話は再び、1973年の、
ボクと丸山の沖縄の旅へと戻る。
那覇空港の近くでハブとマングースの戦いを
見世ものとしてやっていた。
ボクは興味津々だったけれど、
料金が割と高いので、しぶしぶ諦めた。
観た人の話によると、「かなり凄い!
迫力がある。マングースはああ見えて、
なかなか強いからな」とのこと。
ハブは沖縄だけど、マングースは
一体どこから連れてこられたのだろう。
妙な疑問が生まれた。
その近くでは、
小さいワニの頭部をバックルにしたベルトが、
露天の店頭にずらっと並べて売られている。
その光景はかなり異様だった。
こうしたイベントやおみやげものは、
その後に開催された「沖縄海洋博」を前に、
すべて打ち切られたとのこと。
これは日本だけでなく、世の中の外面は、
だいたいそのようなことが切っ掛けで、
キレイになっていった。
が、それらが消滅してしまっのか否かは、
ボクには分からない。
ただ一旦隠れてしまったものは、
もう誰にも文句は言われないので、
制御の働きをするものは取り払われ、
本性だけがむき出しになる。
ハブとマングースの戦いは、
いまもどこかで開催されているのかも知れない。
それももっと高い料金で、
さらに残酷な見世物として。
小さいワニの頭部をバックルにしたベルトは、
その拠点を外国にでも移したのかも知れない。
それから数日間、ボクたちは首里城周辺を巡り、
そこから北部へ向かい、
コザのまちを経て再び那覇に戻り、
セスナ機で西表島へ飛ぶため、
空港でキャンセル待ちをしていた。
ちょうどお盆休みの時期だったので、
空港もごった返していた。
西表島行きは、何時間待っても駄目だった。
いい加減に待ち疲れたボクたちは、
小さな客船が与論島まで行くので、
数時間後に出航するという情報を得た。
目的地は違ったがその船に乗ることにした。
そこは船底で窓もなく、
ゴロゴロするしかないスペースだったが、
仮眠している間に隣の与論島へ着いてしまった。
与論島は、当時はまだ未開発の島だった。
民宿をみつけて、そこでようやくひと息ついていると、
ご主人がわざわざ部屋まで挨拶にきてくれた。
そして食堂にきてくれとのこと。
そこで地元の酒である泡盛を飲み干すこととなった。
というより、飲まされたというのが正しい。
泡盛を飲み干すのは、
島の歓迎に応えての感謝の意、とのこと。
よって飲み干すのが客の礼儀であった。
ここの泡盛はとても強い酒だった。
がしかし、途中で飲むのをやめるとか、
そんなことは礼儀に反する。
ボクと丸山は、茶碗に並々と継がれた
その泡盛を一気に飲み干した。
着いた草々にアルコール度数の強い
泡盛を飲み干し、
たちまち酔ってしまったボクたちは、
前後のみさかいもないまま、
夜の島をほっつき歩きはじめた。
途中、暗闇の先にネオンのあかりをみつけた。
(酔っ払いはネオンに弱い)
ディスコという文字が光っている。
近づくとそこはログハウス造りの建物で、
結構しゃれた店にみえた。
ドアを開けると、客がポツポツいる程度で空いている。
誰も踊っていない。
島で初のディスコということで、
もの珍しさがウリだったようだ。
音楽のボリュームがとにかく異常に高く、
まるで大都会の地下鉄の騒音にも似ていた。
会話はできない状態。
ボクらはそこでさらに飲んだくれ、
朝方までソウルミュージックにあわせて、
踊り狂っていた。
民宿に着くと、倒れ込むように寝た。
が、飲み過ぎと暑さのせいで喉が渇いて、
水を飲むためにたびたび起きてしまう。
結局、よく眠れないまま
夜明け近くになってしまった。
船で知り合った、東京から来たという大学生は、
民宿の外の砂浜で寝ていた。
確かに浜で寝た方が海風が涼しい。
二日酔いのまま丸山と浜辺を歩いていると、
雲間から朝日が昇る瞬間に出会えた。
ボクたちはその突然の風景にみとれていた。
めまいも吐き気も不思議と消え失せていた。
遠くの砂浜でヒッピーの男がひとり、
太陽に向かって祈りのような仕草をしている。
それから数日の間、ボクらは浜で泳いだり、
島の各所を自転車で巡ったりして過ごした。
宿の天井から落ちてくる大きなイモリに恐怖し、
夜は必ず強い泡盛を飲み、
この異国を巡るような旅に時を忘れた。
ふたりの横浜での鬱屈した日々は、
このとき何の跡形もなく、
すでに綺麗に消滅していた。
(続く)