ガパオライスを食らう

娘にタイ料理の店に連れてってもらう。

パクチーは大丈夫?と聞くので分からないとこたえる。

ニラならOKと言おうとしたけど、つまらないので

黙っていた。

テレビでパクチーを無理矢理だろうなぁ、

渋い顔して食ってる芸人を観て、

パクチーってまずいだろうと、先入観。

タイ料理初体験は、相模川の夜景をながめながらの、

ちょっと洒落た店。

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パクチーのサラダ、パクチーをまぶしたチーズ揚げ、

フォー、ガパオライス、生春巻きをオーダー。

ドリンクはココナッツジュースとライチジュース。

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娘はなんでかしょっちゅう池袋とか恵比寿で

タイメシを食っているらしい。

「そんなにうまいのか?」

「ん、私に合っているみたい」

「何が一番イケる?」

「ガパオライスかな」

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ガパオライスという料理、初耳。

名前からしてタイらしいなぁと勝手に想像するも、

全くビジュアルが浮かんでこない。

で、メニューの写真を凝視する。

「あのさ、ハワイのなんてったっけ、

ほらほら、○○ライスってあるけど、

あんな感じ?」

「お父さんのその○○ライスって、

ロコモコのこと」

「そっ、モコモコ」

「ロコモコ!」

「ロコモコね」

「うーん、一皿に盛ってあって目玉焼きがのっているところが

ちょっと似ているわね。後は全然違う。味もね」

「どうも」

「ところで、フォーってベトナム料理だよな、

食ったことある」

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「まあ、東南アジアで一括りしているんじゃないの?」

「ライチは結構どこにでもあるよな」

「つまんないな、お父さん!」

「………」

静かで広い店内には数組のお客さん。

みな常連さんらしく、迷いなく食いまくっている。

夜景が望める窓際のカウンター席では、

若い女性の二人組が、得体の知れないドリンクを飲んでいる。

気になっていたテレビ画面には、

タイのアイドルらしき若いボーカルの男の子が、

なんだか体をクネクネさせて歌っているのだが、

どうも愛を囁いているらしいのである。

テレビまわりをよく見ると、パソコンが接続してある。

YouTubeから流しているようだ。

その横の神棚のような棚に

キラキラしたものがいっぱい飾ってある。

その中央にどうも派手目のお釈迦様とおぼしき方が、

デンと置かれている。

うーん、なかなか異国だなぁ。

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しばらくキョロキョロするのも飽きた頃、

どっと料理が運ばれてきた。

めちゃくちゃに腹が減っていたので、

まずめざすガパオを食らった。

うまい!

続いてココナッツジュースで流し込み、

パクチーを口に詰め込むと、

やっと落ち着いてきた。

「お父さん、辛くない?」

「ちょっと辛い」

「パクチー食べてるね」

「うーん、食えるね」

娘も割と大食漢なので、こうなると、

そこらの一杯飯屋と変わりなく、

ひたすら食い続けることとなる。

「うっ、急いで食い過ぎた」

「私も…」

店を出て、重い体で河川敷を歩く。

「さあて、次は何を食いに行く?」

「回らない寿司屋か、骨付きのステーキ。

めちゃくちゃおいしいお店!」

「………」

もう夏だというのに、

川面を渡ってくる風が、

やけに胸元を冷やす訳である。

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東京の流儀

最近はよく神田に行くが、

その度に違う地下鉄に乗ってたどり着く。

で、私がとにかく把握できないのは、

この界隈に潜っている3つの駅の位置関係だ。

新御茶ノ水駅、小川町駅、淡路町駅。

どの駅で降りても必ず迷う。

自分の行くべき方向が

電車を降りた瞬間から分からない。

地下なので、余計に感が働かない。

私の目的場所は神田美土代町で、

いまだにどの駅が一番近いのか把握できていない。

当然、帰りも迷う。

だって地下鉄の入り口に、

駅名が3つ並んで書いてあるんですよ!

一度、iPhoneを頼りに歩いたが、

まあ馬鹿らしいのでヤメにした。

私は古い人間なので、

どうもああいうのを見ながら歩くことに

馴染めていない。

さらに、男は地図が読めないといけない。

その地を把握せねばならない。

そして感を働かせて歩く。

自らの力で目的地に近づくに連れ、

ワクワクするもんな。

iPhoneはダメだ。

ああいうのは、まず地形を覚えない。

そしてなにより街の全体像が掴めない。

偉そうに書いているが、

そうやって感を頼りに毎回迷っている。

私はよく近所の山にハイキングに行くが、

地下鉄は近所ハイキングより、結果、水を欲する。

景色が爽やかである訳もなく、爽快感もなく、

やたら喉だけが渇くのだ。

カラッカラ!

万歩計を見ると、

いつも軽く1万歩を超えてしまうから、

これはもう都会限定でチャレンジできる

サブウェイアウト・ドアと言ってしまおう。

んんん、地下鉄ってヘビー!

で、話を戻すが、

いったい、あの神田の地下鉄の3駅は、

平面図に起こすとどうなっているのだろうか?

そして立面図は?

おのおの近いような気がするが、

実は相当離れているような気もするし…

こうした疑問は、

渋谷の地下でも新宿でも大手町でも、

要は東京の至る所で、

沸々と湧き上がってしまうのだ。

これって私の性癖なのか?

地下鉄の改札口で、

独りで難しい顔をして出口を確認していると、

通り過ぎる人は皆、何の迷いもなく、

スマフォを眺めながら淀みなく流れてゆく。

すると、

どこからともなく囁きが聞こえてくるのです。

「都会の流儀に反していますよ、そこのご老体…」

雨月物語の妖しい世界

雨月物語を読んでいるうち、

妙な感覚に陥るのです。

江戸時代の後期に書かれたもので

作者は上田秋成という人です。

読むのはだいたい寝しな。

夜中です。

話のいずれもが、

生きている人とすでに死んでいる人が

違和感なく話したりたち

振る舞ったりしているのですから、

ちょっとこっちとしては困ってしまうのですが、

まあ、登場人物に生死の垣根がなく、

あるときは動物の化身が話したりと、

ある意味おおらかでいいんですね。

私の枕元のスタンド近くには

母の遺影が置いてありまして、

一応就寝前にひと声かけるのですが、

これまた日によって怒ったり微笑んだりします。

そして雨月…を読み進むうちに、

どうもあの世と現世の境が曖昧になります。

この雨月物語は、

話の下地が中国の白話小説らしいということは、

判明しているらしいのですが、

まあ日本各地の地名が出てくるので、

リアリティはあります。

たとえば白峰という話。

西行という坊さんが四国の白峰陵に参拝したおり、

いまは亡き上皇の亡霊と対面する。

果ては両者で論争となるのですが、

その場面がかなり迫力があります。

そして死んだ者が歴史を変えている事実を、

後に坊さんが確認するという話なのですが、

現世の営みに死んだ者も参加していて、

そこいらへんの境がない。

浅茅が宿は、なかなかの悲劇で、

ときは乱世。 

遠く京へ商売に出た男が

なんとか7年目に奥さんの元へ帰り、

すでに死んだ女房と対面するという話。

これは7年ぶりに対面した夫婦の風貌、

仕草、会話が秀逸で、涙をそそります。

蛇性の淫…このあたりからは話しません。

読んでみてください。  

さてこの世界って、

果たして生きているものだけで

動いているものなのか?

雨月物語を読んでいると、

この世というものはそもそも

過去の人もまぜこぜになって

成り立っている、

のかも知れない…

そんなことを考えたりもしてしまう訳です。

ある哲学書に死んだら無だとありまして、

違和感を感じたことがありました。

無とはさみしい。

そして想像しがたい恐怖が湧いてくる。

なので、最近は

無はどうも言葉の綾でしかないと

考えるようにしています。

雨月物語はまあつくり話なのでしょうけれど、

話と筆運びのうまさが引き立ちます。

よって、現実にはあり得ないのに、

引き込まれてしまう個所もしばしば。

作者の前書きが面白いんですね。

この時代からすれば

過去の名作である源氏物語の紫式部と

水滸伝の羅貫中を引き合いに出し、

彼らは現実にあるような凄い傑作を書いたばかりに、

後に不幸になったが、

私のは出鱈目(デタラメ)だから

そんな目にはあわないと宣言しているんですね。

これは卑下か、

いや厄除けのようにも思える。

しかし比較するものから思うに、

上田秋成はこの話を書いたとき、

相当の手応えを感じたに違いない。

要は自信のあらわれだろうと想像できます。

ちなみに雨月物語のタイトルの由来は、

世の中、怪しい事が起きるときというのは、

どうも雨がやんで月が見えるころらしい、

というところからきている。

ちょっと怖いけれど、

時間と空間を超えて綴られるこれらの話って

実はロマンチックの極みなのかも知れません。

気持ちのいい景色

印象に残る景色というのはそれ相応にあるが、

気持ちのいい景色というのは、

どうも季節とか気温とか風なんかに影響されるようだ。

気温が30度をゆうに超している道路を、

なぜか独り歩いていて、

その道路は上り坂でゆっくりとしか歩けない。

先がカーブしていてブラインドになっているのだが、

まあその先も同じような景色が広がっているのだろうと、

私は勝手に思っている。

道路の脇には規則正しく、葉のない木が並んでいる。

幹や枝はそこそこ太く、途中で折れているのもある。

アスファルトが、暑さでゆらゆらと揺れている。

風が全く吹いていない。

この情景は架空だが、

私が幾度となく繰り返して夢で見る、

またはふっと想い出すように現れる景色なのだが、

それがホントは実在するものなのかどうかはハッキリしない。

が、この景色が浮かぶ度、

なぜか懐かしく気持ちがいいのだ。

中東の上空を飛んでいるらしいことは、

なんとなく分かっていたが、

機体が突然揺れはじめてものすごい嵐に遭遇した。

どうやら積乱雲に突っ込んだようだ。

稲妻が横に走って、翼あたりに落ちたような気がした。

窓側に座っていた私はその様子を見ていて、

ガタガタと揺れる椅子で目をつむった。

それからどのくらいの時間が過ぎたのかよく分からないが、

機内にふっと静けさが戻ると、

皆気が抜けたのか、知らない隣の人と

急に笑顔で話しだしたりしている。

私が再び窓越しに目をやると、

静けささえ感じることのできる

おだやかな暗い夜の空が広がっていた。

下に目をやると、暗闇のなかにひときわ際立つ、

燃えさかっていると思われる何かが見えた。

静けさに広がる闇とオレンジ色のコントラスト。

これが中東の油田地帯であることは、

機内アナウンスで知った。

まあ、これはほっとした景色とでもいうのか。

長野県の佐久にコスモス街道というのがあるが、

私はそこが有名な道路ということも知らずに走ったことがある。

夏とはいえ、信州の高原は風が吹けばとても気持ちがいい。

遠くの山並みの緑が光って濃淡を放っている。

道の脇に色とりどりのコスモスが群生している。

くるまを進めるとコスモスが風に揺れて、

ちょうどおじぎをしているようにも見えるし、

踊っているようにも思える。

くるまに吹き込む心地よい風。

カーステレオから流れるフォークソング。

意味のない彼女とのおかしな会話。

思えば、気持ちのいい景色などと書いておいて、

書きたかったのは、

忘れ得ぬ時間だったのかも知れない。

ホルター心電図、初体験

先のGWは、なんだか楽しくなかった。

というのも、不整脈の疑いで5月1日~2日にかけ、

ホルター心電図を付けるハメになったから。

ホルター心電図って、簡単にいうと携帯の心電図で

24時間身体に付けその記録がとれる、というところか。

そもそも、事の始まりは、古い友人と競っていた、

血管年齢計測器でどちらが若い年齢が出るかという

いわば遊びからだった。

この年ともなると、健康と若さがとても気になる。

それは私だけではないだろう。

テレビの健康番組の数の多さからも歴然だ。

誰も実年齢より老けているのは嫌だろうし。

最近では公民館や自然公園の管理事務所などで、

血管年齢計測器をよくみかける。

私も一時、ちょっとしたマニアだった。

それがあるとき、実年齢より若く計測されるのに、

不整脈の疑いがあるので医者への受診をすすめる旨の

メッセージが出るようになった。

再度チャレンジしたが、結果は同様だった。

かくして医者へ。

そこでの心電図検査では異常は認められなかったが、

私の年齢や、近頃は疲れているといった発言をした私の

万が一を考慮し、ホルター心電図をすすめられた。

「これで異常が出た場合は、大学病院を紹介しますから」

「最悪の場合は、どんなことが想定されるのでしょう?」

「うーん、ま、いまはなんとも言えませんが、

検査の結果次第ではペースメーカーとかが考えられますね」

親戚の年の離れた従兄がペースメーカーを付けているが、

いままで全く他人事だったので、

この医者の話に私はかなり驚いた。

が、反面「しょうがないな」と思っている自分がいた。

あきらめ半分というか、

逃げようにも逃げられない現実があることも

承知しなければならないのだから。

結果がもし最悪なら、そこから最良を考えるしかない。

いまのペースメーカーはかなり良くできていて、

風呂もシャワーもOK。運動も問題ないとのこと。

これを聞いて、少し安堵した。

さて、ホルター心電図だが、これは装着が簡単だ。

胸3カ所にペタッとシールみたいなものを貼り、

そこから出ている線が、

腰ベルトに装着した小型の機器に繋がっている。

が、この小型機器がクセモノで、

服の着脱時はかなり邪魔だし、

寝るときも気になる。

あとは心理的違和感だ。

24時間に渡って計測器を装着しています、

と意識した途端、ストレスとなる。

私は最初、意識過剰になっていたが、

ちょうどこの頃、仕事が忙しくなってしまい、

意識するどころではなかったのが、

結果良かったようだ。

翌日、ホルター心電図を外しに医者へ。

電極をはがすと、肌は真っ赤になっている。

トクホンとかサロンパスと同じ状況。

で、ここからが長ーい日々が続く。

検査結果は連休明けと言われていたので、

休み明けの5月8日に問い合わせたところ、

結果はまだ、とのこと。

「明日、また連絡くださいね」

と病院の女性の明るくハツラツとした返答。

結局、検査結果が出たのは5月12日。

連休中のストレスはソコソコだったが、

連休明けからのストレスは、

かなりキツかった。

当日、医者は開口一番私にこう告げた。

「ああ○○さん、やはり不整脈ありましたよ」

「!!!???」

やはり出たか、不整脈…

続けて医者がこう告げる。

「でもね、うーんこのくらいの不整脈は、

えーとえーと…」

(早く言えよ、このウスラ医者め!)

「許容の範囲内の不整脈だから、

うーん、大丈夫かな」

「かなって…」

「そういうもんですか?」

「そういうもん、うん大丈夫だよ」

医者のこの回答に私たち夫婦は

大きく安堵した。

長期にわたった緊張感がどっと解け、

ちょっと不可解かつ妙な脱力に襲われた。

またこの前々日、

私の友人が胃がんの手術を受けていたので、

私も彼の奥さんを励ましつつも、

ちょっと自分の気持ちの不安定さが

制御できないでいた。

検査結果の出た翌日、

新横浜の彼の病院を訪ねた。

奴の元気な顔をみて、

私はさらに脱力してしまっていた。

思うに、

年を取ってゆくリスクは相当なものであるなぁ、

というのが私の実感。

予期しない脅威が

次々に現れては襲ってくるような不安。

これはもう、未知の領域を探検するのと、

なんら変わりないではないか。

年を取るって、実は冒険なんだ。

そしての先には確実に「死」がある。

さて楽しくイキイキ、

元気な老後ってホントにあるのでしょうか?

これは現在の私にとっては、かなりの難問である。

青汁飲んで平気平気と思っているそこのご同輩よ、

地獄はいつだって大きな口を開けて、

あなたが落ちるのを待っているのですよ!

贅沢な時間

最近、自分で贅沢だなと感じるのは、

たとえば夜、風呂から出て寝るまでのわずかな時間に

古いポップスを聴きながらぼおっーとすること。

聴く曲は、そのほとんどが洋楽。

最近はなぜかカーリー・サイモンが多い。

他は、ジョージ・ハリスンのマイスィートロードとか

ジャニス・イアンの17才の頃とか

パティ・ペイジのテネシーワルツとか。

聴くのはYouTubeだから、音にはこだわっていないし、

曲の頭にPRが入っても仕方がないと思っている。

一体、これらの曲にどんな記憶が刷り込まれているのか、

自分でもホントのところはよく分かっていないのだが…

きっと10代の後半に何かがあって、

そのなかの忘れてしまったエピソードみたいなものと

リンクしているのかも知れない。

そのくらい鷹揚で、のんびりとした時間が過ぎてゆく。

そうすることで、とてもハッピーでいられる。

こうして聴くともなく流れる時間があるということは、

要するに緊急の問題とか心配事がないということ。

いや、あったとしても、必要不可欠な時間だ。

ふと、自分の若い頃の映像がよみがえる。

いま思い返すと幸せな時だったように思えるが、

現実的にその頃なにがあったのか、

冷静に振り返ればロクな事はなかった。

いまは穏やかな気持ちにさせられるから、

夜は、とりわけ遠い過去の記憶は、

私のアタマに巧妙な細工が施されるのだろう。

時間の流れというものは、とてもやさしい。

そして、やれやれとベッドに入って、

昨晩の小説の続きを読む。

ここでも最近のものは読まない。

ジャンルはアクションでも推理でもなく、

主に80年代のある種かったるいものが最近の傾向。

なぜか以前は全く見向きもしなかった片岡義男が、

現在の私の愛読書である。

近々では、「彼らがまだ幸福だった頃」が良かった。

この小説は、時間の流れが丹念に描かれていて、

その空気感のようなものに気づかないと、

この人の小説は結構辛いものとなる。

そしてもうひとつ。

彼の実験的な文が、

実はとても興味をそそるのだ。

「彼らがまだ幸福だった頃」という小説は、

或る男と女がバイクのツーリングで出会い、

夏から秋にかけてを過ごすストーリーなのだが、

主人公の青年が相当なカメラマニアで、

相手の女性が圧倒的に容姿が美しい。

小説全体は、心理的表現というより視覚的な描写が、

ほぼそのすべてを占める。

青年は、知り合ったこの美しい容姿の女性を

被写体として、夏の高原のホテルから

秋までを執拗にカメラに収める。

ストーリーの進み具合はとても細密で、

ひょっとして時間が

このまま止まるんじゃないかと思うくらい、

ある種執拗なまでの情景が描写されている。

最初の読み始めの頃に感じたのは、

この主人公はひょっとして変態なんじゃないかと。

しかし、これがやがて

主人公の絵づくりに対する探究心に変化する。

確信犯的な書き方もこの作家の才能であろうし、

なにより小説による視覚化、映像化に賭けた

片岡義男の挑戦ともいえる書き方には驚かされる。

とここまで書いてきて思うのだが

こうした作品は、或る人にとっては

時間の無駄になるのかも知れない。

冒険ものみたいなワクワクもドキドキもない。

だけど、彼の作品は、

とてもたおやかで贅沢な時間が流れている。

言い換えれば、創造力が作り上げた贅沢、

とでも言おうか。

深夜、疲れた心身をベッドにもぐりこませ、

さてと、こうした贅沢な物語りを読み進めるとき、

こちらも貴重な時間を消費する訳で、

これほどの相性の良さは他にないと、

最近になって心底思うのだ。

テレビもネットも、

ザラザラしたものばかり。

みんなとても窮屈している。

そしてキナ臭い。

やはり時として、

現実逃避的な時間って必要だ。

なにより救われる。

贅沢って素敵だ。

こんな時代、こんな季節に

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忙中閑あり、というより、

こんな物騒な時期とでも言おう。

春の陽ざしはとてもおだやかで、

空中をきらっと光って横切るのは、

小さな羽虫だった。

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ツツジが咲き乱れ、程よい冷えた風が

丘を吹き抜ける。

白い雲が寸分留まらず、体を変えて

私の画面の左から右へと流れてゆく。

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そういえば、こうして竹林を見たのは、

一体いつの事だったっけ。

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中学への登下校時に確かこんな竹林を通っていた。

夏は、部活帰り、自転車を止めて涼んだ。

冬の朝、白く鈍く光るその竹林を抜けると、

一面の田が広がっていて

友達と霜柱を踏み潰しながら登校した。

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日本庭園でよく見るししおどしって、

元は鹿威しとか獅子脅しとか猪おどしとか、

動物よけに考えられたものだそうだが、

水が溢れると鳴るあのカーンという音は、

なかなか風流ではある。

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里山、鯉のぼり、古い民家そして苔…

これらは私が遠い過去に

日常的に接した風景であるハズなのに、

最近では懐かしいというより新しい、

カッコいいと思うようになった。

この変化は、まわりの進化が止まっている、

または私の中の進化が嫌気を指している証拠である。

そんなとき、

時代がひと廻りしたんだなぁと感慨に浸る。

相変わらず、世界は争いなくして物事の解決方法を

見いだせないでいる。

相変わらず、世界は進化という名の退化の道を

歩んでいる。

ミサイルはどうやらこっちを向いてるらしい

かなり、平和な時代を生きてきたように思う。

数年前までは。

遡ればキリがないが、

震災があって、いろいろあって、

結果とんでもない赤字が膨らんだ。

ここ神奈川でも食らうもんだなぁ、

とつくづく思い知らされた。

ここ一週間の間、いやもっと前からどうやら

ミサイルがこっちを向いていて、事が起きると、

飛んでくるかも、という話を見聞し、

ボケていたのか、

ちょっと現実味に欠けた感はあるが、

徐々に緊張めいたものが身に沁みこむ。

ここは厚木基地に近いし、

横須賀と横田基地を直線で結ぶ

その線上にあるらしく、

軍用ヘリは毎日飛んでいるのだが、

戦争というリアルとは

ほど遠い毎日を送っていた。

厚木基地の更に至近にある街は、

ここんとこ軍用機の離発着がかなり激しいという。

ミサイルがどこに飛ぶのかは知らないが、

こっち(日本のどこか)を向いているのは確か。

だって米軍基地があるのだから、

考えてみれば当たり前のことなのだ。

村上龍の小説に「海の向こうで戦争が始まる」

というのがあったが、中身は違えど、

いまさらながら

非常にひっかかるタイトルではあるなぁと思う。

あと「半島を出よ」というのもあって、

どうもこの作家はいろいろと気になる題材を提示してくれる。

そういえばデビュー作「限りなく透明に近いブルー」も、

舞台は米軍横田基地あたりだったように記憶している。

「ダーウィンがきた」(NHK)という番組をよく観るが、

動物は、そのほとんどが食うか食われるかの毎日を送っている。

ライオンもシマウマも戦ってるが、

イワシだってミジンコだって常に戦って生きている訳で、

己の種を残すためなら、

同じ種との死闘もいとわない。

ああ、生きるのって大変だなぁ。

この際、赤字なんか怖くもなんともない、

と思ってしまおうか。

よく言われる、

生きているだけで儲けもの、なのかもなぁ。

サクラサク!

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穏やかな春の陽ざしが、

ここかしこに降り注いでいる、などと言っても、

季節感を尊ぶひともいれば、

全くそういう事を気にも止めないひとがいることを、

最近知って驚いた。

忙し過ぎるのか?

感覚が退化したのか?

心配だ。

一日一回でも空を眺める。

陽光に揺れ動く空気を観察する。

たとえ街中でも沿道とかマンホールの横に

ひっそり咲いている野花に近づいて

一息入れてみる。

ビルにサクッと切り取られた空だって、

高層ビルから見下ろす街の陰影だって、

結構美しい。

新しい季節。

個人的にいい思い出はあまりない。

ただ一度、この季節に入学した中学校で、

とてもいい友人に恵まれた。

その関係はいまでも続いている。

そして素敵なガールフレンドに巡り合えたこと。

一生に一回でもこうした想い出があれば、

なんとか救われるものだ。

辛い人だって悲しい人だって、

もう一度立ち上がりたい。

春も終わりかけの頃、

私はよくそんな事を思っていた。

桜咲く。

いつかはサクラサクって、

やはりホントだと思うよ。

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ホテルのバスルームに関する考察

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ホテルといってもビジネスホテルの風呂の話。

端的にいうと、風呂というよりシャワールームか?

昔からあそこの使い方に迷っている。

ずっと迷っている。

ホテルの風呂って洗い場がないでしょ。

が、いつも懲りずに自宅の風呂の調子で入るので、

毎回、ベストな方法はないかと悩んでいる訳。

私は海外生活が皆無なので、

そこんとこ、よく分からない。

気になるのは高級ホテルとかラブホテルに、

果たして洗い場があるのか?

これもよく分からない。

というか、知っていたとしても

ここは知らないことにしないと、

話しがややこしくなるので、知らない。

とにかくビジネスホテルの風呂場なのだ。

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まず、バスタブにお湯を張る。

とにかく湯をいっぱいにする。

でないと風呂じゃないじゃん。

温まると、とても落ち着く。

疲れがとれる。

よく眠れる。

という訳で、まずゆっくりと浸かるのね。

問題はその後である。

なんだろうな? ここから調子が狂う。

身体を洗う段になって、

いつものようになにがなんだか、

よく分からなくなってしまう。

冷静にスタートしても結果的に、

狐につままれたように、

いつもの失敗に終わる。

まあ、ようやく目的を達成したとしても、

ビショビショの裸で

ハーハーしながらバスルームから這い出てくる。

いろいろ改善を試みるのだが、

結果はいつも同じとはどういう訳だ!

ホテルの責任者出てこい、とは言わないけどね。

要は、しっかりシャンプーで頭髪なんかを洗いたい。

   顔面を石けんなんかでしっかり洗いたい。

   身体をボディシャンプーなんかでゴシゴシ洗いたい。

   風呂からあがるときにヌルヌルしたものを残したくない。

以上の目的を達成するために、いろいろ順序を検討するのだが、

あるときは泡だらけで上がるハメに陥り、

あるときは洗う順序を間違えて顔面だけ洗い残したり、

身体を再度洗う結果となったりしてしまう。

どうにもこうにも毎回うまくいかない。

この問題に関し、現在分かっているのはですね、

鍵は唯一、ズバリ洗い場しかない訳です。

洗い場があれば、すべて解決となる。

あと、もうひとつの解決策。

それは、石けんで身体をまるごと洗う、である。

そうそう、もうひとつありましたね。

それは石けんとかシャンプーとか一切使用せず、

ひたすらケミカル類を拒否し、

浸かりながらシャワーを浴びる、であります。

以上が解決策なのは私もずっと承知しているのです。

が、出張とかあれこれ出かけたときこそ、

なんとか我が家にいるときと同様、

気持ちの良いお風呂ライフを満喫しようと考えたのが

事の始まりなのですが、

これは私のわがままか、

つまらない贅沢か?

と己に問いかけもしたが、

いやいやそこは工夫次第だよ、というのが、

己からの回答だったのであります。

よって先日も新宿6丁目のビジネスホテルで格闘したのだが、

やはり結果的に敗北したので、腹がたってこんなものを書いてしまった。

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でそもそもこの問題は、話しを遡ると、

あそこに洗い場がないから、

とんでもないことが起きてしまう、ということだった。

(↑ここポイント)

で何度か、挑戦したのは下記の事。

溜めて入っている湯が泡だらけになってので、

そうだタブの栓を抜けばいいのだ!

と思い立ち、実行したことがあるが、

これはアウトでした。

そもそもビジネスホテルの排水溝って

どこも管が細いらしく、

実行したホテルではどこも失敗に終わりました。

それはね、ちょろちょろと減ってゆく湯を眺めながら、

長時間ぼおっーとしている自分は身体がだんだん冷えてきて、

第三者的視点で眺めるに

裸のバカにみえましたから。

という訳で、

以上の私事重要問題に良い改善案がありましたら、

どなたか教えてくれませんかね?

謝礼は、あなたのキャッチフレーズをタダで考えます!

(時価3万円相当)

すげえラーメン屋

最初、ラーメン屋のすげえ店主とタイトルをつけたら

全然面白くないので、すげえラーメン屋とした。

ネタばらして書くのもなんだが、

このラーメン屋のスープが絶妙にうまい訳ではない。

シコシコ麺じゃないし、チャーシューでもない。

没タイトルの通り、あるラーメン屋の店主の頭脳と

おぼしきものがすげえんである。

まあ、カウンターとテーブル席あわせ、

20数人は入れる店なのだが、週末の昼に入るとほぼ満席。

過去に数回入ったが、なかなかうまいラーメン屋ではある。

しかし、24時間かき回せ続けたスープとか、

純国産小麦に徹底的にこだわったとか、

チャーシューへのこだわりが命より大事とか、

そんなんでは全然ない。

まあ、ほどほどにうまいんである。

「これは時間がかかるなぁ」などとため息まじりに

空いているカウンターに座り込み、

なんとなく、味噌ラーメンなんかを頼んだ訳である。

店内は子供もいてザワザワしている。

鼻をかんでいる爺さんのグループが

笑顔で若いころの自慢話をしている。

ペンキ職人らしい3人組は相当腹を減らしているらしく、

店主の一挙手一投足をじっと凝視している。

基本的にここは腹をへらした奴ばかりなので、

なんだか店内は妙な殺気も感じられるのだが、

店主はそんなことは全然気にしていない風にみえる。

というか、アルバイトの女の子に

ときどき冗談なんか飛ばしてる。

割と広めのラーメン屋なのに、

この店は店主とこの女の子の二人で切り盛りしている事に

ハタと気づいた。

で、これは味噌ラーメン遅いぞなどと思っていたら、

すげえスピードで次々にラーメンができあがるではないか。

ギョーザもひゅーひゅーとできあがる。

以前来たときはまるで気がつかなかった情景である。

よくよく観察すると、

店主の手はすげえスピードで動いている。

しかも次々にお勘定を払うお客と入り交じる。

注文する客も野菜ラーメンふたつ。

で、ひとつは麺かためねぇーとか、

ビール一本くれとか、いろいろ言っちゃうのだが、

店主は、どの席の誰が何を食ったか把握していて、

お勘定するお客に幾らと、微笑みとすげえ暗算で返す。

その間、手はすげえスピードで働いているし、

ささっとお金のやりとりを済ます。

同時に次々に飛んでくるオーダーにも微笑んで「へーい」と応え、

それが全然間違ってない。

で、気がついたのだが、

アルバイトとおぼしき女の子はというと、

この子はとにかく洗い物しかしていない。

ひたすらスローにどんぶりを洗っているのであるからして、

あとはすべて店主がやってのけている。

外見的に、ちょっと昔グレチャッテサ、という風貌で、

歳は40代半ばといったところか?

働きざかりである。

がしかし、この人のあたまのなかはどうなっているのだろう、

とふと考えてしまったのは、私だけだろうか。

過去に私はコーヒーショップでバイトをしていたことがあって、

そこでの注文で記憶できるのは、せいぜい4品だった。

すげえ記憶力が弱いんである。

だから余計にこの店主の技と頭脳に驚いてしまうのだが、

実はこの店主が数学の先生だったらとか、

もっと若いころに東大の受験生であったならとか

アレコレ想像するも、

風貌から醸し出されるるイメージは、

どっからどうみてもラーメン屋の店主が

ピタリと一致するのである。

で、全然関係ないが、昔、あのドイツのBMWの事を

「羊の皮を被った狼」と、みんなが評していた。

いや、宣伝か?

とにかくあの車をみていて、

確かに的を射ていると思った覚えがある。

結構うまいみそラーメンだったなぁなどと、

ごきげんで国道を走りながら、

あの店主をBMWばりに考えてみたのだが、

頭に浮かんだのは、

せいぜい「ヤンキーの皮を被った数学博士」だった。

また、つまんないものが浮かんでしまった。

それにしても、デキル男なのであるよ。