人生という名の契約

フリーとか自営業者、

中小の会社経営者というのは、

長患いをしてはいけない。

なぜなら、早々に喰っていけなくなるからである。

資産を蓄えている、

多額の保険に入っている人は別であるが…

永年、病欠をしたことがないのが自慢であった。

それが2年前に患い、あえなくダウン。

経済的には、なんとか乗り切ったが、

短期間ではあるが、

生活をしていく上での不具合を少々体験した。

特に車椅子に乗って分かったのは、

この国は道路や建物は弱者にはやさしくはない、

ということ。

なにより健康なのが一番だが、

個人的な感想としては複雑で、

多様な人の位置を知る上で、

学ばせてもらったというほうが正しい。

更に本音を言えば、傲慢だった己の反省だ。

そして、その件から遡ること数年、

身内や友人を送り出した頃から、

改めて死という、

その不可思議を深く考えるに至った。

幾ら想いを巡らしても、

この得体の知れないぼんやりとしたものへの不安は、

そもそも幼い頃から取り憑いていた。

最も、20代は仕事や恋愛にもがいていたので、

生きてゆく辛さが身に堪える時期ではあった。

ここで一端、死への不安から解放されるが、

換わりに、生きてゆく或る違和感、

というものを知ることとなる。

それは感覚というか、

価値観のようでもあり、

突き詰めるほどに未だに分からないのだが、

人とズレているという実感。

群衆のなかの孤独、

たった独りという意識の芽生え、

こういうものに気づいたのも、この頃だ。

やがて世間並みに家族というものができ、

孤独感から解放されたのは良いが、

子供が育ってゆく様をみて、

なにがしかの重圧が、

どっと躰を覆っていたのも事実だ。

それは単純に金があれば解決するというものでもなく、

しかし金がなければおぼつかないのは確かで、

馬車馬のように働くのだが、

むなしさなどというものを感じているほど、

暇ではなかった。

そして、

人生も後半にさしかかる頃に、

ひと息ついていたら患った。

いや、自ら求めて患った、

という表現が正しいのかも知れないと、

最近になって思うようになった。

それは、死への不安が、

再び頭をもたげたからに違いない。

かように、生きるとは疲れる。

気がつくと、

行く先には「死」がぱっくりと口を広げ、

にやにやと舌舐めづりしているではないか。

ああ、また死という不可思議である。

やはり、幾ら想いを巡らしても、

この得体の知れないぼんやりとしたものへの不安は、

全く拭えないことを理解する。

そこで、

或る日、私は意図的に

夢をみることにした。

その夢は、

私がこの世に飛び出すとき、

或る契約書を差し出され、

それに夢中でサインをした、という代物。

そのとき、契約書を差し出したのがまた、

摩訶不思議な相手であった。

あの閻魔大王によく似ていたのだから…

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