2017 お盆どきの話

その1

現地到着が遅かったと後悔。

陽は既に沈んでいるが、まだ空は明るい。

山中湖畔から別荘地帯へ。

車で奥へ奥へと上ってみると、

ちょっと異様かつうっそうとした森に出くわす。

薄暮ではあるが、先が暗くて全くみえない

(この空気、普通じゃないなぁ)

そのまま進んだら、ひょっとして異次元に入り込んでしまうんじゃないだろうか。

躰がスッと冷えたのが分かった。

こういうところって、各地に確かにあるんだよなぁ。

その2

今日の織田裕二にインタビュー

今回の大会はいかがでした?

 「とにかくオレ、

はしゃぎませんでしたよ、ねっ」

まだ興奮は続いているようですが?

 「まだ寝てませしぇーん、イェーイ!」

そういえば腰、大丈夫ですか?

 「もうね、ダメ。オダねぇ、もう年なんだよ」

とんでもない織田さん、相変わらずエネルギッシュですよ!

「だってね、記録は現場ででるものなのね、現場!

テレビ局ではないんだ!」

記録は現場で生まれている?

「そう、次回もオレ、やるから!」

ありがとうございました。

その3

少し、出っ張ったお腹を凹まさなきゃと、

目の前にある饅頭を食うか食うまいか、

じっと眺めながら思案する。

が気がつくと、

日本上空を飛ぶかも知れないミサイルを打ち落とすか否かという問題に

すり替わっていて、

それは集団的自衛権の範囲内なのか、

いや打ち落とすのは集団的自衛権の拡大解釈となるのか、そこが難しいところではあるな、

という問題を思案していた。

最近、もう少し腰を据えて物事を考えた方が良いと、

自らの腹を叩く。

その4

なじみの床屋へ行き、

座りざま、マスターにとにかくかっこいいヘアスタイルにしてくれと、

そのままウトウトして座っていると、

そんなボクを退屈と思ったのか、

「うちの奴が変な写真撮っちゃってさ。見る?」

「うんいいよ、見ようよ、どれ?」

少し背を起こす。

スマホをいじりながらマスターが突き出した写真は、

浜辺の神輿祭りの写真だった。

見物人がかなりの人数映っていて、

そのなかの一人の男の人の首から上が映っていない。

他の画像になんら異常がない。

いろいろあって、その日の夜に蕁麻疹が出た。

風になびく人々

いま、国会議員の不倫が騒がれていて、

まあみんな同じ人間だから

政治家といえどもたいして変わらないや、

という私の安直な感想などもってのほからしく、

世間は、絶対に彼らを許さないのであった。

昨日まで全く知らなかった政治家でも、

テレビを観て初めてその人間を認識すると、

途端、絶対に許さないのであった。

にしても、遡上に上がった人たちの政治手腕というものは、

この際一切語られないし、

ネガティブな報道一辺倒。

あたり前といえばそのように思う。

実際、たいした実績もなければ、

風当たりはすさまじく激しくなるのである。

とにかく 徹底的に叩かれる。

イマドキ、政治家だけではないですよ、

有名人だけではないですよ、

いずれは私たち市井の人間も、

キッチリと品行方正でなくてはならない、

というような風潮にすり替わるから、

今後一層世の中は厳格になります。

イマドキの風潮ってそんな感じ。

まあ、先の政治家の件は、

そもそもそんなところでつまずく事自体甘いけれど、

わざわざテレビで大々的にやるって、

なんだか時間の無駄でもあるように思うんだけど、

或る方たちにとっては放ってはおけない事柄らしいのだ。

これに繋がって、

連想ゲームのようにアタマに浮かんだのが、

イマドキの潔癖症ブームなんである。

社会の底流に流れているのは、

きっと同様のメンタルなんじゃないか。

風呂もテーブルもマナ板もですね、

菌が少しでもいたら不潔。

イケマセン。

こうした許しませんよ的潔癖さについてですが、

実際はゼロ無菌などちょっと無理だと思うんですよ。

しかしテレビコマーシャルなんかを観ていると、

清潔、真っ白、ピカピカ、除菌99.○○%とかね。

こんなのばっかり。

こうした啓蒙(?)って、いわば企業の経済活動の一環だから、

そのうち知らぬ間に、私たちの生活習慣として

定着するようになる。

で、環境が整うとこうした製品って売れるんですねぇ。

こっちの勝手な理屈を言わせてもらえば、

こうしたケミカル商品ってなんかあやしい。

成分的にもホント大丈夫なのかとほぼ疑っている。

さらに、こっちとしては無菌活動反対で、

ほどほどの菌たちとは常日頃から共存したほうが良いと

考えるので、意見相反ですな。

これはある本の記事で知ったのだが、

インドに行く観光客で、最初に体調を崩すのは、

まず日本人であるらしい。

それも腹痛、下痢が多いそうである。

原因は、明白ですね。

話を先の政治家の件に戻すが、

事の中身は完全にワイドショーネタである。

だから、しょがないといえばそのような気もする。

みんなで袋叩きにされて、

この人たちは、もう終わりである。

とにかく、事はテレビ局の意向に沿って

動いてゆくのである。

いや、民意を忖度(そんたく)して動くと言ったほうが、

正確か。

とにかく、事の本質に辿り着くことはまずない。

そんな事は誰も望んでいないかのようだ。

こんなくだらないブログを読んでいる間にも

蛇足論争、横道報道のおかげで

時間の超無駄遣いは続いているわけで、

それがわたしたちにとってどうゆう時間なのか、

それを考えるのが、

実は知性というものなのかも知れませんね。

国の重要な政策・案件など、数々の報道も、

池上さんがなんでも説明してくれるとは限らないし。

俯瞰してまわりを見渡せば、

外交、経済、福祉等々、

どれも待ったなしの時代が来ている。

いつか身に降りかかる問題である。

というわけで、もっとしっかりしてくれよ、

政治家、マスコミ、メディアと言いたいが、

実は私たちがその元凶なのかも知れない…

そう考えると腑に落ちることが幾つもあるから、

本当に怖いのである。

六本木ケバブ

●友人の画廊バーを探す

南北線六本木一丁目を降りると、

さてそこがどこかよく分からない。

南北線ははじめてだ。

なので、地下にいる時点で現在地が分からないのは

織り込み済みなのだが、やはり不安だ。

地下から這い上がるように

エレベーターをグングンあがる。

と、どうも全く知らない真新しいビルの中にいるらしい。

(どこだ、ここは?)

地上に出ると、車の喧噪が飛び込んでくる。

真新しい巨大ビルが林立している。

しばらくあたりをキョロキョロし、

改めてビルを見上げていると首が痛くなった。

なんとなく場所の検討をつける。

もうあたりは暗い。

ビルの窓からこぼれる明かりがきれいだ。

帰りのビジネスマンが足早に通り過ぎてゆく。

みんな身なりがきちっとしているなぁ。

男も女も若くてかっこいいのばかり。

どうもIT系企業とかが多いような気がすると、

勝手に解釈する。

場違いな居心地の悪さが加速する。

昔の記憶を頼りに、

飯倉方面と思われる方向に歩き出す。

自信はないが、飯倉は溜池方向から歩いて

坂のてっぺんだったしな。

坂道をテクテク歩いていると、

見覚えのある古い町並みの一角を、

道路の向こう側に発見。

あの路地の先に曲がり角があって、

どうもその先にあるマンションだろうと推測する。

ポルシェだのベンツだのアウディだの高級車が

普通に走っている不思議。

なんだか凄いぞ、ニッポン!

いや、TOKIOか。

と同時に運転している奴らの顔が

皆あやしく見えてくる。

………

まあいいかといい加減に邪推をやめ、

横断歩道をとぼとぼと渡る。

路地の一角にコンビニがあったので、

そこでアイスコーヒーを買い再びてくてくと歩き出す。

細い路地の角に

○○坂の木の目印があったのでひと安心、

スッと胸を撫で下ろす。

このあたりはだいたい坂に名前が付いているので、

地番より分かりやすい。

古い友人がマスターをやっている画廊バーは、

この角を過ぎたすぐ横のマンションの半地下にあった。

敷地に黄色い花が旺盛に咲いていたので、

それが目印だった。

「黄色い花が目印だぜ!」

友人の渋い声が頭の中で響く。

なんだか不似合な感じがした。

●ノンアルコールでもリラックス

階段を下り重厚なドアをあけると

古い友人はカウンターの向こうで、

満面の笑みを見せてくれた。

相変わらずやさしく味のある顔をしている。

スキンヘッドと白いヒゲが奴のトレードマーク。

かつて同じ会社で、コピーライターとして机を並べていた。

そういえばこの友人は、

書くコピーもなかなかあったかいものが多かった。

やはり文って人柄なんだと、ふと思う。

ドリンクそしてとりあえずピーナッツをかじりながら、

昔話に花が咲く。

もう酒はのまないので、

久しぶりのカウンター席がどうも馴染まないけれど、

しばらく座って話に高じていると

カウンターの居心地もまんざらでもない。

これも奴のパーソナリティーの力なのか。

ソフトドリンクでかなりリラックスできるのだから。

お互いの近況を報告し合い、

なぜか同時に最近の仕事の依頼は面白くないな、

そして安いなぁとの意見で一致をみる。

さらに話は広告から映る社会論に発展し、

この世知辛い世の中で

果たしてコピーやデザインやアートはどこへ行くのか?

まあ、結論はほぼ同意見だったのが面白い。

ところでお互いが最後に会ったのは、

いつだったっけと二人して首をひねる。

記憶を辿ると、30代の半ばだった。

それが中目黒の寿司屋その日はどしゃ降り説と、

奴がオートバイ事故を起こして私がお見舞いに行った説と、

ふたつ出たが、もうお互いにどうでもよくなってしまって、

笑うしかない。

私は彼の結婚披露宴が、

恵比寿のディスコだったのを思い出した。

山梨出身のこの松山千春似は、昔から派手。

で、いまもって派手だ。

そして根は相変わらずまじめでやさしい。

●業界人の隠れ家か

先にボックス席で飲んでいたカメラマン氏二人を紹介され、

次に美人だけれどひと目見て不機嫌そうな女性を

友人が私に紹介しようとするも、

この美人は最後までニコリともしないで、

完全無視を貫いてくれた。

(挨拶って最低限のマナーだぜ、というか友人に失礼だろう)

友人も苦笑いで首を振る。

まあどうでもいい。

聞けば、この美人さんは某大手出版社の、

とある月刊誌の編集長らしい。

あの突っ張り具合に、

昔からの知り合いの女性たち数名を思い浮かべる。

分かりますよ、この世界の女性諸氏、

そうやってみんな頑張ってきた訳ですから…

●六本木名物って何?

2時間ほどで店を後にする。

次回、会うのは錦糸町。

訳あって錦糸町とあいなった。

友人がカウンターから笑顔でさけんでいる。

帰りは、ケバブを食って帰れよと。

ケバブ?

来たときとは別の道で帰ることを、

彼に話したからか?

六本木六丁目のロアビルの前に出ると、

突然、喧騒が襲ってくる。

このビルは、いまはもう古びてしまったが、

なかなか思い出深いので、記憶に留まっていた。

かつてこのビルは、

一階から上階まですべてディスコだった。

若かった私も足繁く通っていたので、よく覚えている。

通りは人も車も渋滞気味。

人波が歩道に溢れている。

ドライバーがいらいらしている。

平日の夜なのに…

ネオン看板がチカチカとあちこちで光って、

歩く傍から呼び込みが次々に声をかけてくる。

ここは昔から外人が多かったが、

現在はこの通りに限っていえば

外人のほうが多いように思える。

それも結構まともな感じがしない方々が多い。

ドンキの前で人混みがピークに達する。

友人が叫んでいたケバブの店があった。

後、客引きが割と強引だったなぁと振り返る。

イマドキの六本木の名物はケバブなのか?

こういう場所では弱気で歩いていると、

その虚を先方はすかさず突いてくる。

逃げ腰だと返って嫌な目に合う。

その合い間を縫うように、

妙にセクシーな格好をした若い女性たちが、

道行く男に媚びを売っているのを見かけた。

(実にあやしい街である)

日比谷線の六本木駅近くまで辿り着くと、

少し息が上がっている。

そしてさすが六本木、いろいろと進化しているなぁと、

イナカモンは感心する。

さて後日、ニュースでこのあたりのケバブ屋が

強引な客引きで逮捕されたと報じていた。

だろぅなぁ。

ケバブ、やはり食っておけばよかったかな?

友人も推薦のイマドキの六本木名物を。

ガパオライスを食らう

娘にタイ料理の店に連れてってもらう。

パクチーは大丈夫?と聞くので分からないとこたえる。

ニラならOKと言おうとしたけど、つまらないので

黙っていた。

テレビでパクチーを無理矢理だろうなぁ、

渋い顔して食ってる芸人を観て、

パクチーってまずいだろうと、先入観。

タイ料理初体験は、相模川の夜景をながめながらの、

ちょっと洒落た店。

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パクチーのサラダ、パクチーをまぶしたチーズ揚げ、

フォー、ガパオライス、生春巻きをオーダー。

ドリンクはココナッツジュースとライチジュース。

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娘はなんでかしょっちゅう池袋とか恵比寿で

タイメシを食っているらしい。

「そんなにうまいのか?」

「ん、私に合っているみたい」

「何が一番イケる?」

「ガパオライスかな」

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ガパオライスという料理、初耳。

名前からしてタイらしいなぁと勝手に想像するも、

全くビジュアルが浮かんでこない。

で、メニューの写真を凝視する。

「あのさ、ハワイのなんてったっけ、

ほらほら、○○ライスってあるけど、

あんな感じ?」

「お父さんのその○○ライスって、

ロコモコのこと」

「そっ、モコモコ」

「ロコモコ!」

「ロコモコね」

「うーん、一皿に盛ってあって目玉焼きがのっているところが

ちょっと似ているわね。後は全然違う。味もね」

「どうも」

「ところで、フォーってベトナム料理だよな、

食ったことある」

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「まあ、東南アジアで一括りしているんじゃないの?」

「ライチは結構どこにでもあるよな」

「つまんないな、お父さん!」

「………」

静かで広い店内には数組のお客さん。

みな常連さんらしく、迷いなく食いまくっている。

夜景が望める窓際のカウンター席では、

若い女性の二人組が、得体の知れないドリンクを飲んでいる。

気になっていたテレビ画面には、

タイのアイドルらしき若いボーカルの男の子が、

なんだか体をクネクネさせて歌っているのだが、

どうも愛を囁いているらしいのである。

テレビまわりをよく見ると、パソコンが接続してある。

YouTubeから流しているようだ。

その横の神棚のような棚に

キラキラしたものがいっぱい飾ってある。

その中央にどうも派手目のお釈迦様とおぼしき方が、

デンと置かれている。

うーん、なかなか異国だなぁ。

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しばらくキョロキョロするのも飽きた頃、

どっと料理が運ばれてきた。

めちゃくちゃに腹が減っていたので、

まずめざすガパオを食らった。

うまい!

続いてココナッツジュースで流し込み、

パクチーを口に詰め込むと、

やっと落ち着いてきた。

「お父さん、辛くない?」

「ちょっと辛い」

「パクチー食べてるね」

「うーん、食えるね」

娘も割と大食漢なので、こうなると、

そこらの一杯飯屋と変わりなく、

ひたすら食い続けることとなる。

「うっ、急いで食い過ぎた」

「私も…」

店を出て、重い体で河川敷を歩く。

「さあて、次は何を食いに行く?」

「回らない寿司屋か、骨付きのステーキ。

めちゃくちゃおいしいお店!」

「………」

もう夏だというのに、

川面を渡ってくる風が、

やけに胸元を冷やす訳である。

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東京の流儀

最近はよく神田に行くが、

その度に違う地下鉄に乗ってたどり着く。

で、私がとにかく把握できないのは、

この界隈に潜っている3つの駅の位置関係だ。

新御茶ノ水駅、小川町駅、淡路町駅。

どの駅で降りても必ず迷う。

自分の行くべき方向が

電車を降りた瞬間から分からない。

地下なので、余計に感が働かない。

私の目的場所は神田美土代町で、

いまだにどの駅が一番近いのか把握できていない。

当然、帰りも迷う。

だって地下鉄の入り口に、

駅名が3つ並んで書いてあるんですよ!

一度、iPhoneを頼りに歩いたが、

まあ馬鹿らしいのでヤメにした。

私は古い人間なので、

どうもああいうのを見ながら歩くことに

馴染めていない。

さらに、男は地図が読めないといけない。

その地を把握せねばならない。

そして感を働かせて歩く。

自らの力で目的地に近づくに連れ、

ワクワクするもんな。

iPhoneはダメだ。

ああいうのは、まず地形を覚えない。

そしてなにより街の全体像が掴めない。

偉そうに書いているが、

そうやって感を頼りに毎回迷っている。

私はよく近所の山にハイキングに行くが、

地下鉄は近所ハイキングより、結果、水を欲する。

景色が爽やかである訳もなく、爽快感もなく、

やたら喉だけが渇くのだ。

カラッカラ!

万歩計を見ると、

いつも軽く1万歩を超えてしまうから、

これはもう都会限定でチャレンジできる

サブウェイアウト・ドアと言ってしまおう。

んんん、地下鉄ってヘビー!

で、話を戻すが、

いったい、あの神田の地下鉄の3駅は、

平面図に起こすとどうなっているのだろうか?

そして立面図は?

おのおの近いような気がするが、

実は相当離れているような気もするし…

こうした疑問は、

渋谷の地下でも新宿でも大手町でも、

要は東京の至る所で、

沸々と湧き上がってしまうのだ。

これって私の性癖なのか?

地下鉄の改札口で、

独りで難しい顔をして出口を確認していると、

通り過ぎる人は皆、何の迷いもなく、

スマフォを眺めながら淀みなく流れてゆく。

すると、

どこからともなく囁きが聞こえてくるのです。

「都会の流儀に反していますよ、そこのご老体…」

雨月物語の妖しい世界

雨月物語を読んでいるうち、

妙な感覚に陥るのです。

江戸時代の後期に書かれたもので

作者は上田秋成という人です。

読むのはだいたい寝しな。

夜中です。

話のいずれもが、

生きている人とすでに死んでいる人が

違和感なく話したりたち

振る舞ったりしているのですから、

ちょっとこっちとしては困ってしまうのですが、

まあ、登場人物に生死の垣根がなく、

あるときは動物の化身が話したりと、

ある意味おおらかでいいんですね。

私の枕元のスタンド近くには

母の遺影が置いてありまして、

一応就寝前にひと声かけるのですが、

これまた日によって怒ったり微笑んだりします。

そして雨月…を読み進むうちに、

どうもあの世と現世の境が曖昧になります。

この雨月物語は、

話の下地が中国の白話小説らしいということは、

判明しているらしいのですが、

まあ日本各地の地名が出てくるので、

リアリティはあります。

たとえば白峰という話。

西行という坊さんが四国の白峰陵に参拝したおり、

いまは亡き上皇の亡霊と対面する。

果ては両者で論争となるのですが、

その場面がかなり迫力があります。

そして死んだ者が歴史を変えている事実を、

後に坊さんが確認するという話なのですが、

現世の営みに死んだ者も参加していて、

そこいらへんの境がない。

浅茅が宿は、なかなかの悲劇で、

ときは乱世。 

遠く京へ商売に出た男が

なんとか7年目に奥さんの元へ帰り、

すでに死んだ女房と対面するという話。

これは7年ぶりに対面した夫婦の風貌、

仕草、会話が秀逸で、涙をそそります。

蛇性の淫…このあたりからは話しません。

読んでみてください。  

さてこの世界って、

果たして生きているものだけで

動いているものなのか?

雨月物語を読んでいると、

この世というものはそもそも

過去の人もまぜこぜになって

成り立っている、

のかも知れない…

そんなことを考えたりもしてしまう訳です。

ある哲学書に死んだら無だとありまして、

違和感を感じたことがありました。

無とはさみしい。

そして想像しがたい恐怖が湧いてくる。

なので、最近は

無はどうも言葉の綾でしかないと

考えるようにしています。

雨月物語はまあつくり話なのでしょうけれど、

話と筆運びのうまさが引き立ちます。

よって、現実にはあり得ないのに、

引き込まれてしまう個所もしばしば。

作者の前書きが面白いんですね。

この時代からすれば

過去の名作である源氏物語の紫式部と

水滸伝の羅貫中を引き合いに出し、

彼らは現実にあるような凄い傑作を書いたばかりに、

後に不幸になったが、

私のは出鱈目(デタラメ)だから

そんな目にはあわないと宣言しているんですね。

これは卑下か、

いや厄除けのようにも思える。

しかし比較するものから思うに、

上田秋成はこの話を書いたとき、

相当の手応えを感じたに違いない。

要は自信のあらわれだろうと想像できます。

ちなみに雨月物語のタイトルの由来は、

世の中、怪しい事が起きるときというのは、

どうも雨がやんで月が見えるころらしい、

というところからきている。

ちょっと怖いけれど、

時間と空間を超えて綴られるこれらの話って

実はロマンチックの極みなのかも知れません。

気持ちのいい景色

印象に残る景色というのはそれ相応にあるが、

気持ちのいい景色というのは、

どうも季節とか気温とか風なんかに影響されるようだ。

気温が30度をゆうに超している道路を、

なぜか独り歩いていて、

その道路は上り坂でゆっくりとしか歩けない。

先がカーブしていてブラインドになっているのだが、

まあその先も同じような景色が広がっているのだろうと、

私は勝手に思っている。

道路の脇には規則正しく、葉のない木が並んでいる。

幹や枝はそこそこ太く、途中で折れているのもある。

アスファルトが、暑さでゆらゆらと揺れている。

風が全く吹いていない。

この情景は架空だが、

私が幾度となく繰り返して夢で見る、

またはふっと想い出すように現れる景色なのだが、

それがホントは実在するものなのかどうかはハッキリしない。

が、この景色が浮かぶ度、

なぜか懐かしく気持ちがいいのだ。

中東の上空を飛んでいるらしいことは、

なんとなく分かっていたが、

機体が突然揺れはじめてものすごい嵐に遭遇した。

どうやら積乱雲に突っ込んだようだ。

稲妻が横に走って、翼あたりに落ちたような気がした。

窓側に座っていた私はその様子を見ていて、

ガタガタと揺れる椅子で目をつむった。

それからどのくらいの時間が過ぎたのかよく分からないが、

機内にふっと静けさが戻ると、

皆気が抜けたのか、知らない隣の人と

急に笑顔で話しだしたりしている。

私が再び窓越しに目をやると、

静けささえ感じることのできる

おだやかな暗い夜の空が広がっていた。

下に目をやると、暗闇のなかにひときわ際立つ、

燃えさかっていると思われる何かが見えた。

静けさに広がる闇とオレンジ色のコントラスト。

これが中東の油田地帯であることは、

機内アナウンスで知った。

まあ、これはほっとした景色とでもいうのか。

長野県の佐久にコスモス街道というのがあるが、

私はそこが有名な道路ということも知らずに走ったことがある。

夏とはいえ、信州の高原は風が吹けばとても気持ちがいい。

遠くの山並みの緑が光って濃淡を放っている。

道の脇に色とりどりのコスモスが群生している。

くるまを進めるとコスモスが風に揺れて、

ちょうどおじぎをしているようにも見えるし、

踊っているようにも思える。

くるまに吹き込む心地よい風。

カーステレオから流れるフォークソング。

意味のない彼女とのおかしな会話。

思えば、気持ちのいい景色などと書いておいて、

書きたかったのは、

忘れ得ぬ時間だったのかも知れない。

ホルター心電図、初体験

先のGWは、なんだか楽しくなかった。

というのも、不整脈の疑いで5月1日~2日にかけ、

ホルター心電図を付けるハメになったから。

ホルター心電図って、簡単にいうと携帯の心電図で

24時間身体に付けその記録がとれる、というところか。

そもそも、事の始まりは、古い友人と競っていた、

血管年齢計測器でどちらが若い年齢が出るかという

いわば遊びからだった。

この年ともなると、健康と若さがとても気になる。

それは私だけではないだろう。

テレビの健康番組の数の多さからも歴然だ。

誰も実年齢より老けているのは嫌だろうし。

最近では公民館や自然公園の管理事務所などで、

血管年齢計測器をよくみかける。

私も一時、ちょっとしたマニアだった。

それがあるとき、実年齢より若く計測されるのに、

不整脈の疑いがあるので医者への受診をすすめる旨の

メッセージが出るようになった。

再度チャレンジしたが、結果は同様だった。

かくして医者へ。

そこでの心電図検査では異常は認められなかったが、

私の年齢や、近頃は疲れているといった発言をした私の

万が一を考慮し、ホルター心電図をすすめられた。

「これで異常が出た場合は、大学病院を紹介しますから」

「最悪の場合は、どんなことが想定されるのでしょう?」

「うーん、ま、いまはなんとも言えませんが、

検査の結果次第ではペースメーカーとかが考えられますね」

親戚の年の離れた従兄がペースメーカーを付けているが、

いままで全く他人事だったので、

この医者の話に私はかなり驚いた。

が、反面「しょうがないな」と思っている自分がいた。

あきらめ半分というか、

逃げようにも逃げられない現実があることも

承知しなければならないのだから。

結果がもし最悪なら、そこから最良を考えるしかない。

いまのペースメーカーはかなり良くできていて、

風呂もシャワーもOK。運動も問題ないとのこと。

これを聞いて、少し安堵した。

さて、ホルター心電図だが、これは装着が簡単だ。

胸3カ所にペタッとシールみたいなものを貼り、

そこから出ている線が、

腰ベルトに装着した小型の機器に繋がっている。

が、この小型機器がクセモノで、

服の着脱時はかなり邪魔だし、

寝るときも気になる。

あとは心理的違和感だ。

24時間に渡って計測器を装着しています、

と意識した途端、ストレスとなる。

私は最初、意識過剰になっていたが、

ちょうどこの頃、仕事が忙しくなってしまい、

意識するどころではなかったのが、

結果良かったようだ。

翌日、ホルター心電図を外しに医者へ。

電極をはがすと、肌は真っ赤になっている。

トクホンとかサロンパスと同じ状況。

で、ここからが長ーい日々が続く。

検査結果は連休明けと言われていたので、

休み明けの5月8日に問い合わせたところ、

結果はまだ、とのこと。

「明日、また連絡くださいね」

と病院の女性の明るくハツラツとした返答。

結局、検査結果が出たのは5月12日。

連休中のストレスはソコソコだったが、

連休明けからのストレスは、

かなりキツかった。

当日、医者は開口一番私にこう告げた。

「ああ○○さん、やはり不整脈ありましたよ」

「!!!???」

やはり出たか、不整脈…

続けて医者がこう告げる。

「でもね、うーんこのくらいの不整脈は、

えーとえーと…」

(早く言えよ、このウスラ医者め!)

「許容の範囲内の不整脈だから、

うーん、大丈夫かな」

「かなって…」

「そういうもんですか?」

「そういうもん、うん大丈夫だよ」

医者のこの回答に私たち夫婦は

大きく安堵した。

長期にわたった緊張感がどっと解け、

ちょっと不可解かつ妙な脱力に襲われた。

またこの前々日、

私の友人が胃がんの手術を受けていたので、

私も彼の奥さんを励ましつつも、

ちょっと自分の気持ちの不安定さが

制御できないでいた。

検査結果の出た翌日、

新横浜の彼の病院を訪ねた。

奴の元気な顔をみて、

私はさらに脱力してしまっていた。

思うに、

年を取ってゆくリスクは相当なものであるなぁ、

というのが私の実感。

予期しない脅威が

次々に現れては襲ってくるような不安。

これはもう、未知の領域を探検するのと、

なんら変わりないではないか。

年を取るって、実は冒険なんだ。

そしての先には確実に「死」がある。

さて楽しくイキイキ、

元気な老後ってホントにあるのでしょうか?

これは現在の私にとっては、かなりの難問である。

青汁飲んで平気平気と思っているそこのご同輩よ、

地獄はいつだって大きな口を開けて、

あなたが落ちるのを待っているのですよ!

贅沢な時間

最近、自分で贅沢だなと感じるのは、

たとえば夜、風呂から出て寝るまでのわずかな時間に

古いポップスを聴きながらぼおっーとすること。

聴く曲は、そのほとんどが洋楽。

最近はなぜかカーリー・サイモンが多い。

他は、ジョージ・ハリスンのマイスィートロードとか

ジャニス・イアンの17才の頃とか

パティ・ペイジのテネシーワルツとか。

聴くのはYouTubeだから、音にはこだわっていないし、

曲の頭にPRが入っても仕方がないと思っている。

一体、これらの曲にどんな記憶が刷り込まれているのか、

自分でもホントのところはよく分かっていないのだが…

きっと10代の後半に何かがあって、

そのなかの忘れてしまったエピソードみたいなものと

リンクしているのかも知れない。

そのくらい鷹揚で、のんびりとした時間が過ぎてゆく。

そうすることで、とてもハッピーでいられる。

こうして聴くともなく流れる時間があるということは、

要するに緊急の問題とか心配事がないということ。

いや、あったとしても、必要不可欠な時間だ。

ふと、自分の若い頃の映像がよみがえる。

いま思い返すと幸せな時だったように思えるが、

現実的にその頃なにがあったのか、

冷静に振り返ればロクな事はなかった。

いまは穏やかな気持ちにさせられるから、

夜は、とりわけ遠い過去の記憶は、

私のアタマに巧妙な細工が施されるのだろう。

時間の流れというものは、とてもやさしい。

そして、やれやれとベッドに入って、

昨晩の小説の続きを読む。

ここでも最近のものは読まない。

ジャンルはアクションでも推理でもなく、

主に80年代のある種かったるいものが最近の傾向。

なぜか以前は全く見向きもしなかった片岡義男が、

現在の私の愛読書である。

近々では、「彼らがまだ幸福だった頃」が良かった。

この小説は、時間の流れが丹念に描かれていて、

その空気感のようなものに気づかないと、

この人の小説は結構辛いものとなる。

そしてもうひとつ。

彼の実験的な文が、

実はとても興味をそそるのだ。

「彼らがまだ幸福だった頃」という小説は、

或る男と女がバイクのツーリングで出会い、

夏から秋にかけてを過ごすストーリーなのだが、

主人公の青年が相当なカメラマニアで、

相手の女性が圧倒的に容姿が美しい。

小説全体は、心理的表現というより視覚的な描写が、

ほぼそのすべてを占める。

青年は、知り合ったこの美しい容姿の女性を

被写体として、夏の高原のホテルから

秋までを執拗にカメラに収める。

ストーリーの進み具合はとても細密で、

ひょっとして時間が

このまま止まるんじゃないかと思うくらい、

ある種執拗なまでの情景が描写されている。

最初の読み始めの頃に感じたのは、

この主人公はひょっとして変態なんじゃないかと。

しかし、これがやがて

主人公の絵づくりに対する探究心に変化する。

確信犯的な書き方もこの作家の才能であろうし、

なにより小説による視覚化、映像化に賭けた

片岡義男の挑戦ともいえる書き方には驚かされる。

とここまで書いてきて思うのだが

こうした作品は、或る人にとっては

時間の無駄になるのかも知れない。

冒険ものみたいなワクワクもドキドキもない。

だけど、彼の作品は、

とてもたおやかで贅沢な時間が流れている。

言い換えれば、創造力が作り上げた贅沢、

とでも言おうか。

深夜、疲れた心身をベッドにもぐりこませ、

さてと、こうした贅沢な物語りを読み進めるとき、

こちらも貴重な時間を消費する訳で、

これほどの相性の良さは他にないと、

最近になって心底思うのだ。

テレビもネットも、

ザラザラしたものばかり。

みんなとても窮屈している。

そしてキナ臭い。

やはり時として、

現実逃避的な時間って必要だ。

なにより救われる。

贅沢って素敵だ。

こんな時代、こんな季節に

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忙中閑あり、というより、

こんな物騒な時期とでも言おう。

春の陽ざしはとてもおだやかで、

空中をきらっと光って横切るのは、

小さな羽虫だった。

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ツツジが咲き乱れ、程よい冷えた風が

丘を吹き抜ける。

白い雲が寸分留まらず、体を変えて

私の画面の左から右へと流れてゆく。

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そういえば、こうして竹林を見たのは、

一体いつの事だったっけ。

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中学への登下校時に確かこんな竹林を通っていた。

夏は、部活帰り、自転車を止めて涼んだ。

冬の朝、白く鈍く光るその竹林を抜けると、

一面の田が広がっていて

友達と霜柱を踏み潰しながら登校した。

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日本庭園でよく見るししおどしって、

元は鹿威しとか獅子脅しとか猪おどしとか、

動物よけに考えられたものだそうだが、

水が溢れると鳴るあのカーンという音は、

なかなか風流ではある。

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里山、鯉のぼり、古い民家そして苔…

これらは私が遠い過去に

日常的に接した風景であるハズなのに、

最近では懐かしいというより新しい、

カッコいいと思うようになった。

この変化は、まわりの進化が止まっている、

または私の中の進化が嫌気を指している証拠である。

そんなとき、

時代がひと廻りしたんだなぁと感慨に浸る。

相変わらず、世界は争いなくして物事の解決方法を

見いだせないでいる。

相変わらず、世界は進化という名の退化の道を

歩んでいる。