんがつまらない愚痴ばかり
とうさんに言うものだから

俺が小さいときから
とうさんの話を聞いているうちに
俺は俗物となって
そこから抜け出すこともなく

今日も女房に下らない事を聞かされ
俺はあまり難しく考えないで
息子に同じ小言を言ったものだから

ははぁ
こいつも俗物になって結婚でもするのだろうな
娘も同じく結婚でもして旦那に愚ちるのだろうな

いま気がついた

見渡せば俗物ばかりの世の中なので

女は子供を産み
男は外へ出て
なんだか分からないうちに
ぐったりとして

これはおかしいと気がついた者が
立ち上がり
やがて社会というものを
少しづつ変えていくのかな?

何もない脳みそを動かしたところで
俺は相変わらず
今日もしこたま飲んでいる

俗物と知ったところで
何をしたらよいかさっぱり分からず
昨日は知り合いの和尚を尋ねたのだが
何をどう聞いたらよいのか
やはり分からず
近所の話や寺の本堂前の木の枝っぷりの良さを
話しているうちに日も暮れ
俺は飲み過ぎたお茶で腹をゆさゆささせながら
帰ってその話を女房に話すも
だからどうしたという顔で
夕飯の支度に忙しい

世の中なにも変わらないな

つくづく俗物の俺に気がついた俺は
明日選挙に行くのだが

はて?
何をどう考えて
一体誰を選んだらよいのか
皆目見当がつかない

知っている候補者の名前でも書いておくか?

いや、どうしたものだろうと
つくづく考える

羽虫

もう、四日ほど鳴き続けている羽虫は

そろそろ死んでくれるだろうと甘くみていたが

羽虫は死ぬどころか、数が少しずつ増え

僕のアタマの中で休み無くジージーと鳴く

気晴らしにスタンダード・ジャズを聴いてみたが

ボリュームを絞っても上げても

羽虫が鳴き続けるので

その演奏を豊かな気持ちでは聴くことができない

しかたなくテレビを点け、ぼぉっと観ていると

また羽虫はやってきた

僕はクルマに乗り、高速で西へひた走った

やがて海岸線が見える海沿いを走る頃

また羽虫が鳴き始めた

駄目だな、と思い

今度は高速道を降り

山へと向かい

静かな湖畔をみつけてクルマを止める

駐車場は人影も少なくクルマも疎ら

僕はひとり水辺に立って小さなさざ波を眺めていた

さざ波のざわめきは静かな湖畔によく響き

僕の耳ざわりはほどなくさわやかなのだが

ふと気がつくとあいつ等がやってきて

羽音をたかぶらせて、相変わらずジージーと鳴いていた

しかたなく駐車場に戻りキーを回す

と、前方でひとが争っているのが見えた

なにかわからないが

若いオトコと中年のオンナが言い争っているのが見えた

お互い駐車場が空いているので気が緩んだのか

接触事故を起こしたらしい

ちょっと近づくと
双方のクルマが傷ついているのがみえた

そして不思議なことに

僕の眼に

彼らのアタマの上に

見たこともない虫が一匹づつ羽音を鳴らして飛び続けているのが見えた

そのキラキラ光る羽根は玉虫色をしていて

僕が近寄ると聞き慣れた音をたてている

あっ、羽虫だ

ふたりの言い争いは次第に激しくなり

すると
オンナのクルマからサングラスを掛けたオトコがさっと降りてきて

いきなり相手の若いオトコを殴り始めた

サングラスのオトコのアタマの上には

例の虫が何十匹といて

もうその音はジージーと凄い音で鳴いていた

僕は驚いて彼らに近寄り

サングラスのオトコをなだめながら

羽交い締めにして止めに入った

羽音がうるさくて仕方がないのだが

僕はやめなさいやめなさいと

さかんに叫んでいた

アザだらけになった若いオトコは

口から一筋の血を流していた

羽音が響いている

サングラスのオトコは興奮が止まらないようで

今度はぼぉっとしているオンナに怒鳴ってた

オンナのアタマの上にも例の虫が飛んでいた

気がつくと疎らな駐車場にも関わらず

ひとが集まっていて

クルマの回りをぐるっと取り巻いている

好奇の眼で見ているニヤニヤしている
その取り巻きの中のひとりのオトコの頭上には
例の虫がブンブンと何匹も飛んでいた

機敏そうなひとりの観光客らしきオンナが

ケータイで警察らしきところへ事の次第を

セカセカと話している

もういいだろうと

僕は自分のクルマに引き返し

服の埃を払ってから気を取り直し

再びキーを回した

あの日から、もう半年も経つだろうか?

あの日から

僕のアタマの中の羽虫は何処かへ行ってしまった

もう、あのジージーと鳴く鈍い羽音を聴くことはない  

さくっさくっと歩くたびに
黒ずみがかった砂は沈み込み
振りかえると
私が辿ってきた足跡が
曲がりくねって
どこまでも見えなくなる位に
伸びている

カモメが上空をふわぁっと泳いでいる

あいつは足跡も残さずに
どこから来て明日に飛んでゆくのだろう?

私はかすかに見えるあの岬の突端あたりを
めざしているのだが
そこに果たしてどんな景色が広がるかなど
行ってみなければ分かりはしない

この頃になると少々息も乱れ
カラダも汗ばんでくる
しかし歩かないことには
ただ、浜に打ち寄せる波の音ばかりが
耳に残るばかりで
なんにも変わりはしないではないか

気がつくと
遠くにもあの突端の方向に歩いている人が
ちらほらといることに気がついた

同じものをめざすひともいるのだな
当り前のようにふっと笑ってしまった

心地よい浜風が耳を首を撫でてゆく

やがて岬の付け根まで辿り着いたとき
空の色は変わり
いまにも降り出しそうな雲行きになってきた

もう引き返す訳にはいかないし
そこで雨宿りを探すほど
呑気なことも言っていられない

さらに強く
カラダに力を込めて私は歩いた

<夢など
所詮夢だと思っていた頃
私の歩みはきっと歩調が乱れ
手をぶらんとした重い歩きだったのではないかと
いまは分かる>

果たして
あの岬の突端から何が見えるのか?

降り始めた雨は次第に頬を強く打ち
首筋に流れた雨が服のなかに垂れてゆく

遅れた足取りは私の神経を逆なでし
時間だけが冷静に時を刻む

泥だらけの細い道
うっそうとした松林の先に
その岬はあった

予想外の時間の経過は
景色を一層暗いものにしていた

雨は一向に収まりを見せず
辺りは薄い暗闇で覆われていた

私はここから映る景色に何を期待していたのか?

<金か、賞賛か、名誉か、ある種の成功か?>

しかし、私の眼に浮かぶその先には
時折光る雨の糸と
暗闇の向こうに広がる
遠いかすかでわずかな明かりだけだった

雨音と切り裂く風の声
そして小さく遠くに波音だけが響いていた

それでも岬は私を際立たせた

この時間、この天候に
岬に私ひとり

誰もいないのを確かめてから
私はその達成感とさみしさのなかで
何故だか涙が止まらなかった

ひとりの男が本当に確かめたかったもの

それは
やはり私の予想したように

ひとり人間の孤独だったのかも知れない

すれ違い

ブランデーグラスを口に運んだときに

オトコは煙草の煙を吐きながら

「もう終わりだな」と呟いた。

胸のあたりに熱いものが流れてゆくのを確認するように

もう一度、ため息をついた。

華奢な手がワインのグラスをゆらゆらさせながら

口はなにかを言おうとしたが、オンナは黙って

涙を流した。

そのバーは客もまばらで、程よく距離が保てたのも良かったのかも知れないな、と
オトコは思った。

外は春の嵐だ。

時計も12時を回っていた。

カウンター越しに、バーテンが乾いた布でグラスをひとつひとつ丁寧に磨くのを
オトコは眺めていた。

「ねえ、私たちまたいつか何処かで逢えるのかしら?」
目線を遠くに合わせながら不意にオンナが言葉を発した。

オトコは赤いラークを取りだし、マッチに火を灯した。

「うんん、いつかはきっと」

これは本当だった。
嘘などついてはいなかった。

いや、愛していると、オトコは
酔いのまわったあたまから思わず本音を言おうとして、その言葉を飲み込んだ。

「もう帰ろうか?」

客もとうとう二人きりになっていた。

店のバーテンがドアを開けると外はすっかり静かになっていた。

彼は看板をしまい、入り口の外灯を消した。

アメリカンポップスから、流れる曲はいつかしっとりとしたジャズに変わっていた。

見知らぬ歌手が、恋の歌を情感を込めてしっとりと歌ってた。

やがて
オンナが目をつむり
「分かった」と呟いた。
ワインの残りを飲み干すと
急に笑顔をつくり、オトコに向き合った。

そして
「しあわせになるのよ」
その母親みたいな言葉にオトコは一瞬黙り込んだが
やがて止めどもなく涙があふれ出て言葉をなくした。

いま、このひとをしあわせにする自信はオレにはないな、
潮時を考えていたオトコは、だから別れを口にしたのだが…。

この先、このオンナは誰と出会い恋に落ちるのか?
どうあれ、しあわせになって欲しいと、オトコは切実に願った。

オトコには恋の予定などひとつもなかった。
いや、そんなことすら考えられない心境が心を支配していた。

旅をいくつも重ねて、いつかオレはこのひとに再び会いたい、
オトコはまた言葉を飲み込んだ。

外に出ると、街はすっかり静まりかえっていた。

すでに、すべてが眠っている。

歩き出すふたりに、生暖かい風がヒュンと通りすぎた。

「おわかれだね」

化粧の取れかかったオンナの顔はまだ童顔で
はじめて知り合った頃のことが新鮮に蘇っては
オトコを動揺させた。

流しのタクシーを拾い、精一杯の笑顔でオンナは
じゃあね!と手を振って深夜の漆黒に消えていった。

ひとりで歩き出すオトコに、また春の風が耳元で囁いた。
「人生はままならないな」

オトコは歩き続けた。そして、夜明けまで歩こうと思った。

歩きながらオトコは何度も何度も呟いていた。

「愛している」