大きな洋館に住み、海外を豪華客船で巡る。
こんな老夫婦を先日テレビで観た。
仕事をリタイアし、悠々自適の老後である。
如何にもテレビ向きと思った。
また、あるIT実業家だが、
彼は、仕事はやりたいときにやる主義だそうだ。
事業をできるだけ自動化するため、仕組みを構築し、
収益は、常に銀行に溜まるらしい。
ふーん、凄いな。
観ている側が羨ましがるだろう企画満載の番組だった。
ネットでは、ある投資家が、
アパート経営を成功させ、
それを資金に財を成した話が有名だ。
趣味のクルマがガレージにズラリと並ぶ写真。
その投資マニュアルが飛ぶように売れたことがある。
成功者の話は総じて面白い。
なぜ面白いのかというと、
その人が成功したからに他ならない、
と思いがちだが、
実はそんなことはないと私は思っている。
それは、
財という、誰もが分かるものさしで、
とりあえず人を惹くからに他ならない。
だからそう思ってしまうだけのことなのだ。
そもそも人って、
どんな生き方をしていても、それぞれが面白い。
人の数だけドラマがあると言われるように、
それが喜劇だろうが悲劇だろうが、
総じて、その内容に惹かれるものなのだ。
話を成功者の事柄に戻すと、
成功者は幸福かとの問いに、
それは当たり前だろ、と言う人は多い。
私のまわりにも、大なり小なり、
成功者と呼ばれている人たちがいる。
しかし、問題はここからなのだが、
成功がイコール幸福とは限らないところで、
話はややこしくなる。
あくまでこれは私の知る限りの状況なので、
他に通用するかどうかはその限りではないが、
持て余すほどの財産を手にしながら、
不幸を吐露する人を、私は幾人かみた。
単なる成功者が、
人生の勝利者であるかの如く周囲が感じるのは、
まず財というものが分かり易い指針であるが故に、
誤った判断に陥る為だ。
後は、まわりの観察眼が足りないか、
節穴のどちらかである。
さて、人生の勝利者なんていうと語弊を招くが、
成功者がすべて人生の勝利者と被るとは、
到底言いがたい。
それが現実だ。
では、人生の勝利者が幸福な人と仮定して、
それは、果たしてどんな人を指すのだろうか?
私も長らく生きてきて、いろいろな人を見てきたし、
己の経験も巻物の如く延々と語れる年になった。
思うに、人生の大半はほぼ日常だと、
或るとき気がついた。
日々、何を楽しいと思えるか、
日々、嫌な事をどのように昇華できるか。
要は些細なことの積み重ねだ。
それをどのように味わい尽くすのかによって、
人の幸・不幸は、いとも簡単に分かれてゆくのだろう。
例えて言えば、日々の生活のなかで、
喜怒哀楽を味わう心が、
人の幸福度を左右すると言ったらおおげさか?
こんなことを書いている自分は、
いつからこんなことを抜かすようになったのだろうと振り返るも、
発端は曖昧模糊としていて釈然としない。
ただ、私が前述した成功者の一人ではないことは確かであるし、
そうであったなら、
こんなつまらないものは書かないだろうしね。
正岡子規は、病床に伏してなお、
身の回りだけでなく、
森羅万象を美しく捉えた。
海外を豪華客船で巡ることなく、
その感性で世界観を形成した。
それは置かれた環境・状況で、
己を最高に楽しませる、感動させるための
メンタルを手にしたからに他ならない。
例えるならば、
毎日、屋根のある下で寝られる幸せ。
質素でもいいから、
ごはんが食べられる幸せ。
なんとか自分の手足を動かせることの幸せ。
そして、身近なものに寄せる愛なのだろう。
気がつけば、
青い鳥はどこにでもいるのかも知れない。
いや、青い鳥はいつもあなたの側にいるのだろう。
きっと見ていないだけの事。
それだけの事なのだ。