友人のライブへでかける

 

友人と言ってもボクよりずっと年下で、

まだまだ若い。

彼は、ブランド服の販売のプロなのだが、

なんだか性格が自由過ぎて、いままでに3度くらいかな、

職場をクビになっている。

 

忙しい職場が嫌いで、いつも妄想に耽り、

詩をつくったり絵を描いたり、

ギターの練習をしたりしている、らしい。

 

ライブハウスは小田急線の百合ヶ丘駅近く。

古いビルの地下だった。

ボクは閉所恐怖症なので、3時間近くいたけれど、

正直、少し息苦しかったような気がする。

 

この日、彼の歌とギターをはじめて聴いた。

詩が繊細でいい。

メロディーもギターテクニックもなかなか。

うぬぼれるからあまり言いたくはないけれど、

ちょっとボブ・ディランを思い出してしまった。

 

歌う格好も、1960年代に流行ったような、

ヒッピースタイル。

なんか笑ってしまった。

 

が、歌もファッションも

彼の手にかかると決して古くない。

感覚は鋭く、むしろ最先端なのではないか。

 

こんなひとときを体験すると、

こちらも不思議な感覚を得られる。

 

最近、レコーディグも済ませ、

オンラインで有料配信をすると聞いた。

 

最初、彼の絵を見せられ、

惚れ込んで個展をひらいた。

なかなか好評だった。

 

作品のタッチは、

やはりアメリカの60年代のにおいがぷんぷんしていて、

パワフルかつショッキングカラーで仕上がっている。

 

彼と待ち合わせると、必ず遅刻する。

何度目かに、遅れてきた彼に説教をしたら、

緊張すればするほど遅れてしまうという、

意味がよく分からない言い訳を涙目でしていたので、

ボクはあぁと理解した。

 

ボクも幼い頃は多動性っぽかったし

閉所恐怖症だし、

まあ人はいろいろなのだと

いつも思っている。

 

とにかくアートって楽しい。

くだらないこころの壁を

なんなく乗り越えてくれるからね!

 

↓彼の作品

 

 

追悼「フジコ・ヘミング」

 

ピアニストのフジコ・ヘミングさんが、
去る4月に亡くなりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

数年前にようやくコンサートチケットが手に入り、
直にお聴きできる機会を得ました。
足が悪く辛そうで、歩行器につかまっての登場でした。

が、彼女がピアノに向かうと、会場の空気が一変しました。
それは不思議な体験でした。
一瞬で別の空間に連れていかれたかのような、
疑似トリップとでもいうべきものです。

聴衆が最も期待している「ラ・カンパネラ」。

右手が奏でるそのピアノの音は、
題名にふさわしく、まさにヨーロッパの古い教会の鐘の音
そのものでした。

この音は彼女にしか出せない…
それは技術やテクニックでは届かない、
他の何かなのだろうと。

きっと彼女には神様がついているに違いない━
そんな気すらさせるのですから。

そしてピアニストになるためにこの人は生れてきたんだと
思うに至りました。

フジコヘミングはスウェーデン人の父と日本人の母の間に生まれ、
幼少期からピアノに親しんで育ちました。
彼女はまた生涯をつうじて多くの困難に遭遇しましたが、
それでも音楽に対する情熱を失わずに歩んできました。

彼女はまず若くして片側の聴力を失うという
大きなハンディキャップを抱えました。

が人生の中ほどで、
人生最大のチャンスを掴むのです。
あの世界的指揮者であるバーンスタインに認められ、
将来を約束されたのです。

しかしヨーロッパデビュー本番の数日前から
彼女は原因不明の高熱におかされ、
反対の耳の聴力も失ってしまいます。
(その後60%くらい聞こえるようになるのですが)

こうして二度とない大きなチャンスを逃してしまいます。

のち彼女の不遇は長く続き、
ようやく世界に認められたのは、
60代の半ばからです。

そして怒涛のオファーが舞い込むのです。

その多忙は、90才前半のつい最近まで
途切れることがありませんでした。

彼女の演奏するものはどれも人々の心を揺さぶり、
深い感動を与えました。

彼女の奏でる音色には、
苦難を乗り越えた自身の強さと繊細さが感じられ、
聴く人々に勇気と希望を与えてくれます。

このように彼女の生涯は、
音楽を通じて人々に感動を届けるという使命を
全うしたものでした。

ボクがとりわけこの人に好感を抱き、
身近に感じるのは訳がありまして、
彼女が稀代のピアニストである以前に、
なにしろボクの伯母にそっくりだからなのです。

外見、顔の表情、そしてことばや服装のセンスまで、
ことごとくふたりは似ています。

伯母は服飾デザイナーだったので、
ボクにいろいろな服を縫ってくれました。
横浜の高島屋の特別食堂で、
よくチョコレートパフェをごちそうしてくれました。

その伯母のやさしさが彼女に重なってしまうのです。

伯母もまたフジコ・ヘミングと同様、生涯独身でした。

そして彼女(フジコ・ヘミング)がタバコを吸う姿はまた、
まったく嫌味がないばかりか、カッコよささえ漂うのです。
時代の風を超越した彼女自身の強い生き方を、
その姿で示しているような気がするのです。
(伯母はタバコを吸いませんでしたが)

「私だってよく間違えるわよ。だって機械じゃないんだから」
彼女がよく口走るせりふです。

演奏のできばえの良かった後のインタビューで、
彼女はこうこたえていました。

「神様も今日の私の演奏をきっとほめてくれているわよ」

━神に愛されたピアニスト━

フジコ・ヘミングは、これからも多くの人々の心に
響き続けることでしょう。
そして彼女の残した音楽の遺産は、
ボクたちの心に生き続ける━

そう思いませんか?

 

 

 

ビルボード横浜「南佳孝」ライブへでかけた!

 

南佳孝さんのライブはもうかなり行ったけど、
今回はサイコーでした。

文句なし!

 

↑(撮影禁止なのでこれで勘弁!)

 

なんというかいつもよりさらにパワフルっていうのかな?
演奏ものっていたし、選曲もgood。

アーティスト自ら楽しんでいるのが、
観ている側からも分かる。

こうしたタイミングって重要だと思う。

にしても、うたう南さんの音域の幅には、
改めて驚きました!

特にあの高音はフツーの歌い手さんでは無理。
ソフトできれいにのびるから、
ボサノバに溶けるようにして響く。

 

 

だから彼のうたの多くがそうであるように、
あのメローな空気感は、
きっと彼にしか出せない。

他の人がうたっても再現はできない。

(いまの時代、個性ってとても大事です)

ベースギター、ピアノ、サックス、ドラムも、
それぞれに良い癖があって好感。

知れた仲間だから呼吸もみな心得ている。

ライブは茅ヶ崎の海で先日聴いたばかりだけど、
あれはあれで、これは別物という感じ。

みんなで屋外で食べるバーベキューと
焼き肉屋で食べる違いとでもいうべきなのか?

いずれ、相当にうまい。
いや聴いていてどちらもとてもハッピー。

いつもものぐさなのに、
こうした時間を確保した自分に、
「エラい!」とほめてやりました 笑

 

 

 茅ヶ崎ライブ(南佳孝・ブレッド&バターetc)へ行ってきた!

連休の5月5日、快晴。

久しぶりに海へでかける。

途中、車窓より富士山がかすんでみえた。

うん まだ雪をかぶっている?

平地はご覧のとおり、もう夏なのになぁ…

 

そして茅ヶ崎の浜の日差しも強烈だった。

さらに強風。

砂が、目に口に入ってひどい状態に。

サングラスは絶対必須でした。

あとマスクも…

 

 

会場に近づくとかなりの人混みとなる。

ステージから風に乗ってゆるい感じで、演奏が聞こえる。

みんなもゴロンとリラックスしてビールなんか飲んでいる。

パラソルやテントがあちこちにひらいて、

海にきたなぁと実感できる。

 

 

砂浜を久しぶりに歩くと、かなり足が重い。

歩きづらいけれど、

ロケーションの良いところを探すために、

あちこちをウロウロする。

 

にしても風がうるさくてすべてが聞きづらい。

マイクに風の音が混じっている。

まだ知らないバンドが演奏しているので、

寝転がって久しぶりの海をずっとながめる。

 

このイベントは、情報通の知人が教えてくれた。

あまり大々的に宣伝もしていないので、

ボクも以前は知らなかった。

 

今日のトリは、ブレッド&バター、

そして大トリが南佳孝さん。

全国区だけど、とりわけ湘南の人気ミュージシャンとあって、

年齢は高めの根強いファンが目立つ。

 

タトゥーを入れた70過ぎと思われるおばさんが、

ビール缶を片手にステージに上がって踊っているし、

不思議なレゲェのような服に身を包んだサングラスのおっさんが、

ムームーをひらひらさせたおばさんと抱き合っていたり、

なんだかよく分からない空気の中で、

ボクは「自由」というキーワードがアタマに浮かんだ。

 

あいかわらず富士山がかすんでみえる。

遠く伊豆半島のほうまで見渡せるロケーション。

沖に烏帽子岩、トンビが強風をコントロールして、

私たちの頭上でホバリングしながら、

会場を見下ろしている。

 

空も海もとても良い色をしている。

とにかく、いまここでボクは、

少なからず、自由を満喫しているのではないか。

そして、自由についてのつまらない定義みたいなことを

考えるのをやめた。

 

待ち合わせた知人とは、

ステージはそっちのけで話し込み、

時間は刻々と過ぎて、

そろそろという時間になる。

昼にきたというのに、あっという間にもう夕方。

日が傾いている。

そろそろトリがあらわれる頃だ。

 

ボクたちは場所を移動し、

ステージが垣間見える場所を確保するため、

ステージ裏の垣根の隙間をゲットする。

 

会場から異様な熱気が伝わる。

 

 

ブレッド&バターのふたりが登場した。

地元茅ヶ崎の仲間たちとおぼしき、

個性的な面々が最前列に集まる。

(とても不思議な雰囲気の湘南の方々…)

 

ボルテージは最高となり、

やがてはみんな総立ちとなり、

踊り出す人も。

 

彼らの人気は絶大で、

いつまでもアンコールが鳴り止まず。

(会場の気温が急上昇 笑)

 

そのうち、

楽屋裏に南佳孝さんの姿がちらちらと見え始めた。

で、ブレッド&バターがステージを去ると、

場の空気を一新するためだろうねぇ、

会場のスタッフが興奮した観客たちを座らせ、

最前線にコーンを置いたりしている。

 

南佳孝さんがステージにあらわれる。

全く違う空気感が会場に漂うんだよなぁ。

 

彼がギターのチューニングを神経質にはじめた。

 

で、ステージの雰囲気も一新したところで、

ボサノバ風の「日付変更線」からスタート。

 

このうたを聴いているうちに、

この会場が海岸にあることに、なんだか感激する。

 

 

そして、ウォークマンが発売された当時、

ボクはグアム島からパラオに飛ぶ飛行機のなかで、

まさにこの曲を聴いていたことを思い出した。

 

南佳孝さん自身も、街中のハコのライブより、

こうした海のロケーションが大好きなのだろう。

いつものクールで抑揚を効かせた、

そしてシャイな一面もみせながも、

最後はみんなにスタンドアップOKと、

かなりのってくれた。

「モンロー・ウォーク」「スローなブギにしてくれ」まで

披露してくれたのだから…

 

秀逸な曲、心をさらわれるうた、

海に溶けていくようなメロディー、

風に乗って消えてゆくボーカルの響き。

そして五月晴れの茅ヶ崎の砂浜。

 

舞台装置は完璧だった!

 

「いまこの瞬間、ボクは間違いなく自由だ!」

そう感じたボクの感覚は、間違っていない。

 

いまもそう確信している。

 

 

青春レーベル「ファンキー・モンキー・ベイビー」

 

キャロル

 

ご存じ、キャロルのメガヒット曲。
我が青春の一曲でもある。

イントロからリードギターの高音でいきなり盛り上がる。
10代のボクには斬新かつインパクトがありました。
すげぇーと思いましたね。

で、メンバーの革ジャンとリーゼントがカッコよかった。

その頃、ボクたちの先輩はアイビーと呼ばれる格好が多かった。
流行の震源地は、VANジャケット。

紺のブレザーにコットンパンツをはいて、
レジメンタルのネクタイを締めたりしていた。

女性もトラッド・ファッション全盛。
横浜・元町の店フクゾウが爆発的人気となり、
「ハマトラ」と呼ばれる格好が流行った。

いずれきれい系。

が、キャロルはおとな社会への反逆まるだしの歌と格好でデビュー。

10代はみんなそこにハマった。

 

よって当時すでにハタチを超えたお兄さんお姉さんたちからは、
あまり人気がなかったのかもね。

ボクは10代のストライクゾーンだったので、
もろに影響を受けてしまいました。

余談だけれど、フーテンと呼ばれるひともよくみかけた。
この方たちは、いつでもどこでも道に座り込んだりして、
片手に酒の瓶とシンナーとビニール袋をもっていた。

当時、街にははこういうひとがパラパラいました。
ボクの先輩にひとりこの手の方がいましたが、
不慮の事故で亡くなってしまいました。
いま思えば、妙な最後でした(具体的には書きませんが)

で、クルマの免許取りたて、青春真っ只中のボクとしては、
即キャロルのレコードを買い、それをテープに録音して、
走りながらカーステレオで繰り返し繰り返し聴いていた。

演歌やフォーク、歌謡曲全盛の時代に突然あらわれた、
日本初ではないけれど、
メイド・イン・ジャパンのロックンロールバンドだった。

それまで洋楽でロックンロールはよく聴いていたけれど、
日本発というのはかなり珍しいということで、
「ファンキーモンキーベイビー」はいきなりヒットチャートを駆け上がった。

この歌が流行ってから、
なんだか遊んでいる10代の皆さんを取り巻く空気が一変した。
定番のクルマ・バイクに女の子―
そこにサイコーの音が加わったからだ。

海の向こうでは延々とベトナム戦争がつづき、
ある日突然オイルショックなるものが起き、
朝起きると「危機」が叫ばれ、世の中は混乱し、
ボクはトイレットペーパーを買ってこいと母に怒鳴られた。

街ではマツダのロータリークーペが疾走し、
中島みゆきが「時代」を歌い、
ユーミンが「あの日にかえりたい」でメジャーになり、
遊び仲間が事故やシンナーで何人か死んでしまい、
ボクは将来が全く見通せないでいた。

ファンキー・モンキー・ベイビーの歌詞の意味は、
当時からよく分からなかったし、考えもしなかった。

ただ、♪いかれてるよ♪の歌詞に象徴されるように、
なんだか理屈ではないエネルギーのようなものを、
みんなが受け取ったのだろう。

で、なんだかみんなイカれてきた、ような気がしたのだ。
イカれてもいいんじゃない?ともきこえたからだ。

うっくつした時代の空気を蹴散らすエネルギーに
後押しされたボクたちは、
自分の未来を真剣に想像することもやめてしまった。

そんな一瞬でもあった。

そしてイージーに過ごす時間、酔っているような毎日は、
あっという間に過ぎていった。

あの陶酔していたような時間はいったい何だったのか?

それは思い返しても、いまだ、その輪郭が描けない。

 

で、ボクくらいの年代になるとだけど、好きなアーティストや楽曲も、
だいたい100や200はあると思う。

ながい時間にいろいろな歌も聴いてきた。

ジャズやボサノバやポップス、そして民族音楽、
たまにクラシックにも手をだしたこともある。

なのに不思議なことに、いまでもキャロルは特別なのだ。

そこには理屈では語れないなにか、
が相かわらずボクの記憶のなかに横たわっている。

聴いていた自身の幼さと、そのころのこころの有りよう、
そしてそこに流れていた時代の空気…

いろいろなものが凝縮された心象風景が、
人生の道連れとしてあとをついてくるのだろうか。

 

南佳孝&杉山清貴ライブへ行ってきました!

 

南佳孝&杉山清貴のライブへ行ってきました。

会場は、おなじみのビルボードライブ横浜。

(海風がキツくて寒かった!)

 

 

まずは、ざっくりと感想から。

ボクは南佳孝さんの曲をじっくり聴きたかったんだけれど、

違いましたね。

お二人とも、かなりのビートルズ・フリークだそうで、

そのカバー曲が中心。

 

それは良いんだけれど、カバー中心のライブがそのまま進行。

あおい輝彦の「あなただけを」とか、いしだあゆみの「ブルーライト横浜」とか、アズナブールのシャンソンだとか…

まあ、選曲が自由なんです。

 

それはそれでじゅうぶん聴かせてくれたし、ハイレベル。

で、雰囲気はなんだかムカシ行ったナイトクラブとか、

高級?キャバレーなんかを思い出すようなムードになっていて、

ボク的にはタイムスリップしてしまいました。

 

 

なんせ、60年代~70年代のヒット曲がコアなので、

若い人にはちょっと分からないと思う。

 

よって客もシニア中心だけど、ひとくせありそうな人間が目立った 笑

 

私的には、「日付変更線」とか「スコッチ&レイン」とか聴けたらと、

期待していたんだれど、その点はがっかり。

 

単独ライブと今回のライブが全く違うのは、ファンの常識と思われる。

やはり、にわかファンは情報・経験が甘いなぁ。

 

 

にしても杉山清貴さんのブルーライト横浜、良かった。

彼はボクと同年代でしかも同じく横浜出身ということも知らなかった。

杉山さんが海の方角(みなとみらい地区)を指さして

ぶつぶつ呟いていた。

「こっちはムカシは何もなかったんですよ。ただの海。

埋め立てられて原っぱだった」

 

同じ風景を共有していることが、なんだか沁みたなぁ。

 

 

シャカタクのライブへ行ってきた!

 

やはりライブは違うなぁって、つくづく思いました。

当然のことですがYouTubeで聴くのとは

全くのべつものでした。

 

 

ボクはこのグループのライブは初めて。

退屈するかもと、何の期待もなく出かけた。

しかし今回のライブで、シャカタクに対する印象が、

以前とはガラッと変わってしまった。

 

退屈な訳がない。

とても充実の時間をもらった。

 

シャカタクがヒットを飛ばしたのが1980年代の中頃だったか。

ヒットした「ナイトバーズ」が街のあちこちから流れ、

日本の景気は最高潮で、ボクは新社会人として、

東京中をあくせくして走っていた。

(いや、机でじっと何かお粗末な記事を書いていた)

 

 

そこに「ナイトバーズ」が流れると、

なんだか少しストレスと緊張から逃れられるようで、

ふうーと肩の力が抜けた。

 

軽いタッチのヨーロッパのジャズ・フュージョン。

とにかく都会的な音楽だった。

ボク的には、彼らの音楽を心地の良いBGMとして

聴いていた覚えがある。

 

が、今回のライブで、彼らの印象は120度くらい変わった。

都会的な音楽というのは、いまでも色褪せない。

あれから数十年が経ったのに、依然として古びない。

(これはなかなか凄いことではないかと思う)

 

がしかし、「軽い」というのはボクが間違っていた。

次々に繰り出す馴染みの曲が、どれもなんとパワフルなことか。

ぜんぜん軽くないではないか。

新メンバーも加わったものの、

あの電子ピアノとパーカスは変わらずで、

そこに熟練のテクニカルな要素が加味され、

迫力の音楽シーンが再現されたのだ。

 

ライブの最中、ボクはジンジャーエールを

飲んでいたのだけれど、

途中グラスの中身を確認したほどだ。

ちょっとアルコールが入っているんじゃないか?

 

ノンアルコールでも酔える。

やはりライブって良いですね。

 

 

 

青のモラトリアム(ショートストーリー)

 

 

この先、自分はこのままでいいのか?

いったい何が正解なんだろう。

 

もうすぐ20歳になろうとする悟は、

最近、よく自問自答するようになっていた。

 

冷凍食品を小型の保冷車に積んで、

市内の肉屋やスーパーに配送するのが

いまの悟の仕事だが、

悟のルートセールスという仕事は、

配送だけでなく、

卸した先との価格の取り決めや

新製品の説明もしなくてはならない。

 

会社へ戻ると、出納伝票への記入や、

売り上げ報告書の作成、

そして防寒服を着て-35℃の冷凍庫に入って、

在庫の確認などもする。

 

帰りはいつも夜の9時をまわっている。

 

毎日同じ客筋を延々と繰り返してまわっても、

なにひとつ手応えを感じなかった。

カチカチに凍ったコロッケとか海老の箱詰めを、

肉屋やスーパーへ届けていると、

何かが違うのではないかと最近思うようになった。

 

しかし、いまの仕事は、

高校を卒業して最初に就いたバーテンダーよりマシだと、

悟は思っていた。

 

酔っ払いの相手はいい加減にバカ臭いと思ったからだ。

昼夜逆転の生活も、悟に暗い将来の暗示と映った。

 

関東一円にコーヒー豆を運ぶトラックの運転手もやってみたが、

夏の暑い日に延々と田園が続くアスファルトの道を走っていると、

このまま海へ続けばいいなと、よく思った。

 

支払いも日雇いと同じで、日給月給だった。

人生で初の正社員として採用してくれたのが、

いま働いている冷凍食品の会社だったが、

悟の自問自答は日増しに膨れあがり、

もう避けて通れない難問となって立ちはだかっていた。

 

よくよく考えると、

この問題は高校時代まで遡ることに気がついた。

 

悟の進んだ高校は私学で、

入学してから分かったことだが、

すべてにおいてスパルタ方式が徹底していて、

なにごとにおいても個人の自由は削がれていた。

 

そうした情報を知るすべを、

当時の悟には知るよしもなかった。

 

校内では、竹刀を手にした体育会系の教師がうろつき、

ちょっと気に入らない態度の生徒をみつけては

規律を乱すとの理由で容赦なく叩いていた。

 

悟は、いい加減にこの高校に息苦しさを覚え、

2度ほど本気で辞めようと思った。

しかし、もう少し続けてみようと思ったのは唯一、

担任の先生との関係だった。

 

その先生が、

何度も悟を説得してくれたのだ。

「悟、もう少し頑張ってみようよ」

「悟、人間には我慢しなくてはならない

ときというものがあるんだ。

それは後になって気づくことだけどな」

 

けっきょく悟は退学届けは出さなかった。

けれど、無断で高校を何日も休んでいた。

 

悟の行為は学内でいろいろと問題視された。

悟は退学処分になっても仕方がないと、

捨て鉢な態度に徹していた。

 

が、この担任の先生の計らいで、

悟は難を切り抜けることができた。

 

その私学は大学の付属校だったが、

悟はその大学に対しても、

すでに勝手に失望していた。

 

学校へ行かない日は、家へは帰らず、

地元の配管工をしている友人の家で、

寝泊まりを繰り返した。

 

昼間はそのアパートで、

よくフォークソングを聴いて過ごした。

 

その友人はいつも井上陽水を聴いていた。

彼はそればかり聴いていた。

 

が、「氷の世界」は悟には辛すぎるうたに聞こえた。

 

平日は、友人が「今日はおまえの番だぜ」と、

笑って仕事に出かける。

 

悟は家からもってきた吉田拓郎のアルバムを、

幾度となく繰り返し、聴く。

 

「人間なんて」という歌が、

当時の最新式のステレオから流れると、

悟は心底その歌詞に共感した。

そして、陽水より実はこちらのうたのほうが

かなり悲しいうたなんだと、ある日気づいた。

 

♪人間なんてララララララララ

人間なんてララララララララ

何かが欲しいいおいら

それが何だか分からない♪

 

 

そんな悶々とした日が続き、

悟はけっきょく何の結論も出ないまま、

高校はなんとか卒業する。

 

トコロテン式に入学できる大学への進学は、

早々に辞退していた。

 

悟以外は、クラスの全員がその大学へ進学した。

 

こうして、

高校時代から悟の軸は少しづつズレが生じ、

荒れた生活へと傾いた。

そして、

地元の遊び仲間たちとの行動が、

いろいろな歪みを生むこととなる。

 

警察の世話になるようなことも、

一度や二度では済まなくなっていた。

 

冷凍食品の配送をしながら、

しぜんに芽生えてしまった自問自答の原因は、

こうしたズレの集積であることに、

悟自身はようやく辿り着いた。

 

悟は考えた末、

この冷凍食品の会社に辞表を出すことにした。

 

突然の辞表に驚いた所長は視線を天井に向け、

「お前は一体何を考えているのか?」と繰り返した。

 

「いまはまだ分かりません」

 

所長は「後悔するぞ」と先を見通せるかのように、念を押した。

 

会社を辞めた悟は、

中学校時代に親しくしていた友人を、

久しぶりに訪ねた。

しばらく会っていなかった友人は、

大学の法学部で、

法律の勉強にいそしんでいた。

 

彼と懐かしい話をするうちに、

突然、悟は思い詰めたように、

或る想いをその友人に話した。

 

「俺さ、なんだか分からないけど、

いまの自分が自分でないようで、

いたたまれないんだ。

本当は何かをつくる仕事がしたい気がして。

たとえば、新聞とか雑誌とか…

そういうものに携わりたいんだ。

才能はないと思う。

だけど、ただやりたいなって…」

 

「………」

 

悟はさらに胸の内を話した。

 

「いや違う。

いまの俺が欲しいのは時間なのかも知れない。

そしてもう一度やり直したい」

 

友人は咳払いをひとつした後、

「いずれにしても、何かをめざすのであれば

まず大学を出ておいたほうが良いんじゃないか?、

世間ではいろいろ格好いいことを言うのがいるけれど、

現実は全く違うよ」

と話してくれた。

 

悟の最も嫌いな学歴ということばが、

やはり現実の世界では、いぜん幅を利かせている。

そして友人は、「モラトリアム」という言葉の意味を、

悟に教えてくれた。

 

モラトリアムは法律でも使われるようだが、

直訳すれば執行猶予という意だった。

 

要するに、

人生におけるやり直しの時間を手に入れる…

 

悟はそう理解した。

 

そして大学受験のために必要な願書というものも

偏差値も赤本も、さらに、

中学からの勉強のやり直しが最も有効だということも、

その友人が教えてくれた。

 

街に秋の気配が広がるころ、

悟は家にこもって勉強をスタートさせた。

 

遊び仲間は、悟の付き合いの悪さを、

みんなで酒の肴にしていた。

両親も悟の行動をいぶかしがったが、

特にそのことに触れることもせず、

生活費をよこせとだけ小言を繰り返した。

 

試験は、年明けの2月14日。

友人もときどき徹夜で応援してくれた。

正月の元旦を除いて、

悟は受験勉強に集中した。

 

こうして1974年の春、

悟はモラトリアムを手に入れた。

 

「この時間はとても大切なものだ」と、

悟は幾度となく胸の内で繰り返した。

 

けっきょく、悟はこの社会にひとつ迎合した。

それは学歴という何の中身もないのにのさばっている代物に、

手を出したこと。

さらにクルマの借金は相変わらず続く。

学費も稼がなくてはならない…

 

が、悟は自らの人生を再起動させた。

 

事態は決して良い方に100%傾いたとは言い難い。

 

とりあえず執行猶予期間を手に入れたことで、

悟は自らの羅針盤をつくり直す作業に取りかかった。

 

 

 

 

ジャズライブでスイング!

 

知り合いのジャズボーカリストの方(女性)が、

ライブをやるというので、

付き合いで出かけることにしました。

この方は、首都圏のライブハウスで、

けっこう活躍している。

 

生で聴くのは、今回がほぼ初めて。

 

そもそもジャズって苦手でして、

この手のライブは、過去に数回しか行ったことがありません。

 

ジャズは、なんだか気難しいという先入観がある。

そのムカシ、ちょっとジャズをかじろうと、

本屋で「スイング・ジャーナル」をペラペラと眺めるも、

書いてある事柄が難しくて分からないし、

そもそもアーティストも知らない人ばかりだった。

そのときから、私のジャズに対する印象は、

小難しい能書きの多い音楽。

 

それで固まったまま、今日まで来てしまった。

そんな訳で、ジャズ音楽を聴いても、

馴染みのある知っているもの以外、

受け付けなくなってしまっていた。

例えば、「A列車で行こう」とか「ドライボーン」

「テイク・ファイブ」、「イン・ザ・ムード」とか、

その位しか知らない。

アーティストにしても、

日野照正とか渡辺貞夫は知ってるが、

あとは顔と名前と曲が一致しないので、

ほぼド素人の域を出ない。

 

で、今回はそろそろその殻を破ろうかと、

奮起して出かけた次第。

 

事前にYouTubeでジャズを幾つか聴いたが、

どうゆう訳か不思議とすぐ飽きてしまう。

で、眠くなる。

 

「ジャズはだめだなぁ」と呟きながら、

それも力を振り絞って家を出ましたね。

で、早めに到着してしまったので、

時間つぶしのため、

駅前のドトールでコーヒーを飲んで、

やれやれとめざす店へ。

 

その店は横浜のローカルな場所にあって、

その存在を知らないと店の前を歩いていても、

ほぼ気づかないほどに目立たない。

 

さてとドアを開ける。

店内は薄暗くすでに人が集まっているようす。

クラシックなテーブルが7つ位置かれ、

それぞれ4脚のイスと、

ステージの脇には、

よく使い込まれた音響機器がズラリ。

 

どのテーブルもほぼ客で埋まっている。

皆、くつろいでビールなんかを飲んでいる。

入り口近くの、ステージから一番遠い席が

ひとつ空いていたので、そこに腰をおろす。

 

店内を観察するに、

皆、ご高齢かつ常連と思える。

が、町中でみかける高齢者とはなんか違うのだ。

先入観からなのか、どの顔もイキイキとしていて、

とてもおしゃれにみえる。

ついでにムカシ遊んでいたな、というオーラが

ピシピシと放たれている。

 

ボクはノンアルコールビールを飲みながら、

手持ち無沙汰でiPhoneをいじくったりする。

 

そのうち知り合いのボーカリストの女性が、

声をかけてくれる。

やっと知り合いがひとり。

こういうシチュエーション、

あまり好きではない。

 

このボーカリストの方はこれからステージで唄うので、

いつもとはちょっと印象が違い、

けっこう派手目な衣装をまとっている。

(そもそもプロの方だったので当たり前か)

 

「楽しんでくださいね!」

「ええ、お気遣いありがとうございます」

………

 

にしても居心地が良くないな。

これから約3時間くらい、

ボクはここでじっとしていなくてはならない。

わぁー、成田空港からサイパンまでの飛行時間が、

ちょうどその位のじかんだったなぁと、妙な事を考える。

 

彼女が去り、まわりをウォッチしてみる。

カウンターに腰を据え、

ウィスキーをガンガン飲んでいる人がいる。

傍らにサックスが置かれている。

その横にさらにふたり。

一見、客のようなのだが、いや違うなぁ。

本日のアーティストなのか?

いや、それであればアルコール、控えるでしょ…

とかなんとか眺めていると、

この3人がおもむろに立ち上がり、

ステージへ。

(ほほぅ、そういうことね)

 

お~、皆とてもリラックスしている訳だ。

家庭的!

ではと、こちらも薄ら笑いを浮かべ、

まわりに合わせて彼らに拍手。

 

しかし、こちらはなんの期待もしていない。

ひょっとするとボクは寝てしまうかも知れないのだから。

 

しかし、ライブが始まると、

自分でも驚くべき己の反応があらわれた。

それはとても意外過ぎるほどのものだった。

それはいまでも忘れられない。

 

よくジャズマニアが

真空管のアンプでしか聴かないとか、

どでかいスピーカーの下にブロックを置くと

音が良くなるとか、

レコードで聴かないと分からないから

デジタルは拒否するだとか、

そういうのは、彼らの見栄ないし虚飾だと思っていた。

 

が、いつもYouTubeばかり聴いている身として、

このライブを聴いてから、

確かにそうだよなと納得してしまった。

 

ライブで味わうテナーサックスは

泣いているようでもあり、

語りかけてくるようでもあるし、

ベースはリズミカルに心身にまで食い込んでくるし、

ジャズピアノのあの響き渡る心地よいメロディーと

スーパー・テクニックは、

まさにホンモノだと確信してしまった。

 

それに、そもそもあれだけウィスキーを煽って

精密かつエネルギッシュ演奏を

3時間も続けることができるなんて…

 

まあ、驚きです。

 

4曲目あたりから、彼女がステージに上がり、

「Fly Me To The Moon」を唄うと、

店内のムードはまたガラリと変わり、

それはそれで趣を異にし、とてもムーディーな訳。

 

なんかいいなぁ、ジャズ。

 

そのうちぜんぜん違う、

もうひとりの自分が現れたではないか。

 

結局、3時間はあっという間に過ぎてしまった。

ボクはといえば、ノンアルコールが身上なのに、

いつのまにか数年ぶりにアルコールを口にし、

唐揚げをバクバクと食い、

しまいの果てには立ち上がり、

いわゆる「スイング」という奴を体験してしまったのだ。

 

どうですか、この変容ぶり!

(信用ならないオトコですな)

 

これからひと月に一度はライブへでかけたい、

そう思っている自分があらわれてしまいました。

 

先入観って、良くも悪くも自分を縛ります。

その殻をひとつ破ってみた結果、

また面白いものを見つけてしまいました!

 

 

 

 

 

 

 

天国への階段

初めてその夢をみたのは、

確か20代の頃だったように思う。

その後、幾度となくおなじ夢をみた。

その風景に何の意味があるのだろうかと

その都度、考え込んだ。

それとも何かの警告なのか?

 

30代のあるとき、友人と箱根に出かけ、

あちこちをクルマで走り回っていた。

心地のいい陽気。日射しの降り注ぐ日。

季節は春だった。

 

ワインディングロードを走り抜ける。

爽快だった。

が、カーブに差し掛かったとき、

私はこころのなかで「あっ」と叫んだ。

 

そのカーブの先にみえる風景が、

私が夢でみるものと酷似していたからだ。

 

夢のなかで私は、

アスファルトの道をてくてくと歩いている。

どこかの山の中腹あたりの道路らしい。

それがどこの山なのか、そんなことは考えてもいない。

行く先に何があるのかも分からない。

 

陽ざしがとても強くて、暑い。

しかし不思議なことに、全く汗をかいていない。

疲れているという風にも感じない。

 

カーブの先の道の両脇には、

或る一定の間隔で木が植えてある。

その木はどれも背が低くて、

幹が白く乾いている。

太い枝には葉が一枚もない。

 

そのアスファルトの道が、

どこまでも延々と続いていることを、

どうやら私は知っているようなのだ。

 

夢でみた風景が箱根の道ではないことは、

その暑さやとても乾いた空気からも判断できた。

現に箱根のその風景は、

あっという間に旺盛な緑の風景に変わっていたからだ。

 

しかし、それにしても夢でみた景色とそっくりなのが、

不思議でならなかった。

 

夢のなかのその風景は、

メキシコの高地の道路のような気もするし、

南米大陸のどこかの道なのかも知れないと、

あれやこれやと想像をめぐらすのだが、

私が知った風景ではないことは確かだった。

 

つい最近も、仕事の合間のうたた寝の際、

夢の中にその風景が現れた。

 

立ち枯れた木がずっと続くその道の先は、

きっとその山の頂上に続いているのだろうと、

ようやくこのとき私は想像したのだった。

 

酷似した箱根のあの道の先には、

瀟洒なホテルが建っている。

夢に出てくる景色ととても似てはいるが、

やはり違う。

 

ただ、現実にみたその景色が、

私のなかの何かを呼び出したことは、

確かなことなのだ。

 

そこに意味があるように思えた。

「あなたがみた夢を決して忘れないように」と。

 

夢のなかでは、怖さも辛さも感じない。

とても強い陽ざし。

暑さと乾燥した空気。

あたりに風は一切吹いていない。

それは異国のようでもあり、

とても穏やかで静かな時間だった。

 

覚醒した私は思った。

 

頂上にたどり着いた私は、

やがて、空へと続く一本の階段を発見する。

そして、誘われるように、

その階段をテクテクと昇ってゆくのだろうと。

 

もちろん、その階段は天国まで続いている。