仕事がひと息ついた昨日の夕方、

裏の高台にある丘を歩いた。

傾いたとはいえ陽はまだ強く、

丘にたなびく樹木の陰影が濃い。

空は薄い水色だが、雲ひとつない。

快晴だ。

西に傾いた陽が赤くまぶしい。

東南の空には、上弦の月が見える。

吹きぬける風が、

暑さも程よいと思えるように、心地よい。

14年いた東京のマンションを引き上げ、

親の縁で、この地に辿り着いた。

当初はこんな田舎、と思っていたが、

ここで子供を育て、

まがりなりにも付き合いも増え、

ついに、東京暮らしより長くなってしまった。

いまでも時々、東京や、

私のふるさとである横浜に行くが、

人の多さや、隙間のない街に疲れ、

ここに戻るとほっとする。

変わった、と自分でも思う。

今年の夏は、自宅の庭で

ゴーヤを育てることにした。

プランターを駆け上がるように、

グリーンのネットを這うゴーヤ。

いまに、

よしずを乗せたテラスの屋根を越え、

8月には

2階のベランダに到達するのではないかと思うほど、

成長が早い。

そのベランダにロゴスのサマーベッドを置き、

最近ではここから、夕景を眺めている。

暮れゆく空。陽に光る山の稜線。

丘へ出かけた、その夜、

月をじっくり眺めることにした。

空は、夏にめずらしく青に澄み、

快晴の空にぽっかりと浮かんだ月は、

とても心が落ち着くものだと、

真から思った。

震災の数日後、計画停電の夜も、

外を黙々と歩き回り、

初めて体験する闇のなかから、

ぽっと光る青い月を見た。

とても寒い夜で、物音もなく、

ただ、自分の足音を聞いていた。

先のことが、何が何だかよく分からず、

予測不能な事態は、

頭を混乱させるだけだった。

静けさのなかの精神の喧騒。

それを現すかのような、

とても青い月だった。

昨日は、

あの震災よりやっと4ヶ月が経った。

いや、まだ4ヶ月なんだと思った。

「月」への2件のフィードバック

  1.  
     人間が生きていく上での日常性の強さというものは、すごいものですね。
     “あの日” からまだ4ヶ月だというのに、同じ月が、まったく違ったもののように見えてしまう。
     あの、「頭を混乱させる“静けさの中の喧騒”を表すような青い月」 が、たった4ヶ月しか経っていないというのに、「快晴の空にぽっかり浮かぶ“心が落ち着く月”」 に見えるようになっている。
     
     その心が変化していく過程では、何が起こっているのでしょうか。
     
     決して、何一つ変わっているわけではないのでしょうね。
     生活は、もっと厳しくなっているのかもしれない。
     社会はもっと過酷になっているのかもしれない。
     でも、4ヶ月後に見る月は美しい。
     
     たぶん、それが 「日常性の強さ」 ということなのでしょうね。
     でも、それは、生き物の強さから来るものなのでしょうか。
     それとも、精神の弛緩による慣れから来るものなのでしょうか。
     
     そういうことまで考えさせてくれる、すごいエッセイですね。
     いろいろ考えるきっかけを与えてもらいました。
     
     

  2. 町田さん)
    忘れるとか泣くというのは、人にとってかけがえのない武器のように、私は常々思っています。
    こうした経緯を経て、時が過ぎ、感情が少しづつ薄皮を剥ぐように癒され、それでも災難は災難なんだと、冷静に分析しようとする私たち。
    かように、日常は過ぎてゆく。人は強いんだか弱いんだか…。これは私にも計りかねる事柄です。
    ただ、私は文中にもあるように、震災後のあの月はとても印象的で、いま想い出しても、ぞっとする青さでした。
    が、これは過分に私の気持ちの反映なので…。で、日常なんです。
    コメント、ありがとうございます。

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