日常に入り込む違和感

 

最近、結構アタマにきていることがある。

 

朝メシは私にとって至福のときなのであるが、

今朝の朝ドラの録画を再生しながらさあ今日も頑張ろうか、

なんて、遅めの朝飯をのんきにパクついている。

そんなとき、我が家の上を、

軍用ヘリが必ず飛ぶんである。

毎日ね。

だいたい同じ時間。

 

軍用ヘリってもの凄くうるさい。

あれは、人を威嚇する音でもある。

で、皆は知っているかどうか知らないが、

あのローターが真上に来るとさらに質が悪く、

いわゆるハウリング現象が起きて、

我が家のカーポートなんかをブルブルと震わせる。

余計にアタマにきたね。

 

しかしまあ、米軍だか自衛隊だか未確認だけど、

要するにこれらは戦う武器のひとつであろうよ。

国際的な事情とかいろいろ考えると、

私もまあ仕方がないのかなと、

おおらかに聞き逃すよう、己に仕向けてきた。

 

だがだ!

今度は最近、夕飯の時間になると…

事前に断っておくが、私にとっての夕飯は、

今日一日の疲れを癒やし、栄養を補給し、

安らかな睡眠へと誘う、

ひとつの優雅な流れの序章なのであって、

下らないテレビをぶつぶつ言いながら観るのも、

ストレス発散であり、

まあまあ、至福のときなのである。

とまあ、私が最も大切にしているそんな時間に、

またも狙いを定めるように、

我が家の上空を轟音がとどろく訳だ。

 

当初、私はテレビをガンガンつけていて、

最初はなんかどっか外がうるさいな、

くらいに思ってはいたが、

空の状況はそんなもんじゃなかった。

 

爆音と共に、夜の闇空がウーンと唸っているのである。

それは静かな夜の街に、

怪獣でも近づいてきたような恐ろしさなのである。

こうして我が家の朝晩の平和なひとときは、

あの複数の複数回による軍用ヘリの飛来により、

無残にも破壊されている訳だ。

 

そんなことがあって、

アタマがヒートアップしているときであった。

今度は夕方である。

夕焼けでも見ようと近所をのんきに散歩していて、

夏の木々や葉の茂るのを観察しながら、

おお命よ、自然よ!

などと感慨にふけってちょい笑顔で歩いていると、

またまたまた、である。

今度は夕方なのにである。

 

すげぇ爆音が頭上に迫ってきた。

うわぁなんだなんだと上を見上げると、

いつもの軍用ヘリとは違う、

もっと大型の更に変なものが飛んでいるではないか。

 

恐ろしい!

かついつもの奴より更にクソうるさい。

見上げると、小さなプロペラが付いている、

ヘリのようなものが2機。

………?

ああああっ、あれがかのオスプレイかよ!

と、私は怖い珍獣でも発見してしまったような、

かつてないリアクションをしてしまった訳。

飛んでいる姿は不安定な感じ、

かつ不格好である。

 

で、驚きの次に一息ついたら、

いらいらするなぁ、コイツら!

とようやく怒りがあらわになったのだが。

 

行く先は、たぶん横田基地だろう。

そして完全にアタマにきましたね!

 

でですね、こうした場合、

私の政治観とか右だの左だの、

そんな事はどうでもいいと思った訳。

毎日毎日朝晩、いや夕方もだ。

こうした我が家の平和をかき乱す行為自体が、

すべてに優先し、くだらないイデオロギーなど、

この際、どうでもいいと思ったね。

 

私はかつて横浜の田園都市線沿いに住んだことがあるが、

そのときは、近所に米軍の戦闘機が墜落した。

当然、死者も出た。

記憶では、このときもよく軍用ジェットの爆音が聞こえていた。

とても嫌な記憶。

それが何十年ぶりに甦ってきてしまったのだ。

 

今日もみんなが、この広い空の下で、

それぞれの営みを繰り返している。

しかし、一見平和そうな街の上空には、

絶えず、軍用機がけっこう無神経に飛んでいるのだ。

 

考えたって、回答なんか出ない。

こうしたものの根っこというのは、

多次元的に考えれば考えるほど、

どこまでも底なしに深いのだから…

 

更に最近、日本はついに陸上イージスというものに、

5000億円もの金をつぎこむというニュースをやっていた。

数字のイメージがうまく湧かない金額である。

 

いまという時代情勢と地政学的な見地から考えれば、

日本にとって防衛の強化は欠かせないと私も思う。

しかし、単に防衛費だからといって、

相手の言い値のようにもとれる見積もりを、

こちらの政府も鵜呑みにしてOKなどと即答してもらっては、

これはこれで大問題である。

 

5000億っといったら、いまの日本に最優先すべき事柄は、

他にも山積しているように私は思う。

誰かに、あなたはこの防衛構想を知らないからだ、

とか言われそうだが、そんなことは承知の上だ。

この数字は、極めていろいろな意味をもっていると、

私は思っている。

 

うーん、今回は書いていて、なんか不愉快!

いらいらするよ。

でね、クソ暑い。

今日の最高気温は35度らしい。

 

アタマでも冷やそう!

 

 

雨漏りのする車

 

国道1号線の鶴見あたりを走っていた。

友人が車を運転、僕は助手席で外を眺めている。

窓に飛び込んでくる陽射しとふわっとした風が

とても気持ちのいい春の日。

 

先方に中古車屋さんが見えたので、二人して目を凝らす。

僕はその頃、車を探していた。

以前はトヨタのセリカに乗っていたが、

金が尽きて、川崎の中古車屋に売り払ってしまい、

徒歩生活をしていた。

それから心機一転、無駄遣いをやめた。

 

呑みに行く回数を減らして喫茶店にも寄らず、

たばこの本数を減らし、

必死でトラックの運転手のバイトをして貯めた50万で、

再びマイカーを手に入れようと計画していた。

 

前日、東名の横浜インター近くの中古車屋で、

格好いいワーゲンのカルマン・ギヤを発見。

が、売値が高すぎて手が出ないなと悩んでいた矢先だった。

 

助手席から僕が見たその車は、

陽を浴びてこちらに盛んにアピールしているかのように、

ピカピカに輝いてみえた。

 

オレンジ色のワーゲン・ビートル。

 

「いまの見た?」

「見た、あんな色のビートルってやたらにないぜ」

 

興奮した二人は、途中の信号を左折し、

Uターンして右折して本線に戻り、

その中古屋のビートルを再度確認してから、

次の信号を右折して再びUターンして左折、

もう一度いま来た道を慎重に走る。

 

「行ってみようか?」

「だよな!」

 

国道沿いの小さなその店には、

外車がずらりと並んでいる。

珍しい車ばかりを集めている店らしく、

どれも年式は古いものばかりだった。

クラシックなボルボやベンツ、BMWが、

ぎゅっと固まって置いてある。

 

オーソドックスな車は、

オレンジ色のビートルだけだった。

美しい曲線の車体のあちこちには、

クロームメッキが施され、

魅力的な光を放っている。

 

値札に103万とあった。

(うわぁ、103万か!)

 

その日は結局決断できず、

翌朝、意を決して今度は暇そうな別の友人と、

鶴見の例の中古車屋へとでかける。

 

車を眺めながら、借金はなんとかなるだろうと、

甘い観測を立てる。

しかし、本当はもうこの車を逃したら俺は後々後悔する…

ひとめぼれで、ええぃと勢いで買ってしまった。

 

この車で乗り継ぎは3台目となるが、

初のガイシャなので結構気を使ったが、

乗ってみると外観に似合わず、

内装も計器類も何もかもが素っ気なくできていて、

庶民的という言葉がぴたっとくる。

それがまた良いなどと勝手に思い込み、

楽しいビートルとの日々と共に、

地獄の借金生活が始まった。

 

この車にとんでもないことが発覚したのは、

なんと長野県の蓼科の山中でだった。

中央高速の大雨のなかを走り抜けてきたビートルは、

結構快調に走っている。

 

僕たちはとても満足だった。

カセットテープからは、ジャクソンファイブのABCが流れる。

なかなか快適なドライブ。

 

だが、中央高速の小淵沢インターを降りて、

長い上り坂をのぼっていると、

どこからか、ぽちゃんと言う水の音が聞こえてくる。

助手席にちょこんと座っているガールフレンドに、

「なんか水の音、しない?」と尋ねると、

「うん、するする。変な音するよね」

とすでに気づいているようでもあった。

 

雨上がりの蓼科は、雨雲がいきもののように動いて、

それが山の上へとどんどんとせり上がっている。

それは、ちょうど劇場のどんちょうのように、

ばっと、八ヶ岳山麓の鮮やかな緑と夏空を映し出した。

 

エンジンを止めるとしんとしている。

遠くで山鳥が鳴いている。

夏の雲がぽかんと浮いている。

 

車のまわりをぐるっと見回すも、なんの異常も見当たらない。

初夏の蓼科の景色を眺めながら、

「気のせいか」と笑って車に乗り込んだ瞬間、

躰の重みで、そのぽちゃんという音が再び聞こえた。

 

どうも、後部座席のほうからのようだ。

床をよくよく見下ろすと、なんと、かなりの水が、

後部座席の足元に溜まっているではないか。

 

軽い戦慄が僕の躰を走り抜けた。

この美しい蓼科の景色を眺めていた幸福なときは、

戯言のように一瞬で吹き飛んでしまった。

 

ガールフレンドは驚き、あきれかえり、

かといって僕のショックの表情を目の当たりにして、

どうしようもなくなったらしい。

水をくみ出す作業を手伝うハメとなった。

 

バッテリーが近くに設置してあるので、

僕は焦っていた。

トランクにあった布類をすべてその床に敷く。

とんでもない量の汗をかいていた。

その後の事は、いまでもよく覚えていない。

こうして、夏の初のロングドライブは終わったのだ。

 

後、数回に渡ってこの車は同じ事象を起こす。

水漏れの原因を突き止めようと例の中古車屋へも出かけ、

ホースで水をかけたりあれこれと試し、

果ては、ドアまわりのパッキンをすべて交換したりもした。

 

しかし、結果は芳しくなく、

遂に原因を突き止めることはできなかった。

 

この車をどう処分しようかとも悩んだが、

金銭的にも買い換えも不可であるし…

 

しかし、僕は実はこの車を気に入っていたらしい。

手放す気などさらさらない、

という自分の心境に、ある日、気づいたのだった。

 

雨の日の翌日は気になるが、

そのうち、そんなことはどうでもよくなった。

 

それよりシンプルな運転席まわりに喝を入れるべく、

ワーゲン専門店でみつけたタコメーターを取り付け、

足回りを強化サスペンションへと変更し、

マフラーを交換、高速用のエアクリーナーを取り付け、

タイヤとホイールもスポーツ仕様に交換する。

 

おかげで、とんでもなくユニークなオレンジのビートルができあがり、

バイト代はすべてそれに消え、さらに返済が厳しくなるも、

学生時代の僕の経済状態は、

超低空飛行のまま横ばいを持続していた。

 

一目惚れした女性と一緒になって、

実はその人が欠点だらけだったら

というような事と似ているなぁと、

後に僕はつくづく思ったものだ。

くだらない車の話なんだけど、

例え話として面白いと思った。

 

完璧を求める人にはイラつくように思うし、

最初から新車を買っとけよとか言われそうだ。

 

一目惚れって結構危ない。

 

 

湖の不思議

 

連日暑くて、去年はどんなことをしていたのか、

ふと思い出したのが、カヌーに乗ったときのことだった。

 

7月の中頃だったか、こっち(神奈川県)は暑くて、

いい加減にうんざりしたので、

道志村のある国道413号線から山中湖へ向かった。

 

湖畔は強風が吹いていて、

夏だというのに、少し寒ささえ感じた。

さすが避暑地というべきか。

 

富士五湖の魅力は、おのおのだが、

その親しみ度から考えると、

好みはやはり山中湖に落ち着く。

 

中学3年の夏休みにはじめてここでキャンプをしたとき、

湖畔のスピーカーから流れていた歌は、

カルメン・マキの「時には母のない子のように」と、

森山良子の「禁じられた恋」だった。

だからいまだに好きなのかも知れない。

他の湖もなかなか良いのだが、

好きだった歌から思い浮かべる湖というのは、

他を圧倒してしまう。

そういうものだと思う。

 

さて、その頃は泳いで山中湖横断とか、

結構無茶なことをしていた。

みな水泳部の連中だったので、かなり調子にのっていたと思う。

水中の藻が足に絡みついても、刻々と変わる湖の水温も、

その頃はなんとも思わなかった。

 

しかし、おとなになってから知ったことだが、

湖で泳ぐときは、海や河川とは違った注意が必要らしい。

実際、湖の藻に足を取られて亡くなった方もいる。

湖特有の水温の急激な変化による心臓麻痺というのもある。

 

で、去年の夏。

湖の新たな怖さを知った。

 

湖畔からカヌーを出したが、

強風でどうも思うように進めない。

まあ、こうしたときはななめにジグザグに、

目的をめざすもことにした。

 

相当、沖に出ると、

その風は水面を動かすほどに強くなっていた。

湖だからと甘くみていた私は、

オールを上げ、そうした状況も気にせず、

iPhoneを取り出して、

水面から撮る富士山の景色はいいなぁと、

夢中になっていた。

そして、いま船がどのあたりにいるのかさえ、

確かめるのを忘れていた。

 

と、船体がドンと何かにぶつかり、

その衝撃で私も倒れてしまった。

幸い、カナディアンスタイルのカヌーだったので、

船幅も広く、水面に放り出されずに済んだが、

我に返った私は、

何が起きたのか全く把握できなかった。

 

起き上がって船のまわりをみると、

水面から突き出た木の枝のようなものが、

あたりにびっしりと顔を出している。

座礁した船体には、強い波が幾度も押し寄せ、

船がひっくり返りそうになっていた。

船の縁につかまって水面をのぞき込むと、

濁った水中からにょきにょきと白く太い枝が、

不気味にこちらを向いて伸びている。

 

近くには誰もいない。

いや、離れたところにも、

山中湖名物の白鳥さえいないではないか。

 

山中湖は、賑やかな表の湖岸と、

人影さえまばらな裏の湖岸がある。

私は静かな方で、

ゆったりと浮かんでいようと思ったので、

それが裏目に出てしまった。

 

力任せに水中の白い枝をオールで押し、

そこを脱出しようと試みた。

次々に水中から顔を出す、無数の白い枝。

それらにオールを押し当て、

少しづつ進みはしたが、

しかし強い波によってまた押し戻され、

そんなことでかなりの体力を消耗してしまった。

 

注意深く観察すると、

私が乗っているカヌーのまわりは、

そうした水中林がかなりの範囲で広がっていた。

その真ん中あたりに私のカヌーがあったのだ。

 

強風と押し寄せる波に逆らって進めば、

岸はそれほど遠くはない。

しかし、幾ら頑張っても、

その威力には全く歯が立たなかった。

 

いい加減に力が尽きそうになり、

さっと乾いてしまう汗も尽きた頃、

一艘のボートがこちらに近づいてくるのが見えた。

エビアンのペットボトルの水もほぼなくなっていた。

 

そのボートには、地元の方とおぼしき

陽に焼けた高年のおじさんが乗っていた。

岸から湖を見ていて、

私の船をみつけてくれたらしい。

 

結局、この方にえい航してもらい、

その魔の水域を脱出することができた。

 

この方は地元の方で、

私の状況をすぐに把握したらしい。

結局おおげさにいえば私の命の恩人である。

 

岸に上がって、

開口一番「湖ほど怖いところはないんだよ」と、

この地元のおじさんが

にこにこしながらつぶやいた。

そうして、

湖にまつわるいろいろな話をしてくれた。

 

湖は、先の水温の急変や、

藻が人の足に絡みつくことのほか、

水底に引き込まれる水域とか、

よく分からない生き物が生息している噂とか、

いろいろな話をしてくれた。

 

そして、こうも話してくれた。

「湖には生き物のようなところがある」と。

 

それがどうゆうものなのか、

私もいまだ計りかねているが、

このおじさんは、不思議な人の死を、

さんざん見てきたそうである。

 

例えば、夜の湖畔で、

複数の人がいきなり湖に飛び込み、

そのままいなくなってしまったという話。

この人たちはそれ以前からよく来ていた方たちらしく、

湖に入ることなどまずしない慎重な方たちだった、と。

いま思い返してもつじつまが合わないと、

おじさんがしみじみと話す。

 

ふーむ、

では、湖に意思があるのだとしたら、

それはアニミズムのようなものの進化したものなのか。

超自然的な生命体のようなものなのか。

そして、万物の意思がネガティブに動くとき、

人はだいたい良くないことをしでかしているとか。

 

まあ、幾ら考えても結論は出ないのだが、

またひとつ、私の知らない不思議が増えた。

 

さて今年はまた、

あの怖いほどに魅力的な湖に出かけようか…

と思っている。

 

そう思ってしまうのも、あの湖が放つあやしさなのだろうか。

 

 

おやつの問題

 

最近は、昼メシにみんなは何をくってるか、

興味あるらしい。

よってそんな番組が複数あって、

ちょっと観たけど、すぐ飽きてしまった。

まあ、だいたい想定内のものを食している。

果物だけとか、ケーキのみ食いまくってる人って、

いないのか?

虫を食っている人とか。

だと面白いんだけど。

いや、問題はおやつなのだ。

私の場合は間食と呼んでもいいだろう。

昼メシと夕メシの間って結構長い。

腹が減るんだよね。

あるとき、ポケットのお金がみるみる減るので、

おやつをやめたことがあるが、

結果、身も心もヘラヘラになってしまい、

目の前が暗くなったことがある。

(ホントに暗くなるんだって)

で、おやつ続行と相成った。

原因はどうも血糖値の低下にあるらしい。

ちょっと病的ではあるな。

これって、現代人に多いらしいのだ。

知っている医者に聞いたことがあるが、

高血糖の症状はよく問題になるけれど、

低血糖の問題はあまり扱われないとか。

飽食の時代の飽食の国の問題なのである。

どちらもインシュリンが関係している。

それをコントロールするのは膵臓だが、

現代人はここがかなりやられている、

ということもその医者から聞いた。

話を続けよう。

あるときから炭水化物だけでも減らそうと、

セブンイレブンとかファミマのチキンばっかり

摂取していたことがあった。

が、これは連日同じものばかりを食い過ぎたのだろう、

或る日吐き気がきたのですっぱりやめた。

次に米に照準を合わせた。

で、鮭のおにぎりばかりを食ってたこともある。

この場合、コーヒーが合わないので、

「おーい、お茶」とかを飲んでいた。

これはまあまあだったが、

しかし、なんでか飽きてしまう。

在宅時は、冷凍のたこ焼きとかチヂミとかを、

ずっと食い続けた。

で、案の定飽きてしまい、いまはパスしている。

次回は生協の肉まんにすることにした。

(きっとすぐ飽きるけどね)

また、街のパン屋で惣菜パンばかり

食していたこともある。

が、指から流れる油がすげえんで、

これもやめることにした。

惣菜パンって、以外に油過多。

おいしいんだけどね。

喫茶店で「今日のブレンド」なんかをいただきながら

いろいろなサンドも試したが、

これも、かなり飽きがくるのが早かった。

ハンバーガー類もいろいろと試したが、

いまはチーズバーガー以外はあまり見たくもない。

とまあ、要するにあれこれと食ってるうち、

どいつもこいつも飽きてしまったのだ。

この場合、個人的に飽きっぽいというのが

明快な理由なのか否か、そこが分からないのだ。

いろいろと振り返って気づいたのだが、

おやつは圧倒的にパン系が多かった。

パンはうまいものはうまいのだが、

油が過多。

で、パンでもまずいのは、ホントにまずいよ!

そして、よーく分かったのは、

パンはすぐ飽きる、ということ。

どうしてだろうよと、己に尋ねるも、

原因は不明なのだ。

で、米系でもコンビニのおにぎりって、

なんでか飽きるんだよね。

先のチキンにしてもやたらに柔らかくて、

変にジューシーさが過ぎる。

あやしいとさえ感じる。

そこで思い出したのが、

ガキの頃のおやつだった。

味噌のみ付けたおにぎりとか

塩だけのおにぎりくらいだった。

夏休みなんかは、

まるごとトマトに塩をふってかぶりつくとか、

ゆでたトウモロコシに水で冷やしたスイカとか。

こういうのって全然飽きなかった。

そして格別にうまかった。

飲み物は、煮出した麦茶。

あとは砂糖水。

貧乏くさいといえばそのような気もするが、

その質素さが、いま思えば、

とても贅沢だったような気がする。

食材はすべてメイド・イン・ジャパンだったろうし、

地産地消が当たり前。

砂糖水もサトウキビから採ったものだったろうし、

塩だって天然物しかなかった。

要は食材。

そういうことだったのだろうか?

いやいや、己が毎朝いただく朝メシは、

なんたってうまい。

なおかつ飽きない。

一応、食材には気を使ってはいるが、

それが理由なのか。

手づくりだからか。

しかし、家の内外を問わず、

うまくて飽きない食いものというのは、

確実にあるにはある訳で、

そこにどんな秘密が隠されているのか、

それが解明できれば、

俺の問題はきれいに解決するのだがね。

 

 

「眠い」の真相

この前、我が人生ではじめて

歯医者で治療中に居眠りをしてしまった。床屋でも寝てしまったのだ。

歯医者では、自分のいびきではっとする。

歯科衛生士さん、気がついたかな?

床屋ではマスターの「疲れてるね」のことばで起きる。

おかしいな?

元々、私は歯医者とか床屋が大嫌いで、

小さいときから緊張する場所であったハズなのに。

私たちの小さい頃の歯医者さんは、

元軍医が多かったし、

とても威張っていたので、

どんなに痛くても泣いてはいけない。

泣けば、そう、怒鳴るんだよねぇ。

または、顔を押さえつけて、治療続行。

機嫌が悪いと「帰れ!」といって患者を追い返す。

これっ、ホントだよ。

床屋も、かなり緊張する場で、

特に、仕上げに前髪を一直線に揃えるという、

その頃流行っていたのかどうかよく分からないが、

そういう髪型であって、

とにかく一瞬たりとも動いてはいけない。

じっとしていないと、

その一直線切りが上手くいかなくなり、

床屋の親父が舌打ちなんかして怒ってしまい、

もうそこで終了なんていうこともあった訳で、

いま振り返ると、ヒドい時代であったのだ。

で、いまはどこも優しいですね。

みんなにこにこしてくれる。

ソフトな時代になったものです。

それが成熟した文化というものなのか、

民度が高いというのか、

私にはよく分からないが。

とにかく己の場合、

小さい頃から何十年も続いたトラウマが、

じじいになってようやく解消された。

リラックスするにもほどがあると自戒するも、

ゆっくり呼吸して宙をなんとはなしに眺めていると、

やはりすっーと眠くなってしまうのだ。

ちょうど、催眠術にかかったように眠くなるのだ。

(私、退行催眠の経験アリ)

うーん、トラウマが解消された、

あるいは疲れがたまっていたからとか、

いろいろ理屈はつけられるのだが、

どうも釈然としない。

そこで、同世代の仲間幾人かに、

この話を振ってみた。

で、私は驚くべき事実を掴んだ。

彼らは一様に「あるある!」と誰も否定することなく、

回答する。

「そんなもんだよ」と、

いともあっさりと肯定する訳なのである。

ほほう、誰も気にしていないところが、

更に凄いところだと私は思ったね。

さて、この所構わず眠い眠いが、

果たしてじじい特有の症状なのか、

見知らぬ病の知らせなのかと、

私は気を揉むのだが、

そんな情報はいまのところ皆無である。

うーん、謎は深まるばかりだ。

 

15年ぶりにアルコールをなめる

先日、友人と自由が丘で待ち合わせ、

うろうろするうち、

金田という飲み屋へ入る。

久しぶりに、

チェーン店の居酒屋でないところへ入った。

まだ夕方の5時ということで、

店内は人もまばら。

出迎えの女将に笑顔はない。

むしろ怒っているようにもみえるし

キリッとした表情ともいえる。

カウンター席のみでコの字が二つ。

隅っこに座ると、

奥の板場から数人が、

じろっとこちらをみる。

やはり、ぜんぜん笑顔なし。

つまらない笑顔なんて不要

という店なのであった。

ノンアルコールビールをくださいといったら、

女将の目がつり上がったのが分かった。

「ウチにはそういうものはありません」

友人は生ビールを頼んで、

俺の顔をにやにやしてみている。

(コイツ、知っていたのか?)

女将がどうします、いやどうするんだよ、

というつり目をするので、

ビールの小瓶を頼む。

ちょっと参ったなと思った。

なんせここんとこアルコールなんて

全然口にしてないし。

とにかく、酒をやめて15年くらい経つ。

女将と目が合うと、我々の後ろを指さすので、

ウムっと振り返ると、そこに金田酒学校の

立派な一枚板が飾られている。

おおっ、立派な墨文字。

女将が何が言いたいのかは即座に分かった。

酒をたしなむこの店のマナー、

学校の他にも、

ここの掟のようなものが書かれているハズだ。

実際、後で確かめると

そんなもんは書かれてなかったが、

とにかく、酒の学校だったんである。

学校に飲みに入った以上、校則は絶対だしね。

という訳で、15年ぶりのアルコールである。

ついでにタコぽんとか若鶏の焼き鳥、

菜の花のおひたし、しめ鯖、しんじょう揚げといった

酒飲みにはたまらない肴も久~しぶりにいただく。

(これがうまいんだなぁ)

さて、アルコールをやめたのは、

確か15年くらい前だった。

最初は医者の忠告だったように思う。

肝臓値、コレステロール、中性脂肪が

軒並み悪い数値だった。

が、あまり気にもせず、

アルコールを少し減らす程度でごまかしていた。

断酒は意外なことがきっかけとなった。

いつものようにビールを飲んでいたら、

やたら鼻が詰まって息苦しい。

そんな日が続くようになった。

日本酒でもワインでも焼酎でも、

とにかくアルコール類を摂取すると鼻が詰まる。

息苦しい、酒がうまくない。

薬屋にも医者にも行ったが明確な回答が出ない。

いろいろな薬なんかを飲んではみたが、

どれも全く効果がない。

次第に飲む日が減った。

なんだか面白くない日が続いた。

だって息が……ですよ。

そうこうするうち、

習慣づいていた飲酒もやめてしまったのだ。

私はついに、

酒と相性の悪い人間になってしまったのだ。

以来、今日まで飲んでないし、

飲みたいとも思わない、で甘い物が好きな、

とてもつまらないおじさんになってしまったのだ。

思うに、私の場合の飲酒は

犬の条件反射と同じで、

食い物をみるとよだれが出る犬のように、

夕方になるとアルコールを摂取していた訳だ。

その際の条件キーワードは「夕方」であった。

で、話を自由が丘の金田に戻すと、

前述した理由から

15年ぶりにアルコールを摂取することとなったが、

結果はなんというか、

身体中を血液が巡るというか騒ぐというか、

妙に身体が暑くなるという、

身体の懐かしい変化が呼び起こされた。

結果、アルコールってなかなか「うまい!」

なのであった。

気分も絶好調。

そして、鼻が詰まらないことも確認したのだ。

さて、では晴れて飲むぞ、

で、もう一度、自由が丘の金田に行って、

酒通になるぞとも一瞬思ったのだが、

あれから数日経ったいまでも、

アルコール類は一切摂ってはいないし、

あのサケも肴もうまい金田にも、

もう行かないだろうなと思っている自分がいる。

特に我慢も無理もしていないのに

なぜだろうと考えるに、

私には現在、チョコを摂取する習慣があることを思い出した。

疲れた日の夕方に摂取するチョコは、

とにかく格別にうまいのだ。

このの心境をたとえていうと、

むかーし別れたおんなの人と再会したが、

もうその頃のようには戻れない。

そんな感じなのである。

ああ、人はどんどん変わってゆくのだ。

好みも変化するし、

習慣も進化してゆくものなのだ!

しかーし、それにしても

久しぶりのビールはうまかったなぁ。

やはりこの先、

どうなるか分からないんである。

100均絵画

中年にさしかかる頃から絵が好きになった。

あちこちの美術館に行くようになった。

それまで、仕事上でイラストとかカット、写真など

いろいろ扱っていたけど、

絵画に目覚めるとは思わなかった。

きっかけは、おそらくだが、

横須賀美術館にニューヨークアート展をやると聞いて、

暇つぶしで観に行ったことだろうと思う。

リキテンスタイン、アンディ・ウォーホルらの絵が

ずらっと飾ってある。

一枚一枚を間近で観て、心を動かされた。

いずれ広告のポスター的でもあり、

どちらかというと古典的な絵画でないので、

まあ、私的には入り口としてフィットしていた。

それから、各地へでかけ、

ピカソとかレンブラントとかダリとか、

いろいろ観て歩いて、本格的にはまった訳。

とりわけ印象派が好きで、

モネ、カサットなどがいい。

ルノワールも相当いいですね。

光と影の描き方をずっと観てて飽きない。

現在では、デュフィとシャガールが気に入ってて、

たまに、すげぇとつぶやいてしまう。

ある日、私も描きたいと思い、

新宿の世界堂をうろうろしてみたが、

いや、画材って相当高価なんである。

町田に戻って今度は東急ハンズを見て回ったが、

そうそうそういえば、

「おまえ、ほんとに絵やるの?

描くの? 描けるの?」

と問いかける己がいる。

確かにその通りなんだよ、

と自らの問いに納得。

そんなとき、ふと頭に浮かんだのが100円ショップ。

東急ハンズを後にして、

それからは、ダイソーとかセリアとかキャンドゥを

ふらつく日々が始まる。

100円の絵筆、パレット、絵の具、画用紙……

100円なのでどんどん買った。

お金持ちみたいにね 笑

で、くちゃくちゃと描き始めた。

気に入らないと、どんどん捨てる。

破く。

赤貧ではないので、

駄目なスケッチなんぞは

豪快に捨てれる。

とっても愉快。

でもほんとは真剣に、

何回も何回も描いてみたんだ。

しかし線の一本一本が気になったり、

絵の具の色が思うように混ざらなかったり、

発色しなかったり……

結局、全然うまくなんか描けない。

鑑賞しているほうが相当楽だと思い知る。

そこで近くのデパートなんかのアマチュア絵画展などを

観にいくも、生意気にあれこれと批評している己がいる。

では、もう一度描いてみようと、

いまだ続いているが、

上手くなろうと誰かに習うという選択肢は

いまさらない。

上手くなどと思わない。

きみはどう描く?

そう問い掛けて描いている訳。

早い話が自己満足。

今日も超自己流で、飛ばして描いているし。

しかし、絵を描くって結構楽しい。

この格安な趣味を誰かと共有したいね。

という訳で、

あなたもさっそく始めてみてください!

絵1

オリジナル睡眠法

長く寝ると、だいたい調子が悪い。

時間にして、6時間を超えるとイケナイ。

最近では、本やテレビで睡眠負債などと命名され、

吹聴されている。

―――

僅かな睡眠不足が積み重なり「債務超過」の状態に陥ると、

生活や仕事の質が低下するだけでなく、

うつ病、がん、認知症などの疾病に繋がるおそれがあるとされる。

日本人のおよそ4割は睡眠時間が6時間未満で、睡眠不足の状態にある。

―――

(ウィキペディアより)

これ、私には脅かしともとれる訳で、かといって

毎日6時間以上も寝ていると、ホントに不調なのだ。

だいたいが長く寝た日ほど、身体のどこかが不調なことが多い、

だから長く寝る、というのが私の身体の事情のようだ。

ロングスリーパーとかショートスリーパーとか、

睡眠はその人の個性のように様々という考え方は、

どこへ行ってしまったのだろう。

私はこっちの考え方に賛成!

手首には毎日の睡眠時間及びその質が計測される

ウェラブルを付けているので、

一応、毎朝チェックをするが、

ベスト睡眠時間は、だいたい5.5時間あたり。

睡眠品質は、私の場合は5段階で4つ星がベスト。

5つ星だと寝起きがとても悪い。

あとは昼寝の有無となるが、

これはその日の成り行き次第だが、

時間があれば数分~15分位は寝るようにしている。

一時期、ヒマ~なときに2時間の昼寝をしたことがあるが、

起きた後は全く使いものにならなかった。

テレビでは健康番組が花盛りだし、

かといってあんなもんを毎日観ていたら

頭がこんがらがって健康矛盾に陥ってしまう。

しまいには知識の詰め込み過ぎで、

妙な病気になってまうような気がする。

真面目な人ほど真剣になってしまうので、

できれば斜に構えてさっと観て

さっさとチャンネルを回してしまおうではないか。

そしてそれらバラバラの、

一種適当な健康知識を自分なりに編集して、

マイ健康法を仕上げてしまう、

なんていうのはどうだろう。

一応、それでもその人なりのオリジナルにはなるし、

そんなんでいいのではないかなぁ。

だって万人に通用する完璧な健康法など、

私はこの世に存在するとは思っていない。

健康法だけでなく、

ビジネスも人付き合いも、

いや、生き方さえも、

その人なりが考えたオリジナルでいいんじゃないかと。

凄く稼ぐ人がいるからといって、

そんな人のまねをしたところで、

そのまま上手くいくとは限らないのは、

数多くの成功本が即捨てられるのをみれば分かる。

人間関係も然りと思う。

要は、まず自分なりに考えねばならない。

悩むとは、必要善である。

いろいろな情報を取捨選択するためには、

頭を使うべきだし、

それらの情報を元に、

自分に合ったものに編集するには、

かなりの苦労を要する。

こうして作り上げたものは、まず身につく。

愛着もうまれる。

そしてなにより揺らがない。

この程度のオリジナルだって、

模倣ではないし、

独りよがりともまた違う。

それは、この現代に於いて貴重な示唆ともなりうるし、

人とはちょっと違う人生観も育つと思うのだが。

青の魅惑

ここ数年、青い色に凝っている。

ブルーのTシャツ、ブルージーンズ、青いセーター、

青い絵、青い手帳…

気がつけば青いものばかりに手を出している。

この冬は娘に青いマフラーを買ってもらったっけ。

これはうれしかった。

蒼い時_

そういえば山口百恵の「蒼い時」って本がありまして、

えらく売れたけど、私は買わなかったな。

当時は20代で出版社に在籍していたけど、

ぜんぜん分析しようとも思わなかった。

青とか蒼に、全く興味がなかったからか、

百恵ちゃんに惹かれなかったからか、

そこは良く分からないが。

青っていろんなたとえにも使われている。

青くさい、といえば子供っぽいの意。

理由は不明だが、きっと植物とか稲とかの

初々しい色からきているような気がする。

(昔もいまも緑色を青と呼ぶことがあります)

先の百恵ちゃんの蒼い…は、

やはり思春期とかをイメージさせるのだろう。

思い出せば、この人の歌う歌詞って結構きわどい。

♫あなたが望むなら

私何をされてもいいわ

いけない娘だと

噂されてもいい♫

↑のタイトルが「青い果実」

やはり青だね!

さて、青い色といってもその数は限りなくある訳で、

海の青、空の青だけでも、

場所や季節や天候や時間帯によって、

それこそ無数の青がある。

青空

そして藍(あい)染めの藍、群青(ぐんじょう)といえば、

日本独自の青となる。

群青色

藍染め

西洋の青なら、ラピスラズリやコバルトブルーだろうか。

コバルトブルーは、美しい海を表現する比喩として

よく用いられる美しい色。

ラピスラズリはウルトラマリンとも呼ばれ、

その神秘的な深みが特徴だ。  

ラピスラズリは石だが、産地は昔のペルシャあたり。

それをヨーロッパに運んでいたらしい。

これを日本流に瑠璃色と呼ぶ。

謎を秘めた色、とでも言おうか。

その神秘的な色が、

近代絵画の描き手を惹きつけた。

北斎

広重

日本では葛飾北斎、歌川広重だし、

ヨーロッパだとシャガールやゴッホ、

フェルメール、イヴクラインの作品が有名だ。

ゴッホ

私的にはシャガールとデュフィの青が、

たまらなくいい。

シャガールは夢を青で描く。

シャガール

デュッフィは風景を個性的な青で強調する。

デュフィ

いずれ忘れがたく、記憶に残る。

皆、ラピスラズリの青を求めて、

当時、大金をはたいたというから、

ラピスラズリがいかに芸術家の目をも奪う魅力があったか、

その証左といえるだろう。

いまは、ラピスラズリなら私でも買える。

実際、ブレスを2本ほど所有している。

ラピスラズリの青い色が好きなのはもちろん、

この石が魔除けの石だということ。

ラピス

かなり胡散臭い、とお思いだろうが、

私は出かけるときは必ずラピスラズリを手首に着ける。

それが嘘だろうが非科学的だろうが、

私は一応信じて疑わないのだ。

なぜなら、ラピスラズリが青だから…

いや、ちょっと根拠に乏しいな。

では

━ラピスラズリをじっと見ていたら

その深いミステリアスな魔力に

取り憑かれてしまったから━

こんなんで、どうだろう?

昭和39年(東京オリンピックの頃)

ウチの父が頼んだのだろう。

不動産屋の車に乗せられて新横浜まで来た。

10台以上のブルドーザーが出来たての駅のまわりを、

急いで必死に整地している。

幼い僕にはそうみえた。

「いまなら何処でも買えますよ」

父は黙ったまま、広大な土地を見てふーっとため息をついてから

「次のところを見せてくれないか」と頼んだ。

漠然としていたので、父には全く現実感がなかったのだろう。

父と母は、横浜の中心地を離れて少し引っ込んだところへ、

家を建てる計画だった。

実際に引っ越したのは、それから数年後だった。

この頃、東京オリンピックを控えて、

日本中がとても騒がしかったように思う。

躁状態だったのだ。

後に振り返って気づいた、当時の空気だ。

横浜駅には東口と西口があって、それらを繋ぐ暗い地下道には、

戦争で傷を負った元軍人がそこを住みかとして、

ずらっとおのおの座ったり横になったりしていた。

腕のない元軍人、両足がなくむしろに横たわっている元軍人。

彼らはアコーディオンを奏でながら物乞いをしていた。

そこを歩くとき、なんとも言えない憂鬱な気分にさせられた。

僕は、以前、日本が戦争で負けたことだけは知っていたが、

眼の前にその戦争で傷ついた生身の人間がいることが、

とても怖かった。

その怖さの正体が何であったのかは、いまでもよく分からない。

ただ、僕は心のどこかですいませんというようなニュアンスの心持があったことも

確かだった。

横浜駅の海側に出るとちょうど鶴見から川崎あたりが見渡せて、

煙突から黒や黄色や灰色の煙がもくもくと出ていた。

岸壁はゴミと洗剤の泡のようなものであふれかえり、

そのなかにネズミや犬の死体がぷかぷかと浮かんでいることもあった。

スモッグとか大気汚染という言葉がひんぱんに言われだしたのも、

この頃からだと思う。

だから今になって、アジアのどこかの国の大気汚染を、

実は僕たちは笑ってばかりいられない。

東京・横浜に連なる京浜工業地帯はかつて、

晴れた日でも空は青空ではなく、

薄くぼんやりとしていたのだから。

年末になると、僕は3.4人の友達と連れだって、

この街の商店街に繰り出していた。

きらきらとしたクリスマスの装飾が灯りに照らされ、

通りは人でごった返している。

ジングルベルの音楽は大音響で、いつまでも止むこともなく、

通りの人混みのなかに響き渡っていた。

福引きのガラガラの音が絶え間なく聞こえる。

そこに長蛇の列がいくつもできる。

誰もが大きな買い物袋を抱えていた。

商店街は夜になると屋台がずらっと並ぶ。

大人たちが酔っぱらって大声で叫んだりしていた。

男と女が抱き合っている影もみえる。

僕はそうしたものを見るたび、

心臓がどきどきして走って家に帰った。

玄関の擦り硝子の向こうに

赤と緑のライトが点滅している。

嫌なことが沢山ある家だけど、

母がつくる質素な夕飯とバタークリームのケーキが

とりあえず食べられる。

僕はこの街で生まれて、

まだ数えるほどしか遠方に出かけたことがなかったので、

世の中はあらかたどこもそんな風であり、

親子とか家庭というものも

だいたいどこも変わらないものだと思っていた。

そして東海道新幹線が開業し、

ウチの近くの国道を、オリンピックの聖火ランナーが走り抜け、

女子バレーボールで日紡貝塚が優勝し、金メダルを獲った。

エチオピアのアベベ選手が東京の街を疾走し、

テレビでみんなを驚かせた。

時代が、世の中が目まぐるしく、

みるみると変わっていったのだ。

横浜の郊外の小学校に転校した僕は、

新しい生活に馴染めず、

原因不明の熱と頭痛に悩まされた。

また、憧れのマイホームに移り住んだのに、

父と母の距離がどんどん離れていくのが、

幼かった僕にもハッキリと分かってしまった。

テレビでビートルズが来日したことを、

どこのテレビも興奮して中継していた。

加山雄三の「君といつまでも」がヒットしていた。

しあわせだなぁってはにかみながら

加山雄三が鼻に手をもっていって、

それをテレビで観た僕は、

それほどはっきり分かるしあわせってあるのかと、

ちょっと驚いた。

中学に進学していた僕は、

ようやく妙な発熱や頭痛も出なくなり、

水泳部に入部し、ギターを手に入れ、

そして何人かの女子を意識し始めた。

フォークソングも流行り出していた。

グループサウンズが隆盛を極めて、

どのグループもヒット曲を連発していた。

僕は好きなグループのレコードを、

なんとか小遣いから捻出して集めた。

そして中学3年のときには大阪万博が盛大に開催され、

日本は本格的に経済大国への道を突き進んだのだ。

2017年の今年の夏、

約50年ぶりに、僕は生まれた街の駅を降りた。

従兄弟(いとこ)に会いにいくためだ。

あの頃のにぎやかだった商店街はどこも閑散として、

なかにはさび付いた屋根やシャッターが崩れ落ちそうなほど、

老朽化している店もあった。

80才をとうに越した従兄弟はペースメーカーを付け、

それでも昔と変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。

そして、やはりというべきか、

東京オリンピックの頃の話ばかりしていた。

その帰りにちょっと遠回りをして、

自分の生まれた跡地とでも言える所に立ち寄ったが、

当たり前のように全く別の家が建っていて、

しかしその真向かいと斜向かいの家には、

昔と変わらない表札が出ていた。

そしてその数軒先にいまも暮らしている

僕の幼なじみに会いたいと思ったのだが、

従兄弟の話によると、

彼はずっと独身で親の大工の仕事を引き継ぎ、

いまは酷いアル中とかで会わないほうがいいと、

忠告された。

あれからなんと50余年が過ぎてしまったのだ。

僕の時間が止まってしまっているこの街で、

僕は幼いころの自分に戻ってしまっていた。

もうすぐ、またあのオリンピックがやってくる。

あの頃、流行したものや音楽、ドラマなどが、

テレビなどで頻繁に放送されている。

それが懐かしいことに違いないのだが、

果たして楽しい記憶であるのか、

悲しいときであったのか、

それが判然としない。

ただ、水に溶いた墨のように、

どんよりとして見えるあの街の風景ばかりが、

しばし浮かんでは、消えてゆくのだ。