巡り巡ること

 

 

身内、友人、知人が死んでゆくのは耐えられない。

 

最近、そんな出来事が幾つかあって、

 

気持ちはもうヘトヘトだ。

 

 

ずっと前だけど、

 

知り合いの女性が自死したときも

 

かなり打ちひしがれた。

 

 

ふっと浮かんでは、

 

あのとき…

 

と振り返るたび、自己嫌悪に陥るのだ。

 

 

過ぎ去ったことは、もうどうしようもない。

 

たとえそのときに戻れたとしても、

 

やはり自分には、なにもできないのかも知れない。

 

 

しかし悔いは依然残るのだ。

 

 

悔いるとは一体なんなのだろうと考えた。

 

一向に回答は見つからない。

 

こんなものを幾つも背負って、

 

この先、尚も新たな障壁は生まれる。

 

そうして悔いは、高い山のように積み重なり、

 

後ろばかりを見てしまうのか、と。

 

 

しかし、唯一救われるのは、

 

刻々と過ぎてゆく時間の流れだった。

 

 

虚しさは次第に変化し、傷は少しずつ和らぎ、

 

修復されつつあるようなのだ。

 

 

私たちは、立ち止まったまま、

 

ずっと悔いている訳にはいかない。

 

そんなことを続けているうち、

 

今度は自分が、

 

暗い淵の底に引きずり込まれてしまう。

 

 

いろいろなものを振り払い、拭って、

 

とりあえずは

 

足元に転がっている石ころでも何でもいいから拾う。

 

そうでもしなければ、

 

悪夢のなかの因人にされてしまう。

 

 

僕はあるときから、逃げることを覚えた。

 

卑怯にも逃げることをだ。

 

 

そうして、時は刻まれる。

 

朝がくる。

 

夜がくる。

 

 

陽射しのなかで、星の下で…

 

 

記憶は徐々に観念的となり、

 

世の中のあれこれが気を紛らわし、

 

僕はフツーに飯を食い、

 

働き、そして深く眠る。

 

 

せめて今度こそは精一杯やろう、

 

やってやろう。

 

そんな誓いを立て、

 

自分の立っている場所をしっかりと踏みしめる。

 

 

きっと涙も笑いも悔いも忘却も

 

そして勇気も、

 

この僕にとって

 

どれも欠いてはいけない要素なのだろう。

 

 

そうやって、尽きるまで淡々として生きる。

 

 

巡り巡るって、

 

きっとそういうことなのだと。

 

 

 

新会社、妄想中

 

新しい会社の名前を妄想中である。

別会社だけど、たいそうなことではない。

個人事業でも構わないと考えている。

その場合は屋号というのかな。

 

当初、エジソン・ライトハウスとしたが、

これはすでに存在していたので、却下。

次にレッド・ツェッペリンというのが閃いた。

しかし、ご存じのようにあのツェッペリン号は、

空中で大爆発しているので、なんか縁起が悪い。

そもそもレッド・ツェッペリンとは、

失敗の意味でも使われていたと言う。

で、これも却下。

 

現在最も有力なのが、

バニラファッジという名前である。

バニラファッジは、イギリスの国民的お菓子である。

名前のとおり、甘い食いものである。

 

で、これらの候補は、

気づいた方もいると思うけれど、

いずれも60~70年代に活躍した

世界的ロックグループの名ばかり。

 

バニラファッジのヒット曲、

「キープ・ミー・ハンギング・オン」は、

当時少年だった私には、凄いインパクトだった。

レッドツェッペリンの「天国への階段」も、

エジソンライトハウスの「恋の炎」も相当良かった。

いまもって忘れられない音楽だし、

これらをネーミングにするのは悪くないと考えた。

 

さらには「ホワイトルーム」のCREAMも候補にしたが、

次第に混乱してきて、結局はやめた。

 

で、この新しい会社というか

新組織はなぜ必要か、なのだが、

凄い稼いでやろうとか、

そういうのでは全然ない。

 

むしろ、やることを減らす、

嫌なことはやらないなど、

結構うしろ向き。

 

唯一、好きなことしかやらないとする一点において、

妥協のないよう検討している。

 

仕事としては、取扱品目を極端に絞り、

ライティングのみに集中すること。

ライティングが入り口の仕事であれば、

その後も前も引き受けます、

というスタンスにしたい。

 

なぜなら、ライティングから入る案件は、

それなりにテキスト重視であり、

それを核として組み上げるからこそ、

他とは違ったものが制作できる。

 

重要なのは、広告に文字は不要、

または重要ではないと考える

企業などがあるので

そこを切り離したいと思った。

 

ひと口にライティングといっても

広範な守備が必要となるが、

そこは私的な仲間やネットワークに

多彩な才能が眠っているので、

取扱品目を減らす代わりに、

多彩な案件を受け入れたい。

 

また、ネット上のライターたちとの違いを、

価格と品質においてもバッティングしないよう整備し、

一線を引きたいとも考えている。

 

私たちの仕事は、

クライアントに寄り添って仕事をしている。

これは、ある意味、とてもやりがいのあること。

しかし、なかには意にそぐわない案件もある。

意にそぐわないとは、

広範にわたるからひとことでは言えないが。

 

嫌なことはやらないとする方針は、

新しい組織にとって欠かせない事項である。

さらに、好きなことしかやらないというわがままも、

この際必要不可欠となってきた。

 

あるときから、好きなことしかやらないが、

嫌なことはやらないという心境より優勢となり、

これが基本方針に変わった。

 

好きなことしかやらないとは生意気な、

と言われそうだが、

そして、そんな仕事が成り立つのかとの

疑問も起きるが、

そこは、試しである。

 

実験である。

 

とにかく、好きなことだけやって、

生きていけるか?

この賭けはいまのところ読めない。

こういう場合、果たしてAIは、

この問いにどんな回答をだすのだろう?

 

この世界には、魑魅魍魎が跋扈している。

しかし、勘としての勝算はある。

 

まあ、少しでも仕事が動けば、

生きる自信に繋がるような気がする。

 

夕陽のうた

 

イラストレーターの鈴木英人さんは、

影というものを主役に据え、

大胆な影の描写で夏の日差しの強さを強調し、

そのコントラストの美しさをあらわした。

 

オールドカーが木陰に停車しているイラストなど、

ぐっときます。

 

 

この人の作品は、どれも真夏の昼下がり、

といったものが多い。

 

実は朝なのかも知れないが、

その陰影を観るにつけ、真夏の昼下がり、

と私が勝手に思い込んでいるのかも。

 

まだ世の中がカセットテープ全盛だったころ、

よく英人さんのイラストを切り抜いて

カセットケースに貼り付けていた。

 

中身は、主に山下達郎だったような。

 

 

さらに時代を遡って、

私がちいさい頃に好きだった影絵は、

どれも藤代清治さんの作品だった。

 

 

だいたい夕暮れから夜の世界が多い。

 

笛を吹いている少年のシルエットが心に残った。

作品はどれも上質のステンドグラスにも負けない、

神秘性と物語を内包している。

 

昨年、藤代さんの画集を買って、

時間ができるとぺらぺらと開いている。

もう90歳をとうに過ぎておられると思うが、

この方の作品は常にファンタジー性に溢れていて、

その世界が衰えることはない。

 

 

好きなことに没頭する美学がそこにある。

 

ここは、学びが多いと、自分に言い聞かせている。

 

 

近頃は夜景の写真が人気を集めている。

湾岸に立ち並ぶ工場群も、

ライトに照らされた夜の姿は、

妙な魅力を放っている。

 

 

私は京浜工業地帯で生まれ育ったので、

工場の立ち並ぶ姿にうんざりしていて、

一時は、こうした写真を引き気味にみていたが、

最近はそうした幼い頃のトラウマ?もなくなり、

しっかり鑑賞できるようになった。

 

 

さて、自然の織り成す陰影といえば、

夕暮れ時のマジックアワーである。

 

 

 

夕陽は、ときに緊張した人の心を緩ませる力を

秘めているようだ。

 

私が夕陽の魅力を初めて知ったのは、

小学校の入りたての頃だった。

近所の子と砂場で夢中になって遊んでいて、

さあ帰ろうと思って立ち上がり、

空を見上げたときだった。

 

いままさに沈もうとする太陽がオレンジ色に光って、

手前の丘は大きな黒い影となり、

その丘のふちだけが燃えるように輝いていた。

 

いずれ、光と影の織り成す風景って、

人の琴線のようなものを刺激するのだろう。

 

映画「夕陽のガンマン」、「三丁目の夕日」

 

拓郎の「歌ってよ、夕陽の歌を」

石原裕次郎のヒット曲「夕陽の丘」

 

夕陽は歌になる。

絵になる。ドラマになる。

 

どこか影のある女性…

夕暮れの冬の木立

そんなものばかり追いかけても、

深みにはまるだけ。

ただただ、陽が暮れるだけなのになぁ。

 

 

 

 

 

 

 

思えば、平成ってずっと不景気だったような気がする

 

 

最近では、平成も終わりを告げる、ということで、

あちこちで平成という時代の総括やら思い出を振り返る

番組をよくみかける。

 

夕飯の後なんぞ、寝そべってテレビをぼおーっと観ていると、

うーん、なつかしいなという反面、

平成って、結構辛い事が多かったなぁと、

深くため息をつくのだった。

 

平成の時代は、まずバブル後期から始まったように記憶している。

 

日本長期信用銀行に預けてあった50万円を渋谷店で下ろすと、

確か75万くらいになっていて、その金利の高さに歓喜した覚えがある。

しかし後、この銀行は潰れ、山一証券会社も潰れ、

世の中全体が、かなりどんよりしてきたのだ。

 

そこから、日本の不況は徐々に深刻さを増し、

それは伝染病のように社会全体に広がっていった。

 

私たちの業界も同様で、延々と続く不況に、

エッと驚くような酷い話はいくらでも耳に入ってきた。

あの大手が潰れたとか、知り合いの会社の倒産とか、

フリーランスへの未払い金などは優に及ばず、

離婚や自殺まで、枚挙に暇がなかった。

 

最も身近なのは、やはり広告の制作料金のデフレ化だろう。

 

まあ、広告の価格も案件に寄りけりだが、

こちらはわずかな利益の確保に追われる。

どこも経営が厳しいから致し方ないのだが、

業界の価格競争の激化とともに、

人的資源も枯渇して低レベル化が進み、

無駄な制作物が粗製乱造され、

結果、広告というものが大きな信用を失ったことだろうか。

 

現在でも、その余波は残っている。

 

平成はネットの時代に入った訳だが、そこでも同様の事柄は増え、

安かろ悪かろでもしょうがない、という事態が

ここかしこで起きている。

 

「コスパ」が流行ったのが平成の特徴だが、

それはいまも続いている。

 

いあらゆる事柄において、無駄は敵なのである。

如何に安くいいものをつくるか、

ここに心血を注がなければ生き残れない。

 

当然と言えば当然なのだが、

こと広告に関しては、コストはみえるものの、

パフォーマンスが見えづらいという欠点があった。

 

よって、広告も進化し、

結果を示すために、統計とか数字を示すようになった。

ここをしっかり説明しないと、コスパは語れない訳だ。

 

こうして、ただ高いだけ、安いだけの業者は淘汰されていく訳だが、

いまはその過渡期といっても過言ではないだろう。

 

でないと、広告は、出来の良い悪いが見えないのだ。

全くブラックな業界となってしまう恐れがある。

 

それは広告の危機を意味する。

 

よって結果をしっかりと出すことは、

いまやこの業界の鉄則なのかも知れない。

 

作り手の意識は変わる。

 

成功体験は、自信と自負と向上心を育てる。

そして、つまらない価格競争には乗らなくなる。

よって、広告のつくり手は、

あの湖に浮かぶ優雅な白鳥のように、

水面下では手足を常に動かし、

努力を惜しまず向上しなくてはならない。

それが現在の広告の作り手の、

極めてシビアな現状なのである。

 

ずっと以前、

いわゆる昭和における広告などはかなりアナログで、

ざっくりとしていた。

しかし、ヒットを飛ばす心意気は殺気だったものがあり、

それはいわば、正体の見えない宝物を追いかけるような、

摩訶不思議な冒険の世界だった。

 

現在のそれは、数字と統計にキッチリと表れる。

主観の及ばない正しい成績をはじき出してくれる。

ここは、確かなことなのだ。

 

しかし、実はここにも新たな問題がひそんでいた。

それはパラドクス的な話なのだけれど、

単に数字だけを追いかけると、

とてもつまらないものができあがる、という

なんとも皮肉なことが起きているという事実なのだ。

 

この新たな問題に真っ向から取り組んでいる

東京のクリエイティブの作り手を幾つか知っているが、

彼らは新たな開拓者として、そのうちにヒットを飛ばすだろう。

 

そのころ、平成という時代は幕を閉じている。

 

 

 

明けましておめでとうございます

 

 

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

元旦の昼はケンタ食ってました。

では早速ですが、こちらゲス芸能デスク2です!

 

◆レコード大賞

年末のレコード大賞観てましたが、
大賞は乃木坂46じゃない。違う。
どう考えてもDA PUMPでしょ。
U.S.Aって、歌詞は意味不明だし、
ISSAのヘアはかなりあやしいけれど、
あれだけ人気出たんだからね。
酷い歌詞だけど…

そして番組の大半は、
過去の受賞シーンばかりだった。
それはそれで懐かしいけれど、
過ぎ去った栄光ばかりではね、
現在の音楽シーンの躍動が感じられない。

如何にヒット曲が少なく、
マーケットが萎んでいるのが、
素人の私でも分かる。

最優秀新人賞の辰巳ゆうと
という歌い手さんも、
皆あまり知らないんじゃないか?

受賞、不思議。

唯一、ピンク・レディーが良かった、
というありさま。

ミーちゃんもケイちゃんも還暦を過ぎていて、
あの歌と踊りは凄い。
化粧も凄いけど。
ちょっとハラハラしてしまったよ。

 

◆紅白歌合戦

総体的になかなか面白かったですね。
過去に縛られず、若返りを図ったのが、
功を奏したと思います。
縁故関係で出ているような歌手を退場させたのも勝因。
客席と舞台を一体化させるような演出も冴えました。

さて、永遠のアイドル郷ひろみさんを観ていて
なんというか、プロ意識を感じましたが、
正直イタい。
凄い努力をしているんじゃないかとは思いますが、
このままでは、行く先が辛い。

それにしても、郷さんって何食ってんだろう?

天童よしみの「ソーラン祭り節2018~どさんこver.~」
って、北島三郎の「祭り」とほぼ同じなんじゃないか。

Suchmosっていいですね。

「臭くて汚ねェライブハウスから来ました、よろしく」って

挨拶が気に入った。

ちょっといきがっているのか、照れなのか、負けねえぞっていう

思いがあるのか、いいなぁ。

クラプトンとかが好きらしく、60年代~70年代の空気が伝わる。

内田裕也じゃなく矢沢でもなく、彼らの音楽はなんか伝わる。

 

北島三郎って、紅白引退したんじゃなかったっけ。出てるじゃん。

平成最後だからとかいろいろ理由を述べていたね。

「男」サブちゃんで売っているけれど、二言はある訳だ。

 

サザンとユーミンはね、同世代なので、ホント安心して聴ける。いまじゃ大物になっちゃったけど、やはりハタチの頃の勝手にシンドバットとかあの日に帰りたいのデビュー当時を思うと、自分も若い頃に戻れる。

 

 

◆番外編

秋元康という人は、一応いまは日本の音楽シーンに欠かせない人とは思うが、(ホントはどうでもいいと思っている)彼が生み出すAKBとか欅坂他いろいろいますが、あれって何だろうと思う訳です。ジャニーズの双璧といえばそのようにも思えますが、まあ、学園祭のノリでよくここまで来ました。思えば、80年代の「おニャン子クラブ」から彼の活躍が始まるのですが、女子学生の放課後の仲良しクラブが、どうも彼の思い描いた空気と思えます。そこに脈々といろいろなグループが繋がっていて、彼のコンセプトはいまも不変。○〇46とか〇〇48とかって一クラスの人数に思えなくもない。いろいろなクラスの女の子がいる。それが、彼の生み出すグループなのでしょう。彼はセブンイレブンとかファミマみたいに、フランチャイズ化にも勢力を注いでいて、アジアだけでなく欧米もターゲットに入れているのではないか。なんたって向こうは日本のアニメも浸透しているので、それほど違和感はない。ライバルはKポップグループ。負けるなよ、と言いたいところですが、私的にとても違和感があるので、もうこれ以上はやめておきます。

 

 

ハズキルーペって何がすごいのか?

 

ハズキルーペが人気だ。

勢いが止まらない。

それはコマーシャルの出稿数からも判断できるし、

豪華なキャスティングからも分かることだ。

売り上げは急激な右肩上がり、だろう。

 

火が付いたのは、渡辺謙と菊川怜のコマーシャルあたりからか。

菊川がきゃっと言ってハズキルーペをお尻で踏んづけるも、

メイドインジャパンの堅牢なハズキルーペである。

何ともない。

丈夫にできている。

で、菊川のヒップが評判になった。

堅牢なルーペに、さらに色気を付けた訳。

 

かくしてコマーシャルは成功。

最近ではバージョンアップ版に変わった。

 

銀座にでもありそうなクラブに小泉孝太郎が入店する。

おしぼりを顔に当て、

パソコンで相当目が疲れている、という設定。

すかさず、ママ役の武井咲が、

ハズキルーペがいいわよ、とがち押し。

「字が小さくて読めない」と言っておしぼりを投げ、

謙さんの真似をする小泉。

そして「謙さんには内緒だよ」と、

ちょっとしたギャグを飛ばす。

常連にありがちだなぁ。

 

武井ママも新製品を見せびらかす。

と隣の席にまたまたハズキの新製品である

サングラス仕様をかけた気取ったミドルがいて、

かなりすかしているではないか。

適役、舘ひろしである。

でなんか、気が付くと、

店の女の子も全員がハズキを装着している。

 

で、ここで絶対に逃せないのが、

店の女の子が、ハズキを置いてある椅子に、

次々に座るシーン。

悩ましいヒップのクローズアップ。

このシーンを2回繰り返す念のいれようなのである。

前回から色気も数倍バージョンアップした訳。

 

おっと何のコマーシャルだったっけ?

と我にかえる。

まるで、通販の臨場感を意識したつくりなのだ。

 

制作者は、このシーンを最初に思い浮かべた。

これがやりたくてこのコマーシャルを考えたとしか、

私には思えません。

世間がうるさいイマドキ、勝負に出た感がある。

ハラスメント?

エンターテインメントに徹したので、

なんとか納まっている感はある。

 

こうなるとだ、ハズキルーペの勢いは止まらない。

物事には勢いというものがある。

そこをハズキは逃さない。

いままさに、黄金期。

観ているほうも、

「ワシもそろそろハズキルーペ買おう」と、

無意識に購買を予定しているおっさんがいっぱいいると、

私は踏んでいる。

ちなみにおばさんは、

かなりの不信を抱いているように思うがね。

 

そもそもハズキルーペって、

中高年を中心に、こまかいものを大きくして見るための

虫眼鏡じゃなかったっけ。

むしめがね…だよなぁ

そこにファッション性と堅牢と色気をふりかけると、

摩訶不思議にヒットした。

 

こうしたエグいコマーシャルって結構多い。

私も割とノってしまう性格なので、

過去にかなり不要なものを買いためている。

家中にすでに使わないものが溢れている。

冷静に考えると、

金は使うは、家はどんどん狭くなるわ、

なんで買ったんだろうと反省する訳です。

そんな事をさんざん繰り返していると、

いい加減、いろいろと気づくものです。

財布の紐も堅くなる。

 

コマーシャルとか通販って要するに、

仕掛けが透けて見えるようになってしまったら、

終焉を迎えます。

ながらく続いた消費文化の限界も見えるようです。

そして人はますます手堅くなる。

 

しかし、広告のスタイルは尚も進化するのだろう。

広告って雑草のように強いから。

 

とりあえず、罪な広告ではある。

 

 

空のアーティスト

 

大空を専門に描くアーティストがいて

これは誰なのか?

青空の色とグラデーションの具合

雲の形状で季節だって表せる

ときに風だって表現する実力の持ち主

わかりません

 

そして太陽や月や星…

あっ、あれは神様からのプレゼントです

 

 

 

 

哲学的満月の夜

 

 

僕らが眺めているこの夜空に

なにか知らない

もうひとつの世界が広がっていて

ときにその騒がしさが漏れるのが

満月の夜

この世界しか知らない僕らは

とてもちっぽけな田舎者なのだろう

 

 

 

たき火の安息

 

 

生きていると楽しい いや疲れる

とにかく煩わしさはいつもついてまわるから

安息のときは必要だ

食う 寝る他になにかないものか

日常だけではホントの自分を見失うから…

そこにあたたかい火があって

揺れる炎が僕を惑わしてくれて

遠くで鳥が鳴く

川のせせらぎがとおくに響く

こうして時間は消滅する

 

 

 

秋を探しに

 

 

 

 

 

 

 

秋の気配を探しに出かけました。

陽はまだ強い。

が、風はひんやりとしている。

ちょっと立ち止まると冷えるようです。

そして空は高く、空気は澄んでいる。

ひたすら川沿いを歩く。

セイタカアワダチソウが盛んに咲いている。

季節は確実に進んでいて、

あちこちで夏とは違った、

秋の芳醇さがあります。

稲の収穫は順調と思いました。

推測だけど。

都会と違い、ここのススキは、

いくら採ってもタダです。

川でヘロンを見つけました。

ヘロンは青サギのこと。

数年前から住み着いているようです。

青サギって朝を象徴する鳥だそうで、

泣きながら飛ぶと雨が降ると言われている。

達郎の曲「ヘロン」って、

上の言い伝えを受けて、

雨を降らさないでくれと歌っている。

ちょっと哲学的です。

きょうはこの辺で。

 

 

 

 

 

 

なつ雲 ひかる風 とおい世界

 

 

 

 

 

 

 

 

改編・時代とコピーと普遍性について

 

かつて日本が繁栄を極めた1980年代、

「おいしい生活」というコピーが巷に溢れた。

 

「おいしい生活」?

いまきくとピンとこないが、

その時代にライブで知った身としては、

当然ピンときた。

 

ロジックで語るには面倒なコピーだ。

おいしい、という何の変哲もない言葉に、

生活というやはり何の変哲もない言葉をつなげると、

とても新鮮なコピーに仕上がった。

 

このコピーが、当時の空気を的確に表していた。

都会も地方も皆元気で、更なる繁栄を信じ、

仕事に精を出していた時代。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という、

アメリカの社会学者が書いた本も、

世界でバカ売れした。

 

日本に、そんな時代があったのだ。

 

で、このコピーの広告主は、西武セゾングループ。

バブルと共に頂点に達した企業である。

コピーライターは、やはりあの糸井重里さんだった。

 

いま「おいしい生活」というコピーを、

大々的に発信したとしても失敗するだろう。

「おいしい生活」という語感から想像する生活は、

ちょっと怪しい気配すら漂う。

何かを誤魔化す、ちょろまかす…

そうした行為の上に成り立つ生活とでも言おうか。

しかし、当時のこのコピーの響きは、

希望に満ちたよりよい明日への提案として、

皆に受け入れられたのだ。

あなたの素敵な生活はすぐそこにあります、

とでも言わんばかりに。

 

商品の向こうにあるライフスタイルを提案する―

そうした企業が現れた点で、

この広告は最先端に位置していた。

 

経済的背景、語感からくる意味合い、市場の成熟度など、

いまと全く違う日本が、そこにあった。

それが「おいしい生活」だったのだ。

 

同じ80年代の同時期に、

とても美しいコピーがヒットした。

サントリーが発信したウィスキーの広告で、

 

「恋は遠い日の花火ではない」

 

このコピーは、当時の中年のおじさんの心を、

わしづかみにした。

世はバブルである。

おじさんたちは、右肩上がりの成績を更に伸ばすべく

奮闘していたのだが、

やはり、ふと気がつくともの寂しかったのだろうか。

 

忘れかけていた恋というキーワードが蘇る。

もうひと花咲かせようと…

それは不倫なのかも知れないし、

遠い昔好きだった人に、

もう一回アタックしてみようか、などと。

 

しかし、例えばいまどこかの広告主が、

恋は遠い日の花火ではない、と謳ったとしても、

いまひとつ響かない。

受け手に伝わらない。

いわゆる不発である。

 

なんせ、コピーが美し過ぎるし。

時代は移り変わっているのだ。

 

では、このコピーを少しいじって

「戦争は遠い日の花火ではない」とか

「テロは…」とすると、

いきなり迫真めいてくる。

いまという時代にフィットしてしまうから、

皮肉な事ではある。

 

更に時代を遡ると、もっと分かり易い事例がある。

「隣のクルマが小さく見えます」

というコピーが流行ったのが、

バブル期よりずっと以前の70年代初頭。

広告主はトヨタ、クルマはカローラだった。

 

最大のライバルである日産サニーに対抗すべく、

できたのがこのコピーだった。

日本に、いや世界のどこにもエコなんていう発想もなく、

でかいクルマ=裕福という図式が世界のスタンダードだった。

 

とても分かり易い例。

 

もうひとつ。

この時代に流行ったコピーに、

「いつかはクラウン」というのがある。

当時のクラウンは、いわば成功者の証しであったし、

いま思えば、幼稚で下らない自己実現法とも思うが、

この程度で、皆が満足できる時代でもあったのだ。

 

このように、過去のコピーを検証すると、

それは、時代とともに変化する、

いわばナマモノであることが分かる。

 

ヒットしたコピーというのは、

そうした時代を的確に捉えている。

相反するように、時代とズレたコピーはまずヒットしない。

 

しかし、例外的に時代を問わず普遍的であり、

いまでも魅力的に響くコピーがある。

 

「時代なんてぱっと変わる」(サントリーのウイスキー)

 

「少し愛して長く愛して」(サントリーのウイスキー)

 

「君が好きだと言うかわりに、シャッターを押した」(キャノン)

 

「恋を何年、休んでますか。」(伊勢丹)

 

 

これらのコピーは、広告という概念を離れ、

時代に左右されない力をもっている。

使い方次第では、いまでも人の心をすっと射貫く。

 

死ぬまで言葉と格闘した詩人の寺山修司に言わせると、

こうしていつまでも古びないコピー(言葉)には、

時代を超越した「実存」が眠っている、

という解説が成り立つらしいのだが。