フジコ・ヘミングのコンサートへ行ってきた

 

 

 

クラシック音楽、好きですかと聞かれると、

それほどでもとこたえるだろう。

正直、クラシックという柄じやない。

 

以前のブログでも書いたけれど、

リストという作曲家のラ・カンパネラを弾く、

フジコ・ヘミングは別である。

 

イタリア語で鐘を意味するラ・カンパネラ。

 

ピアノの高音が魅力的でなければ、

あの美しく荘厳な欧州の教会の鐘の音は、

再現できない。

そして、その音に哀愁のようなものがなければ、

ただの音になってしまう。

 

僕は、ん十年前イタリアのフィレンツェでこの鐘の音を

間近で耳にしたことがある。

 

夕暮れだった。

 

それは、日本の寺院から聞こえる鐘の音と、

ある意味で双璧を成す、

美しくも厳かな響きだった。

 

フジコ・ヘミングは、その鐘の音に

心を宿したといっても過言ではない。

 

ラ・カンパネラという曲をピアノで弾くのは、

超絶技巧である。

それは演奏を観ているシロウトの私でも分かる。

 

リストは、この曲をピアノで弾く際に、

器用さに加え、大きい跳躍における正確さ、

指の機敏さを鍛える練習曲としても、

考えて作曲したというから、

天才のアタマは複雑すぎて分からない。

 

この難曲を正確無比に弾くという点では、

辻井伸行の右に出るピアニストはいない。

彼もこの曲に心を宿しているひとりに違いない。

 

 

では、フジコ・ヘミングの何が僕を惹きつけるのか?

 

それは、人生を賭けたピアニストという職業に

すべてを捧げたフジコ・ヘミングが、

ラ・カンパネラが自身に最もふさわしい曲と、

ある時期、確信したからと想像する。

 

真っ白なガウンのような豪華な衣装で彼女が登場すると、

当然のように満場の拍手がわく。

杖をついている姿はこちらも折り込み済みだけど、

もう90歳近いこのピアニストの演奏を

いつまで聴けるのだろうかと、ふと不安がよぎる。

 

しかし、彼女が弾き始めると会場の空気が、

いつものようにガラッと変わる。

これはどう表現したらよいのか分からないが、

とても強いエネルギーのような旋律が、

その場を別の次元にでも移動させてしまうほどの、

力をもっている。

 

興味のない人でも、たかがピアノなのにと、

平静を装うことはまずできない。

そんなパワーのようなものをこの人はもっている。

 

レコードやCDで聴くのとはなにかが違う。

いや、全く違う。

そっくりだけど別物の存在なのだ。

 

僕はクラシックがあまり好きではないし、

知識も素養もない。

 

だけどフジコ・ヘミングの弾くラ・カンパネラは、

どういう訳か、とても深い感動を得ることができるのだ。

 

 

 

歌があるじゃないか

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。

 

ジャズ入門

 

女性ジャズシンガーの方とお話する機会があった。

 

ジャズに関して私は初心者レベルの知識しかない。

が、ジャズボーカルは以前から興味があったので、

その辺りを尋ねてみた。

 

一体どんな曲から始めれば、早く上達するのかと。

質問が先走っているのは承知だった。

 

彼女の回答はこうだった。

「どんな曲でも良いんですよ」

「こころを込めて歌えば…」

 

なんだか曖昧としてる。

しかし話をはぐらかすようでもない。

適当にこたえている風でもない。

そしてこう切り出した。

 

「○○さんはビートルズはもちろん知っていますよね?」

「ええ、もちろんです」

「初期の頃の彼らの曲は、

単語もコードもシンプルで歌いやすいので、

私たちもライブでよく歌いますよ」

「えっ、ライブでですか?

だってビートルズってジャズではないですよね?」

と私。

 

「そうあまりかたく考えないでください。

ジャズ・ボーカルのとっかかりとしては、

最適なんです」

 

彼女がさらに続ける。

 

「だけど難しさもあります。

ビートルズの曲はみんな知っているし、

その印象が強烈なので、アレンジが難しいんです。

そこを自分のモノにできれば、

ジャズとして成立します」

 

「ジャズってそういうものなんですか?」

「そういうものです」

彼女は笑みを浮かべた。

 

私は正直すこし混乱した。

 

「ジャズで一番大事なのは、なんと言っても個性、

そのひとがもつ持ち味なんです。

そこがしっかりつくり出せると、

自分なりのジャズが歌えるようになります」

 

「個性、ですか」

 

「もちろん。ジャズって個性で歌うものなんです」

 

「………」

 

私は、サッチモが歌うジャズを思い出した。

あのダミ声が、あの笑顔が、

誰をも魅了するのがなんとなく理解できた。

そしてゴスペルのようなジャズが

教会に響き渡るようすもアタマに描いてみた。

都会的なフュージョン・ジャズとして、

シャカタクのナイトバーズもなかなか個性的だなと、

そんなことをつらつらと思った。

 

ボーカルに限らず、

さらに広くジャズを見渡すと、

そこにはとてつもない深みが待ち構えている。

 

ジャズピアニストのジョージ・シアリング、

ハービー・ハンコック、グローヴァー・ワシントン・ジュニア、

スタン・ゲッツ、マイルス・デイビス等等、

その個性がまるで、おのおの小宇宙なのだ。

 

この辺りになると、聴いていてとても心地がいいのだが、

その演奏における技術だとかアレンジの意味合いを考えると

とても難しい。

 

ジャズ評論家という人たちの文章も過去に散見したが、

どうも敷居が高くて近づけなかった。

それはジャズにおける言語化が、ひとを寄せ付けない…

そのように思うのだ。

 

さらに例えるなら、哲学を説く哲人の一言ひとことの

その背後に潜んでいる何かを掴むように、

楽譜にはない箇所にジャズの真髄が如何にあるのか、

それを探さねばならないとか…

 

かようにジャズは底なしなのだ。

 

そんな内容の話を彼女にぶつけると、

少し笑ってこう話してくれた。

 

「要は生き方なのではないでしょうか?

皆さんそれぞれにさまざまに考え、

行動して毎日を営んでいます。

ジャズもそれと同じだと思います。

とても単純なことから難解なことまで、

いろいろあるでしょ?」

 

確かにそのように思う。

 

「ジャズって大海原のような音楽なんです。

とりとめがないんですよ。

そして掴もうとしても掴めない。

人も同じですよね。

だから自分らしく、すべてに於いて自分らしくです。

それがジャズなんだと思います、

そう思いません?」

 

ふーん、なんとなく譜に落ちたような気がした。

 

ではと、

「テネシー・ワルツなら歌えるかも知れませんよ」

と私が図々しく申し出る。

 

彼女が、

「入り口としてはベストチョイス!

で、江利チエミのテネシー・ワルツ?

パティ・ペイジのテネシー・ワルツ?」

 

「いや、柳ジョージのテネシー・ワルツが

いいですね」

 

「それは良いですね、

とにかく一曲でもものにできれば大成功です」

 

「そういうもんですか、ジャズって?」

 

「そういうもんです」

 

ただし、と彼女が言う。

 

「自然にスイングできたらですよ、

スイングね。

技術やジャンルのスイングではなく、

こころがスイングしたら、ですよ!」

 

「………」

 

アタマが少し混乱してきた。

 

なんだか禅問答の様相を施してきたので、

そろそろ退散することにした。

 

それにしても、ジャズって、

なんか宗教に似ているなぁ、

というのが、

最近の私の感想である。

 

 

 

 

自由業ってホントにFreedom?

 

会社を辞めて独立した頃は、

所属も何もないので気楽なものだった。

と言いたいところだが、

世の中はそんなに甘くなかった。

 

特に金融機関である。

ここは外せない事情がある。

 

提出書類に必ず職業欄というのがあって、

その箇所でよく迷った覚えがある。

 

いまもそうだが、フリーなどという分類はない。

自営業とか自由業というのが目について、

まあフリーになったんだから自由業だろうと、

それにチェックを入れていた頃がある。

 

書類に目を通した行員が、

まず決まったように皆、同じセリフを発する。

「自由業ですか、うらやましいですね。

で、どういったお仕事をなすっているのでしょうか?」

だいたいこんな具合に尋ねてくる。

 

彼らは寸分違わず、

ビシッとした紺またはグレーのスーツを着ている。

何故か、銀フレームのメガネ率も高かった。

 

最初の頃は分からなかったが、

話の最中、

彼らはそのメガネの奥底で

こちらをあざ笑っているようだった。

少なくとも私はそう感じた。

 

フリーが銀行から融資を引っ張るのは大変だ。

こちらも事業の明るい見通しなんかを

一応は説明するのだが、

要は生活する金が足りない訳で、

そんな事情を百も承知でからかわれていたのだ。

 

担保などというものは当然ないから、

万が一借りられたとしても金利は高い。

しかし何としても借りなくては生きていけない。

よってやむを得ず銀行へアタマを下げにいくのだが、

そこらへんの事情をまるごと知ったうえで、

彼らは紳士然と振る舞っているから、

まあ、別の日にでも道でばったり会ったりしたら、

突然殴りかかっていたかも知れないけどね。

 

向こうも焦げ付きは出したくないのは承知している。

けれど、こちらは生活していけるかどうかだ。

引き下がる訳にはいかない。

舐められているのを承知で、

アタマを下げざるを得ない。

まあ、いま思い出しても虫唾が走る。

 

では一体、自由業というのは、

どういった方たちを指しているのか?

いまさらだけど、改めて調べてみた。

 

コトバンクによると、

開業医、弁護士、会計士、コンサルタント、芸術家など、

高度かつ専門的な知識・才能に基づく独立自営業者

ないしその職業のことで、第三次産業のサービス業に属する。

とある。

 

うーん、そういうことだったのか。

ひとくちに自由業といっても、

自分には縁遠いことがいまさら判明した。

こういう人たちは、

間違っても銀行に金なんか借りにこないだろうし。

 

で、こうした過去を振り返って思うに、

金も才能もない自由業はかなり苦労するということ。

いろいろな場面で不自由な思いをする。

生活も不安定極まりない。

当たり前だけど。

 

こうした環境は、そのうち心身に変調をきたす。

 

自由業の面々が次々と脱落していったのを、

私はこの目でしっかりと目撃している。

仕事がなくて田舎の実家に帰った者。

アル中で入院した仲間。

サラリーマン・クリエーターに戻った友人。

うつ病を患ったデザイナー等等、

思い出すとキリがない。

嫌になる。

 

こうなると、もはや自由業という名称を疑う。

不自由なことが実に多いのだ。

かつ万が一の保証もない。

そういえば、子供をあきらめた仲間や知り合いも、

何組かいたし…

 

ではなぜ、そんな境遇にもかかわらず、

自由業というカテゴリーを選択したのかだが、

そこがどうもうまく説明できない。

 

しかし、イマドキのフリーの方々に聞けば、

実に明快な解答が出てくると思う。

それもポジティブな意見として。

 

私たちの時代は、

おおげさにいえば社会的に虐げられていた時代なので、

自由業で生活してゆくには、

どうしても決意のようなものが必要だった。

さらに言えば、忍耐を伴う覚悟だ。

 

私的な意見だが私の場合は、

思春期あたりから抱いていた人生観のようなものが、

「自由業」へ向かわせたような気がする。

それは妙に拡大した自由奔放な自我と、

社会のシステムに対する不信、

とでも言おうか。

 

とまぁ少々暗い話をしたが、

リスクをとって余りあるほど面白いのもまた、

自由業なのである。

 

ここが不思議といえば不思議なのだが、

自由業というのは、

社会の或る一部の人間だけを魅了してやまない。

 

軽すぎる例えになってしまうが、

まず格好が自由であること。

私はスーツとか背広が大嫌いだったので、

会社を辞めた途端、

夏なんかはいつもTシャツと短パンで通していた。

あと、会社勤めのときはいつも

出社の際にタイムカードを押していたが、

ああいうものは身体によくないので、

辞めた途端スカッとした。

時間の使い方も自分でコントロールできるので、

子育てに参加できたことも

とても良かったと思っている。

 

ではさて、

いったい自由業を選択するとは

どうゆう事なのか?

 

そこをたいそうに語れば、

人生の賭けであり冒険でもあると、

言えないこともない。

だから多大なリスクをとる。

 

それと引き換えに得るものが、

なにものにも代えがたい。

目にはみえないものばかりだけど…

 

だからあなたや私を、

自由業へと駆り立てる訳だ。

 

 

p.s

新自由業と呼ばれるユーチューバー、独立プログラマーの方々も、

人生の宝島をめざして頑張っていただきたい。

 

p.s2

ちなみに、前出の銀行員の方々はその後バブル崩壊、

平成不況やら、合併に次ぐ合併で疲弊。

いまじゃゼロ金利で経営圧迫され、

人員削減の憂き目なんだそうです。

磐石なエリートでも未来は見通せません。

要は、この世にずっととどまる、

安定しているなんてものはひとつもないということ。

 

だって世界は刻々と変化し続けているのですから…

 

父母生誕100年の件

 

親父とお袋が生きていれば、

今年でちょうど100歳になっていた。

まあ、たらればの話だけれど…

 

ただ祝・生誕100年というフレーズが、

今年の初めから、

私のアタマに渦巻いていた。

 

当初、お寺さんに話をして

縁起の良いお経などをと考えていた。

そんなお経があるのかどうか、

いまでもよく分からないけれど。

 

が、何かが変だと思ったのが、

今年の春頃だったか。

 

もうこの世にいない人の生誕100年を祝ってのお経?

うん、何かがおかしい。

 

お経と既にこの世を去った人というのは、

相性がいい。

が、生誕100年という節目を祝うという行為と、

お経が相容れないのではないか。

 

で、いろいろ考えた末、

アタマに浮かんだのが神社だった。

けっこう安易な発想だなぁと自分に呆れたが、

これが俗世間に生きる者の限界だった。

 

で、近所の宮司さんに相談に行く前に、

まずネットで調べることにした。

で、うーんと唸ってしまった。

 

神社で生誕100年のお祝い事をやった話は、

いろいろなブログで散見されたが、

ウチの場合はすでにこの世にいないので、

こうしたケースは希有だった。

 

まあ、スタンダードではない祝い事と、

その時点で認識した。

 

で、アタマを冷やすべくその件から一端離れ、

ずっと猥雑な日常に埋没していたのだが、

先日、ふとその件がまたまたアタマをもたげてきたのだ。

 

そもそもこの件は、

生誕100年の祝い事なので、

ちょうど100年の節目である今年中に

是が非でも解決しなければならない。

よって夏も過ぎた今ごろは、

何かしらの具体策に入らねばならない…

 

そのように誰かが私にささやくのだ。

 

妙なプレッシャーが降りかかる。

 

ある夜の夕飯時に、この悩み事を奥さんに話した。

実はなんにも期待してはいなかったのだが、

彼女が面白いアイデアを出してきた。

 

この人はいわゆる「千三つ」のような人で、

千回に一回くらいの割合で

すげぇアイデアを私に授けてくれる。

 

「あのね、紅白饅頭がいいわよ。

大きい紅白饅頭を和菓子店に頼んで

それを墓前に置きましょうよ。

それがいいわよ」

 

おおっ、それだよそれ!!

このご時世だ。

人を集める訳にもいかないし、

少々安直だが、いいアイデアだと私は小躍りした。

 

和菓子店もだいたい目星がついた。

が、2.3日が過ぎた頃、

私のアタマに浮かんだのは、

腐ってくずれた饅頭にハエが集っている

我が家のお墓の姿だった。

 

この話を奥さんにすると、

もう話は行き詰まってしまった。

 

沈黙が続く。

 

が、次に彼女のアイデアが炸裂した。

 

「バームクーヘンにしましょ。

向こう(西洋)ではバームクーヘンは、

長寿のお祝いによくプレゼントするらしいわ」

 

おおっ、それだよそれ!!

なんにもアイデアのない私は、

その意見に激しく同意した。

 

千三つの彼女がヒットを2回連続で飛ばしのだ。

すげぇと思った。

 

バームクーヘンは、「ユーハイム」で手配することに決めた。

ウチと息子家族と東京の娘のところに配ろうということも決めた。

ただしバームクーヘンは墓前に置くのではなく、

我が家の仏壇に供えるのがいい…

これは私の意見として取り入れた。

 

この複雑怪奇な案件は、

こうしてようやく結論が出た訳だ。

 

やれやれである。

 

しかしだ、

なぜ両親が生きている間、

親思いでもなかった自分が

そんなことをしようと思いついたのかだが、

それがいまだに自分でも説明がつかない。

 

よく分からないのだ。

 

ただ、強引な結びつけとなるが、

それは、自分の死生観に関係しているような、

そんな気がしていた。

 

人はずっと生き続けている、

というのが私の死生観である。

それだけであるような気がした。

 

がしかしだ、最近になって、

新たな理屈が浮上してきてしまったのだ。

 

思えば、この一件に対する己の執拗な執着は、

実のところ、私の単なる罪ほろぼしではないのか?

という疑惑である。

 

これには自分でも思い当たる節が多々あるので、

前説より十分な説得力がある。

よって罪ほろぼし説に軍配を上げることとした。

 

もうひとつ、最近になって気づいたことがある。

それは、めでたい供物を墓前ではなく、

我が家の仏壇に供えると変更したこと以外、

紅白饅頭がバームクーヘンに変わっただけじゃねーか、

という事実である。

 

ある男のはなし

 

屋根裏から古い段ボール箱をおろして、

中身を確認してから捨てようとしたが、

古く重なり合った手紙の束を1つひとつ開いて、

滲んだインクの文字を追いかけているうちに、

すとんと時がトリップして、私は時代を遡っていた。

 

若い私への手紙はアメリカのサンディエゴからだった。

彼が、アメリカのいとこに会いに行ったときに、

私によこしたものだ。

 

ハンバーガーもマックシェイクも異常にバカでかいから、

そんなもの完食できない。

そして、おまえが横浜で乗り回している改造ビートルなんか、

こっち(カリフォルニア)へもってきたらフツー過ぎて、

誰も振り返らないだろう、

そんな内容だった。

 

すり切れて折れ曲がったエアメールを丁寧にたたんで、

再び封筒に収めた。

 

いままでこの手紙のことはすっかり忘れていた。

 

彼はずっとアメリカ行きに憧れていた。

目的は不明確だったが、

向こうで生活したいとよく話していた。

が、彼のアメリカへの旅はそれ一度きりだった。

 

彼はこっち(日本)で役者への道をめざした。

が、結局その道も数年であきらめることとなった。

生活していくとなると、おのずと限界はあるものだ。

 

役者で売れるというのは、

いわば宝くじに当たるようなものだと、

彼はよく話していた。

端からみていた私にもそう思えた。

 

それから彼はいろいろな職業を渡り歩いた。

得意の英語を活かして

ツアーコンダクターをやっていたこともあったが、

あまりに過酷なのでそれも辞めざるをえなかった。

 

後年、彼はある大手半導体関係の系列会社の社長になっていた。

もがき苦しみながら、彼が手にしたひとつの成果だ。

 

お互いに忙しくてなかなか会えない時が続いた。

 

或る日、彼の訃報が届いたとき、

私は途方に暮れてしまった。

忙しさにかまけていたことを深く後悔した。

 

彼の奥さんからお墓が決まりました、

との連絡を受けたとき、

私はなぜかほっとした。

 

さっそく彼の墓を訪ねた。

その墓園は、若い頃二人でよく走った、

なじみの国道の近くだった。

 

彼の墓石にこんな言葉が刻まれていた。

Memories Live on (思い出は生きている)

 

遠くから国道を走るクルマの騒音が聞こえる。

私の胸が詰まった。

 

ブルーレモンをひとつ リュックに詰めて

 

君の好きなブルーレモンをひとつ

リュックに詰めて僕は町を出たんだ

 

あの町では永い間もがき苦しんだが

結局 退屈な日々は寸分も変わらなかった

 

とても憂鬱な毎日

それは安息のない戦いと同じだった

 

いま思えば平和に見せかけた戦争は

すでに始まっていたのだろう

 

僕は町で予言者のように扱われた

それは来る日も来る日も

これから先もなにも起きないと

僕が町の連中に断言したからだ

 

僕にしてみればすべてが予測可能だった

同じ会話 同じ笑い あらかじめ用意された回答

そして疑問符さえも

 

気づいたときすでに戦いは始まっていたのだ

それはひょっとして町の時計台の針が

何年も前からずっと動いていなかったことに

関係があるのかも知れない

 

不思議なことに

そのことには誰も気づいてはいなかった

 

僕らは町に閉じ込められていたのだ

 

どんよりと曇った夏の日の夕暮れ

僕は町の図書館の地下室の隅に積まれていた

破けた古い地図とほこりに汚れた航海図を探り当てた

それをリュックに詰めて町を出たのだ

 

思えば 町の境には高い塀も鉄条網もない

しかし 誰一人そこから出る者はいなかった

そして外から尋ねてくる者も皆無だったのだ

 

 

町を出て二日目の夜

僕は山の尾根を五つ越えていた

途中 汗を拭いながらふと空を見上げると

青い空がどこまでも続いていた

それはとても久しぶりの色彩豊かな光景だった

 

そして相変わらず僕は

誰もいない一本の道を歩いている

 

この道はどこまでも続いているのだろう

 

道ばたに咲く雑草の葉の上の露が

風に吹かれて踊っている

すぐ横をすっとトンボが過ぎてゆく

 

光るその羽を見送ると

僕はようやく肩の力が抜けた

 

ため息がとめどなく口を吐く

 

歩きながら僕は考えた

いつか町へ戻れたのなら

僕はこのいきさつをすべて君に話すだろう

すると君は深い眠りから目覚める

そしてようやくふたりの時計は

再び動き出すのだろうと…

 

それは希望ではあるけれど

とても確かなことのように思える

 

何かを変えなくてはならない

その解決へとつながるこの道を

僕は歩いている

それはいつだって誰だって

独りで歩かなくてはならない

 

誰に言われるまでもなく

自然にあるがままに

 

 

イエロー・サブマリン

 

少年はいつも独りだった。

小学校では、休み時間になると

みんなが教室の一カ所に集まって、

ワイワイはしゃいでいる。

少年はそれが苦手だった。

 

みんなの脇をそっとすり抜けて、

校門を出ると、少年はほっとした。

いつものように少年は家に戻って、

プラモデルづくりに熱中した。

 

いまつくっているのは潜水艦サブマリンだ。

黄色い船体はだいたい組み上がった。

あとはスクリューを付ければ完成だ。

 

2日後、少年はサブマリンを手に、

近くの公園にある池にでかけた。

池はかなりの広さで、鯉や鮒が

ときどき顔を出した。

 

池の水は濃い緑色をしている。

少年が水辺にしゃがんで、

サブマリンのスイッチを入れると、

スクリューがブーンとうなった。

それをそっと水中で手放す。

 

サブマリンの黄色い船体が、

みるみる沈んでゆく。

黄色い船体はやがて緑色の水のなかに消えた。

 

サブマリンを初めて模型店でみたとき、

少年はこれだと思った。

いままで戦車ばかりつくっていたが、

飽きがきていた頃だった。

ヨットや戦艦もつくってこの池に浮かべたが、

なにか物足りないものがあった。

 

模型店のおじさんが潜水艦の説明をしてくれた。

サブマリンはとても優秀な模型で、

一度水中に潜っても数分後には浮上し、

また潜っては再び浮上する。

それを繰り返すとのことだった。

 

少年は池の淵に立って

水面をずっと凝視する。

と、ずっと遠いところで

黄色い船体が浮上するのがみえた。

 

少年はその方向へと走り出す。

船体は再び潜ってしまった。

そして数分経ったが

黄色い船体がどこにも現れない。

 

少年は気を揉んだ。

サブマリンより大きな鯉が、

あちこちで空気の泡を出している。

 

夕陽に光る水面を、

少年はなおも凝視した。

 

その日、潜水艦は二度と浮上しなかった。

 

翌朝早く、少年は池に走った。

潜水艦の姿はどこにもなかった。

とうに電池は切れているハズだ。

 

少年は落胆した。

 

遅刻しそうなので、少年は学校へと走った。

チャイムが鳴ると同時に、

教室へと滑り込む。

みんながけげんな顔をして少年をみた。

少年はそのとき、

顔を赤く染めて泣いていた。

そんな顔を教室のみんなも初めてみたのだ。

 

少年はそれでも泣き止まなかった。

とても悲しかったからだ。

 

そのとき、数人が彼に近寄って、

「どうしたの?」と声をかけた。

少年は何も言わず泣き続けた。

少年は予期せず、

みんなの前で初めて

感情あらわにしたのだ。

 

そして少年は少しずつ、

まわりの同級生に

事の次第を話しはじめた。

やがてその話は教室中に広まり、

とうとうホームルームの話題も、

少年のなくした潜水艦の話となった。

 

そして、みんなで池に行って、

サブマリンを探すことになった。

 

が、結局みんなでいくら探しても、

あの黄色いサブマリンはみつからなかった。

 

とてもシャイな少年は、

その日を境に徐々に変わっていった。

 

プラモデルづくりの時間が減った。

それは、教室のみんなと話す時間が増えたからだ。

 

少年のなかで堅い壁のようなものが

ガラガラと崩れていった。

 

或日、少年はみんなを連れて池をめざした。

手には黄色いサブマリンがある。

2艘目の潜水艦だった。

 

「さあ、進水するよ」

 

少年がいま手放そうとしている黄色い船体を、

みんなが見守っている。

 

潜水艦はみるみる水中へと消えた。

鮒が銀色の腹をみせた。

鯉の口がプカプカとやっている。

 

水面はあの日と同じように、

キラキラと光っている。

 

以前とは、すべてが違っている。

少年にはもう何の不安もなかった。

 

少年はそれがとてもうれしかった。

 

 

あやしいバイト

70年代の中頃だったか、
僕は沖仲仕という仕事をしたことがある。

沖仲仕とは、港湾労働者のこと。

港で荷役をする肉体労働者だ。

いまは、荷物はだいたいコンテナなので、
大型クレーンでそれを吊り上げれば、
事足りる。

僕の若いころは、
それを人力でやっていたのだ。

岸壁に直接接岸できない大型の船だと、
荷を受け取って港におろすため、
小さな船が間に入らなければならない。

その荷物をひとつひとつ人力で
作業するのが、沖仲仕だ。

陸と海の間を取り持つ仕事なので、
沖仲仕。

船に揺られながら、一日中荷役をする。
波の荒い日は、吐く人間も出る。
真夏の暑い日などは、昼飯ものどを通らない。

僕がなぜそんな仕事にしたのかだが、
趣味のクルマに入れ込んでしまい、
借金がかさんだのと、
あとは遊びすぎてしまい、
それらの返済に追い詰められていたからだ。

当時のバイトの相場は、
一日3000円くらいだった。

普通のバイトでは、全く返済に追いつかないと
悟った僕は、突飛なバイトばかり探していた。

当時はベトナム戦争が激しかったので、
金に困っているある知り合いは、
戦死した米兵の死体洗いを真剣に考えていた。

そのバイトの噂は、
若い僕らの間を駆け巡ったが、
では一体どこへ行けば
そのバイトをさせてくれるのか、
まず入口のようなものが、
結局誰も分からなかった。

バイトは、日当3万円~5万円くらいだったと
聞いた。

あれは都市伝説だったのか、
それはいまでも分からない。

バイトの内容はこうだ。

プールのようなところに死体が
いくつか浮いているので、
一体ごとに回収して、
身体じゅうの穴という穴に脱脂綿を詰め込み、
死体をきれいに拭いて、棺におさめる。

そのような内容だった。

僕は臆病なので、
そうした恐ろしいことには
とても耐えられない。

次にバイト代が良かったのが、
一日1万円もらえる沖仲仕だった。

この仕事も、ひとから聞いた話からだった。

まず、朝の7時だったか8時だったかに、
横浜の仲木戸駅の付近をプラプラする。
それも何かを探しているように。

すると、手配師と呼ばれる
人集めがやってきて声をかけてくる。
そこで仕事の概要とギャラを提示する。

合意すると、紙っきれの簡単な文面の下に
朱肉で親指の拇印を着く。

そして10人くらい集まると
マイクロバスに揺られて、
岸壁に着く。
で、小型の船に乗り込む次第。

そんな仕事にやってくる人間は、
やはりと言うべきか、
皆一様に訳ありというか、
一癖も二癖もありそうというか、
外見からしてフツーな感じがしない。

これは後に気づいたのだが、
どのひとも家のないのは当たり前で、
木賃宿でその日暮らしが多かった。
公園とかで寝ているひともいた。

が、お互いにどんな人間なのかなんて、
誰も話したり触れたりしない。

酒焼けと日焼けが混じって、
どの顔もどす黒くて、
やたらとシワが深い。
歯が抜けているひとも、
かなりいた。

仕事は殺伐としていた。

すぐケンカが始まる。
それがひんぱんだった。

あるとき
血だらけのふたりが殴り合っていた。
現場監督がそれを見つけると、
平然とヘルメットでふたりを殴って、
そのケンカはおさまった。

それが日常茶飯事。
普段の風景なのだ。

あるとき、頭上数十メートルから、
クレーンに積んだ荷が船に落ちてきた。

僕のすぐそば、
50センチから1メートル近くで、
ドスンとすごい音がした。
当たっていたら確実に死んでいた。

驚いてまわりを見渡すと、
誰も顔色ひとつ変えない。

恐ろしい仕事だと思った。

この激しい労働の後は、
心身ともにズタズタになる。

どうしてもまともではいられない。

酒場、キャバレーと渡り歩く。
でグダグダに酔って、
やっと正気に戻れる。
そうでもしなければやってられない。
そんな仕事だった。

極度の疲労とストレスと恐怖。

それを紛らわすのに
すべて使い果たしてしまう。

そんな仕事は数週間でやめた。

金が貯まらないどころか、
命があやうい。

借金なんか減る訳もない。
明日のことも考えられない。
夢も希望もない。

ただ心身の疲労だけが、
いつまでも残っていた。

が、ふと思ったのは、
僕にはやめることのできる選択肢があった。
他で新たなバイトを探せば、
なんとかなる。

では、あのひとたちはどうだろう?
あの仕事の毎日は、残酷過ぎる。
考える余裕も体力の回復もないまま、
日々が過ぎていってしまうのではないか。
その先はみえている。

それを思うと、極度に憂鬱になった。

このバイトでの経験は、
僕にいろいろなことを教えてくれた。
それは経済的なことだけでなく、
これからどう生きていくか、
ということも含めて。

それからしばらく、
僕は時給の安いコーヒーショップで働いた。

それはとても穏やかな日々だった。

 

 

真夜中の訪問者

 

最近、寝るときの

妙な習慣について書きます。

 

本を閉じてさあ寝ますというとき、

下になった一方の手を

反対の肩に乗せてからでないと、

どうも落ち着いて寝られない。

 

この動作、分かりますか。

ややこしいですかね。

 

では。

右肩が下なら、

右手を左の肩にのせる。

これでどうでしょう、

分かりましたか?

 

この動作って変ですよね。

でもそうするとなぜか安心できる。

すっと眠ることができるのだ。

いつからそうなのか忘れたが、

自分でも妙な癖がついたと思っている。

 

まだ寒いので、

冷えた方の肩に手を添えると、

手がとても暖かいので、

ホッとする。

このあたりまでは、物理的な話なんですが。

 

が、それだけではない。

自分の手なのに、

誰かの手のように感じる訳です。

その誰かが、しばらく分からなかった。

なんというか、

とても大きななにかに守られているような。

その感覚に包まれると、

心身ともにやすらぎさえ覚える。

 

数ヶ月が過ぎたころ、

それがとても遠い日の感触だと、

突然気づいたのだ。

 

母が亡くなってから数年後、

私は不思議な体験をしたことがある。

夜中になぜかふと目が覚めた。

2時か3時ごろだったと思う。

部屋の入口にひとの気配がした。

うん?と思い振り向こうとしたが、

首を動かそうにも、全く動かない。

畳を踏む音がして、

僕のベッドに近づいてくる。

 

不思議なことに、

このとき恐怖心などというものはなく、

脱力するような安堵感さえ感じられた。

その気配は僕の枕元でじっとしている。

僕は全く動くことができないでいた。

 

どのくらいの時間が経過したのかは、

全く分からない。

数十秒だったような気がする。

数分だったようにも思う。

 

「おふくろだろ?」

僕は心中で、その気配に話しかけた。

その問いに、気配は笑っているように思えた。

 

なぜ母だと思ったのか、

それは分析できない。

いまでも分からない。

ただ、とても懐かしい感じがしたのだ。

そして母だという確信は、

僕の記憶の底に眠っていた。

 

幼いころ、

母は僕を寝かしつけるのに、

いつも僕の肩に手を添えてくれていた。

僕の最近の変な癖について、

突如として思い出したのは、

その遠い記憶だった。

 

それが自らが作り上げた

こじつけなのか否かは、

自分でもどうもうまく解決できない。

説明がつかない話は、

世の中に幾らでも転がっている。

いまでは、そう思うことにしている。

 

それにしても、

僕がいくら年老いても、

母は依然として母であり続ける。

それは、永遠に変わらない。

妙なことに、それが事実なのだ。

 

そしてそう思うほどに、

生きている限り、頑張らねばならない。

真夜中の訪問者はいまだ変わることなく、

僕にやさしくて厳しい。

 

そういう訳で、

僕の寝しなの妙な儀式のようなものは、

当分続きそうな気がするのだ。