谷内六郎展ということで、
ドライブがてら、
横須賀美術館へでかけた。
ここを訪れるのはおおよそ5年ぶり。
前回はニューヨークアート展だった。
海辺が至近の美術館で、
まわりの景色も
とてものったりとしている。
前回、リキテンスタインの作品とか、
ウォーホルのキャンベルスープなど、
興味深い作品をじっくりと鑑賞できたので、
印象がよかった。
もう一度訪れたいと思っていたので、
今回はそのよい口実がみつかった。
谷内六郎といえばやはり週刊新潮だろう。
彼の絵が、毎週この雑誌の表紙を飾っていた。
創刊から25年書き続けたというから偉業である。
僕はこの表紙の絵を、
通勤途中の駅のキオスクや本屋でみかけたが、
当時はたいして気にならなかった。
週刊新潮の中身そのものにも興味がなかったので、
目を引くこともなかったのかも知れない。
彼の描くものに俄然注目したのは、つい最近のことだ。
それは或るテレビ番組で谷内六郎特集を観てからだ。
このときは暇だったので一点一点じっくりと鑑賞。
解説をききながら絵を読み解くうち、
この画家のイマジネーションの壮大さに、
改めて驚いた。
むかし、キオスクでちらっとみたときは、
素朴なタッチの懐古的な絵で、
なおかつ奥行きのない平坦な絵との印象だった。
まあそもそも駅のキオスクで
ちらっとしか観ていない絵の印象を語るなんて、
そんなものは失礼極まりない。
僕は、絵というもの、
そのものを詳しく知らなかったし。
で今回の再認識だが、
この谷内六郎という画家の描くものには、
どの一枚にも必ず物質とはいえない、
我々の目には見えないものが描かれている。
曰く、それが爽やかな夏の風の色であったり、
囲炉裏のあったかい空気であったり、
木枯らしに乗ってきたかわいい妖精の姿であったり、
春のふるさとの桜のかおりであったり…
そしてこの画家の描くものには、
思い、想いというものが、
ぎゅっと詰まっている。
そのやさしさやおもいやりのようなものが、
夢と空想の世界をかたちづくり、
観る人を不思議な世界へと誘う。
横須賀は、彼が晩年を過ごした地でもある。
よってこの美術館には、
別館として谷内六郎館が併設されている。
現在は工事中だが、今回は生誕100年ということで、
本館で展示されている。
5年前に訪れたときは、
ニューヨークアート展に集中してしまい、
前述したように谷内六郎作品に対する印象も薄いものだったので、
この別館を素通りした。
いまになって深く反省をしている。
遅きに失したけれど、
アーティストだけでなくクリエーターも含め、
ものをつくるひとたちの作業というのは、
当然いろいろなことを考え、想像し、
それをカタチにしている。
そうした一連の行為に対して、
僕たちは軽々しく論じてはいけない、のではないか。
これが今回の僕なりの教訓。
作家や作品が好きか嫌いか、
私たちにとってはその程度のことで、
あるにしてもだ。