旅するように生きる人。
または常に旅をしている人を、
ライフトラベラーと定義したい。
古くは芭蕉や山頭火だろうか。
月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿(芭蕉)
けふもいちにち風を歩いてきた(山頭火)
詩人・ランボーも、商売に精を出したり、
旅芸人一座と寝食を共にしたという。
60年代後半、
アメリカではベトナム戦争の痛手から、
ヒッピーが生まれた。
ヒッピーの信条は自然と愛と平和。
そしてマリファナやLSDを肯定する。
トリップである。
世間に背を向け、
キリスト教的な教えを拒否し、
東洋思想へと傾倒する彼らを大きく捉えると、
ヒッピーの信条もまた非日常であり、
現実逃避という「旅」と言えなくもない。
ライフトラベラーだ。
ちょうど、ビートルズがインド巡礼へと旅立った頃だった。
東洋思想が捉える世界観は、宇宙まで辿り着く。
少なくとも西洋にはない宗教観に、彼らは傾倒した。
ヒッピーはまた、
フラワーチルドレンとも呼ばれた。
その先鞭は、
スコットマッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」。
サンフランシスコは、まさにヒッピー発祥の地であった。
世界を平和の象徴である花で埋め尽くそう…
そして、武器ではなく、花を!
レコードジャケットの花柄のシャツを着た彼の姿は、
いまでも印象に残る。
同時期、
銃口に花の添えられた写真が世界を駆け巡った。
アメリカの若者たちが「平和」を模索し始めたのである。
この写真は、違和感そのものであり、
それが逆に不思議な引力をもっていたのを、
いまでも覚えている。
ヒッピー文化はまた、
サイケデリックをも生み出した。
サイケデリックファッション。
サイケデリックミュージック。
これらのムーブメントは世界に波及し、
日本にも多大な影響を与える。
横尾忠則、ナナオサカキ、寺山修司や植草甚一など、
蒼々たる人たちがその洗礼を浴び、
後に続く新たな系譜となる。
また、岡林信康や忌野清志郎、加藤和彦も、
少なからずヒッピーの影響を受けたアーティストたちだ。
日本ではフーテンという呼称があるが、
これもヒッピーの系譜。
日本中を歩いたフーテンの寅さんも、
こんなところから生まれたのだと思うが、
これは不確かな推測だ。
しかし、日本でもこの頃から、
新たな旅の模索は始まった。
さて、
常に旅をしている人はその実感もひとしおだろうが、
旅するように生きるとは、となると、
その定義も難しい。
ひと頃、
JRの「ディスカバージャパン」キャンペーンがヒットした。
山口百恵の「いい日、旅立ち」の歌が流れ、
日本の何処か…の美しい映像が映し出されると、
あぁ、旅はいいなぁと思えた。
また、イギリスBBCなどが制作するドキュメント映像も、
リビングに居ながらにして、私たちを冒険へと誘う。
映画、音楽、物語…
これらも、
動かずして旅立つことができる重要なアイテムだ。
旅は突き詰めると、非日常である。
そこに想像する力、感動する心があれば、
人はいつでも旅立てる。
旅するように生きるとは、
例えばこうしたことなのかも知れない。
話は飛躍するが、
私たちの人生そのものが旅の一環である、
との考え方も存在する。
これは仏教に由来する考え方だが、
人が生きてゆくとは、
あの世から来た旅人がこの世を旅することであり、
更に大きく言えば、
この世の生き様は、
ただの通りすがりの姿なのである。
生きて、死して、
そしてまた次のステージを旅する…
それが次元の異なる旅するのか、
宇宙の果ての向こうにそんな世界があるのか、
それは誰も知る由もないが、
思えば、これも旅と言えなくもない。
だから私たちは、同時代を生きる旅人なのだ。
人が旅に憧れるのは、
やはり、私たちのどこかに、
潜在的に組み込まれたプログラムがあるから…
なのではないだろうか?
60年代にミュージカル「ヘア-」が大ヒットしたが、
このミュージカルもヒッピー文化の申し子だ。
ヘアーとは、要するに長い髪のことであり、
それが愛と自由と反戦の象徴の意味合いをもつ。
ここで、フィフス・ディメンションが歌う
「輝く星座」と「Let The Sunshine In」は、
壮大なスケールと共に、
とにかく歌詞が意味深である。
♫
月が7宮に入り
木星が火星が一直線に並んだ
いま この安息が宇宙に広がるとき
愛の力が宇宙を動かす
さあ水瓶座の時代が始まる
夜明けのときがきた
水瓶座…
水瓶座…
ああ水瓶座よ
調和そして理解すること
共感そして信頼
ウソや人を騙すものは
もう終息に向かうだろう
夢に溢れた輝かしい未来
神秘的に満ちたお告げと黙示
真に解放されるとき
水瓶座の時代がきた
水瓶座…
おお水瓶座よ
♫
うむ、
私たちは皆ライフトラベラーである。
元来、人は誰も自由な旅人であり、
この世を通り過ぎるのも、また旅、
なのではあるまいか。