重くしだれ
それでも伸びようとする
6月の木々は
わずかな陽と
豊富な雨に支えられ
ようやく生きようと考えたのか
この雨は
何を記憶しているのだろう
風は
何を運んできたのか
あの日以来
何かがぼんやりとしてしまった私が
しだれ雨の朝を歩く
春のかげろうの頃は
桜も散り
山が芽吹くと
私も何か心の整理に追われていた
この立ちゆかなくなった状況に
どんな手を打つかということを
いつも考えていた
それから1ヶ月が経ち
事はさらに後ずさりを始めていた
湿った葉を踏みしめ
赤土を叩き
誰もいない朝の公園に立つと
四方の山々の美しい情景が
艶やかに雨の中に浮かび上がる
木々から立ち上る湯煙のような
生命の吐息
ああ
私ひとりが
この公園に置き去りにされたような
心細さ
雨のはねる音
地面から立ち上る水蒸気
これは
6月のかげろうなんだ
雨のかげろうなんだ
と思う
自然の力は
それでもやはり奮い立つんだ
この雨は
何を記憶しているのだろう
風は
何を運んできたのか
相変わらず
うつむいて歩いている私に
過去からの追っ手がのし掛かる
そこには
やはり溜め息を吐くしかないおとこが一人
空を見上げていた
この詩を構成している空気のようなもの。とてもよく分かります。
>雨は何を記憶しているのか、風は何を運んできたのか。
いうまでもなく、3・11以降、これまで大地に潤いをもたらしてきた大自然の恵みが、にわかに不穏な彩りを帯びて人々の心に不安の影を宿す。そんな空気が、行間から自然に滲み出ていますね。
でも、そんなことは自然にとっては知らんこと。雨の季節にふさわしく、太古の昔から一つも変わらぬように、大地に滋養の水滴を垂らし、生物たちに命を授ける。
自然の壮大さと、その優しさ。
それに対して、原発という究極のエネルギーを手に入れながら、それに怯える人間の小ささと傲慢さ。
そんな残酷な対比のドラマが、雨に煙る静かな公園を舞台にひっそりと繰り広げられている。……そんな感じがしました。
スパンキーさんが、あの3・11を、自分の精神生活の中でどう内面化してきたのか。そんなことまでたどれるような詩ですね。
町田さん)
私は被災者でもないのに、でも関東に住んでいる人間としてあの日以来、何かとても憂鬱な訳です。
まあ、日々のリズムも取り戻しつつはありますが、私の中では、当分は吹っ切れないであろう、人の死生観や原発のことや、ここにきて運命などというものもちょちょく考えてみたり…いや、ここから抜けられないといった方が良いのかと思います。
生活のなかのふとしたときに顔を出す、緊張と憂鬱。これは、私の中の何かを再起動しなくてはならないのですが、その方法がいまは分からない。
とりあえず、このトラウマのような憂鬱は私に何を示唆しているのか、
そこを考えるのも、業なのだなと思っています。
コメント、ありがとうございます!