本棚をまさぐってたら、
五木寛之の「不安の力」が出てきた。
奥付をみると2005年となっている。
中身はすっかり忘れている。
ちょっと読んでみようかと、
ベッドに寝転んでパラパラと読み始める。
なんだか、このコロナの時代にフィットしているなと、
改めて思う。
不安はいつでもだれの心にもあるのだが、
いまこの事態に「不安」は顕在化しているから、
タイミング的にピタリではないか。
再販、イケルと思う。
編集者気分になる。
五木寛之という作家は、軽いのに重い。
重いのに軽い。
何と表現したら良いのか分からないくらい、
光のあて方でどうとも解釈できてしまう。
「青年は荒野をめざす」「風に吹かれて」などから、
数十年を経て、仏教に傾倒し、
その深淵を追求したりと、
年代によって作風がみるみる変化している。
なにはともあれ、この人は風のようであり、
旅人であり、不定住のようであり、
生来孤独を愛する人なのでないか。
私の若い頃からの文章の手本として、
永年高いところにいる人であり続ける。
文章は基本的に平易かつ分かりやすい。
映像のようで美しい表現を何気に使う。
さらにこの作家の生き方の複雑さが、
作品のここかしこに宿っている故に、
それが全体として重くのしかかる。
一度死んだ人は強いとは、
この人のことだと思う。
それはこの人の若い頃のことを知ればしるほど、
この作家の背負ったものが如何ほどのものか、
考え込んでしまう。
この「不安の力」という本のなかに、
シェークスピアの「リア王」の台詞が、
五木流の訳で紹介されている。
『「…この世に生まれてくる赤ん坊は
みずから選んで誕生したのでない。
また、生まれてきたこの世界は、
花が咲き鳥が歌うというようなパラダイスではない。
反対に弱肉強食の修羅の巷であったり、
また卑俗で滑稽で愚かしい劇の舞台であったりする」
赤ん坊が泣くのは、
そうしたことを予感した不安と恐怖の叫び声なのだ。
産声なんていうのは必ずしもめでたいものではないのだよ、
という辛辣な台詞です。
嵐の吹き荒ぶヒースの野で、老いたリア王が
「人は泣きながら生まれてくるのだ」と叫ぶ。
これは、人生のある真実をついた言葉だと思います。』
五木寛之という作家は、
要するにこうした志向に傾く、
そこは若い頃からどうにも変化しない、
風に吹かれたりもしない、
不動の悲観論者なのである。
「不安の力」はこうしたネガティブな人間の一面を
賞賛する本でもある。
いや、市井の人間に真の希望とは何かを教えてくれる。
それがこの人の持ち味であるし、
この作家の魅力なのである。
この時代にぜひ読んでおきたい一冊と思う。