先日、地下鉄丸ノ内線の新宿駅のホームでボオッーとしていて、
不意に或る考えが浮かび、急に怖くなったことがある。
それは、ホームの天井がやたらに汚ないのと異常に低いことで、
妙な圧迫感を感じたことが事の発端だったように思う。
いまここで地震や火事が起きたら?
とつい考えてしまったことだった。
まわりを見ると、皆のんきにスマフォなんかを眺めている。
とっさに、いま私は地下何階にいるのかを考えた。
分からない。
そしてどちらの方向に出口があって、その先はどうなっているのか?
それも分からない。
それまで私は、昼メシに何を食おうかとか、
そんなことを考えていたのだが、
そのへばり付くような嫌な考えに、
急に食欲も失せたことを覚えている。
思うに、急な事態に対処できるよう、
常に気を張る事は必要だろうが、
リスクヘッジも度が過ぎると日常生活に支障をきたす。
ほどほどのバランス感覚があれば、
そんなことは、取るに足らない話なのだろう。
が、田舎暮らしが永くなった私は、
急に起きた事態に、
そのバランスが取り戻せなかったというべきか。
で、勝手に、
都会人はきっと何も考えない技術を身につけているのではないかと、
推測してみた。
良くいえば、
先のバランス感覚をも習得しているなと思った訳である。
話は飛ぶが、
かつて「考える技術、書く技術」という有名な本があった。
文章を書くためのアイディアの出し方やメモの使い方、
目標設定の方法など、とにかくその方法が事細かに書かれている。
実践向きの元祖ノウハウ本といったところか。
私も、この本を読んことがあるが、
実践的思考法としては面白かった。
本屋のビジネスコーナーやアマゾンを覗いても、
こうした本は常に売れているようで、
未だに類似本も数多い。
かように、「考えよう」と啓蒙する本は多い。
が、いまの私が欲しいのは、
何も考えない技術、書かないで済む技術だと思った訳だ。
最近、目が辛いので、
まず書かないで済ますには、
手っ取り早くこの仕事を辞めることなのだろうが、
それはいま現実的に無理なので、
せめてぺらぺらとしゃべって事足りるよう、
仕事の方向性を変えることと考えた。
例えば、レポート他、書類を提出しないコンサルタントとか、
人前で話すのみのセミナー講師など。
これとて、相当のスキルが伴うが、
場数を踏んでいくいくうちに、
私自身がテープレコーダーのようになれるような気がする。
いや違うな。
この稿で私がホントに書きたかったのは、
「考えない技術」についてのノウハウについてだ。
考えない技術。
もちろん、文字通り考えなければ良い訳なのだが、
気がつくと、人は常に何かを考えている動物である。
楽しいことを考えるのは、文句なく良いが、
人生はアレコレと悩みがつきまとうものである。
難しいことや怖いこと、空しいことや辛いこと。
気がつけばどうでもいいことまで、こねくり回して考える。
先の丸ノ内線の事例なんかは、その最たるものである。
さて、人となんだかんだと話してみても、
余計な考え事に関して、
皆似たり寄ったりということだった。
実は…と、同じような事を言う人が多いのに気づく。
普段は皆一様に話さないだけなのだ。
故に人は悩み深く、
その業は更に深いと言わざるを得ない。
ロクなことしか考えないことを、雑念などと言う。
また、払い切れない雑念を煩悩と言い、
人は常にいろいろ悩んでいるのである。
で、冒頭の話に戻るが、
考えない技術のような本がどのくらいあるのか、
ちょっと調べてみた。
と、「考えないトレーニング」とか「考えない論」、
「考えないヒント」とか、やはりいろいろある。
更に、「考えない練習」という本もあった。
これらの本を要約すると、
人は考えるだけでなく、うまくアタマをリセットして、
時に感じることも大事だとの主張が多い。
うーん。
これは、映画「燃えよドラゴン!」で、
ブルース・リーが弟子に語った名セリフだ。
「考えるな、感じろ!」と。
カンフーもまた、考えない修行らしい。
でである。
考えない…の関連項目を追ってゆくと、
予想どおりというべきか、瞑想とか座禅、
そして宗教色の強い書籍がずらっと並ぶ。
こうした話は、結局のところ、
来るべき所へ来るのだなと、私は思った訳だ。
どんな道も、辿り着くのは、やはり最終的にこの辺りなのだ。
で、これらの書籍を修行と思って、
読んでみようかと思ったが、
やはりやめることにした。
きっとと言うべきか、
メビウスの輪のような矛盾に陥るのが、
関の山に違いないのだ。
で凡人よろしく、凝りもせず、
今日も煩悩に振り回されている私だが、
こうして死ぬまでジタバタして生きてゆくのが、
人といういきものの業なのだろう。
ほんと、「考えない技術」というか、ある特定のネガティブなことに考えが及ぶことを、自らの意思で、簡単に遮断できるといいですね。
冒頭の地下鉄の閉所恐怖的なジレンマは、私は年に数回陥ります。「突然の地震で閉じ込められたらどうしょう」の類で、もろに考えなくてもいい可能性を考えて、恐怖するのですからどうしようもないですよ。
先月奈良に旅行した時見た中宮寺の半跏思惟像と、ロダンの「考える人」像を比較したりします↑。前者は仏に帰依することからくる微笑が、後者は論理を突き詰めようとする緊張と苦渋の表情が対比されます。
どちらも我々凡人には到達するのが難しい極致だとは思います。真理は中庸。おそらく、我々はある程度は考えて、自分の生き方を少なくとも自分だけは、あきらめも若干のジタバタも含めて納得しているのが良いのかなあ、と最近は思います。それが(いつまでも)考えない技術でもあるかと。
Soraさん)
私の場合、この種の考えは、東京にいる頃は全く意識したことのないものでした。
が、小さいときに防空ごう跡で落盤事故に遭ったことがあるので、
そのトラウマが残っていたと思われます。
このトラウマというのは、妙なときに出現するものです。
若い頃はまた、少林寺拳法をやっていましたので、座禅にはまり幾度となく繰り返しましたが、
雑念だらけで落ち着かなくなるか、寝てしまう。ひどいものでした 笑
Soraさんが見られた半跏思惟像は、我々ではとても到達できない表情と想像しますが…
また、ロダンの考える人は、うーんアレは辛そうですね!
が、人間臭いのがいいかも…
何事もほどほど。私も中庸がよろしいかと思います。
が、中庸とは何かと考えるのはヤメにしましょう!
コメント、ありがとうございました。