1964東京オリンピックのころ

 

三丁目の夕日という映画がありますね。

日本中のまちがこの映画のセットのような、

というとややこしいのですが、

当時小学生の私は、

あの映画の舞台のようなまちの片隅で、

家族4人で暮らしていました。

東京オリンピックが開催されたのも、

そのころです。

 

オリンピックというものがなんなのかは、

当時の私には、

いまひとつ分かっていなかったように思います。

とにかく、この国に世界のスポーツ選手や、

いろいろなひとたちがやってくる…

そんな認識でした。

まあ、当時小学生の私としては、

この程度の知識でじゅうぶんとは思いますが。

 

となり町の国道を聖火ランナーが走るというので、

私たち小学生は、日の丸の旗振りの練習を

小学校でさせられました。

させられたといっても、とにかく楽しかったし、

やはりなにか高揚のようなものがあったのです。

 

応援地点は、東京から横浜へと続く

国道15号線沿いの子安あたりだったと思います。

 

私の住んでいたところは町工場が乱立してまして、

みんな早朝から暗くなるまで一生懸命に働いていました。

いつも鉄をたたく音が町中に響いていた、

そんな環境でした。

 

歩いて10分ほどの国鉄の駅のまわりには、

大きな商店街がふたつありました。

そこはいつもにぎわっていて、

季節ごとに赤いガラガラポンの抽選会をやっていました。

 

私は母に促されてそのガラガラポンを幾度か回しました。

電気スタンドとふとんのシーツを当てたことがあります。

母は大喜びしていました。

それがどちらも2等でした。

当時は、かなり高価なものだったようでした。

 

私の通っていた小学校はいま思えば不思議なところで、

みな誰も勉強はよくしていたのですが、

いまでも鮮烈に残っているのは、

先生たちがとてもやさしく、

どの先生も凛々しく、

私たちに常々話してくれたのは、

どんな問題もしっかり考え、

自分が正しいと思ったことは、

しっかり主張しなさいと教えてくれたことでした。

 

教室はいつも自由の空気がみなぎっていました。

休み時間は、机といすをうしろにどかして、

当時流行っていたモンキーダンスを

みんなで踊ったりしていました。

 

給食は、パサパサのコッペパンと

アメリカから配給された脱脂粉乳のミルクと

カレースープとかそんな献立でした。

 

昼休みになると、拡声器から

♪僕らはみんな生きている

生きているから歌うんだ

…手のひらを太陽に透かしてみれば

真っ赤に流れる僕の血潮♪

という歌が毎日流れていまして、

手のひらを…の歌詞に

なぜか強く惹かれたのを覚えています。

これは、やなせたかしさんの歌詞だと

後年になって知りました。

アンパンマンというキャラクターも

この人のあつい想いからうまれたのだと

納得できます。

 

坂本九の「上を向いて歩こう」も

このころ流行っていたと思います。

クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、

弘田三枝子、そしてベンチャーズ。

この時代のスターそしてその音楽は、

いまでもアタマに焼きついています。

 

さて、1964年のオリンピックですが、

私の記憶に残っているのは、

重量挙げの三宅選手の金メダル、

ニチボー貝塚のバレーボールの金メダル。

このチームは東洋の魔女といわれ、

世界から恐れられていました。

そして裸足で走ったエチオピアのアベベ選手でしょうか。

そして、みなどこかで聴いたことのある、

オリンピック・マーチというのは、

いまNHKの朝ドラの主人公のモデルである

古関裕而という作曲家の作品です。

私としては、開会式の荘厳なファンファーに、

とても感動しましたが。

 

日本チームの赤白の制服姿はとてもインパクトがありました。

日の丸からのカラーリングだと私でも分かりましたし。

それを観るべく、我が家でも或る日、

父が電気屋を連れてきてテレビがついた次第です。

 

私のまちは、海まで歩いて15分ほどでした。

その岸壁あたりは、大きな工場がどんどん増えて、

煙突の煙でまちがうっすらと曇っていました。

丘の上からその手前を走っている鉄道を眺めていると、

汽車を先頭に、貨車は50両もあったこともありました。

 

当時の自分が、

そのころ世界でもまれにみる発展を続けている

日本という国のその現場である

京浜工業地帯のすぐ横で暮らしていたということは、

後年になって知ったことです。

 

横浜駅のまわりのいくつかの地下道には、

まだアコーディオンをひきながら

お金を乞う傷痍軍人と呼ばれるひとたちが

いっぱいいました。

足のないひと、手のないひと、

包帯を体中に巻いているひと…

暗がりからのぞく彼らの異常に白い目だけが、

いまでも私になにかを訴えてくるようです。

 

敗戦から十数年の1964年。

そんな時代に開催されたオリンピックは、

いろいろな意味での時代の転換点でした。

そこに意義のようなものをと問えば、

それなりの回答があると思います。

それも山ほど、あきれる程に。

 

ただ、時代の傍観者として、

こうした時代を振り返ると

万感の想いもある訳ですが、

結局、ときが流れていまがある、

としか形容できない気持ちが、

佇んでいるだけなのです。

 

それはなぜなのかと自問するも、

それが思い出というものだから…

とつれない訳です。

 

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