「いま」という時代の広告表現

ツイッターやmixi、フェイスブック等のSNSを除くと、

ネットはほぼ検索だ。

で、ネット検索をしていて思うことだが、

目的に辿り着く前に、

アレコレと売り込みが始まる。

ポータルサイトをぼぉ~っと眺めていても、

クリックの先で、

いつの間にか、なにかを売り込まれている。

油断も隙もない。

そういう私も、サイトづくりなどの仕事をしているが、

それが楽しいかと聞かれると、

最近は正直「うーん」と考えてしまう。

クリエーターとして、売り上げに貢献できるのは、

素直に嬉しい。

が、表現者の一人として思うところもあり、

ムカシのほうが良かったと思うこともしばしばだ。

ネットは、

検索で辿り着く先の情報を見聞し、

その親切で事細かな説明に感動し、

ちょっとその気になったりもする。

また、知り得ない情報を発見することもあり、

思わぬ勉強にもなる。

しかし、

キーワード検索で訪れた先のリスティング広告は良いにしても、

或る記事などの内容に連動する目的でつくられたコンテンツマッチ広告は、

追いかけ過剰の感もある。

バズの類いに至っては、

商品や事柄にまつわる噂や推薦で溢れていて、

文字通り、もう視覚の騒音だ。

ネットの特質といえばそれまで。

そういえば広告の性格もひと昔前と違い、

マーケティングテクニックを駆使した広告やサイトも多く、

いまは、いわば延々の説得型が主流となる。

そして、それを証明するかのような数字と、

お客様の声の数々が、コンバージョン(成約)を後押しする。

考えてみれば、検索で辿り着く先は、

自ら探す、いわば能動的な行動であり、

その先に納得させられるものがあるのだから、

当然コンバージョン率(成約率)も高くなる。

このとき、広告やサイトはロジックで構成され、

後述する手法を完全にマスターすれば、

サイトの持ち主は、億万長者も夢ではないのかも知れない。

最も、世の中はそんなに甘くはない。

いまの時代の広告づくり、サイトづくりは、

苦労が絶えないのだ。

サイトの仕掛けの裏はいま、

数字やグラフで詳細をチェックできる。

アクセス解析は、

訪問客の入り、滞在、離脱等を、すべて記録する。

裏を返せば、

リスティングなどのキーワード広告は、

このアクセス解析に則って各所を改善すれば、

より高い売り上げをめざすことも可能である。

それはコピーの改善であり、デザインであり、

値付けの的確さを追求するものでもある。

いろいな角度から、広告の検討を加えることができる訳だ。

こうした効果測定は売り上げを改善し、

同時にクリエーターや制作者に、

科学的アプローチに基づいたチェック(文句?)を入れることもできる。

要は商売なので、

そこに昭和の匂いのするような文学的表現は不要と思われる。

そして、美しいデザインではなく、売れるデザイン。

いまの広告は、すべてがこのように動いている。

視点を変えれば、

ムカシに較べて味も素っ気もない。

売り込みに優れた表現だけが生き残り、

そうした表現が蔓延するいまのネット広告に文化があるのか、

と問われれば、

そんなものがあるのかどうか怪しいが、

検証したこともない。

しかし、いまのネット広告は

感覚ではなくロジック。

遊びではなく、計算。

文学・アート的ではなく、説得が多勢を占める。

そして、余韻と余白。

ここが実はムカシの広告の面白いところなのだが、

これを無駄といわれるのが、

いまという時代の広告の姿なのだ。

的確に時代の匂いを嗅ぎ取り、

人の心を反映するのが広告である。

あなたも私のように、

いまの広告を世知辛いと感じたなら、

きっとこの時代は、

そのような世の中なのだろう。

夏草

男は答えた

俺はいま敵と戦っているんだ

それが一体誰なのかだ

正体を暴きたいてぇんだよ

錆付いた鎌で夏草を刈りながら

男は

金にもならない汗をぽたぽたと垂らしながら

チクショーチクショーと繰り返した

遠くに穏やかな海が見える

綿のような雲がぽかりと

二つ三つ通りすぎてゆく

その建物は遠目からみても異様に大きく

村や町を支配している君主のように

冷たい影を延ばしていた

息子なんだよ

男が胸のポケットから一枚の写真をとりだす

まだ小学生だろうか

半ズボン姿で陽に焼けた顔に満面の笑みで

こちらにVサインを繰り出している

こんなことになっちまって

息子にはすまねぇと思っている

男は手を休めず

吹き出す汗を拭いもしないで

刈った草を次々に放り投げてゆく

あのよ

この刈った草を畑に敷くだろ

枯れた草は土と相性がいいから

土はよろこぶし

雨が降って雪も降ってよ

みんな栄養になるのよ

本当はそういう国なんだよ

この国は

彼はようやく手を休めて

腰を伸ばすと

手ぬぐいで汗と涙を拭い

そのコンクリートの要塞のほうを向いて言うには

いままではやさしかったんだよ

彼奴らもね

だからわからねぇんだよ

人間って奴がよ

そして

草むらで捕まえたバッタを摘むと

高くかざし

こいつだってわからねえ

この先

どんな命なのかわからねぇよ

男の話を聞きながら

その敵というのは

こちらが想像していたものよりさらに大きく複雑で

それは誰かではなく

果たして形すらあるものなのかと

新たな不安がうまれ

私も

その男の持っていたもうひとつ鎌を借り

まずこの夏草を刈らねばなにも分からない

そううなだれるれるしかない程

身を恥じるしかなかったのだが

ふたりなら、なんとかなるさ!

このタイトルは、コピー風につくってみました。

かの名コピーライター中畑貴志さんの作品に

一緒なら、きっと、うまく行くさ。(セゾンカード)

というのがある。

これを頂いてみたが、センスが雲泥の差。

しょうがない。

で、このふたつのフレーズから漂う共通項は、

アバウトな楽観の匂いであり、

計算でははじき出せないものを肯定しているという点。

そして複数(恋人とか夫婦)のキーワード。

これらに綿密な計画は感じられないが、

希望のあることばではある。

最近あちこち、特にビジネス、いや人生に至るまで、

綿密な計画性が求められているような気がする。

私もそうした話を聞く度に、「そうだろうな」とうなずき、

最も…と感心すらさせられる話が多い。

要は、

行き当たりばったりで生きていると、

ろくなことがないということらしい。

成功する人間は、

そもそも立派な志と綿密な計画を立てることから始まるらしいのだ。

そういう意味からすると、私は即失格。

こうした仕事をしている割に、計画性に乏しく、

気がつくと気ままに考え、行動しているところがあり、

特に、予約とか、先ざきのことまて決めなくてはいけない

日常のさまざまな行為が、最も苦痛だ。

そんな適当なやり方で、なんとか今日まで生きている訳だが、

振り返るに、

ろくなことはないこともあったし、

ろくなことはないなんてことはないこともあるのだ。

仕事の場合は、当然のように計画性を求められる。

でないと、相手も不安だろうし、物事が計画通りに進まないと、

いろいろなところに支障が出る。

この場合、自分以外の人のために、一応計画をたてることにしている。

無計画で良い結果は得られないというのも、定説だし。

で、ついでにいわせてもらえば、世の中はすべて予約制だ。

ホテル、歯医者、美容院…なんでもそう。

行き当たりばったりは、ほぼ許されない世の中なのだ。

いまの世の中は、計画性が必須。

で、計画とは、いわば目的・成功に至るロードマップ。

ここがしっかりしないと、目的とか成功は達成されないといわれている。

ホントのような気もする。

だがしかし、そうでもなさそうな気もしている。

相当ムカシのことだが、旅行の日程を分単位で決めている奴がいて、

そいつにスケジュールを任せて出掛けたのだが、

ほぼ修学旅行と変わらない雰囲気の旅行になってしまったことがある。

また、遠い友人に10代で子供をつくったのがいて、

当時彼に「これから大変だな」といったところ、

「いや、俺が30代でこの子が成人して独立、俺とかみさんは悠々自適だよ」

と自慢されたことがあり、私はたいそう驚いたことがある。

立派だなと、つい思ってしまった。

が、この友人は、数年後に奥さんに浮気されて離婚。

いまは再婚して、全然違う人生を歩んでいる。

お互いに中年になって、彼にこのときのことを話したところ、

まるで他人事のように、

「そんなこともあったな、へへっ」でした。

さて、世の中には、

なんとなく生きているうちに良いところへ辿り着くような人もいる。

これも私の友人の例だが、

なんだかいつも飄々としていて、

若い頃から上昇志向のかけらもないない男なのだが、

最近彼と話していたら、

「なんだかさ、所長になっちゃってさ」と聞かせられた。

彼も、一応名の知れた上場会社努めなのだから、

世の中、よく分からない。

という訳で、私の回りだけでも、

いろいろなケースをみることができる。

これらを分析したところで、答えがはじき出せるものでもない。

かように、世の中とはよく分からないものであり、

人生とは、不確実なものに満ちているような気がするのだ。

保険、年金、老後。これらを考えると、

いまの私にとってかなり深刻な問題なのだが、

そのシミュレーションなどをみていると、

理解しようにも疑わしい匂いを放つ。

備えあればそれに越したことはないが、

防災などの計画と違い、こと人生等において、

やりすぎ・考えすぎのシミュレーション予想は、

たいして当たらないような気がするのだ。

それは不確定要素の先に、なんだかもっと得体の知れない

なにかが潜んでいるからに他ならない。

それが運であり星であり、

心であり宇宙の法則なのかも知れない。

思えば、地球だって偶然の産物。

一寸先は闇か光かなんて、誰にも分からないことだし、

いまこの国に於いてさえ、

なにが起こるか分からない。

こんなときに、こんな時代に

より不確実なもの、みえないもの…

例えば、愛だとかを信じてみること、

そしてそれを語ることはかなりクサイ。

しかし、私はこの辺りに、

なにか大切なものが眠っているような、

隠れているような気がしています。

ふたりなら、なんとかなるさ!

一緒なら、きっと、うまく行くさ。

そのムカシ、

私たちが若かりし頃は、みんな

こんな感じでスタートしたように思う。

妙なシミュレーションや綿密な計算より、

この先、再びこんなことばの方がぐっとくる世の中になれば、

それは、かなり素敵なことと思いますが…

梅ちゃん先生の違和感

NHKの朝ドラを観るのが習慣になっているが、

梅ちゃん先生は、どうもあっちこっちひっかかるな。

妙に平和で安定した筋書きは、まあそうかなとも思うが、

この先も事の流れは読めそうな気がしてくるから、

安心して観れるといえばその通り。

が、なんだかひと味足りない。

このままだと梅ちゃん先生がどんだけ良い人で、

その上、如何に周囲の人の役に立ったかで終わりそうな気がする。

だとすると、全く印象に残らない梅ちゃんだな?

梅ちゃんは、元々アタマもイマイチでおっとりしている性格、という設定だ。

が、彼女の凄いところは、医大へまぐれで入学できたところから始まる。

まぐれなのに運良く卒業してしまうから、ただのウスラではない。

就職も、親父のコネも使わず、帝大付属病院の面接で、

この大学病院の定食が美味いという発言がきっかけで就職できてしまう。

これには私、正直驚きました!

梅ちゃんは、その日本一の帝大付属病院で働くうち、

自分の街の下々の人を見るにつけ、黙っていられなくなる。

主人公の正義感は半端ない。

で、なんと独立を決意し、この人たちのために医院を開業してしまう。

梅ちゃんは度胸もある、まっすぐな性格です。

開業資金ですか?

まあ、新築した自宅の隣の敷地に以前住んでいた小屋が残っていたので、

そこを改装して新規オープン!

しかし、そんな土地ありましたっけ? 古屋、残っていたんですね。

こうしたストーリーって連ドラによくありがち。

朝のひとときには微笑ましい。

が、私のなかの違和感は日に日に膨れあがっている。

それは、

一人の女性が生き抜いたというリアリティの欠如なのかも知れないし、

ほのぼのしたこのドラマの味を大切にする余り、

ただのお伽噺にはなっていないだろうかという点だ。

少なくとも、先のゲゲゲの女房やカーネーションに較べて

ワクワクドキドキ感は失せ、

フィクションなので致し方ないが、

人物とストーリーの描き方が平坦すぎる気がする。

自分はさておき、まわりの幸せを第一に考える、

明るくて一途な主人公は梅ちゃんこと、堀北真希。

絵に描いたように分かり安い頑固な親父は、

演技していますとでも言うように、高橋克実が演じる。

また、なんでも「はいはい」と言って微笑んでいる南果歩演じる奥さん。

この人の正体が私はよく分からないのだが、

義母(倍賞美津子)とのコンビで、

割と軽薄な性格付けに終始しているのが違和感。

このドラマは、いわば水戸黄門のような安定感を狙っているのかも知れないし、

戦後風景のなかで、さざえさんのような微笑ましさが欲しかったのかも知れない。

それはしかしときに、

スマップでも観ているかのような見え透いたエンタメ感に終わってしまう危うさもある。

作者は、相手がNHKということで、ホームランは敢えて狙わず、バントに固執し、

必ず点を取る作戦に出た模様とも思えるのだが、こうした冒険のなさが逆に作用し、

ストーリーのあちこちに歪みを生んでしまったようだ。

また、初頭だったと思うが、

戦後の廃墟のなかを米軍がジープで表れ、汚い子供たちが

「ギブミーチョコレート」というシーンがあった。

これは、分かりやすいといえばそうだろうし、

そうしたシーンは日本の敗戦の伝説風景にもなっている。

いわばひとつの記号なので、誰もが理解できるように使われたのかも知れないが、

こんなシーンをよく使ったものだと、今更ながらNHKの感性を疑う。

つくり手は、こうして物語をスタートさせ、

戦後の日本はどんどん良くなり、女性の生きる場が増えたとでも言いたいのでしょうか?

私は、このシーンに関して、

この国の人間としてのプライドはないのかと、つくり手に問いたいのですが…

梅ちゃんは、今日もこれからも日毎に偉くなっていくし、

主人公役の堀北真希の人気もうなぎのぼりの現在、

私はただのひねくれた感想を書いているに違いないが、

こんな平和な話がいまの私たちに残すものは、

果たして安心・平和なのか?

この時代だからこその梅ちゃん先生なのか、

こんな時代に梅ちゃん先生なのかよ、なのか、

毎朝そこを計りかねている私は、

やはりただの変わり者なのかな。

生きているということ

生きているということ

それは

せせらぎの如し

天馬のように駆けること

雫に似て瑞々しく

湧き上がる雲と

のびやかな勢い

石のように踏まれ

削られても

このひと魂

天空にあり

生きているということ

それは想い馳せ

考え倦ね

更に悩み深くも

その体躯で知ること

知るも分からず

帰るも還えらず

共に可笑しく

氷のように凍てつくも

このひと魂

天空にあり

前へ

前へと

生きているということ

生きているということ

ノンアルコールビールという市場

広告&メデイアから離れ、今日は商品企画の話から。

ノンアルコールビールが登場したとき、果たしてこんなものが売れるのか?
こうした予想は誰もがしていたように思う。

パチモン、偽物。

当初はネガティブなイメージがつきまとっていた。
が、意外にも、ノンアルコールビールは、欧米では古くからあった。
アメリカの禁酒法とか宗教上酒を飲まないアラビア諸国への輸出とか。

そうした需要だから、やはりメジャーな商品にはなり得ないし、少しづつ廃れていく。

しかし、日本におけるノンアルコールビールのポジションは、
そうしたネガティブを次第に払拭しつつある。

メーカーとしては、それなりの調査に基づいたうえでの決断なので、
売る自信があったのは当然のことと思う。
が、英断には違いない。
冒険的マーケティングという用語があるのだろうか?

私の酒飲みの友人は、この飲み物を邪道と斬り捨てる。
が、或るときからアルコールを止めた私としては、
ノンアルコールビールは、気になる存在だった。

そもそも、アルコールを止めた一端が、自宅が駅から離れていて、
クルマが手放せなかったのが一因であり、
深夜のタクシーのバカ高さに呆れたことに始まる。
重ねてその頃、アルコールを飲むと鼻が詰まって苦しくなる症状を発症、
自然と飲む気が失せていった。

以来、酒は止め、あれ程足繁く通った酒場へも、
ピタリと行かなくなってしまった。

が、性分は変わらなかった。
或るときから、酒場に未練が出てきた。
やはり、あの雰囲気が落ちつくことが分かった。
それが大衆の焼き鳥屋だろうと気取ったバーだろうと、
どこでもOKということも確認。
最近はよく、食事の際に、ちょっと立ち寄るようになった。

ドリンクは当然ノンアルコールビールとなる。

私的には、タイムリーな飲み物であり、味も遜色ない。
酔えると言ったら嘘になるが、それに近い気分を味わえる。

ノンアルコールビールは、そのポジションが微妙な位置にあり、
性急に考えると、ネガティブまたは不要のものと考え勝ちだ。
が、よくよく考えると、そこに商機はあったのだ。

そのキメの細かいマーケティングは、
私たち日本人にしか発想し得ないものとも思える。

例えば、お酒の飲めない人たちに、飲むというスタイルとマインドを味わってもらう。
また、お酒を飲まなければならないシーンで、飲めない人がそれなりに飲めるもの。

かようにこの商品は、場とシーンで、
そこにどんな商品があるとみんなハッピーか、から発想されている。

パイは多くはないが、その市場は確実に存在する。
そこに、新しいライフスタイルも垣間見える。

そこを掘り当てたのが、日本のノンアルコールビールという商品なのかも知れない。
冒険的マーケティングの勝利だ。

スパンキーの時事放談

大飯原発再稼働に反対するデモは、

なぜテレビでは一切やらないのだろうか?

小林幸子ばかりを追いかけている場合ではないのです。

原発の是非は後にしても、まず報道すること。

議論を深めるきっかけって大事だと思います。

メディアってホントに信用ならない。

意図的な無視、見て見ぬふりは、犯罪と同等だ。

これは見過ごせない。

ツィッター、ユーストリーム。

この辺りでチェックいれると分かります。

飛行機とヘリコプターが合体したような

米軍のオスプレイ。

以前より事故率が高いことで有名だった。

が、オスプレイが今度、沖縄に配備されるという。

酷いとは思いませんか?

そもそも構造的な欠陥があるともいわれており、

なぜいま沖縄へ?

首を捻るばかりです。

1977年に米軍機が横浜で墜落したとき、

私の家は、墜落した地点と数㌔しか離れていませんでした。

現在も、厚木基地周辺には所用で出掛けますが、

あの爆音ときらりと光る機体には、

嫌悪を覚えます。

消費税法案が可決された。

野田という人は一見ダチョウ倶楽部の上島竜平に似ているが、

表情をみると、笑えません。

この人を観察していると、なにかに取り憑かれたように、

可決までの道程は強引だった。

まあ、社会福祉という観点で考えれば、

老人が増え続け、働き手が減っているこの国に必要な税とは思うが、

先にやらなければならない行政改革はどうしたのか?

で、誰もが避けて通る公務員改革。

化け物組織をいじくるのは、政治家にとって鬼門だ。

私は以前、或る公益法人のコンサルをしていたが、

これとて同じようなもの。

ひとつ新しいことをやろうとすると、

足をすくわれ、策に引っ掛けられ…

彼らの企みは、そのおとなしい外見からは想像もつかない程に、

次々に巧みな手を打ってきます。

まさに、

羊の皮を被ったオオカミでして…

日本の近海から、続々と天然資源が見つかっている。

まず、新潟県沖からメタンハイドレードという

油田が見つかった。

面積では、海外の大油田に匹敵する規模という。

また、日本の最東端にある南鳥島周辺の海底で、

いま話題のレアアースが見つかった。

レアアースといえば、現在は中国が独占し、

世界市場を操っているが、この貴重なものが

日本でも採れることとなる。

このままいけば、日本は資源大国だ。

私たちにしてみれば、信じられない認識の転換となる。

で思うのは、資源のある国は狙われる、ということ。

過去を振り返っても、戦争と資源が絡んでいる例は多い。

アメリカ、中国、ロシアーーー

こうした大国が、指をくわえて黙ってみていると思います?

そういう意味で、この国は新たな火種を抱えました。

これを危機と考えるのは、ひねくれ者の発想でしょうかね。

親父の誕生日

今日は死んだ親父の誕生日だ。

蟹座のB型ーーー

これが何を意味するのか分からないが、

私のアタマにインプットされている親父のデータだ。

元帝国陸軍上等兵ーーー

生き残ってくれてありがとうと親父に感謝したい。

公務員として一家を支えてくれた。

思えば、人と馴染まないクセに、人一倍集団のなかで

生きていたように思う。

思い出すと、60代の親父の姿が浮かぶ。

いや、40代か。

白いシャツに太い綿の作業ズボン。

腰に手ぬぐいをぶら下げている。

笑っているが、喋らない。

サツキの盆栽の手入れをしている。

元々喋らない人だった。

いや、死んだ人は喋らないものだ。

でも、

笑っている親父が、サツキの手入れをしている。

私の手帳には、親父の遺言のようなものが挟まっていて、

たまに見る。

書道の師範免許をもっていたので字にはうるさかったが、

私が手にしている手紙は、誤字が多い。

晩年に書いた、その衰えがみてとれる。

この手紙を書いた1年後に死んでしまったが、

親父は、自分が建てた最後の家を、お袋の或る事情で

手放さなければならないことに、未練を残していた。

そして、生涯のなかで唯一、

お袋のことを真剣に思いやった時期でもあった。

先日、姉とお袋が住むマンションから、親父のメモがみつかった。

親父がお袋に宛てた手紙だ。

生まれ変わってもお袋と結婚したい、とあった。

お袋を定期的に病院へ連れて行くが、

お袋は一度、

「あの人」という呼称で親父の話をしていて、

遠い知り合いの話でもするかのようだった。

思えば、親父はずっと外の人だったように思う。

お袋は親父の後を付いて歩く人だったが、

裏切られた人でもあった。

晩年、親父がお袋をみていたとき、

お袋はそっぽを向いた。

私はいまになって、親父もお袋も心底好きだし、

親父もお袋も私のことを好きでいてくれている、

と思っている。

ホントに、家族なんだ。

今日は親父の誕生日なので、線香をあげようと思う。

「お袋には、よく言って聞かせるよ、親父!」

冬景色宗介、沿線の景色を斬る!

ご無沙汰です。

田舎住まいの自営業

景色評論家の冬景色です。

このところ、事務仕事が増え閉じこもっておりました。

イケマセンネ?

私は元々、何処へ行くにもクルマでした。

が、最近クルマの運転が面倒でして、

先日も奥さんよりパスモというものを貰い、

説明を受け、用を足しにでかけたのでありました。

何のことはない、

最寄りの駅より電車に乗って出掛けたのですが、

まあ、驚き、疲れた一日でした。

私の場合、最初の難関は改札。

ちょっと緊張しました。

で、恐る恐るパスモをかざすと、

ピッで通れちゃうんですね?

ああ、この話はまた、後日致します。

でですね、

クルマでよく通る景色を電車より眺めていますと、

明らかに首都圏の景色の変貌に驚く訳です。

クルマを運転しているときはチラ見ですが、

電車の場合はガン見ですから…

変貌というのは、ここ10年とみましても、

首都圏からあからさまに緑が減り、

更に土を掘り起こしたりして、

わずかな余白を埋めるように、

マンションや建て売りが、

これでもかというほどに建てられています。

日本の人口は減っていますが、

首都圏では明らかに増えていますね?

でないと、こんな状態にはなり得ない訳でして、

私からすると、息の詰まる景色となる訳です。

極めつけは、敷地10坪、日当たりゼロの建て売りとか、

いま流行の駅前のタワーマンションでしょうか?

見上げて思うに、

私はあんなところで安眠できない!です。

この景色に住むことを想像するに、

私的に考えますと尋常ではない、となります。

都市の美しさというものを通り越し、

ブロイラー都市という皮肉も出て参ります。

「大きなお世話だ」との声が聞こえますが、

いや、この状態はまずいです。

防災上の問題はその道の専門家の言われる通りですが、

何というか、人としての勘ですかね?

本来、生き物として兼ね備えている本能のようなものを、

こうした環境下で過ごしていると喪失してしまう。

そんな気がしてならないのです。

たまに郊外に出て、自然と触れあい、

「いいねぇ」って感心していてもですね、

やはり人は日頃の環境です。

(元々お住まいの方は、

こうした変化に気づいているような気がしますが…)

「なんか最近だるいなー」とか

「いらいらするなー」とかが過ぎるようでしたら、

あなた、それは都会病かも知れません。

もちろん、全国津々浦々まで、

だるい人やいらいらしている人はいるでしょうが、

その方たちは、処々の不具合でしょう。

そうした方も、もちろん都会にもいます。

が、それを差っ引いても、

環境に起因する病は多いと思います。

よく

「田舎に住むなんて冗談じゃないよ」と息巻いている人がいますが、

この人の言っていることをじっと聞いていますと、

「便利」というキーワードと、

都会に住むステータス感のようなものに酔っているのが

よく分かります。

あと、仕事にまつわる恐怖ですかね?

これらをまぜこぜににして、都会は成り立っているのでしょう。

ああ、飲み屋の数の多さも見逃せませんね。

ここは、私も引っかかるところ。

羨ましい限りです。

で、よくよく考えてみると、

東京なんかでも都心の方が緑が多い。

皇居とか、代々木公園とか新宿御苑とか…

あとは、

余白がない景色が広がる訳です。

(例外は井の頭公園、砧公園、駒沢公園、等々力渓谷とか、

いや結構あるな?)

問題なのは、

都心を中心に広がるドーナツ上の景色でありまして、

ここは通勤圏と見事に重なっていますね。

鑑みるに、その方たちの人生設計は、

この辺りから発想され、限られた価値観の中で、

そこそこの一生を過ごすと推定されるのでありますが、

それは景色を見ても明らかなように、

ちょい損な選択のように私には思えます。

偉そうなことをほざいていますが、

私自身、ドーナツ圏内の横浜生まれの横浜育ちで、

若いときは、仕事のために、

多摩川を沿うように走る大井町線沿いにずっと住んでおりまして、

便利を堪能しておりました。

裏を返せば、それしか選択肢がなかったのであります。

で、このとき、思い起こすにですが、私は無意識下で

田舎を見下したようないやーな人間であったような気がします。

で、ここでやはり浮上するのが、やはり仕事の問題でして、

ここをクリアしない限り、ドーナツからは逃れられない。

(ああ、スイマセン、

逃げたくない方は対象外ですので、スルーしてくださいね!)

言い換えれば、ドーナツの景色の問題は、

就職問題とおおいに被っているのでありまして、

その壁を如何に飛び越えるかで、

新たな選択肢も増えると申せましょう。

例えばですよ、

田舎の海の見える丘の上に居を構え、

午前中は、書斎で潮風に吹かれての本社とのテレビ会議。

午後は、タブレットを片手にぷらっと近所の松林の公園へ出掛け、

或るプロジェクトの企画書を仕上げる。

とか…

(なんか、出来過ぎ。嘘くさいですね?)

いまは社会も企業事情も大きく変わりつつあります。

在宅勤務も増えて参りました。

インフラも、鉄道、道路だけでなく、

ネットを始めとする情報インフラも整いつつあります。

あとは、社会の認知と新たな価値の創造。

これに尽きるのではないかと…

とまあ、

今回は景色から推測する仕事の話にスポットを当てましたが、

景色は人生観で変わるとは、少しおおげさに過ぎますかね?

そんな感慨を抱いたのでありました。

さて、

私たちも、人生の景色を真剣に考えないとイケマセン。

大きなお世話とお思いでしょうが、

この冬景色宗介、割とおせっかい、

真剣です!

スパンキー自選詩

河原の石を積み上げて

それが

人の背ほどになったら

石は石でなくなり

それは霊的な存在となる

湖面の静かな日にカヌーに乗り

パドリングを止め

遠くをみていると

水底より魑魅魍魎が

寄ってくることがある

焚き火の炎に

知らぬ顔が映ることがある

よく見ると

それは錯覚ではなく

彼らもまた

媒体というものを

欲っしている

自由であることは

とてつもない勝利に聞こえるが

ときに自由は

過酷な試練を用意する

飼われるのが羨ましくなるのは

そんなときだ

雨が降り

日に照らされ

風に吹かれて

今日も生きる

僕たちは

紛れもない虫けらだ

地震があって

津波がきた

台風が過ぎて

竜巻が起こって

辛くて悲しくて

とんでもないことばかり

怒っているのは

地球の方なのか

生き物はみな

不思議な営みをしていて

その一部である僕も

自身のこともよく分からない

他を想像しても

やはりそれは

分からないことなのだ

恐竜と同じ僕たちは

地球の総てを支配して

そして滅びる

いつかどこかの星で

僕たちのことが

教科書に載る

即仏即神というものがあると聞くが

そんなものはない

あるのは僕たちの願いと

目の前に広がる

荒涼たる荒野だけだ

泡沫のようにはかない

僕たちの人生だけれど

瞬きほどの輝きを求めて

今日も生きる

そう

蛍のようにね

目が覚めると

総ては夢だった

僕はコーヒーで覚醒し

電車に乗り

また新たな悪夢に

突入する

蛾の雄も雌も

明かりをめざす

その異常なまでの執着は

都会に生きる

男と女に似ている

僕たちは勉強すべし

でないと

見るもの聞くもの総てに

惑わされるので

いつ死んだのか

誰も教えてはくれない

美しい人は

ただそれだけで価値があるが

その妖怪のような気性は

きっと神さまの罰に

違いない