昭和39年(東京オリンピックの頃)

ウチの父が頼んだのだろう。

不動産屋の車に乗せられて新横浜まで来た。

10台以上のブルドーザーが出来たての駅のまわりを、

急いで必死に整地している。

幼い僕にはそうみえた。

「いまなら何処でも買えますよ」

父は黙ったまま、広大な土地を見てふーっとため息をついてから

「次のところを見せてくれないか」と頼んだ。

漠然としていたので、父には全く現実感がなかったのだろう。

父と母は、横浜の中心地を離れて少し引っ込んだところへ、

家を建てる計画だった。

実際に引っ越したのは、それから数年後だった。

この頃、東京オリンピックを控えて、

日本中がとても騒がしかったように思う。

躁状態だったのだ。

後に振り返って気づいた、当時の空気だ。

横浜駅には東口と西口があって、それらを繋ぐ暗い地下道には、

戦争で傷を負った元軍人がそこを住みかとして、

ずらっとおのおの座ったり横になったりしていた。

腕のない元軍人、両足がなくむしろに横たわっている元軍人。

彼らはアコーディオンを奏でながら物乞いをしていた。

そこを歩くとき、なんとも言えない憂鬱な気分にさせられた。

僕は、以前、日本が戦争で負けたことだけは知っていたが、

眼の前にその戦争で傷ついた生身の人間がいることが、

とても怖かった。

その怖さの正体が何であったのかは、いまでもよく分からない。

ただ、僕は心のどこかですいませんというようなニュアンスの心持があったことも

確かだった。

横浜駅の海側に出るとちょうど鶴見から川崎あたりが見渡せて、

煙突から黒や黄色や灰色の煙がもくもくと出ていた。

岸壁はゴミと洗剤の泡のようなものであふれかえり、

そのなかにネズミや犬の死体がぷかぷかと浮かんでいることもあった。

スモッグとか大気汚染という言葉がひんぱんに言われだしたのも、

この頃からだと思う。

だから今になって、アジアのどこかの国の大気汚染を、

実は僕たちは笑ってばかりいられない。

東京・横浜に連なる京浜工業地帯はかつて、

晴れた日でも空は青空ではなく、

薄くぼんやりとしていたのだから。

年末になると、僕は3.4人の友達と連れだって、

この街の商店街に繰り出していた。

きらきらとしたクリスマスの装飾が灯りに照らされ、

通りは人でごった返している。

ジングルベルの音楽は大音響で、いつまでも止むこともなく、

通りの人混みのなかに響き渡っていた。

福引きのガラガラの音が絶え間なく聞こえる。

そこに長蛇の列がいくつもできる。

誰もが大きな買い物袋を抱えていた。

商店街は夜になると屋台がずらっと並ぶ。

大人たちが酔っぱらって大声で叫んだりしていた。

男と女が抱き合っている影もみえる。

僕はそうしたものを見るたび、

心臓がどきどきして走って家に帰った。

玄関の擦り硝子の向こうに

赤と緑のライトが点滅している。

嫌なことが沢山ある家だけど、

母がつくる質素な夕飯とバタークリームのケーキが

とりあえず食べられる。

僕はこの街で生まれて、

まだ数えるほどしか遠方に出かけたことがなかったので、

世の中はあらかたどこもそんな風であり、

親子とか家庭というものも

だいたいどこも変わらないものだと思っていた。

そして東海道新幹線が開業し、

ウチの近くの国道を、オリンピックの聖火ランナーが走り抜け、

女子バレーボールで日紡貝塚が優勝し、金メダルを獲った。

エチオピアのアベベ選手が東京の街を疾走し、

テレビでみんなを驚かせた。

時代が、世の中が目まぐるしく、

みるみると変わっていったのだ。

横浜の郊外の小学校に転校した僕は、

新しい生活に馴染めず、

原因不明の熱と頭痛に悩まされた。

また、憧れのマイホームに移り住んだのに、

父と母の距離がどんどん離れていくのが、

幼かった僕にもハッキリと分かってしまった。

テレビでビートルズが来日したことを、

どこのテレビも興奮して中継していた。

加山雄三の「君といつまでも」がヒットしていた。

しあわせだなぁってはにかみながら

加山雄三が鼻に手をもっていって、

それをテレビで観た僕は、

それほどはっきり分かるしあわせってあるのかと、

ちょっと驚いた。

中学に進学していた僕は、

ようやく妙な発熱や頭痛も出なくなり、

水泳部に入部し、ギターを手に入れ、

そして何人かの女子を意識し始めた。

フォークソングも流行り出していた。

グループサウンズが隆盛を極めて、

どのグループもヒット曲を連発していた。

僕は好きなグループのレコードを、

なんとか小遣いから捻出して集めた。

そして中学3年のときには大阪万博が盛大に開催され、

日本は本格的に経済大国への道を突き進んだのだ。

2017年の今年の夏、

約50年ぶりに、僕は生まれた街の駅を降りた。

従兄弟(いとこ)に会いにいくためだ。

あの頃のにぎやかだった商店街はどこも閑散として、

なかにはさび付いた屋根やシャッターが崩れ落ちそうなほど、

老朽化している店もあった。

80才をとうに越した従兄弟はペースメーカーを付け、

それでも昔と変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。

そして、やはりというべきか、

東京オリンピックの頃の話ばかりしていた。

その帰りにちょっと遠回りをして、

自分の生まれた跡地とでも言える所に立ち寄ったが、

当たり前のように全く別の家が建っていて、

しかしその真向かいと斜向かいの家には、

昔と変わらない表札が出ていた。

そしてその数軒先にいまも暮らしている

僕の幼なじみに会いたいと思ったのだが、

従兄弟の話によると、

彼はずっと独身で親の大工の仕事を引き継ぎ、

いまは酷いアル中とかで会わないほうがいいと、

忠告された。

あれからなんと50余年が過ぎてしまったのだ。

僕の時間が止まってしまっているこの街で、

僕は幼いころの自分に戻ってしまっていた。

もうすぐ、またあのオリンピックがやってくる。

あの頃、流行したものや音楽、ドラマなどが、

テレビなどで頻繁に放送されている。

それが懐かしいことに違いないのだが、

果たして楽しい記憶であるのか、

悲しいときであったのか、

それが判然としない。

ただ、水に溶いた墨のように、

どんよりとして見えるあの街の風景ばかりが、

しばし浮かんでは、消えてゆくのだ。

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