水面を流れる風に
さざ波を立てて
その底に眠る魂のことなど
いまはもう誰も知らない
あるきっかけで私はその魂を
深く沈めることにしたが
最近になって
それは生きている間に何とかしようと
その魂は叫ぶので
私は立ち行かなくなった
秋燦々の早朝
そのホテルの部屋の目前に
湖は佇んでいた
湖面はゆらゆらと
湯気のようなものに覆われ
早朝の釣り人の船が
すっと滑ってゆく
ミネラルウォーターをひとくち
シャワーを浴びてまた窓のカーテンを開けると
先程まで曇っていた空に
すっと陽が差し
雪に光る冨士が輝いた
いまだと、思った
私は
素早く着替え
湖面に突き出す船着き場に立つ
対岸の森に鳥居があり
湯気のようなものの上に浮かぶように
その景色も揺れている
切れた雲から差す朝日に照らされ
その上の尾根も光り
足元に寄せるさざ波に
あの頃が蘇る
元々うちの家系は水軍の出だと
父は言った
三河の水軍
それがどうしたと私は思ったが
父の気概がその朝に分かったような気がする
戦後になっても帰れなかった父は
シベリアで生きていた
どんなに叩かれ
喰うものがなくても
ふるさとに帰りたかったと言っていた
脱走した日本兵は即座に撃たれ
皆死んでいった
運良く脱走した者でさえ
あの広くて極寒のシベリアの大地で
どうやって帰るのか
その人間たちでさえ
待ちかまえる狼に喰われてしまったと言う
父は昭和23年に本土の土を踏んだ
村でたったひとりの帰還兵だった
なぜ生きて帰れたのか俺にも分からないと
父はよく言っていた
私はいつも平和に生きたいと
思っている
いまでもそれは変わらない
私自身の戦争も
遠い昔に終わっている筈だった
湖の底に眠る魂は
私の戦争だった
私は戦うことに飽きている
湖の底に眠る魂は
私の戦争だ
私は戦うことを
避けて生きてきた
血筋をどうこう思う者ではないが
なにか近頃
父の言葉が気にかかる
これは私の戦争なのだ
これは私の戦争なのだ
父が笑っている
あまり見せたことのない
笑顔で
父が笑っている
戦争が始まる
戦争が始まる
再び私の戦争が始まる
水底の魂が
私を呼んでいる
私は、水面を流れる風になりたいのだが
水底の魂は、このさざ波ではなく
湖を
地の底から動かすことを考えていた
最近よく、私も 「自分は父を超えたのだろうか?」 と思うことがあります。
自分の歳が、父が現役の仕事を終えた頃の年齢に近づいてくると、息子はようやく父の人生と、自分の人生を比較する視線を獲得するようになるのでしょうね。
そして、「父が戦ってきたように、自分は戦ってきたのだろうか?」 と考えることは、どの息子にも共通しているのかもしれません。
そのときに、息子の “二度目の戦いが始まる” というわけですね。そういうスパンキーさんの思いは、私にもよく伝わってきました。
そのような感慨を、朝もやの立ち込める湖の情景に託して、とても印象的にまとめいらっしゃると思いました。
視覚的なインパクトの強さと、内面的な深みがうまく絡み合い、印象に残る記事でした。
町田さん)
ディランではありませんが、やはり人間は荒野に立たなければいけないのか、と最近或る事をきっかけに考えた次第です。
父は数年前に他界しましたが、日に日に気になる親父というのは、やはり男として特別な存在なのですね。
私も会社を興して20年以上、だいぶ揉まれましたので、丸くもなりました。へらへらすることも覚えましたが、或る一線を越えてくる何かがあると、やはり性格は変えられないというのが最近分かりました。
それが性分なのか血筋なのかというと、それが分からないんですね?
ただ、親父は若くして故郷を捨て、荒野を彷徨ったことは、私がよく知っています
コメント、ありがとうございます!