忙中ハイキング

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初冬のハイキングは

気候もほどほどに寒いので、

汗のかき具合もちょうど良い。

そこが我ながら気にいっている。

今年は気温が高めなこともあって、

軽装で出かけることが多い。

関東平野の冬は晴れの日が多いので、

こうした天候をヨーロッパの人に言わせると

羨ましいらしいのだ。

思えば、私があっちへ行った季節も冬だったが、

来る日も来る日も曇天で、

えらく憂鬱になったのを思いだした。

あれじゃ、メランコリーが多いというのも納得。

紅葉を英語でカラフル・リーフと言うらしいのだが、

なるほど、そう言われればそのようにも思うが、

ホントはカラフルじゃなく、

木々の葉が死してゆく、

日本の哀の色の妙なんだけどなぁ。

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水、食料、カメラその他諸々を詰め込んで、

さて、今日はいきなり急坂の急階段を登ることに。

これはやはり息切れする。

年もいってるし…

が、徐々にカラダも慣れ、登るほどに体調も戻ってくるから、

いつも不思議だなぁと思う。。

この日は汗をかいて風邪を治そうという下心もあったので、

ひどい息切れも折り込み済。

登る途中で、

落ち葉があちらこちらから、

はらはらと音を立てて舞い落ちる。

その絵画的風景のなかを、

枯葉を踏みしめてよいしょよいしょと歩く。

この感覚がたまらないのだ。

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小一時間もすると、

約束通りというべきか、

赤土がむき出しの階段が見えてくる。

タオルで汗を拭い、ようやく頂上に辿り着く。

息が荒いので、

見晴らしの良いベンチに腰を下ろし、

水を補給して、しばし一服。

そしてコンビニのおにぎりにかぶりつきながら、

改めて汗を拭う。

周りの紅葉が目に飛び込む。

双眼鏡でパノラマの景色を観察する。

そこには、

とても穏やかで静かな時間が流れていた。

日射しのきらめき、

山々の稜線。

ふっと通り過ぎる風の囁き、

そして

麓にたなびく温泉の湯気けむり。

どれもこれもが美しく、

呆れるほど単純に、幸せだなぁと思える。

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だがホントはね、

カヌーを積んで秩父あたりの湖にでも

行きたいと思っているのだが、

いろいろあっていまだ実現せず。

湖面に浮かべるカヌーの目線で眺める森は、

日頃と全く違う景色を映し出すから、

これまた格別の美しさを味わえる。

人生は短いなぁと、最近富みに思う。

ああ、

デスクにばかり座っている場合ではない。

早くあちこちへ出かけよっと!

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ああ同窓会

小学校の同窓会に出席のため、

久しぶりに電車で地元へ帰る。

前回から確か約20年くらいの間隔が空いている。

皆の顔が認識できるか、

いや、そもそもこの私が認識してもらえるのか?

ちょっと心配だなぁ。

横浜郊外の廃れた駅に降りる。

ここはムカシから薄汚い街だけど、

私の青春の想い出がギッシリ詰まっている。

駅前は相変わらずゴチャゴチャしていて、

猥雑な感じはムカシと何ら変わらない。

真新しいビルを囲むように、

軒が壊れそうなほど古びた店がズラッと並ぶ。

友人数人と待ち合わせ、合流。

よう!と軽く挨拶を済ませ、目的の店へと向かう。

この連中とは年に数回は会っているので、

お互いに違和感はない。

目的の焼き鳥屋は、

ムカシ良く出入りしていたトンカツ屋の横にあった。

店構えは大きいが、一見して安っぽい造りと分かる。

この街にふさわしい。

2階へ上がると30人位が一同に介せる広さがある。

その方々のテーブルに見覚えのある顔が並ぶ。

しかし、やはり分からない顔がちらほら。

20年ほど会っていないのもいるし、

それこそ40年くらい会っていない顔もいるので、

ここは致し方ない。

「久しぶり!」

知った顔の肩を叩いて声をかけた。

「おっ、○○やっと顔出したな、元気か」

「まあ」

「これからはずっと出席しろよ。

みんないつも集まっているんだぜ」

「うん、そうらしいな」

しかしまわりを見渡すと、

やはりと言うべきか、(コイツ誰だっけ?)と

どうアタマを捻っても思い出せない顔がある。

ちょっと焦るがしかし、笑顔で通す。

そのうち分かるだろう…

どうやら向こうは私を知っているらしいのだが…

戸惑いのなかで飲み会がダラダラと進行する。

こうしてみんなまずムカシ話に華が咲き、

あれ(学生時代)からどうしていたとか、

年齢柄、定年、そして持病の話なんかになる。

同窓仲間の第一印象は

当然のことながら皆老けたな、である。

私もその一人であることを実感する。

いつの間にか、

遊び人グループが同じテーブルに集まるも、

これではイケナイという話になり、

みな再び別のテーブルへと散らばった。

こういうところがムカシと違うなと思う。

そつなくオトナになっている訳なのだ。

そして、そこかしこで

ムカシ泣かした奴と泣かされた奴が、

対等に酒を酌み交わしている風景が、

私にはなんとも新鮮な光景だった。

今日の出席率は低いらしい。

そこら辺の事情がチラホラと聞こえるも、

どうも親の介護が多いらしい。

そういう年だものな、

妙に納得できるものがある。

私は真向かいに座った吉田と話し込む。

吉田とは仲が良かったという訳ではないが、

まあ幾度か何かで絡んだ覚えはある。

なかなかのイケメンだった吉田も顔に疲れが見え、

頭髪は少なく、白髪である。

彼は去年サラリーマン人生を終え、

いまは週に数日、近所でアルバイトをしていると言う。

吉田情報によると、

毎日が暇という仲間がこの地元では結構いるらしく、

皆パチンコ屋でちょいちょい会っては、

集まっているらしい。

この会自体、かなりの頻度でやっていると聞いたので、

やはり地元組は何の緊張もない。

酒もかなりまわった頃、

ガキ時代に全く目立たなかったN君が、

やおらマイクを握って立ち上がり

「ええ」と赤い顔で話し始めた。

「そろそろ自己紹介でも始めませんかね」

そう促され、

席を立ち、一人ひとりが挨拶をすることとなった。

知らない顔の幾人かが自己紹介をする度、

私が忘れていた記憶が目を覚ます。

「あっ、あいつか!」

なんだか急に嬉しくなる。

自分が話す番になり、

思わず「初めまして」と言いそうになってしまう。

そのくらい記憶の奥に眠っていた人間が、

いま一同に介している。

思うに同窓生って何だろうと考えた。

同じ時代を生きてきた仲間

同じ季節を過ごしてきた仲間

よくよく考えると、

ひょっとしてこれは凄いことなんじゃないか、

と思った。

そして、みんなの口から、

いまはもうこの世にいない同窓生の名前が、

数人挙がった。

あちらこちらで、ため息が聞こえるのが分かる。

ちょっと胸苦しくなる。

しかし、もうそういう年なのだなと、

私もうな垂れた。

しかしいま、

同窓生がこの懐かしい街で一同に介し、

屈託なく酒を酌み交わしている。

同じ時代を生きてきたから

同じ季節を過ごしてきたから

なのか?

みんな相変わらず

頑張って生きているではないか…

葬儀屋の山本さんのこと

今年は叔母が亡くなり、

お袋のときと同じ葬儀屋さんにお願いした。

叔母は生涯独身だったので私が仕切ることとなった。

同じ葬儀屋さんに頼んだのは、

ここで働く若い青年の印象がすこぶる良かったからだ。

その青年・山本さんと初めてお会いしたのは、

当然というか、お袋が逝ってしまった日だった。

夜半に逝ってしまったので、急きょ電話を入れた。

病院でもうやることもない私たちは、

長いすにもたれて寝るでもなく、

じっと目をつむって時を過ごした。

やがて山本さんが通用門からそっとやってきて、

「お待たせ致しました。

この度はご愁傷様でした」

と深々と頭を下げ、私たちは挨拶を交わした。

簡単かつ要所滞りない打合せを済ませると、

山本さんは一人霊安室に向かう。

彼はまだ若いのに、言葉、所作なにをとっても

万事慎重で落ち着いていた。

昼間に街で出会えば、どこにでもいる二枚目の好青年

というところか。

霊安室からお袋を乗せた寝台車を静かに押し、

乗ってきた寝台車仕様のミニバンに丁寧に、

そして注意深くお袋を乗せる。

そして私たちに再び深々と頭を下げ、

クルマは冬の夜明け前の静かな街に

消えていった。

そして通夜の夜も翌日の葬儀も、

彼が中心となって取り仕切ってくれた。

火葬場へ向かう霊柩車の運転も、

これまた山本さんだった。

思えば小さい葬儀屋さんなので、

一人で何役もこなさなければならないのかと、

その頃になってようやく気づいた。

あれから4年。

叔母は施設で最後を迎えたので、

前もってお袋と同じ葬儀屋さんに連絡しておいた。

このときも山本さんが担当だった。

彼は例に漏れず、

丁寧な物腰で深々と挨拶を済ませると、

叔母を寝台車に乗せ、

すっと横浜の街中へ、

消えるようにクルマを走らせていた。

叔母の葬儀の日、少し時間が空いた。

山本さんという人が無性に気になった私は、

節操も無く、

「山本さんはなぜ葬儀屋さんになったのですか?」

と尋ねていた。

意外なこたえが返ってきた。

「何というか、こういう仕事が性に合っているんですよね」

首を少しひねって、彼が控えめに笑った。

「人の最後っていうのでしょうか、

ご縁で私が係わった方々をですね、

最善のやり方で見送ってあげたい、

そんなところでしょうか」

「………」

この話をきっかけに彼との距離がだいぶ縮まり、

お茶を飲みながら、

続けて私は失礼な質問をしていた。

「山本さんって、霊とか不可思議な事、

そういう類いのもの、

見たり感じたりしたことってありますでしょ?」

「いや、それが全くないんですよ」

彼が大きくかぶりをふった。

そして真面目な顔つきで話す。

「よく皆様に聞かれるのですが、

私の場合、そういうのが皆無なんです。

霊感とかそういうのですね、

私の場合全くないみたいなんです」

それから数ヶ月後の叔母の納骨の日、

お骨をとりに葬儀屋さんへ伺うと、

相変わらず山本さんが待っていてくれた。

「お忙しいですか?」

「ええ、今年は多いですね…

こういう仕事って当たり前なのですが、

だいたいが突然ですからね」

「今日は大丈夫なんですか?」

と私。

「まあ、ですがこの後が控えております」

「度々、申し訳ございません」

お骨と遺影を奥さんにもってもらい、

その足で墓地へ行く段取りだったので、

私たちが向かうこの日も、

彼は無理して待っていてくれたのが分かる。

帰り際、私が

「山本さんには当分お世話になりたくないですからね」

と冗談めかすと、

「当然ですよ」と、

彼が控えめに笑ってくれた。

そして山本さんは、

また何かありましたら…とは絶対に言わない。

当然と言えば当然な職業なのである。

「ありがとうございました」

とだけ言うと、

彼は例によって深々と頭を下げ、

私たちのクルマが信号を曲がるまで、

丁寧に見送ってくれた。

悪夢「生きながら死んでいる」

嫌なタイトルだ。

まあ、そうした夢を見てしまったのだ。

夢の内容はこうである。

俺はどうも湖面の底に沈んでいて、

そこから上を向いて微動だにできずにいる。

前後関係は不明である。

湖面の上に差す明るさから、

どうも世の中は夕方だろうと察した。

水面にさざ波が立っている。

そこに映る葉のない冬の木立が

わずかに揺れるのが分かる。

俺は湖面の底にいながら、息をしている。

しかし、絶対に動けずにいる。

誰かがどこからか俺を監視しているようなのだ。

そして念のようなものを俺に送っている。

「お前はそうやって生きていけ!」

動けない。

もがいてみるも、全く身動きがとれない。

精神的な息苦しさが体中を巡る。

家族も親友も知り合いも、

俺がこんな所に閉じ込められていることを、

全く知らない。

もはや誰も助けに来てはくれない事が知る。

それにしても言葉が考えられないのだ。

いや、そもそも無音の世界らしく、

声という存在もないらしいと気づく。

辛うじて視覚だけが確保されている。

「お前はそうやって生きていけ!」という念。

………

絶望で全身の力が抜けてゆく。

どうやら風邪の治りかけに見た夢なので、

なんだか自分では納得するのだが、

それにしても、夢が描く想像力には驚いた。

で、覚醒が始まると、

ああ、これは夢なのかと感づくも、

いやまだ分からないと用心を重ねる。

と、鳥の鳴き声が聞こえる。

ようやくこれは夢だったんだとほっとするも、

妙な汗が首のあたりに噴き出していた。

しばし布団の上に座して呆然とする。

以前だが、

枕元に誰かがいる気配であるとか、

いわゆる金縛りとかの経験はあるが、

今回の夢は異次元の恐ろしさで

俺に迫ってきた。

孤独と絶望。

そして誰も助けに来てくれないであろう湖の底で

身動きひとつ取れず、

生かさず殺さずじっと息をさせられる恐ろしさは、

経験した者でないと分からない訳だが、

そういう俺だってただの「夢」であるからして、

こうしていい加減に書き綴っているのだ。

しかし、こんな理不尽な事が、

きっとこの広い世界のどこかに存在していて、

その扉は、

きっと秘密の呪文で

固く閉じられているに違いないのだ!

俺の知らない世界。

みんなの知らない事。

想像は、やはり必要の母である。

いろいろな事象、

さまざまな立場、

辛い事、悲しみ、

そして嬉しい事も楽しい事も…

ここは想像力を駆使して、

その人の身になって、なのだろうな?

いろいろと考えさせられる、

恐ろしい悪夢ではあった。

ラフター(笑い)ヨガは、手ごわい!

半年ほど前にラフターヨガっていうのを知った。

いわゆる笑いヨガ。

いまや、全世界に拡がっているというから、

黙って見ている訳にはいかないのであった。

笑うと免疫力が上がるとかストレス解消とか、

まあ、いろいろ健康に良いらしいことは

以前から知っていた。

また、笑うという行為は、

カロリーも効率良く消費してくれるという。

呼吸もヨガというだけあってとてもよろしい、そうなのだ。

オトナになるとあまり笑うこともなくなる訳で、

こうなると顔面の運動不足でもあるし、

不機嫌そうな顔ばかりで愛想がないのもよろしくない。

で、これは良さそうと喰いついた私です。

とりあえずYouTubeを開いて検索。

と、ほうほう、みんな笑っているではないか!

しかし、じっと見ている私は全然おかしくない。

見つめるほどに不思議な映像だな、と私。

ふん、面白いとも何ともないではないか!

しかしだ、ラフターヨガの説明を聞いて分かったのだが、

笑うという行為自体に意味がある、らしいのだ。

おかしくなくても、とにかく笑うこと。

笑えば、脳が騙されるという。

ふむふむ…

そんなものかねぇ?

という訳で、私はパソコンを前にして全身を動かし、

呼吸を真似、勢いつくり笑いをしてみる。

なんか不自然。

けれど、めげずに続けると、

なんだか少しだけ楽しくなる。

部屋には誰もいない。

映像を真似て、ちょっと大笑いをしてみる。

家人がこないか、ふとまわりが気になる。

このとき、笑い消える 汗!

めげずに、ラフターヨガ再開。

大きく手を拡げて、深呼吸。

息を止める。

で、徐々に息を吐きながら「ハッハッハッ」と笑う。

で、グッタリと体中の力を抜く。

そしてだ、

再び、「ハッハッハッ」と大笑いする。

これで私の脳は完全に騙された!

しかし、

いやぁ、そうはいかない、私は騙されないぞ!

と、もう一人の自分が顔を出してしまった。

「オイオイ、困るな!」

―ホント困るんだよな、こういうときに出てくるなっつうの!―

という訳で、自己との格闘がかれこれ20分ほど続いた。

と、汗だくになっているではないか。

息が上がってハァハァしている自分がいる。

「これはいいぞ!」

と思ったのだが、何故か突然不機嫌になる。

「ふん、こんなもんに私は絶対に騙されないぞ!」

おおっ、気がつくと、

再び私の中のもう一人の私が出てきた。

道理でネガティブ。

こうなると、内なる自己の相反する感情の戦いである。

この戦いはもう自分では止められない。

ラフターヨガを巡る内なる二つの感情は、

果たしてこの先、どんな結果を迎えるのか?

あれから暇をみつけ、

幾度となくチャレンジしてみた訳だが、

その日その日毎に、感情の勝敗が分かれるのが、

私なりに分かった。

楽しかったなぁ笑いヨガっていう日もあれば、

ふざけるなよぉ笑いヨガという日は、

ホントにその日はろくな事しか無く、

ストレス満載という日であった事等。

さて、このヨガをこの先も続けるか否かだが、

正直、結構心身共にしんどいのであるからして、

迷っているのがホントのところ。

とりわけ、私の中の内なる戦いが激しいときは、

更に疲れを倍増させる。

さすがにヨガは深ぇ。

恐るべし、ラフターヨガなのである。

アナログレコードを捨てる

永年眠っていたレコードを屋根裏でみつけた。

レコード5

↑捨てられなかったレコードの一部です。

40年~45前のものばかり。

で、思いっきり捨てようと決心する。

が、一枚一枚眺めている間に気が変わった。

ジャケット写真やデザインに、

そのレコードを聴いていた頃の事が鮮やかに蘇る。

うーん、

こうなると、仕分けとなる。

捨てる、とっておく、その判断に苦しむ。

煩悩…

現在、我が家では「捨てる」が流行っている。

当然、要らなくなった物を捨てる作業だが、

これが積もり積もった塵のように、

そこら中からゴッソリ出てくるではないか。

気がつけば要らない物ばかりの中で暮らしていたのだ。

断捨離というのが一時流行ったが、

こういうことなのかと今更ながら納得。

しかし、断捨離ってもっと厳しいらしい。

断=入ってくる要らない物を断つ

捨=家にずっとある要らない物を捨てる

離=物への執着から離れる (ウィキペディアより)

以前、或る女性有名文化人の本を読んだら、

断捨離という表現では書いてなかったが、

要らない物を処分したら、

最後はボストンバッグ一つになったという。

物への執着を一切捨ると、

身軽かつ爽快な人生が待っているらしいのだ。

ふーん、己は甘いなと自戒。

しかし、シンプルライフってカッコイイけれど、

どこか「この世を去る」準備のように思えて、

いまひとつ寂しいように思ってしまう。

「神さま、まだやりたい事がいっぱいあるので、

レコードさえスパッと捨てられません。

どうしましょ?」

そんな心境です。

実際、我が家は捨て続ける一方で、

毎日毎日、本は増え続けているし、

「今度のクルマはやはり黄色いビートルにしようかな」

などとほざいているのであるからして、

断捨離の心なんぞ全然分かっていないし、

未だ物欲で走り続けているのである。

更にレコードを聴くためにですね、

針付きのプレーヤーの無い事に気づき、

早速アマゾンをチェックする始末。

こうなると己の浅はかさに呆れるばかり。

よくインテリ人種が、

「あいつは俗っぽいね」などと、

上から見下ろすように言い捨てるのを聞いた事があるが、

確かにその通り。

それは「私」です、ハイ!

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森の時間、海の時間

冷えた躰は

無骨な木の階段を踏みしめるたび

徐々に上気し

汗も滲むほどになると

おおげさにいえば、

「ああ、生きているんだなぁ」という

素朴な実感

自分の足で踏みしめる

進む、登る

しまいに息継ぎが荒くなって

晩秋の森のなかで

一個の人間が無意味に汗を流している

内蔵も全開で動いているんだろうな

自分という存在が

森という大きな存在に溶けてゆく

木々の葉が無作為に

ある不文律に沿って

ひらひらと遊歩道に落ちてゆく

やがて視界がひらける

やれやれと思うと

鳥があちこちで

鳴いていることに気づかされる

木も鳥も虫も

静かに生を営んでいるんだなぁ

ペットボトルの水のひとくちが

格別にうまい

丹沢山塊の端の展望台から

湘南、横浜、東京を望む

あそこに住んでいた頃のことが

あれこれと思い浮かぶ

良いことも苦い想い出も

この森のなかでは

無色透明に浄化される

視界の爽快感

山歩きの何が心地良いって

それはいろいろありすぎて…

山2

山1

さきほど見えた海が気になって

後日クルマで海をめざす

小一時間で海に出る

若い頃は山なんて興味がなくて

海ばかり来ていた

海ばかり見ていた

海って端的にいえば

くるくるとめまぐるしく

その表情を変えることだろうか

それは若い頃の不安定な心と同調する

若さと海は相性が良い

この日は

遠く霞んで

雲と波の隙間を縫うように

伊豆大島の輪郭がぼんやりと見えた

めずらしくゆったりとした海

凪いでいる表情

こんな海だったら

海沿いに住むのも悪くないと思う

けれど、ゆっくりしっとりと

四季のうつろいを教えてくれる山あいが

いまの自分のリズムにフィットする

時のうつろい

若い頃は分からなかった

いや気にも止めなかったような…

いま愛おしいのは

時間なのだと気づいた

海2

海1

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幾つになっても…

誕生日に花を頂きまして、

それが結構長持ちしています。

しょぼい玄関に飾りました。

花

白いゆりの花も入っていまして、

最初つぼみだったのですが、

これがいま見事な大輪です。

白百合

赤い花の名前は知りませんが、

気にいってます。

毒々しい色が自分と被っていて、

親近感を覚えます。

で、なんたかうれしくて、

だいぶ前にスケッチしました。

対象物にまるで忠実でないところが、

私的には好きです。

1の絵

そういえば、いま平塚美術館で、

「画家の詩、詩人の絵」を開催しています。

平塚

11月8日までやっています。

私は先日観てきましたが、

心に残る作品が幾つかありました。

詳しくは、↓をクリック!

できない場合は、URLをコピペしてください。

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/

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なぜ太るのか、不思議

なんだか最近太ります。

たいして喰ってないのにですよ。

運動もそれなりにしていますが、効果は低いです。

年をとると代謝が悪くなる、なんて言いますが、

それですかね。

あと、心当たりは食後のチョコレートです。

酒をやめてから、甘党になりました。

まんじゅう、ケーキ、あんぱんといろいろ喰いましたが、

最後まで喰い続けているのがチョコレートです。

お陰で、歯医者通いも増えまして、踏んだり蹴ったりです。

チョコは、世界中のを喰いました。

一番美味いのは、やはりオーストリアのチョコです。

おっと、太る話でした。

数年前にかなりスマートになった時期があります。

往年のGパンもすっとはける。

我ながらカッコイイ 汗

Tシャツ一枚でも腹が出てないのでカッコイイ 汗

しかし、そんな良い時期は、人生で一瞬です。

脂肪が黙っていませんから…

で、息子が毎日ジョギングをやっているので、

私もその気になりまして、

ここはまずウェアからだろうと、

まずスポーツ用品店に見にいきましたら、

ウェアって結構な値段するんですね。

ついでに、どうしても似合わない気がする。

何というか、変なんです。

自分的にオカシイ!

カッコ悪いんですよ、私には。

ではということで

「お父さん、じゃあ泳ぐのがいいよ」

と再び息子に促され、

またまたスポーツ用品店に。

で、水着というか海パンですね、

アレ、最近の物ってやたらピチッとしている。

すげぇ密着感が全然慣れない。

気持ち悪い。

おまけにカッコ悪い事、この上なし。

私の場合ですよ。

格好を付けている場合ではないのですが、

かなり悩みまして、

アタマに浮かんだのがライザップのCMでした。

なにしろライザップは

「結果にコミットする」とハッキリ断言している。

で、ネットを幾つかチェックすると

費用としてまず30万円は下らないだろうということで、

即却下。

結果にコミットしなくてもいいだろうと、

いい加減な結論に達したのでありました。

とここまで書いて、

奥さんに何で俺って太るんだろうと話しましたら、

意外な答えが返って参りました。

「何でって、あなたいつも何かたべているじゃない」

「えっ、そう?」

「夕食前からアレコレ結構食べています!」

オオッ、なんと最近太ってきた原因が

やっと分かりました 汗

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ささやかだけど…(しあわせの定義って?)

ろくなもんじゃねぇ、なんて言いたくもなる今日この頃。

仕事、家庭、その他せっこい事柄も織り交ぜると、

生きてゆくとはかなりしんどい事だなぁと感じる訳で…

毎日が楽しくて楽しくて仕方がない、なんていう方が羨ましい。

恋でもしておられるのでしょうか。

健康そのもの。

自動的に大金が舞い込んでくる。

こんな感じか?

どうか一度、楽しく生きるコツを聞いてみたいものである。

でもホントはね、

こういう方たちに対し、私は懐疑的なんです。

何故なら、神さまは私たち人間に、

そんな楽な生き方は与えないから…

ただ、なんというか、死んだら終わりだから、

それならいっそのこと楽しくと、

享楽に走るのも良いかと考えてもみる。

しかし、よくよく思索するに、

こうした場合は享楽でなく、哲学だな。

哲学。

例えば、

貧乏ながら楽しく生きる知恵

愛がなくたって大丈夫という孤独の哲学

人の死にも己の死にも正面から向き合える強さ

己の生い立ちの悪さ、環境をすべて許す寛容さ

そして

―生きるとは何かを悟っている―

こういう方がたまにいらっしゃいます。

いや、

世界情勢も経済も収入も、そんなのカンケーねぇー

働こうが道端で寝ていようが、そんなの気にならねぇー

はたまた、

絵を描いていればそれだけで幸せ

電車に乗っていればそれだけで幸せ

世間にはいろいろな方がいらっしゃるもんだ。

うーん、コツはね、

己のハードルを低くする?

いや、開き直る事?

この話を進めると、いつも泥沼にはまってしまいそうなので、

やはりこの辺でヤメにします。

少し分かったことがあります。

楽な人生はどのみちないってこと、

どのみち苦労はついて回るってこと。

やはりキーワードは

「ささやかな何か」なのだと思います。

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