私的イメージ論

私はどこから来たのか

という疑念に

星の静寂がこたえるというのだ

眼を懲らすも瞑るも

見えるものも見えぬものも

あなたは既に知っている、と

幾万光年の光が言う

すでに消えたあのあたりの星なのかと

想念で伝えるも

心すでにここに無し

遠く銀河を彷徨う

誰も

生まれ生き死んでゆく

悲しいか? 悔しいか?

それでいいじゃないかと言われても

無性に腹立たしく

じゃあ、私は何処へと星に問うも

既に暗闇は去り

木々の緑に

鳥たちは集う

たとえお釈迦様の瞬きの中に

私の一生があろうとも

果たしてこの生命は

捨てる様なものなのか?

閉じこめた種を開花せよ

考えるのではなく感じる

古代よりの遠いメッセージは

既に私の中にあるのだ

心の在りかを

探るのだ!

私は誰なのかを

掴み取れ!

幾万光年の記憶が

叫ぶまで

空の静寂が

語りかけるまで

あなたも私も

歩くのだ

「私的イメージ論」への2件のフィードバック

  1. 有名なゴーギャンの絵に 「我々はどこから来たのか、我々はどこへ行くのか、我々とは何者か」 という有名なタイトルを持った絵がありますが、それを思い出しました。
    「私はどこから来たのか」 というのは、人間にとって永遠の謎ですね。なぜ “永遠” なのかというと、答がないから。
    その 「答がない」 という明察を 「幾光年の記憶」 という言葉に置き換えたところに、この詩の深みと叙情が生まれているように思えます。
    「幾光年」 というのは、人間の頭脳では計算できない数のことをいっていることと同じですから、いってしまえば、それは「無限」 と同じ。
    有限の人間に 「無限」 は理解できないし、同じように 「死」 も体験できない。
    「体験できないもの」 の存在を感じるには、このような詩の形を取るしかないのかもしれません。
    そういった意味で、とても思想的な営為がここに結実しているように思えます。
    素敵なポエムでした。
     

  2. ようこそ町田さん)
    健康だの寿命だのと考えていると、人間って本当は切ないんじゃないか、と思うんです。町田さんの言われるように、私たちは有限ですからね。
    でも不思議ですよね?私たちのなかに悠久を想う心があるんですから、これは神様の贈り物か?ってね。
    せめて気持ちは大胆に!そして、心は永遠に!
    なにもスペースシャトルに乗らなくたって、私たちは宇宙の果てまで行けるパワーがある!
    そう信じている今日この頃です。
    コメント、ありがとうございます。

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