自由が丘のオッサン

自由が丘へは所用で時たま行くので、

その度、コーヒーを飲む店も決まっていて、

窓際から行き交う人たちを眺めるにつけ、

やはり自由が丘は格好良い老若男女が多いなぁと、

都度、感心する。

東横線でも近隣の繁華街である武蔵小杉とは、

だいぶ人のようすが違う。

武蔵小杉には私の幼なじみが暮らしているが、

彼にしても、極めてフツーのオッサン。

お洒落度も並である。

オバサンもみな庶民的。

武蔵小杉はムカシからそういう街である。

一方、自由が丘のオッサンである。

彼らは、何故かお洒落度がグンと高い。

もちろんキッタナイのもいるが、

逆に格好良いオッサンも際立って多いのが興味深い。

なぜか、

横浜・元町のフクゾーのシャツでキメているオッサン、

リネン素材の鎌倉シャツにトートバッグ、

白のデッキシューズで闊歩しているオッサンなどなど、

この街には格好良いオッサンがゴロゴロいる。

まあ、ユニクロ、イオン、ヨーカ堂シャツ仕様もいるだろうが、

自由が丘のオッサンは総じて、

着こなしが上手いのが特長だ。

私の目を惹いた極めつけのオッサンは、

大型犬を連れ、遊歩道を悠々と歩いていた。

なんというか、

あの独特の赤い発色のポロは、イタリア製と踏みました。

そしてたっぷりした太い自然素材のスラックスは、

パパスであろう。

パパスブランドは、やたら値が高いんで、

私なんぞは店の前を素通りするのみと決めている。

なのに、そのオッサンは

そんな服で遊歩道の何処にでも腰掛け、

犬の機嫌にのみ集中。

汚れたって関係ねぇようすなのである。

その大型犬がなんという種類なのか、

私は初めて見た犬なので全く分からない。

レトリバーであるとかハウンド種であるとか、

そうしたワンコは私にも分かるが、

スラッと伸びた足に程よい小顔。

ウーン、利口そうだ。

うむ、いかにも高そー、

希少ですよ的大型犬であった。

そしてこのオッサンだが、

犬を連れているからには、

ご近所からやってきました、

歩いてきましたよと誰の目にも明らかなように、

適当に人混みを悠々と闊歩したのち、

奥沢方面へとゆったりと去って行ったのであった。

こうした感じのオッサンは早朝の山下公園とか

みなとみらい地区にも現れるが、

なんというか、

自由が丘のオッサンと較べると極めて自然、

ナチュラル、フツーに感じるのである。

何故か自由が丘のオッサンの場合は、

異彩を放っていたなぁ。

この違いが何であるのか、

未だ私には解明できていない。

街が醸し出す個性、犬とオッサンの相乗キャラ、

こんなことをいろいろ考えるのだが、

いまだ結論には至っていないのが悔しい。

分かることといえば、

この自由が丘のオッサンの場合、

金も暇もありますよ、と

暗黙のうちにアピールしているということである。

このオッサンを思うにつけ、

自由が丘の特異性が浮かび上がる。

と同時に、

世の中の生活の格差というものも、

街中においても歴然と露出している訳で、

自由が丘という街は、そうしたサンプルとして、

結構面白い。

まあ、ひがみ根性も混じった私見に満ちた話ではあるが、

こうしたサンプルは、

日本中、いや世界中の至る所にゴロゴロしている。

救われるのは、こうした方々が成功者であるかどうか、

それは分からないが、

そんなことはどうでもいいのであって、

幸せかどうかは、

いずれ知らぬことであるということ。

なんたって、幸せの尺度っていうのは、

外見では分からないどころか、

本人の主観でしか計れないのだから、

やはり世の中は不思議に満ちているのだ!

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テネシーワルツ

最近、テネシーワルツをよく聴きます。

なんというか、じんとくる。

私の幼い頃、

江利チエミさんがよく歌っていたのを記憶していますが、

あの頃はなんとも思わなかった。

ただ、のんびりした曲だなぁと。

柳ジョージさんが亡くなられ、

彼のテネシーワルツを聴いたのがきっかけですが、

パティ・ペイジが歌うのを聴いて、

更に感動。

その意味が知りたくなりました。

テネシーワルツの歌詞を、ざっと書いてみます。

私の愛する彼と、テネシーワルツを踊っていたのよ。

そこで古い友人とバッタリと会い、彼にその友人を紹介した。

彼がその友人と踊ることになり、

そして友人は彼を、私から奪っていったの。

あの夜の出来事とテネシーワルツの調べを、

私はいまでも決して忘れない。

私の失ったものが如何に大きかったか、

いまになって、痛みと共に心に沁みるわ。

そうなの、私はあの夜、とても大切な彼を失った。

二人が、

テネシーワルツの素敵なメロディーに合わせて踊っていた、

あの夜にね。

歌詞を知るに至り、

結構ヘビーな内容なんだなと…

が、よくよく思うに、そんな男って

同性からみても怪しいと言わざるを得ない訳で、

「彼」を想い続ける主人公の純情さに、

更に悲しみが増す、という具合。

この曲の良さって、

メロディーの美しさに加え、

やはり歌詞の意味を知るほどに、

改めて更に深く好きになります。

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断酒とチョコレート

アルコール類をやめて、なんだかんだ10年以上になる。

最近は、なめる程度だが、

再びアルコールに興味をもつようになった。

不思議なのは、舌が酒の味を覚えているということ。

顕著なのは日本酒で、ひとくちで「あぁ、この味ね」と、

飲んでいた頃のことまで思い出せる。

アルコールをやめた訳は面倒なので割愛するが、

アル中になったとか飲酒運転で捕まったとか、

そんな物騒な理由ではない。

以来、飲み屋へでかけることも激減し、

ヤバイ場所へも行かなくなった。

付き合い程度だけとなったが、

そうした席でも、ノンアルコールの飲み物しか飲めなくなってしまった。

相手に飲めない、というとまず返ってくる言葉が

「ウソだろ!」だ。

が、本当に飲めない、飲みたくないのだから、

仕方がない。

酒は飲んでいないとメッキリ弱くなるものらしい。

一時は蔵元まで酒を買いに行ったりしていたのだから、

いま思えば不思議だ。

で、アルコールをやめると、

なぜか甘いものに手を出すようになる。

若い頃から甘いものは一切口にしなかった質なのだが、

アイスクリーム、チョコレート、ケーキなど、

節操なく食すようになった。

甘いものは、よく健康を害すと言われている。

そしてよく太る。

これは間違いない。

いまだチョコレートが切らせない私は、

太るだけでなく、

いい年をして、虫歯の治療に通うようになった。

結果、現在の私は、

チョコにやたら詳しい人間である。

当初は森永とか明治、ロッテの安いものばかり摂取していたが、

あるときから、これらのチョコはカカオの含有量が少ないことが、

カラダで分かるようになった。

同時に香料とか混ぜ物が気になってきた。

こうなると、高級品に手を出すようになる。

先のメーカーの上級品、ロイズ、ハワイ産、

スイスのチョコレート、

果てはベルギーのものまで取り寄せ、

いろいろ食い散らかしてみた。

結局、現在では味も価格的にもほどほどのものだが、

そろそろやめようと思っている。

酒代は浮いたが、チョコの代償は高く付く。

歯医者の治療費、

そして、痩せなきゃという強迫観念。

が、おいしいので、やめられない止まらない!

脳が疲れると、どうしても甘いものを欲す。

冷蔵庫を開け、摂取してしまうのだ。

血糖値も急に上がるので、健康上も良くない。

ターミネーターは強くそして再び蘇るが、

私は現在、チョコレーターである。

チョコレーターは、不健康に太るだけである。

蘇りはしないし。

そこで全然甘くないチョコに挑戦したが、

これがまずいんだなぁ。

ほとほと参った。

いま、再びアルコールに戻ろうか、

真剣に検討している最中である。

チョコレーターを続ける代償が、

余りに重いんでね。

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飯リテラシーを上げろ!

いきなりリテラシーなんていうと、

IT系とか情報に関するアレコレを思い浮かべるが、

ちょっと趣が違う。

飯である。

リテラシーという語は、

最近になって頻繁に使われてる。

元々は識字とかそんな意味だったようだが、

ジャパニーズイングリッシュにより、

「何らかの表現されたものを適切に理解・解釈・分析・記述し、改めて表現する」

という意味に使われている言葉である。(ウィキペディアより)

で、飯をつくるというテクニックも、

リテラシーという括りで捉えてみた。

この飯をなんとかするリテラシーが、

かなり低い私に、

先日、奥さんがこんなことを言った。

「私に何かあったら、

あなた食べるもの、何かつくれる?」

「ううん、駄目かな…」

「でしょ!、

少しつくる習慣をつけた方がいいわよ」

納得!

思えば、最近の自分は何もつくれない。

ウチの息子は、スパゲッティーくらい茹でている。

いや、中華鍋を振っている、という噂もある。

私はというと、即席ラーメンはつくれるが、

スパゲティの茹で方はおぼつかない。

茹で時間とか量がよく分からないのだ。

こんな私でも、

料理人をめざしていた時期があった。

小さな店の厨房に入り、

材料の買い出しから仕込み、

簡単な調理などもこなし、

店を仕切っていた時期もあったのだ。

思い出したが、

あの頃は魚も三枚に卸せたし、

イカもキレイにこわせたのだが…

そういえば、

私は調理師の免許を持っていたのた。

あれから、ん十年、
(きみまろ風に)

私の飯リテラシーは極度に衰えていた。

つい数年前まではやたらに早起きだったので、

せっせと凝った味噌汁ばかりつくっていた時期もあったが、

現在はなんというか、

起きてダランとしているだけ。

キャンプなどへ行っても、

私のアウトドア仲間は調理意欲が極度に低いので、

行きがけのコンビニで、

おにぎりやフライドチキンなどを買い込んで済ましてしまう。

しかし、焚き火とか火起こしリテラシーは高いのだがね。

思えば、料理はクリエィティブな作業である。

冷蔵庫をおもむろに開け、

すばやく目配りをして素材をチェックし、

瞬時にメニューを考える、という早業が要求されるのだ。

私はそもそも冷蔵庫とかに興味がないので、

あまり開けない。

用があって開けることはあるが、

何が入っていたのか、ほぼ覚えていない。

冷凍庫に至っては、

冷気の中に固まっているものに、

そもそも興味も出ない。

よってどこに何があるのか、

まずそのことがよく分からないのだ。

アタマに叩き込んであるのは、

床下収納庫に即席ラーメンとカップラーメンがあるということ。

あとは、ストッカーにレトルトカレーが時たまある。

必要時のみこれらを眺める訳。

しかし、いまどきの男たるもの、

これではイケナイ。

己に強い反省を促してる次第。

できれば、タケノコの酢味噌和えとか、

海の幸の三杯酢のひたしとか、

パルマ産ハムと本場フランスから取り寄せたトリュフをあしらったサラダとか、

手づくりの地中海ヨーグルトをまぶした国産第5等級の仔牛ステーキ、

こんな料理づくりをめざしたい。

切磋琢磨、精進しよう。

そのため、

まずは白米を炊くことからと思いついたが、

炊飯器の使い方さえ分からない己に、

改めて気づいた次第。

我ながら唖然とするね。

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人生という名の契約

フリーとか自営業者、

中小の会社経営者というのは、

長患いをしてはいけない。

なぜなら、早々に喰っていけなくなるからである。

資産を蓄えている、

多額の保険に入っている人は別であるが…

永年、病欠をしたことがないのが自慢であった。

それが2年前に患い、あえなくダウン。

経済的には、なんとか乗り切ったが、

短期間ではあるが、

生活をしていく上での不具合を少々体験した。

特に車椅子に乗って分かったのは、

この国は道路や建物は弱者にはやさしくはない、

ということ。

なにより健康なのが一番だが、

個人的な感想としては複雑で、

多様な人の位置を知る上で、

学ばせてもらったというほうが正しい。

更に本音を言えば、傲慢だった己の反省だ。

そして、その件から遡ること数年、

身内や友人を送り出した頃から、

改めて死という、

その不可思議を深く考えるに至った。

幾ら想いを巡らしても、

この得体の知れないぼんやりとしたものへの不安は、

そもそも幼い頃から取り憑いていた。

最も、20代は仕事や恋愛にもがいていたので、

生きてゆく辛さが身に堪える時期ではあった。

ここで一端、死への不安から解放されるが、

換わりに、生きてゆく或る違和感、

というものを知ることとなる。

それは感覚というか、

価値観のようでもあり、

突き詰めるほどに未だに分からないのだが、

人とズレているという実感。

群衆のなかの孤独、

たった独りという意識の芽生え、

こういうものに気づいたのも、この頃だ。

やがて世間並みに家族というものができ、

孤独感から解放されたのは良いが、

子供が育ってゆく様をみて、

なにがしかの重圧が、

どっと躰を覆っていたのも事実だ。

それは単純に金があれば解決するというものでもなく、

しかし金がなければおぼつかないのは確かで、

馬車馬のように働くのだが、

むなしさなどというものを感じているほど、

暇ではなかった。

そして、

人生も後半にさしかかる頃に、

ひと息ついていたら患った。

いや、自ら求めて患った、

という表現が正しいのかも知れないと、

最近になって思うようになった。

それは、死への不安が、

再び頭をもたげたからに違いない。

かように、生きるとは疲れる。

気がつくと、

行く先には「死」がぱっくりと口を広げ、

にやにやと舌舐めづりしているではないか。

ああ、また死という不可思議である。

やはり、幾ら想いを巡らしても、

この得体の知れないぼんやりとしたものへの不安は、

全く拭えないことを理解する。

そこで、

或る日、私は意図的に

夢をみることにした。

その夢は、

私がこの世に飛び出すとき、

或る契約書を差し出され、

それに夢中でサインをした、という代物。

そのとき、契約書を差し出したのがまた、

摩訶不思議な相手であった。

あの閻魔大王によく似ていたのだから…

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半日で会社をクビになる。

前項に続き、会社を辞めたシリーズ。

いや、今度は辞めさせられたケース、なんですがね。

若い頃はなかなか職場が安定せず、

ふらふらしていた時期がありまして、

短期間に数社を渡り歩きました。

まあ、今回の会社の話も応募者多数だったのですが、

一応、試験をくぐり抜けて入社できたのですが。

出社初日に合格証みたいな紙切れをいただきまして、

ありがとうございますと、まずはおめでたい朝でした。

で、この会社は一般広告だけでなく、

就職関係の雑誌の巻頭カラーページを請け負っていたりと、

煩雑な会社でして、

その雑誌の巻頭には著名な会社がズラリと並んでおり、

我が社はこんなにすげぇ会社なんです、

あなたの夢が叶いますよ、

福利厚生に手厚いんです、

などと美辞麗句が面々と綴られる訳なんですが、

どうもハッキリいってウソ臭いんですね。

そのなかで内情を知っている会社も幾つかありまして、

これから私は毎日毎日ウソコピーを書くハズでした。

ちょっと嫌ですが、

私にはズシンとくる生活というものがありまして、

キレイ事はいってられない事情があった訳で。

東京のマンションの家賃は高いです。

子供が産まれそう~

いろいろな悩みを抱えていまして、

なにはともあれ頑張ろうと意気込んでいた私なのですが、

直属の部長というお方がお得意様のところへ出かける前に、

私にひとつ、その就職関係の雑誌の巻頭コピーを書いておいてくれと、

用を頼んで出かけたのですが…

で、ここからが苦痛となりました。

資料を片手に良いものを書こうと頑張るのですが、

初めて担当した会社がですね、

たまたま良くない噂をかねてから聞いておりまして、

それがどうも上手く払拭できない。

格好良く書こうと思えば思うほど、

冷や汗が噴き出すんですね。

もう格闘です。

確か、部長は昼前に帰ってくるので、

すぐ原稿をチェックするぞと、確かに言い残して出かけました。

こうなると強烈なプレッシャーに弾みがつき、

いよいよ書けない。

しかし、そこはプロとしてですね、

時間ギリギリにとにかく体裁を整え、

キッチリ仕上げたのであります。

が、読み返してみると、

まるで自分のことばになっていない。

結果、空々しい単語の羅列となってしまい、

どうも自分が書いたものとは思えない、

白々しい作文ができあがった次第です。

予定どおり、

サッサと帰ってきた部長が私の原稿に目を通すと、

不機嫌な顔をしたまま、

いきなり部屋を出てどこかへ行ってしまいました。

そして、昼休みに社長室に呼ばれた私は、

問答無用に「辞めてくれないか」と促され、

怒る気もなく、なんだかほホッとして、

その目黒駅近くのキッタナイビルを後にしました。

クビではありますが、

その開放感というのが嬉しくて嬉しくて、

権之助坂商店街で旨いラーメンを食したのを、

いまも鮮明に覚えているのです。

まあ、

あまり自分に無理をかける仕事はイケマセンよ、

ということでしょうか?

この出来事は、後の良い教訓となったのでありますが、

いま思い返しても自虐的に笑えます。

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半日で会社を辞める。

4月になると、新社会人とおぼしき、

初々しい姿を街で見かけるにつけ、

どうしても思い出してしまうことがあります。

或る会社にやっとこさ、入社できたときのこと。

私の場合は中途入社、転職、

それもムカシの話ですがね。

が、気持ちだけは初々しかったと記憶しています。

西麻布のとある広告会社でした。

で、初出社した朝にマイ机をいただき、

なんでかじっとしている訳です。

やることがあるようなないような、

私も廻りもちょっとした緊張感がありましたね。

しょうがないので、

社内の先輩方の仕事ぶりとか、

壁に貼ってある制作済みのポスターなんかを眺め、

まあ、ヒマでそろそろうんざりしてきまして、

午前11時を過ぎたあたりから、

なんだかクソ面白くもねぇーと

内なる私が呟く訳です。

コピーライターとかデザイナーとかディレクターとか、

そうだ、この会社では或る業界の月刊誌も出していまして、

編集の人間も混じってウロウロしている。

要するにみんな忙しいんですね。

で、「私」という即戦力?を使えば良いのに、

そういうことを考える余裕さえないような、

つまらない職場のように思えましてね。

とにかく各自が仕事に没頭しているのか知らんが、

対照的に私は超ヒマでして、

ざっとこれから毎日ここで働いている自分というものに

想いを巡らすのですが、

どうも笑顔のオレさまがいなのであります。

昼になって、朝一で紹介されたなんとかという先輩上司が、

笑顔で私に近づいてきて「メシ、行こう!」っていうのですね。

「ハイ!」

とりあえず良い返事。

(腹減った~)

都会の雑踏のざわついた部屋の片隅で、

寡黙な私は、数時間ぶりに声を発したのです。

その瞬間、天から声が降りて参りまして、

「辞めちまえよ」ってささやくんですね。

ホントは天ではなく、

私の直感のような内なる声なのでありますが、

まあ、そんなことはどうでもいい。

先輩と私と数人が連れ立って、

夜は酒を出しているとおぼしきスナックのような店で焼き肉定食を喰いまして、

帰りに用があると言い残し、

みんなと別れてそのまま日比谷線に乗り、

恵比寿で山の手に乗り換え、

目黒で目蒲線(現在は目黒線)に乗って、

外をぼぉーっと眺めておりました。

その頃、妻がつわりで大岡山の病院に入院していまして、

真っ直ぐ行こうかなとも思いましたが、

心配させるのもなんなので、

大井町線で自由が丘へ出まして、

くたびれた映画館で「パンツの穴」という映画を眺めていたのですが、

さすがにこれはまずいなと思い、

さきほどの西麻布の会社へ電話を入れ、

正式に辞めさせていただきますと…

で、そのまま妻の病院へ行きまして、

「パンツの穴」の話をざっと致しまして、

ついでに会社辞めましたと正直に話しまして、

ゲラゲラ笑っていたのを覚えています。

こうした勝手な決断の反動は、

後々の我が家の経済に大きく響くことになるのですが、

思うにいま同じ境遇にあっても、

私はやはり同様の判断をするのだろうと…

「三つ子の魂百まで」

諺ってホント、

真実を語るなぁ。

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速いクルマに乗ろうと思う。

だいぶ年を喰ったなぁというのが、

この頃の実感。

それは、ぼんやりとだが、

身近に死というものを意識するようになったからなのかも知れない。

しかしだ、

また速いクルマに乗ろうかと、

最近、再び思い始めている訳。

速いクルマといったって、

矢のような早さを求めているのではない。

スポーツカーのようなあの流線型に乗りたいとも思わないし。

カタチは、やはりセダンがいい。

求めているのは、最高速度や高速巡航速度ではない。

いわば加速感。

胸の透くような伸びで、すっと心が軽くなるような…

最近突然そう思い始めた。

ジジィが大型車とかスポーツカーにふんぞり返ってゆったり走る、

思えばこんなのは、かなりつまらない。

ステレオタイプのドライビングスタイルである。

クルマ選びにしても、

速そうで速いクルマっていうのは、カッコ悪い。

速そうで遅いクルマは、更にカッコ悪い。

遅そうで遅いクルマは、そのままで良いが…

普通のナリをしたクルマが突然他を圧倒して、

瞬く間に遠くに消え去ってゆく。

私はそんなクルマがカッコイイと思っている。

かつての栄光もなく、

いまじゃその名も忘れられたクルマの中に、

そんな私のめざす名車が眠っている。

去年、修復不能で泣く泣く手放したクルマが、

そのような1台だったように思う。

VW社のBORA。

このクルマはほとんどの人が知らないか、

または耳にしてもすぐに忘れられてしまうような存在。

車体は小さく、そこそこ軽い。

が、2.3リッター、5気筒のエンジンを搭載し、

足回りは少し柔で不安だったが、

箱根ターンパイクの急な勾配を難なく加速し、

息継ぎすることなく滑らかにグイグイと上る。

パワーウェイトレシオが高く、

5気筒のバラツキ感がまた独特の音を奏でる。

それは全くストレスを感じさせず、

初夏の箱根の爽やかさをより際立たせてくれた。

みてくれは、

トヨタカローラにどことなく似ていたのだから、

ちょっと冴えないし、外観から伺うに全然速そうじやない所もまた、

魅力のひとつだった。

しかし面構えだけは良かった。

また、夜間になると260Km/hまで刻んであるメーターが、

赤く妖しく浮かび上がるから、最初は驚く。

コックピットの些細な演出のみが、

このクルマが実はGTカーであることを、

控えめに誇示していた。

私が考えるに、

名車とは、思わぬ加速で気持ちのズレを修正してくれる

とでも言おうか。

または、相手に瞬時のうちに想いを届けてくれそうな美しさ。

いわば、老いをカバーするように、

若気の勢いを深く宿しているクルマが良いと。

さて、

―こんなクルマをまた手に入れ、

仕事を放っぽり出して、

カミさんと日本一周の旅にでかける―

そんな妄想を最近また抱き始めている。

ムカシのように、

何処へ行くかは気分次第なので、

あらかじめの宿は決めない。

そしてナビは使わない訳だ。

換わりに最新の地図帳を持って行く。

それをいちいち丹念に見たいので、

その時間だけ手間どるが…

そしてLEEのGジャンを後部座席に放り投げておく。

そうだ、ビーチサンダルも積んでおこう!

うん、これじゃ若い頃となにひとつ変わらないじゃないか?

いや、

ホントは、なにひとつ変わりたくないんだと、

最近になって気がついた。

年をとったって、なにひとつ…

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併読のススメ

藤沢周平の「回天の門」を読みはじめたのが、

かれこれ一ヶ月前だったろうか?

割と分厚い本。ページ数にして、550ページ強といったところか。

それまで、アウトドアのMOOKなどを中心に読んでいたので、

ビジュアル中心に目が慣れたこちらとしては、

ちょっと細かい字が辛い。

しかし藤沢周平の作品は、

私の大好きなストーリー、テンポ、時代感なので、

かれこれ20冊以上は読んでいる。

主人公は江戸時代の武士または町の職人が多いが、

市井のひとばかりで、有名人とか大物は皆無に等しい。

登場する女性がとにかく美しい。

顔立ちだけでなく、心根の美人が多い。

この時代ならではの人の機微が、物語を分厚いものにしている。

と、ブックオフにふらっと立ち寄ったところ、

椎名誠さんの未読の本に出会ってしまい、即買い。

これが枕元に並んでしまって、交互に読んでいる。

「ごんごんと風にころがる雲をみた」というこの本は、

椎名誠さんが世界の果てで体験したものをまとめたエッセイ集。

寝る前に読むにはワクワク度が高く、

面白くて少し良くない。

ある時間でキッチリ本を閉じないと翌日に響くので、

そこら辺のケジメが難しいのだが。

で、昼とか夜の空いた時間は、当初「吉野弘 詩集」をぺらぺらとやり、

感動に浸っていたのだが、あるときお笑いの又吉直樹の本を手に入れ、

冒頭をチラ読みしたところ、かなり面白いので、そのまま続行。

こちらも併読となった次第。

このくらいなら、まあこちらのアタマさえ切り替えれば、

キャパの範囲内なのだが、

あるとき、

先輩の編集者のブログで紹介されていた池田晶子さんの本が無性に欲しくなり、

アマゾンで短絡的クリック買い。

到着早々、こちらにもハマってしまった。

で、吉野弘の詩集はなんというか、ことばの力をみせつけてくれて、

こちらとしてはこうべを垂れるしかない。

後はため息か…

そして又吉の、

いや正確には、せきしろ×又吉直樹の「まさかジープでくるとは」は、

かなり実験的な試みも入った意欲的な本で、

七五調や季語を無視した俳句っぽいものを載せたり、

意味深なエッセイや写真が満載である。

が、やはりこの人たちは光る何かがあるなと、

実感させられる一冊。

で、池田晶子さん。

もう亡くなられてしまった方だが、

哲学を平易な文で語ってくれる希有な才能の人。

さらっと凄いことを書くところが魅力である。

タイトルは「暮らしの哲学」。

この平凡な名前の本に、人生とか時間の観念とか、

無、無限、意識、無意識の話がさらっと書いてある。

しかし、難しいのではなく、深み。

季節感溢れる情緒豊かなエッセイとしても、

異彩を放っている。

さて、これら五冊を併読していると、

たまにアタマのカクテル状態に陥ることがある。

特にビジネス中心の昼間など、

あるセンテンスなどが不意に浮かび上がり、

手が止まることもしばしば。

企画書は完全にストップ、

コピーライティング低迷。

見積もりは間違いだらけ、は良くないけれど。

思うに、これらの併読は、

ある意味「毒」ではある。

仕事を阻害する要因としては、

金欠、恋愛に等しい邪悪な環境を作り出す。

が、

♪やめられないとまらない♪

併読は、ムカシ流行ったかっぱえびせんのコマーシャルの如し。

お陰様で、休日も仕事をしている有様です!

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クルマに関する転向動機

アクセルを踏んでエンジンが唸る。

そういうのをちょっとカッコイイと思うのは、

もうすでに過去の人なのだ。

ドリフトとかタイヤを鳴らして加速するなんぞは論外。

そんな時代は、もうとっくの過去に過ぎ去った。

そんな美学にすがりつくオヤジというのは質が悪いので、

時代は更にオヤジを置いてけぼりにしてしまうのである。

目を覚ませ!

で、最近のクルマはというと、

そうですね、

何の音もせず、スッと加速し、

瞬く間に姿が小さくなる、

という具合。

新型は、静か、かつ速いのだ。

ハイブリッドとかEVとか、

その仕組みは私にはよく分からない。

というか、興味はないが、

とにかくそんな類いのクルマが

相当の勢いで増えているのは確かである。

対して、旧車を愛する方々も相当数いるらしく、

ミニクーパーとかカブトムシ、

レビン党、スカG党他、

いまだかなり生息しているのは確かだ。

現在、私の乗っているクルマはごく普通のVWゴルフだが、

それだってバックモニターやら、

なんとかオーディオシステムとか、

しゃべるナビとかいろいろ付いていて、

操作に一苦労する。

というかうるさい!

キーを差し込むと同時に、いろいろ機器が、

アレコレと一緒にしゃべるので、

車内がホントに騒々しい。

でですね、

最新のクルマはというと、

これがもう宇宙船状態なんですね。

あるとき、

これは新型のボルボですが、

そのキャビンを見せてもらったところ、

私は唖然とし、

よく分からないスイッチ類がズラッと並び、

持ち主にアレコレ聞いたのだが、

恐ろしいことに、実は私にも分からない、

というではないか。

人間置いてけぼり…

こういうクルマの進歩を見ていると、

運転のみに集中している時代ではないな、

それが返って危ないのではないか、

などと私なんぞは危惧してしまうのだが、

聞けばいろいろな安全装置とか安全システムが搭載されていて、

それはそれでよろしいらしいのだ。

ふーん。

とまあ、最近のクルマに割と失望していたのだが、

半年ほど前あたりから、

気になるニュースを耳にするようになった。

それは何を隠そう、

「自動運転」というキーワードであった。

私はこの類いのニュースが痛く気になり、

いろいろ調べたのだが、

実用化へのメドは立っているとのこと。

インフラが整えば、、

かなり近い将来の実用化も可能だという。

日産、ボルボなどがその技術の最先端をいくようだが、

いわゆるソフト系のGoogleとかAppleも触手を伸ばしているという。

こうした傾向は、市場がかなり有望であることを示している。

ただ、問題は万が一事故を起こしたときの責任とか、

そうした類いの法整備が遅れているのが現状らしい。

で、私が興味を示した発端は、

現役を引退したら何処へ住もうかという悩みだった。

いつまでも若者ぶってはいられない、

いつまで運転できるのかな、

そんな心配事を想像すると、

やはり駅近とか街中とか、

便利な場所への引っ越しを考えザルを得なくなる。

が、最近の自分的趣味からして、

あまり人の多いところとか繁華街に住むのはゴメンだ、

というのがあった訳で、

郊外に住みつつ何か良い移動手段があったらな?

と考えている最中だったのである。

そこに「自動運転」というキーワードが飛び込んできた。

私にとっては、かなり魅力的な近未来を想像させるニュースだった訳だ。

そう、

じじぃになったら、いまより更に静かな所で暮らしたい、

陽当たり良好、風光明媚。

小さな畑を耕し、近くには川とか湖とか海とがあって…

そんな希望を叶えてくれるのが、自動運転なのである!

街中などに用のあるときは、行き先をインプット。

私はクルマに乗っても、ハンドルは握らない。

で、景色を楽しみながら、いや読書ですか、

そんなことで時間を潰し、

めざすスーパーなり役所なりに自動で辿り着くという、

理想的なストーリー。

じじぃの入口に立った私が、

いまさら時代の流れに逆らったところで、

結構無理が祟っていたのは確かなことではある。

そこで、過去のこだわりを一切捨て、

今後の方針を一挙に180度切り替え、

時代の波に乗るというイージーな人間に変身することにした。

これが私の現在の姿なのである。

裏切り、罵倒、卑怯者。

そう、ムカシの仲間連中からは非難ごうごうだろう。

うーん、だが何と言われようと、

いまは自動運転の実現を切に望む。

ここは譲れない現在の私なのでありました。

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