かあさんがつまらない愚痴ばかり
とうさんに言うものだから
俺が小さいときから
とうさんの話を聞いているうちに
俺は俗物となって
そこから抜け出すこともなく
今日も女房に下らない事を聞かされ
俺はあまり難しく考えないで
息子に同じ小言を言ったものだから
ははぁ
こいつも俗物になって結婚でもするのだろうな
娘も同じく結婚でもして旦那に愚ちるのだろうな
と
いま気がついた
見渡せば俗物ばかりの世の中なので
女は子供を産み
男は外へ出て
なんだか分からないうちに
ぐったりとして
これはおかしいと気がついた者が
立ち上がり
やがて社会というものを
少しづつ変えていくのかな?
と
何もない脳みそを動かしたところで
俺は相変わらず
今日もしこたま飲んでいる
俗物と知ったところで
何をしたらよいかさっぱり分からず
昨日は知り合いの和尚を尋ねたのだが
何をどう聞いたらよいのか
やはり分からず
近所の話や寺の本堂前の木の枝っぷりの良さを
話しているうちに日も暮れ
俺は飲み過ぎたお茶で腹をゆさゆささせながら
帰ってその話を女房に話すも
だからどうしたという顔で
夕飯の支度に忙しい
世の中なにも変わらないな
つくづく俗物の俺に気がついた俺は
明日選挙に行くのだが
はて?
何をどう考えて
一体誰を選んだらよいのか
皆目見当がつかない
知っている候補者の名前でも書いておくか?
いや、どうしたものだろうと
つくづく考える
これ、面白いですねぇ。
情けなさと、とぼけたユーモアが両方漂っていて、なんともいえない味わいがかもし出されている気がしました。
…このままでいいのか…と自問自答を繰り返しつつ、結局このままの人生を送ってしまう我々庶民の焦燥感と諦念がとてもうまく滲み出ているように感じます。
本当に、「生活」 ってのは、こんな感じの繰り返しなんですよね。
時々、「オレって、凄い人生を歩んでいる!」 なんて興奮したところで、少し冷静な状態に戻ってみると、なぁ~に、自分もまた世間のお調子者と変わらない俗物であることも見えちゃったりして。
そこで、開き直るか、それとも打ちひしがれるかは、そのときの体調だったり、抱えている仕事の進捗状況だったり。
でも、こういう自分の情けなさと付き合える人間って、やっぱり良いですよ。
それはある意味、成熟の証でもあるし。
この文章にそこはかとなく漂う とぼけた味わいに、スパンキーさんの仕事師としての 「成熟」 を逆に感じることができます。
自分の俗物性をよく見ることがあります。で、格好いいことばかり並べたところで、所詮ひとってかなりの俗物なのかな?なんて考えますね。
あと、こういうものを語るときはアタマのなかに落語が出てくるんですよね。これ不思議。語りはそんな感じですすめてみました。
決して世間をなめている訳ではなく、営みって結構淡々としていますよね!
コメント、ありがとうございます。