色褪せないコトバ

 

「オトコは愛するオンナの最初のオトコになることを願い、

オンナは愛するオトコの最後のオンナになることを願う」

 

アイルランド出身の詩人で劇作家・オスカー・ワイルドの言葉だ。

彼はまたこうも言う。

 

「流行とは、見るに堪えられないほど醜い外貌をしているので、

六ヶ月ごとに変えなければならないのだ」

 

なるほど!

さらに…

「社会はしばしば罪人のことは許すものだよ。

しかし、夢見る人のことは決してゆるさない」

 

彼によれば、

犯罪者というものはときに許されるものであるらしい。

しかし、夢見る人というのは決して許されない。

 

人がもつ複雑かつ深層のようなものを、

彼は、この頃すでに指摘している。

 

例えば、あなたが夢を語ると、

即座に「それは無理だ」という人がいる。

夢を追うことに対しても何故か「いい加減にしろよ」

などと不機嫌になる人もいる。

 

こう言う彼ら彼女らは、

実はみな一様に自分に自信がなかったり強さがなかったりで、

夢をはるか遠いムカシにあきらめてしまった人たちなので、

あなたが夢を実現してしまうのではないかと不安を感じ、

悔しくて仕方がないから、ただ足を引っ張っていると思って

間違いない。

 

これもオスカー・ワイルドによる分析。

 

私たちは訳知り顔でそう助言してくれる相手の言葉に、

不思議にありがたがり、揺り動かされ、振り回され、

自体はさらに混迷へと向かってしまうのだが。

 

と言う訳で、

オスカー・ワイルドという人は、

神がかり的に人生の総てを見抜いていた。

友人、恋人、社会の入り組んだ糸の仕掛けが、

彼にはくっきりと見えていた。

 

真実をみつめた言葉は、いつの時代も変わらない。

だから、彼の残した言葉は普遍的で色褪せない。

 

とここまできて、では、オスカー・ワイルド自身は、

どんな人生を歩んだのか?

 

記録によると、とても残念だけど、

彼の最後は、酷く孤独で惨めな死に方だったと言う。

 

うーん、そういうこと?

 

実のところ、ここがポイントなのである。

 

人生って結局よく分からない。

予測不能でミステリアス。

 

だから、とりあえず幸せを求めて、

誰もが一生懸命生きている。

 

ありきたりだけど、結局のところ、

私たちの知恵って、それで精一杯なのではないでしょうか?

 

 

さあ、出かけよう! (旅の考察)

 

旅行する機会が減りましたね。

不満が溜まります。

皆そう言う。

ボクもそう思う。

 

人にとって、

旅行は欠かせないものである。

なぜなら、旅行で得られる非日常感が、

日頃のマンネリから解放してくれるからである。

 

という訳で、人には時おりでも非日常がないと、

どうもうんざりしてしまうイキモノらしい。

だから、移動というイベントをやめないのだ。

 

以前、本屋でこんなタイトルの本を目にした。

「旅するように生きる」(作者は不明)

なんか格好いいんですよ、題名がね。

で中身はというと、これが分からない。

なんせ買ってないから。

 

本の帯にはこんなニュアンスのコピーが書いてあった。

―幸せに生きる極意が満載!!―

こういう売り文句に弱いんですが、

この手の本ってだいたい内容が薄くて、

ペラペラなものが多い。

で買わなかった。

けれど、いまさら気になるな。

 

とここで気づいた方もいると思うけれど、

話は旅行ではなく「旅」に移行している。

微妙にスライドしている訳です。

 

旅行も旅も同じじゃねぇ!

との声も聞こえますが、

どうもこの両者には、

いろいろと違いがあるらしいのだ。

 

端的な違いとして、

「旅行」はまず目的地があって、

そこで楽しむのが主であり、

日常を離れて新たなものに触れたりするもの等、

予定調和的なものであるらしい。

対して「旅」は自分でつくるもので、

不確定要素を多分に含み、

その道程に於いて自己を高め、

冒険的要素もある、ということらしい。

 

らしいとは他人事のような書き方だが、

調べると概ねそんなニュアンスなのだ。

 

海の向こうでは、

旅行のことを「トリップ」とか「トラベル」と訳し、

旅を「ジャーニィー」と訳しているんだそうな。

その違いだが、「トリップ」とか「トラベル」は、

比較的短期間で目的のある旅行、

対して「ジャーニィー」は目的までのプロセスを重視し、

そこでの体験から得られるものがある、

または自己成長があるもの、となる。

 

まあ、旅行は自己を解放して楽しむ、

旅は、困難を通して自己を高める、

そんな違いがあるのではなかろうか。

 

旅の話は続く。

 

旅というものを時間軸で捉えると、

私たちは絶えず「時」を移動している「旅人」とも言える。

 

人はひとときも欠かさず、時間の旅を続けている。

そういう意味に於いては、

私たちの人生そのものが、

「旅」なのだとも言えてしまう。

 

こう考えると、

人にとって「旅」は意味深である。

 

時間の旅人か…

 

たとえば仏教に由来する教えに、

「旅」とは、あの世からのきた人が

この世を旅することであり、

この世の生きる姿は

通りすがりの旅人の姿、

ということになるらしい。

 

これはボクが要約したので、

多々間違いがあるような気もするけれど…

 

その旅についてさらに考察すると、

人はいったい次元の異なる旅をするものなのか、

旅の最終は宇宙の果てなのかとか、

興味は果てしなく尽きることがない。

まあ、いくら頭を捻ったところで、

どうにもならないけれどね。

 

さて、冒頭の旅行の話から始まって、

かなりぶっ飛んでしまいました。

けれど、さらに旅の話の続きを、

もう少しだけ。

 

私たちはいわば、

同時代を生きている旅人であるということ。

同時代に生きている関係性って、

なんだか感動しませんか?

それは偶然ではなく、

ボクは必然のような気がしてならない。

 

(「旅人」であるボクたち私たちのどこかに、

潜在的に組み込まれた旅のプログラムがある…)

 

私たちはみな、ライフトラベラーであり、

同じツアーの同伴者なのだ。

さてこのひとときも、旅の途中。

 

おおいに楽しもうではないか。

 

 

憧憬の「山下公園」

 

小学校3年のとき両親に連れられ、

初めて山下公園へ行った。

 

ボクがよく遊んでいた近所の小高い丘から、

遠く横浜港がみえた。

その湾に突き出したように位置しているのが

山下公園だった。

 

でかけてみると、

自宅から山下公園までは、

電車の駅にしてたったの4駅だった。

が、当時はとても遠方にでかけたように感じた。

 

山下公園の海側に設置してあった一回10円の望遠鏡で、

ボクは興味津々に、ほうぼうをのぞいた。

 

きらきらとした海。

その波の上をヨロヨロと進むはしけや、

大桟橋に停留している初めてみる大型船。

 

気持ち良さそうに飛んでいるカモメたち。

 

が対岸に望遠鏡を向けると、

そのあたりにあるであろうボクの住む町は、

工場と煙突ばかりだった。

空はどんよりしていて、

スモッグですすけていた。

 

公園を3人でゆっくりと歩いた。

噴水というものを初めてみた。

歩く両脇には珍しい花が咲き乱れている。

停留している氷川丸の白がまぶしい。

 

対岸のボクの住む町とは、

全くの別世界のように思えた。

 

よく自宅から歩いて工場街の先にある岸壁へ行ったが、

そこはゴミが山のように溢れていて水面がみえない。

イヌやネコの死骸がプカプカと浮かんでいることもあった。

 

その近くにはいつも船が数隻停まっていて、

船上で荷仕事をしているおじさんたちが、

不機嫌そうな顔をして働いていた。

 

おじさんたちがボクらをみつけると、

必ずといっていいほどなにか大声で怒鳴っていた。

 

みなボロボロの服を着ていた。

 

× × × × ×

 

そして、時代は変わり、

ボクは学生になり、社会人となり、

時は夢のように過ぎていってしまったのだ。

 

老いが見えはじめた頃から、

その懐かしさ故、よく、みなとみらい線で

山下公園を訪れるようになった。

 

高速道路が複雑に建設され、

騒々しいあの造船所も、とうの昔になくなり、

臨海部は開発に次ぐ開発で、

昔と全く違う街に生まれ変わった。

 

海沿いの通りをレトロな「あかいくつ」バスが走り、

高層ホテルと大きな観覧車の間をゴンドラが通る。

 

が、相変わらず夕暮どきのこの景色が、

昔のままのように思ってしまうのは

なぜなのだろう?

 

そして昔と同じように、

ボクの住んでいたあの町へ目を向けると、

その数はかなり減ったものの、

相変わらず、立ちのぼる煙は上へ上へと風になびいて

天をめざしている。

 

桜にまつわる話

 

あるときは目黒川で、

またあるときは大田区の洗足池あたりで、

桜の咲く時期になると、

アルコールを煽っていた。

 

いまは一切飲まないが、

若い頃は、花見で酒を飲むというのは、

普段は孤独なフリーにとっては、

仲間で集うことで救いにもなっていた。

そんな気がした。

 

しかし、あるときから、

そんなことはどうでもいいことと、

少し強くなった自分がいた。

 

自分の立ち位置を掴んだ時期でもあった。

 

そして後に全く別の理由だけど、

アルコールをやめることとなった。

 

酔いというものがどうゆうものか、

いまではすっかり忘れてしまった。

 

あのむせるようなソメイヨシノが満開の下で、

濃いアルコールをグイグイと飲んでいたのは、

あれは実は私ではないのでないか、

と思ったりもする。

 

あれはきっと、夢なのだ。

そう思うことにしている。

 

こうして桜を眺めていると、

実にいろいろな春を思い出す。

 

とても辛い思い出は小学校のときの転校だった。

親の都合で3月の中頃に引っ越したので、

編入したクラスでも

中途半端な転校生と言われた。

 

知らない町で友達もできないまま、

3学期も終わってしまい、

やることも話す相手もいないので、

自宅のある新興住宅地の裏の山道を

ひとり歩いていると、

木々の間から可憐な山桜がのぞいた。

その淡い色あいや小ぶりな花が、

寂しい私を少し励ましてくれた、

ような気がしたものだ。

 

先日、桜祭りで有名な観光地を通る機会があった。

そこに人気はなく、無駄に大きな「中止」の看板が、

立てられていた。

 

満開の桜の木々の間を車で通り抜けるとき、

前方の景色が、

ほぼピンクの世界に染まっているように思えた。

 

やたらとまぶしい派手なピンクの世界…

 

ううん、やはりこういうのは苦手なんだと、

改めて気づいた。

 

幸福な時間とは

 

最近、絵を描くことに挑戦しているが、

ぜんぜん上手くならない。

 

雑誌「一枚の繪」もかなり買い込んだ。

ぺらぺらと眺めていても、どれも上手い絵ばかり。

 

Pinterest(ピンタレスト)という画像アプリで、

仕事の空いた時間に世界の名画とか印象派の絵、

ニューヨークアートなどもけっこう丹念にみているが、

やはりため息しか出ない。

 

そのうち、何のプラスにもならないような気がしてきた。

 

そもそも小さいときから絵は下手だったし、

図画工作の時間も苦痛だった。

なのに、中学一年のときの美術の時間に

クリスマスカードを描くことになり、

そのときアタマにパッと絵が浮かんだのだ。

 

雪のなかをトナカイが、

サンタを乗せたソリを引いて疾走している。

背景には北欧の針葉樹が雪をかぶっている。

遠くに赤い家がポツンと建っている。

 

誰でも思いつきそうな絵柄ではあるけれど、

そのときは我ながら「すごい」と思ったのだ。

そして思いついたからには、それを必死で描いた。

こればかりはかっこよく描かなくちゃ…

 

必死で描く理由が他にもあった。

同じクラスの好きな女の子に、

その絵をプレゼントしようと考えていたからだ。

 

結果、先生にも誰にも褒められなかったし、

ひいき目にみても上手いとは言えない出来だった。

 

結局そのクリスマスカードは好きな子に渡すこともなく、

机の引き出しのなかにしまい込んでしまった。

 

けれど、この創作の時間というものには、

思いがけない収穫があった。

夢中で描いていたあの時間が、

あとでとても幸福だったと気づいたからだ。

 

あの濃密な時間は不思議なひとときだった。

 

それはギターの練習でも味わったし、

高校の吹奏楽部でのトランペットの練習でも、

拳法の鍛錬でも味わった。

受験勉強も仕事でも、たびたび感じることができた。

 

それがいわば集中力というものと同じなのか、

僕には分からない。

 

けれど、その基準はきっと、

「時の過ぎるのも忘れてしまう至福のとき」

だったような気がする。

 

 

そしてもうひとつ気づいたことがある。

 

絵が上手いとはどういうことなのか?

その疑問が今日まで続いている。

 

絵画教室というのもあるけれど、

どうも気が進まない。

そういうところで習ったひとの絵を

幾度となくみたことがある。

皆ホントにみるみる絵が上達するし、

上手いとは思うのだけれど、

どれも一様に惹かれるものがないのだ。

 

そこが分からないのだ。

そのあたりが僕の絵に対する謎であり、

いつまで経っても解くことができない

知恵の輪のようなものになっている。

 

幸福な時間の過ごし方の一端は

掴んだような気がするけれど。

 

 

 

フジコ・ヘミングのコンサートへ行ってきた

 

 

 

クラシック音楽、好きですかと聞かれると、

それほどでもとこたえるだろう。

正直、クラシックという柄じやない。

 

以前のブログでも書いたけれど、

リストという作曲家のラ・カンパネラを弾く、

フジコ・ヘミングは別である。

 

イタリア語で鐘を意味するラ・カンパネラ。

 

ピアノの高音が魅力的でなければ、

あの美しく荘厳な欧州の教会の鐘の音は、

再現できない。

そして、その音に哀愁のようなものがなければ、

ただの音になってしまう。

 

僕は、ん十年前イタリアのフィレンツェでこの鐘の音を

間近で耳にしたことがある。

 

夕暮れだった。

 

それは、日本の寺院から聞こえる鐘の音と、

ある意味で双璧を成す、

美しくも厳かな響きだった。

 

フジコ・ヘミングは、その鐘の音に

心を宿したといっても過言ではない。

 

ラ・カンパネラという曲をピアノで弾くのは、

超絶技巧である。

それは演奏を観ているシロウトの私でも分かる。

 

リストは、この曲をピアノで弾く際に、

器用さに加え、大きい跳躍における正確さ、

指の機敏さを鍛える練習曲としても、

考えて作曲したというから、

天才のアタマは複雑すぎて分からない。

 

この難曲を正確無比に弾くという点では、

辻井伸行の右に出るピアニストはいない。

彼もこの曲に心を宿しているひとりに違いない。

 

 

では、フジコ・ヘミングの何が僕を惹きつけるのか?

 

それは、人生を賭けたピアニストという職業に

すべてを捧げたフジコ・ヘミングが、

ラ・カンパネラが自身に最もふさわしい曲と、

ある時期、確信したからと想像する。

 

真っ白なガウンのような豪華な衣装で彼女が登場すると、

当然のように満場の拍手がわく。

杖をついている姿はこちらも折り込み済みだけど、

もう90歳近いこのピアニストの演奏を

いつまで聴けるのだろうかと、ふと不安がよぎる。

 

しかし、彼女が弾き始めると会場の空気が、

いつものようにガラッと変わる。

これはどう表現したらよいのか分からないが、

とても強いエネルギーのような旋律が、

その場を別の次元にでも移動させてしまうほどの、

力をもっている。

 

興味のない人でも、たかがピアノなのにと、

平静を装うことはまずできない。

そんなパワーのようなものをこの人はもっている。

 

レコードやCDで聴くのとはなにかが違う。

いや、全く違う。

そっくりだけど別物の存在なのだ。

 

僕はクラシックがあまり好きではないし、

知識も素養もない。

 

だけどフジコ・ヘミングの弾くラ・カンパネラは、

どういう訳か、とても深い感動を得ることができるのだ。

 

 

 

歌があるじゃないか

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。

 

ジャズ入門

 

女性ジャズシンガーの方とお話する機会があった。

 

ジャズに関して私は初心者レベルの知識しかない。

が、ジャズボーカルは以前から興味があったので、

その辺りを尋ねてみた。

 

一体どんな曲から始めれば、早く上達するのかと。

質問が先走っているのは承知だった。

 

彼女の回答はこうだった。

「どんな曲でも良いんですよ」

「こころを込めて歌えば…」

 

なんだか曖昧としてる。

しかし話をはぐらかすようでもない。

適当にこたえている風でもない。

そしてこう切り出した。

 

「○○さんはビートルズはもちろん知っていますよね?」

「ええ、もちろんです」

「初期の頃の彼らの曲は、

単語もコードもシンプルで歌いやすいので、

私たちもライブでよく歌いますよ」

「えっ、ライブでですか?

だってビートルズってジャズではないですよね?」

と私。

 

「そうあまりかたく考えないでください。

ジャズ・ボーカルのとっかかりとしては、

最適なんです」

 

彼女がさらに続ける。

 

「だけど難しさもあります。

ビートルズの曲はみんな知っているし、

その印象が強烈なので、アレンジが難しいんです。

そこを自分のモノにできれば、

ジャズとして成立します」

 

「ジャズってそういうものなんですか?」

「そういうものです」

彼女は笑みを浮かべた。

 

私は正直すこし混乱した。

 

「ジャズで一番大事なのは、なんと言っても個性、

そのひとがもつ持ち味なんです。

そこがしっかりつくり出せると、

自分なりのジャズが歌えるようになります」

 

「個性、ですか」

 

「もちろん。ジャズって個性で歌うものなんです」

 

「………」

 

私は、サッチモが歌うジャズを思い出した。

あのダミ声が、あの笑顔が、

誰をも魅了するのがなんとなく理解できた。

そしてゴスペルのようなジャズが

教会に響き渡るようすもアタマに描いてみた。

都会的なフュージョン・ジャズとして、

シャカタクのナイトバーズもなかなか個性的だなと、

そんなことをつらつらと思った。

 

ボーカルに限らず、

さらに広くジャズを見渡すと、

そこにはとてつもない深みが待ち構えている。

 

ジャズピアニストのジョージ・シアリング、

ハービー・ハンコック、グローヴァー・ワシントン・ジュニア、

スタン・ゲッツ、マイルス・デイビス等等、

その個性がまるで、おのおの小宇宙なのだ。

 

この辺りになると、聴いていてとても心地がいいのだが、

その演奏における技術だとかアレンジの意味合いを考えると

とても難しい。

 

ジャズ評論家という人たちの文章も過去に散見したが、

どうも敷居が高くて近づけなかった。

それはジャズにおける言語化が、ひとを寄せ付けない…

そのように思うのだ。

 

さらに例えるなら、哲学を説く哲人の一言ひとことの

その背後に潜んでいる何かを掴むように、

楽譜にはない箇所にジャズの真髄が如何にあるのか、

それを探さねばならないとか…

 

かようにジャズは底なしなのだ。

 

そんな内容の話を彼女にぶつけると、

少し笑ってこう話してくれた。

 

「要は生き方なのではないでしょうか?

皆さんそれぞれにさまざまに考え、

行動して毎日を営んでいます。

ジャズもそれと同じだと思います。

とても単純なことから難解なことまで、

いろいろあるでしょ?」

 

確かにそのように思う。

 

「ジャズって大海原のような音楽なんです。

とりとめがないんですよ。

そして掴もうとしても掴めない。

人も同じですよね。

だから自分らしく、すべてに於いて自分らしくです。

それがジャズなんだと思います、

そう思いません?」

 

ふーん、なんとなく譜に落ちたような気がした。

 

ではと、

「テネシー・ワルツなら歌えるかも知れませんよ」

と私が図々しく申し出る。

 

彼女が、

「入り口としてはベストチョイス!

で、江利チエミのテネシー・ワルツ?

パティ・ペイジのテネシー・ワルツ?」

 

「いや、柳ジョージのテネシー・ワルツが

いいですね」

 

「それは良いですね、

とにかく一曲でもものにできれば大成功です」

 

「そういうもんですか、ジャズって?」

 

「そういうもんです」

 

ただし、と彼女が言う。

 

「自然にスイングできたらですよ、

スイングね。

技術やジャンルのスイングではなく、

こころがスイングしたら、ですよ!」

 

「………」

 

アタマが少し混乱してきた。

 

なんだか禅問答の様相を施してきたので、

そろそろ退散することにした。

 

それにしても、ジャズって、

なんか宗教に似ているなぁ、

というのが、

最近の私の感想である。

 

 

 

 

自由業ってホントにFreedom?

 

会社を辞めて独立した頃は、

所属も何もないので気楽なものだった。

と言いたいところだが、

世の中はそんなに甘くなかった。

 

特に金融機関である。

ここは外せない事情がある。

 

提出書類に必ず職業欄というのがあって、

その箇所でよく迷った覚えがある。

 

いまもそうだが、フリーなどという分類はない。

自営業とか自由業というのが目について、

まあフリーになったんだから自由業だろうと、

それにチェックを入れていた頃がある。

 

書類に目を通した行員が、

まず決まったように皆、同じセリフを発する。

「自由業ですか、うらやましいですね。

で、どういったお仕事をなすっているのでしょうか?」

だいたいこんな具合に尋ねてくる。

 

彼らは寸分違わず、

ビシッとした紺またはグレーのスーツを着ている。

何故か、銀フレームのメガネ率も高かった。

 

最初の頃は分からなかったが、

話の最中、

彼らはそのメガネの奥底で

こちらをあざ笑っているようだった。

少なくとも私はそう感じた。

 

フリーが銀行から融資を引っ張るのは大変だ。

こちらも事業の明るい見通しなんかを

一応は説明するのだが、

要は生活する金が足りない訳で、

そんな事情を百も承知でからかわれていたのだ。

 

担保などというものは当然ないから、

万が一借りられたとしても金利は高い。

しかし何としても借りなくては生きていけない。

よってやむを得ず銀行へアタマを下げにいくのだが、

そこらへんの事情をまるごと知ったうえで、

彼らは紳士然と振る舞っているから、

まあ、別の日にでも道でばったり会ったりしたら、

突然殴りかかっていたかも知れないけどね。

 

向こうも焦げ付きは出したくないのは承知している。

けれど、こちらは生活していけるかどうかだ。

引き下がる訳にはいかない。

舐められているのを承知で、

アタマを下げざるを得ない。

まあ、いま思い出しても虫唾が走る。

 

では一体、自由業というのは、

どういった方たちを指しているのか?

いまさらだけど、改めて調べてみた。

 

コトバンクによると、

開業医、弁護士、会計士、コンサルタント、芸術家など、

高度かつ専門的な知識・才能に基づく独立自営業者

ないしその職業のことで、第三次産業のサービス業に属する。

とある。

 

うーん、そういうことだったのか。

ひとくちに自由業といっても、

自分には縁遠いことがいまさら判明した。

こういう人たちは、

間違っても銀行に金なんか借りにこないだろうし。

 

で、こうした過去を振り返って思うに、

金も才能もない自由業はかなり苦労するということ。

いろいろな場面で不自由な思いをする。

生活も不安定極まりない。

当たり前だけど。

 

こうした環境は、そのうち心身に変調をきたす。

 

自由業の面々が次々と脱落していったのを、

私はこの目でしっかりと目撃している。

仕事がなくて田舎の実家に帰った者。

アル中で入院した仲間。

サラリーマン・クリエーターに戻った友人。

うつ病を患ったデザイナー等等、

思い出すとキリがない。

嫌になる。

 

こうなると、もはや自由業という名称を疑う。

不自由なことが実に多いのだ。

かつ万が一の保証もない。

そういえば、子供をあきらめた仲間や知り合いも、

何組かいたし…

 

ではなぜ、そんな境遇にもかかわらず、

自由業というカテゴリーを選択したのかだが、

そこがどうもうまく説明できない。

 

しかし、イマドキのフリーの方々に聞けば、

実に明快な解答が出てくると思う。

それもポジティブな意見として。

 

私たちの時代は、

おおげさにいえば社会的に虐げられていた時代なので、

自由業で生活してゆくには、

どうしても決意のようなものが必要だった。

さらに言えば、忍耐を伴う覚悟だ。

 

私的な意見だが私の場合は、

思春期あたりから抱いていた人生観のようなものが、

「自由業」へ向かわせたような気がする。

それは妙に拡大した自由奔放な自我と、

社会のシステムに対する不信、

とでも言おうか。

 

とまぁ少々暗い話をしたが、

リスクをとって余りあるほど面白いのもまた、

自由業なのである。

 

ここが不思議といえば不思議なのだが、

自由業というのは、

社会の或る一部の人間だけを魅了してやまない。

 

軽すぎる例えになってしまうが、

まず格好が自由であること。

私はスーツとか背広が大嫌いだったので、

会社を辞めた途端、

夏なんかはいつもTシャツと短パンで通していた。

あと、会社勤めのときはいつも

出社の際にタイムカードを押していたが、

ああいうものは身体によくないので、

辞めた途端スカッとした。

時間の使い方も自分でコントロールできるので、

子育てに参加できたことも

とても良かったと思っている。

 

ではさて、

いったい自由業を選択するとは

どうゆう事なのか?

 

そこをたいそうに語れば、

人生の賭けであり冒険でもあると、

言えないこともない。

だから多大なリスクをとる。

 

それと引き換えに得るものが、

なにものにも代えがたい。

目にはみえないものばかりだけど…

 

だからあなたや私を、

自由業へと駆り立てる訳だ。

 

 

p.s

新自由業と呼ばれるユーチューバー、独立プログラマーの方々も、

人生の宝島をめざして頑張っていただきたい。

 

p.s2

ちなみに、前出の銀行員の方々はその後バブル崩壊、

平成不況やら、合併に次ぐ合併で疲弊。

いまじゃゼロ金利で経営圧迫され、

人員削減の憂き目なんだそうです。

磐石なエリートでも未来は見通せません。

要は、この世にずっととどまる、

安定しているなんてものはひとつもないということ。

 

だって世界は刻々と変化し続けているのですから…

 

父母生誕100年の件

 

親父とお袋が生きていれば、

今年でちょうど100歳になっていた。

まあ、たらればの話だけれど…

 

ただ祝・生誕100年というフレーズが、

今年の初めから、

私のアタマに渦巻いていた。

 

当初、お寺さんに話をして

縁起の良いお経などをと考えていた。

そんなお経があるのかどうか、

いまでもよく分からないけれど。

 

が、何かが変だと思ったのが、

今年の春頃だったか。

 

もうこの世にいない人の生誕100年を祝ってのお経?

うん、何かがおかしい。

 

お経と既にこの世を去った人というのは、

相性がいい。

が、生誕100年という節目を祝うという行為と、

お経が相容れないのではないか。

 

で、いろいろ考えた末、

アタマに浮かんだのが神社だった。

けっこう安易な発想だなぁと自分に呆れたが、

これが俗世間に生きる者の限界だった。

 

で、近所の宮司さんに相談に行く前に、

まずネットで調べることにした。

で、うーんと唸ってしまった。

 

神社で生誕100年のお祝い事をやった話は、

いろいろなブログで散見されたが、

ウチの場合はすでにこの世にいないので、

こうしたケースは希有だった。

 

まあ、スタンダードではない祝い事と、

その時点で認識した。

 

で、アタマを冷やすべくその件から一端離れ、

ずっと猥雑な日常に埋没していたのだが、

先日、ふとその件がまたまたアタマをもたげてきたのだ。

 

そもそもこの件は、

生誕100年の祝い事なので、

ちょうど100年の節目である今年中に

是が非でも解決しなければならない。

よって夏も過ぎた今ごろは、

何かしらの具体策に入らねばならない…

 

そのように誰かが私にささやくのだ。

 

妙なプレッシャーが降りかかる。

 

ある夜の夕飯時に、この悩み事を奥さんに話した。

実はなんにも期待してはいなかったのだが、

彼女が面白いアイデアを出してきた。

 

この人はいわゆる「千三つ」のような人で、

千回に一回くらいの割合で

すげぇアイデアを私に授けてくれる。

 

「あのね、紅白饅頭がいいわよ。

大きい紅白饅頭を和菓子店に頼んで

それを墓前に置きましょうよ。

それがいいわよ」

 

おおっ、それだよそれ!!

このご時世だ。

人を集める訳にもいかないし、

少々安直だが、いいアイデアだと私は小躍りした。

 

和菓子店もだいたい目星がついた。

が、2.3日が過ぎた頃、

私のアタマに浮かんだのは、

腐ってくずれた饅頭にハエが集っている

我が家のお墓の姿だった。

 

この話を奥さんにすると、

もう話は行き詰まってしまった。

 

沈黙が続く。

 

が、次に彼女のアイデアが炸裂した。

 

「バームクーヘンにしましょ。

向こう(西洋)ではバームクーヘンは、

長寿のお祝いによくプレゼントするらしいわ」

 

おおっ、それだよそれ!!

なんにもアイデアのない私は、

その意見に激しく同意した。

 

千三つの彼女がヒットを2回連続で飛ばしのだ。

すげぇと思った。

 

バームクーヘンは、「ユーハイム」で手配することに決めた。

ウチと息子家族と東京の娘のところに配ろうということも決めた。

ただしバームクーヘンは墓前に置くのではなく、

我が家の仏壇に供えるのがいい…

これは私の意見として取り入れた。

 

この複雑怪奇な案件は、

こうしてようやく結論が出た訳だ。

 

やれやれである。

 

しかしだ、

なぜ両親が生きている間、

親思いでもなかった自分が

そんなことをしようと思いついたのかだが、

それがいまだに自分でも説明がつかない。

 

よく分からないのだ。

 

ただ、強引な結びつけとなるが、

それは、自分の死生観に関係しているような、

そんな気がしていた。

 

人はずっと生き続けている、

というのが私の死生観である。

それだけであるような気がした。

 

がしかしだ、最近になって、

新たな理屈が浮上してきてしまったのだ。

 

思えば、この一件に対する己の執拗な執着は、

実のところ、私の単なる罪ほろぼしではないのか?

という疑惑である。

 

これには自分でも思い当たる節が多々あるので、

前説より十分な説得力がある。

よって罪ほろぼし説に軍配を上げることとした。

 

もうひとつ、最近になって気づいたことがある。

それは、めでたい供物を墓前ではなく、

我が家の仏壇に供えると変更したこと以外、

紅白饅頭がバームクーヘンに変わっただけじゃねーか、

という事実である。