自由を愛するものは
いつの日か
孤独のメカニズムを
知ることとなる
誰もいない海へ
船を漕ぎ出し
憧れの島へと
たどり着く
あなたの好きなこと
あなたを愛する人
あなたの愛する人
一切を
捨てられるか?
総てを忘れ
終わりなく船を漕ぎ出す孤独だ
例えば
温かさがあると思えば
繋がりがあると思えば
自由は
容易なのかも知れない
歓びと悲しみを
誰かと分かち合うということ
苦しみを涙を
あなたと味わうということ
そして労り合う
孤独を胸に沈める
心づもりなら
自由の仕掛けは
歓びそのものだ
だが
カモメのように
飛んでください
トビウオのように
泳いでくださいとは
戯言
たったひとり
そして誰もいなくる現実
意識の果てと向き合う
孤独
漆黒の空を見上げる
孤独
海の底で
千年笑って暮らすことに
希望をもつということ
そう
自由を愛するものは
この広い世界の
最後の人間という
孤独の総てもまた
愛さなければならないのだ
非常に、胸にズシリとくる言葉です。
>「自由を愛するものは、この広い世界の、最後の人間という孤独のすべてもまた、愛さなければならないのだ」
自由というものの「本質」が、鮮明に、簡潔に抽出されているように思います。
しかし、この最後の文章から、ちょっと別の光景を想像してしまいました。
それは“最後の人間”という言葉からでした。
「最後の人間」 という限り、“その人”は、人類滅亡後の地球を見ているということですよね。
それって、もはや人間の “眼” ではない。
言ってしまえば、“神の眼” で、地球を眺めているってことでしょ?
で、「ああ、神様って、孤独なんだ」 って、ようやく気づきました。「神様って、だから自由なのか」 という気もします。
つまり、スパンキーさんのこの詩からは、なにか「人間を超えたものを考える」という、どこか深遠な気配が漂ってくるのを感じます。
やっぱり 「自由」 と 「孤独」 というテーマは、人間の究極のテーマであり、だからこそ、それを真面目に考えると、たとえ詩の形をとったものでも、どこか哲学的な響きを帯びてくるということなんでしょうね。
けっきょく、親兄弟、妻、夫、子供たち、友人、愛人なんかに恵まれて暮らしていても、生まれてきたときは一人。死ぬときも一人なわけで、もし 「孤独」 の中に 「自由」 があるのであるならば、人は生まれることで 「自由」 を失い、そして死ぬことで、また 「自由」 に還っていくということなんでしょうかね。
難しいことは分からないのですが…。
町田さん)
ある聖書の解説書のようなものを読んでいたら、
繰り返し「鷹の目」「神の視点」という言葉が出てきました。
鷹の目、神の視点。
宗教はともかく、私は神を信じる者なので、よく
宇宙の果ての何かや、身の回りの何かを意識します。
アロマのようなとても良い香りは、心を落ち着けたときに
どこからともなく漂ってきます。
都度、これは何のメッセージか?と考えることもしばしばです。
さて、
近くにいて、実は途方もない所にいる何か。
ひょっとして、意識の上でいろいろなしがらみがあり、
これはこれで現世かな?と考え、同時に自身の奥深い所で
異空間にある意識や時間を意識せずにはいられないことがあります。
こういうときこそ、ああ自由なんだなと考えることもあり、
自分こそホントのところ孤独なんだと考えることもしばしばです。
そこに居て、いないような自分。
ここにいるようで、実は遠いところにいるような意識。
これは、自身の冷めた客観性とも取れるし、いや違うなーと
自問自答してしまいます。
いやぁ、ちょっと最近とみに疲れているのかな?
だんだん不思議なことを追求し、ビジネスに支障をきたさないようにと
警戒している自分がおります(笑)
が、いまのところ、
最近のプレゼンもまあまあなので、大丈夫だとは思いますが…
コメント、ありがとうございます!