平たく丸い日々が
崩れて
壊れる
夢のときは
駆け足で逃げてゆくから
不安は
千のさざ波のように
心に寄せて
それでも
微笑んで
大丈夫ですよと
明日の希望でも
語らなくては…
そんな事が廻り
時が廻り
裾下でもがいて
それでも
暮らしは
水の上にあるの如く
もがきと苦しみを
誰にも知らせず
目を据え
ものごとの道理を説くなんて
なぜだろう
私たちは
いにしえより
教えの通りに歩むが
でも
そろそろ泣いてもいいですか?
誰も真理はみえないもので
分からないもので
ただ本当は
もっと自然に
涙が流れ
途方に暮れるのが
本当の人間というものですよ
そう思うのです
ビリー・ジョエルって、こうやって改めて聞いてみると、やっぱり 「ひとつの時代」 を見事に表現していたアーチストっていう気がしますね。
それは、どういう時代かというと、このポエムに描かれているように、「そろそろ泣いてもいいですか?」 という気分を、みんなが共有し始めた時代って感じがします。
この 『素顔のままで』 は、確か、1977年ですよね。
70年代って、若者たちが政治闘争なんかに敗北して、行き場を失って、どうしたらいいのか分からなくて、みんなそれぞれツッパって、時代を呪ったり、開き直ってオタク化したり、企業の出世街道に邁進したりしていた時代だったように思います。
だけど、そういうのにも、みんな疲れて、「途方に暮れるのが、本当の人間というものですよ」 と思い始めた時代だったかな … と。
そのときの、やるせない悲しみと、その 「悲しみ浸る」 ということの安堵感みたいなものが、この歌にはありますよね。
いい選曲ですね。
ポエムと曲が、見事に合っていると想いました。
町田さん)
「素顔のままで」は1977年でしたっけ?私はこの歌が流行っている頃は学生で、かなりバイト生活をエンジョイしていました。当時は、この歌がどういうことを歌っているとか、何も考えませんでした。
確かに、キャンパスには学生運動活動家諸氏がまだ結構いまして、残り火のようでしたが、構内が騒然としたことも幾度がありました。
町田さんと同年代の方々は、上記のように、喪失感というものが広がっていたように思います。
ま、海の向こうのアメリカではどうだったかは知りませんが、少なくとともビリージョエルの歌うものは、「オネスティ」を始め、素晴らしいものばかりです。都会の焦燥とかを上手く表現していますね?
で、この詩ですが、私は今回の震災に関して、私たちの心の中にあるのでないか、と思うものを書いたつもりです。喪失感、焦燥感といういう点では、共通項があり、いや遙か上をいく悲しみだと思います。
この機に、日本人の冷静さや礼儀正しさにおいて世界より賞賛されてもいますが、私は少し違和感を感じまして…
仏教、儒教とかいろいろな教えを賜った私たちですが、素顔を見せない民族でもあると思います。
コメント、ありがとうございます。