いつものように運転席に座る。
シートベルトを締める。
そしてイグニッションキーを捻る。
こうして何十年もの間、車を動かしてきた。
エンジンが始動すると、
なんともいえない吹けの音と振動が、体中に伝わる。
そしてマシンを操る自分に緊張を強いるよう、
交感神経もまた目を覚ます。
翻って、
最近のハイブリッド車などはキーを捻るでもなく、
スタートボタンを押すとそれでスタンバイOK。
そしてわずかにキーンと鳴ってスッと走り出す。
まあ、静かといえばその通り。
しかし私的には、正直気味が悪いのだ。
このとんでもない技術革新は産業革命以来か。
新しいものへの飛び付きの遅い自分は、
そうした車を「ほぉ」とか「へぇ」とか感心するも、
実のところ、なんの魅力も感じない。
いま自分の乗っている車は、
あの悪名高きワーゲン社製のゴルフで、
排ガスのCO2量も今となっては実に怪しいほど、
よく吹け上がる。
悪気もなく、よく加速もするのだ。
これはこの時代に於いて、「悪」である。
がしかし、
ここでこんな話をするのは
面白くもなんともないので、
論点を戻そう。
要するにエンジン車の良さって、
そのメカニカル性に寄るものと思うのだ。
車内に伝わるそのエンジン音は、
ドライバーにメカの好・不調の具合、
そして走行速度などを感覚を通して教えてくれる。
いわば生き物の心臓の鼓動のようなものとして、
私は捉えている。
長距離を走り終わった後など、
エンジンルームからの熱気と共に、
荒い息づかいのようなものが伝わる感覚。
、
車が汗をかいているのではないかと思うほどに、
生き物のそれとよく似ている。
対して、ハイブリッド車などは、
すべてにおいてクールだ。
端的に表現すれば、あくまでモノそのものである訳で、
なんというか人造人間的。
とんと心が動かないのだ。
現在、ハイブリット他電気系駆動の車の性能は相当のもので、
高速道に於いても私の車なんぞ軽く静かに抜き去る性能を誇る。
が、どんなに飛ばしてもなにも熱くはならない、
そのクールさになにか違和感を覚えるのだ。
人馬一体という言葉があるが、
いまやアナログとなってしまったレシプロ(ピストン駆動)車なんぞ、
これに近い感覚。
走りそのものを五感で感じ取ることができる。
ハイブリッド車はこの感覚に欠ける。
それが新しい車の感覚であり、
今後、この新たな車よりの五感というものが、
益々拡がるに違いない。
これはもはや人馬一体ではなく、
カー雑誌などは、これをどのように表現するようになるのか、
そこが興味深い。
しかし自分もいつの日か、
こうした車に慣れなければならないのだろうか?
大袈裟な例えだが、
明治維新も敗戦後も、皆大きな転換を迎え、
物事の価値観もひっくり返った。
このとき、古い者にしがみついている者だけが、
面白くないハメに陥ったようなのだが、
今回のこの話も同様の道を辿るのだろうか?
いまが思案のしどころなのだろう。
だが、希に時代遅れが優勢に立つこともある。
残存利益ということばも実際ある訳で、
近未来の自動運転の先行きも見据え、
たとえば、旧車レシプロエンジン6段マニュアルギアを
操れる運転職人とか…
うーん、希少な人材としての引き合いは、
どうもなさそうだな。