タイムスリップ

夕方の渋滞はどこも殺気立っていて、

嫌な気が、この街には充満している。

車内にはFMラジオが流れているが、

いまひとつ優雅さに欠けるパーソナリティーが、

消費税のニュースに関して、

どうでも良いようなコメントを話している。

僕はコンソールに手を延ばし、

一枚のMDに触れる。

音はなんでも良かった。

MDをプレーヤーに入れると、

僕の憂鬱はすっと消え、

その古くてぼやけたメロディーは、

街の色を変えた。

そんな気がしたのだった。

交差点を越えるとクルマは流れ始め、

郊外へと続く道は、

その日の、僕の好きなルートへと変わっていた。

ウインドゥを少し開け、新鮮な冷気に触れる。

冬の気配がまだ残る冷たさだ。

車列が減り、前のテールランプが、

しなやかに動くように見える。

軽い登り坂。

アクセルを踏み込む。

そして、くねったような峠にさしかかると、

低速では乱れていたV5気筒のエンジン音も整い、

ストレスなく加速してゆく。

そのぼやけたメロディーは、

数本のエレキギターとドラムの音で構成され、

とてもわかりやすいリズムを刻んでいる。

歌詞は、おとぎ話のようなものばかり。

やはり、愛だとか恋だとかなのだが、

この音に、僕の想い出が眠っていた。

下りのワインディングをノーブレーキで走り抜け、

タイヤのきしみも幾分感じ取りながら、

いまはもう決してしないような走りを、

久しぶりに試してみる。

この曲が流行っていた頃。

あの頃は、まだ免許もなくクルマもなく、

僕はまだ未成年で、期末とか受験とかに忙しく、

それなりに勉強もしていた。

深夜のラジオからその音が流れると、

僕は、しばしシャープペンを止めた。

あの子は、今頃この音を聴いている。

石油ストーブで暖まり過ぎた部屋には、

サイケデリックなポスターが貼られ、

その頃流行った花柄のシールが、

ガラス窓にぺたぺたと張り付いていた。

窓を開け放つと、

夜空がきらめいていた。

星も月も、あの頃の冬の空は美しく、

家々のトタン屋根を、いつも静かに照らしていた。

街の、あの辺り。

あの子の家が、木々の黒いシルエットの向こうに、

かすかに見えるような気がした。

ラジオからは、やはりあの歌が流れていた。

…銀河に浮かべた白い小舟…

…僕がマリーに恋をする…

照れくさいことを平然と歌っていて、

僕はホントはストーンズが好きだったと、

記憶しているのだが…

なのに、

想い出に刻まれたその音とまるで絵空事のような歌詞は、

いまでも僕を魅了する。

とても単純なドラムの刻みと、

つたないエレキギターのテクニック。

そういえば、ボーカルがいつも、

四角い大きなマイクを握りしめていたっけ。

ポンピングブレーキを繰り返して減速し、

まだ門が開いている公園の駐車場へクルマを滑り込ませる。

がらんとした白線の真ん中にクルマを止め、

MDのボリュームをいつになく大きくすると、

暗い夜の公園に、その音が鳴り響く。

音は、そのボリュームのせいで、

ぼやけはさらにひどく、音は割れて、

もし、この広い駐車場に誰かがいたら、

とても迷惑だろうなどと考えてしまう。

キーをつけたまま僕は外に出て、

夜空を見上げる。

5気筒のばらけたアイドリングの音が、

僕は好きだと、そのとき初めて思った。

遠くの山の稜線のすぐ上に、

低い下限の月がぶら下がっている。

その上と下に、寄り添うように、

一等星がきらめく。

あのときも、夜空はいつも瞬いていた。

あの部屋で、僕はなにかを掴んだような気がした。

あのラジオから流れていた音楽を、

あの日の僕が聴いていた。

僕は、あの夜、

あの静かな夜の公園で、

どうやら時を超えることに成功したようだ。

春のうつろい

春一番が吹いた頃、

僕はいろいろ背負ってきた嫌なものを下ろそうかと考え、

あいつにはっきり意思表示のメールを出し、

断絶を宣言する。

あの仕事も、もう限界だと考え、

「御社は…」という書き出しでメールの準備をする。

部屋の、

いまはもう使わない書類をわんさか整理し、

後は廃棄処分場へ持って行くだけとする。

こんな奴もいたなと、

将来決して使わないであろうメルアドを消去する。

すべてが廻りはじめ、

それはなにかが一巡して新たに始まるかのような春だった。

梅の花が咲いているので、まだ寒いけれど、

嬉しくて、着ているものを一枚減らす。

くすんだ部屋の壁紙を、

薄く光るベージュに貼り替えようかと、奥さんに話す。

グーグル画像で、ある絵が目にとまり、

その作者に絵を譲ってもらおうかなどと、また余計なことを考える。

今年こそと、

早めに、カヌーを浮かべる湖とその準備を、

着々と計画する。

そして、いつものように空を眺めていると

思いはさらに加速し、

あと数年なのか数十年なのか知らないが、

私は確実に死ぬのだということを改めて認識し、

それなら好きに勝手に生きようと、

さらに自由度の高い生き方にシフトしようと企む。

山が芽吹く頃、

街が一望に見渡せる丘にクルマを止め、

iPadを取り出して、マレーシアの地図をみていると、

銀色のスーツケースが欲しくなった。

ネットショップで銀色のスーツケースを眺めていると、

やはり私はひとりなのかなと思い、いやそうではないと、

家族に電話し、あいつにメールを出し、

元気ですかと…

結局、どうやって生きてゆけばいいんだろうという思いは

空回りをはじめ、

それは哲学の書にあると確信して、図書館を検索し、

街の本屋へ足を運ぶ。

銀色のスーツケースのことはすでに忘れ、

帰りに古びた喫茶店でコーヒーを飲んでいると、

ガラス窓の向こうに見える夜のネオンが、

とても毒々しくて美しいことに気がついた。

ああ、すべては絵空ごとなんだと思うと、

なんだかコーヒーはいつにも増しておいしく、

人は浮き草なんだと思うと、

なんだか嬉しくなり、

読みかけの哲学書を閉じ、

代わりに、

私は、

地球最後の日を、考えるに至った。

後悔と知恵と

私たちには、後悔するという習性があるらしい。

時間を遡る、ということ。

が、ものごとがやり直せる訳ではない。

後悔はそして、心に暗い影を落とす。

なので、

或る人はいつからか後悔しないと言い張るようになった。

後悔という心の動き。

すなわち、立ち止まり、立ち尽くすこと。

が、立ち止まることは、即ち思考のときであり、

自らの日々の点検にも適しているともいえる。

そして、立ち尽くすことは時間と思考の海原をさまようことであり、

ここから、創意する術が旅立つことに気づくべきだ。

さまようことは後に生きる糧となり、

自らを知ることと心得えたとき、

辛く、奈落のような時間も、

それをかみしめてこそ、救いとなるのかも知れない。

このように、閉ざされた時間には意味があり、

役割がある。

私たちはこうしたものを避けず、尽力すべきであり、

この思考なくして、

生きる意味を見いだすことはできない。

疾風のように過ぎる、たかだか百年幾ばくかの人生に、

息づかいを吹き込む術があるとするならまた、

時間の中に立ち止まることも悪くない。

そこに何があろうと、

過ぎてゆくものと来るべき時の中に身を委ね、

自身、消えそうな程小さい宇宙の生命なのかもしれないことを認識し、

それを感じ、味わい尽くすことで、

私たちは苦痛の中からでさえ、

生きていることの意味についての序章を、

新たにつくることができる。

こうして人は、立ち止まり、立ち尽くすことでのみ、

生きてゆく真意について考え、

やがてそれについての制作物のひとつとして、

自分というもの、そして人生についてのなにがしかを、

ぽつりぽつりと

語り始めるのかも知れないのだから。

テレビという装置

疲れたアタマを休めるためにはどうしたらいいかということで、

私はテレビをつけることを推奨する。

テレビは、天気や映画やドラマ、ドキュメンタリーなど、情報の他、

楽しみはいろいろある。

が、とみに疲労しているときは、ワイドショーやバラエティを観る。

なんだか大変そうな話題や面白そうな話が満載なので、こちらもつい

その話にのる。

ほうほう、そういうことなんだ。そうそう、そうゆうネタね?

と、こちらも引き込まれる。

そんなことで、1時間でも観ていれば、疲れは軽減され、

あーあとなって、リラックス状態に入り、脳は居眠りを始める。

いや、ヒートしたアタマが冷却され、低回転へとシフト、

程よいアイドリング状態となってくれることだろう。

その効用は大きい。

かように、テレビとはありがたいものだと合点がゆく。

テレビには、人知れぬ効用と癒やしが、密かに仕込まれているのだ。

世間で言われるテレビへの非難など、あまり意味はないのではないか?

小難しいことなど、テレビには必要ないのだ。

番組は、楽しくテキトーに考えて頂きたい。

テキトーが、いまテレビには求められている。

テキトーな番組づくりには、倫理も中立も真実もいらない。

そんなことは目に見えていた。

だから、今日のようなテレビとなったのだ。

これは、みんなの総意であり、要望の結果なのだ。

大事なのは、疲れた現代人を如何に癒やしてあげられるか。

この一点に注視し、いい加減な番組づくりを心がける。

テレビは、思考停止装置として、いま

その役目を全うしている。

噺二題

100円の運勢

ダイソーとかキャンドゥとかをうろうろしていて、なんかないかな?と。

いや、買うものがあって「ヒャッキン」なるものへ

行ったことがあります。

私ははじめ、ああいうところはロクなものがなく、

つまんない金を使ってしまうと、

バカにしていました。

が、最近違います。充実しています。

えっ、これが100円って、驚くものばかりです。

茶碗とか湯飲みも100円。絵の額も100円。えーい、まな板も100円です!

なんでも100円。

「これいくらですか?」って店員に聞いているじいさんがいましたが、

この勘違い、分かります。

で、あるとき本がずらっと並んでいまして、もちろんすべて100円。

私はひぃひぃ言って、このなかの運勢の本を買い、

家へ帰って読んでみました。

普段は、年の始めか年末に、高島易断みたいなものを

買っておくんですが、今年はこれでいいだろうと…

で、読むと何を言いたいのか分からないような箇所が多く、

文章も怪しい。

で、今年は吉か凶かというデリケートなところも、ほぼ曖昧。

ま、こういう運勢本は、曖昧ななかにも

「○○はいいぞ、だが○○に気をつけろ」的な表現がある訳ですが、

この本の場合は、そこがわかんない。

このとき、ついでに星座の本も買ったんですが、こっちは更にひどく、

ぺらぺらやって、数分後には投げ捨てていました。

どうです? 100円で知る運勢。イケマセン。

今年は、安っぽい運となってしまいました。

宝くじ売り場の前を通ると

以前、私は宝くじなるものを、やはりバカにしていまして、

あんなものは当たる筈はないと…

が、サラリーマン時代に、宝くじ部長みたいな人がいまして、

この人が宝くじを熱く語るので、彼のまとめ買いに付き合いました。

で、何回目かに当たったんですね! 私はこのとき、

ホントに当たるんだと、感心しまして、

みんなに1万円ずつだか分配されまして、それで飲んだ記憶があります。

しかし、それからずっと宝くじは買わず、人間はやはり地道だろうと!

働く対価としてお金を頂くんだろうと考えておりまして、

ああいうもんに夢中になる奴はけしからん的に見ておりました。

が、あるとき、街の宝くじ売り場の前を歩いていると、

この売り場から1億円出ました!!!って書いてある張り紙を見て

驚きまして、うわーって、3000円買ってしまいました。

で、結局なにも当たらない。が、最近またまた、

「宝くじが気になる病」が出て参りまして、

あの売り場の前を通ると、じっと立ちつくし、

張り紙を眺めている私がいるんですね?

で、100万円か、ちっ安いな、とかエラソーにやってるんですね。

結局、震災復興宝くじにハマリまして、というか妙に気になりまして、

宝くじ売り場の前を通るときは、いちいち時間がかかる私でした。

安っぽい私のヒューマニズムから考えて

叩かれても、殴られても、なかなか泣かない自分。

まず、過去を遡っても、そうしたところがある。

そして、理性で整理する。論理的に問題を分析し、

問題解決の糸口をみつける。

そんなことを日常的思考でくぐり抜けてきたような自分だが、

そもそも、私はそんな強い人間でもなく、普通のおっさんだと、

強く思うことがある。

それは、

ほんの些細なできごとや、瞬間に訪れる。

砕いて話せば、それは浪花節的な思考を始めたときに、

訪れる。

その辺りを突かれると、弱い自分・弱い私はたちまち戸惑い、

ときに、それは涙という形で現れることもあり、

それが、自分の本来の性格なんじゃないかと

自己分析することがある。

それは例えば、

戦争時のドキュメンタリー映像を観たり、

特に、若い特攻隊の出撃前の様子を映した古いフィルムなどに、

自分はつい丸裸になってしまうのだ。

今日は3月11日。

14時45分に、テレビをつける。

これは意図してつけた。

震災の黙祷の時間だ。

あれから1年が過ぎた。

追悼式でのことばが、とても身に沁みる。

静かな時間。

庭に目を移すと、窓にうっすら陽がさしている。

ああ、

現地の映像はもう観たくないので、テレビを消そう…

こんなものを延々と観るほど、こちらはタフではない。

自分は、たった一年前のこの地震の前後のことを、

よく覚えていない。

震災の後、計画停電に暗い町を歩き回ったこと、

ガソリンを入れに必死に走り回ったこと、

とても寒い日に丘の公園に一人で行き、

群青色の空を眺めていたことなどが

散発的に脳裏に浮かぶ。が、

去年の今日の記憶は、完全に消えている。

私は、今回の震災で亡くなられた方々のことを考えるにつけ、

追悼式で、御霊と呼ばれたことに、

ある種の特別な引き金が、自分のなかで引かれたように思う。

それは、自分がずっと隠していたものなのかも知れないし、

眠っていた無意識が突然吹き出してきた瞬間なのかも知れない。

(私は別段、右翼でも左翼でもなく、強いて挙げれば普段は

自由人をめざしている)

御霊。

私は、この言葉の何を知っているのか、

自分ではよく分からないが、

ただ辛くなる。

それは、先の敗戦にも通ずる、

私たち日本人の共通意識としての

「暗い淵」が見えてしまうこと、ではないかと。

安っぽい私のヒューマニズムから考えて、

今回の震災の犠牲者は、先の戦争犠牲者にも通ずる重さを、

私たちに突きつけている。

東北の方々には、一日も早く復興してもらいたいし、

そこに「絆」は欠かせないだろう。

が、

私はあのとき、

御霊となるものが何を見て、

どう感じて動き、

どうした様子で、

どう苦しんで、

果たして、

この地上から去ってしまったのか?

先を見ようとする前に、

必ず立ち止まって、そこを考えている自分に、

いまはただ、

嫌気がさしているのだが…

雑感5題

東京ガールズコレクション

上手い商売を考えたもんだ。
旬の芸能人や名の知れたモデルに服を着せ、
話題をつくる。

テレビ、雑誌も相乗り。気にいったものがあれば、
その場で買える。
派手な演出、女の子たちのボルテージも上がる。

まあ、こういうところへ出てくるモデルさんというのは、
抜群にスタイルが良いし、
着ている服が果たして自分に似合うかどうかなんていうのは
どうでも良くて、とにかく売れるらしい。

僕がもし女の子だったら、絶対にこういう所へ行かないし、
同じような服は買わないな。

流行には乗れるかも。が、着させられている感じが溜まらなく
許せない。

女の子だったら、お洒落に命をかける。
その位の意気込みが欲しいな、と思う。

と、こんな考え方が、そもそも男並みなのか?

でですね、あのモデルさんって、なんでみんな同じように、
ハーフ顔なんですかね?

俺さま目線で見ると、全く綺麗ではない。よく分からない。
まっ、いいか!

ほっといてくれよ!

タイトルにした典型が、役所から来るメタボのお知らせだ。

定期検診を受け、まあそこそこの結果。

やれやれ、面倒な病気もなさそうだし、向こう一年間は
難なく働けそう。と気を抜いていると、或る日
ポストに一枚のハガキが届く。

曰く、あなたはメタボという病気です。

うるせぇなあ! 

ほっといてくれよ!

で、コイツらは何が言いたいかというと、あなたは太っているので、
病気へのリスクが高い。ひいては○月○日に健康セミナーをやるので、
いらっしゃい。為になることを教えましょう…こんな具合。

日にちを見ると、すべて平日の、働き時だ。
セミナーは、働く方の為の土日開催は、一切やらない。

こんな税収の減っているときに、役所が何やっているんだか。

ははぁ、受け皿的な部署か団体の仕業だなと勘ぐる。

そんなことはいいから、君らはもっと身のある仕事をしろよ。

で、ほっといてくれよ!

五本指の靴下

あることがきっかけで、靴下を替えました。

シルク100パーセントの五本指の靴下です。

これって、水虫にならないとか体の毒を出すとか言われていまして、
ホントですか、というのが本音。

僕の指の形は変なので、指の一本一本が靴下とフィットしない。

で、履くときと脱ぐときが面倒で嫌になる。

先日、ちょっと食い過ぎたのか、苦しいと思った途端、
まず、この靴下を脱ぎ捨てました。

足の指だって、締め付けられると苦しい。
ウエストではなく、足の指が苦しがっている。

人間の体って、不思議です。

目覚める、に関して

僕は、最近眠くなるのが早くて、まず12時前には
寝てしまう。

早いときは、10時や9時に寝ることもありましたが、
これではさすがに朝が早すぎて、ズラシました。

で、就寝前に読書をするのですが、大好きな藤沢周平の
時代物で、2・3ページが限界です。

全然長く読めないのです。ワクワクする場面でも、
ハイ終わり。気がつくと朝でしたとなってしまう。

最近いろいろ考えまして…

で、僕が思ったのは、僕が寝ているときって
ホントにベッドにいるのかってことであって、
ひょっとすると、僕はこの地球を抜け出し、
M78星雲に帰っているじゃないかってこと。

このことに関して、ふざけている訳ではなく、
僕は割と真剣に思っている節がある。

このきっかけは、お袋。
お袋はいま要介護なんですが、なんだか彼女と話していると、
この世の常人とは違う感じがする。

で、どう違うんだろうと話していると、どうも遠い人たちと
会話を交わして、それを僕に話しているような…

まっ、それがきっかけです。

父のこと

もう、親父が亡くなって8年くらい経ちますが、
生前、僕は彼と全然気が合わなくて、
ろくに口をきいたこともありませんでした。

これは私がちいさいときからでして、親父は僕に無関心。
というか、そもそも家庭内離婚の家だったので、
僕は早く家を出たかった。

とにかく家が落ち着かないので、私は友達の家を泊まり歩いていました。

18のときでしたか、僕が将来の進路を考えたとき、
親父を一度試したことがありまして、
彼に就職の世話を頼んだことがあります。

親父は当時公務員でしたが、その時代はコネなんて話は、
いくらでもありました。

実際、親父は数人の就職の口利きをして、
役所へ送り込んでいましたから。

で、僕にすればデタラメなんですが、就職のお願いに関して、
親父は即座に拒否しまして、後日お袋にこう言ったそうです。

「あいつを世話なんかしたら、俺の恥になる」

なんだか親父のリアクションがおかしくて、
妙に納得してしまう僕でした。

彼は後年、私に遺書を託しました。

その内容は、彼の無念が滲むもので、
彼の一生を覗いたようなものでした。

親父の墓はいま、横浜の高台にありますが、
墓前に向かうと、いまでも涙がでるのは何故なのか、
私にも分かりません。

スパンキーのつぶやき(コピー風味)

東京都庁の建物って、要塞のように人を寄せ付けないオーラが凄いです。
あれは公僕として働く方々のために丹下健三氏が設計しました。
石原さんにぴったりでした。

芸もないのに襲名してしまった林家三平に、怒りさえ感じるが…
しかし、あれで生きていけるというのも、ひとつの芸なのかな?

横浜の街は好きだけど、だから今さらどうという事もなく、
ただ、胸に残った一枚の絵に惚れている程度のことなんだけれどね…

万が一、今日が人生最後の日だとしても、
まだまだ夢は枯野を駈け巡る………そんな人生にしたいよ。

金儲けのために捨てるものなんか、ないほうが良い。
ただ、生きるために犯すものはあるけどね!

たとえ、今日が最低な日であっても気にすることはない。
明日はそんなに意地悪じゃない、いつもそう信じている。

喧嘩は良くない、
そう言いながら、次のカウンターパンチを狙うのも、
アリだと思う。

アンチエイジングに必死なのは、まだまだ若い証拠です。
最も、あの世へ行けば信じられないほど若くなれる、らしい!

僕は最近、信用できないものが増えている。
例えば、不動産っていう名の我が土地と家が、地震で動くし揺れるし…

サッチモが好きだ。
彼の歌が流れるベトナム戦争の映像を観たことがあるが、
あれは人の業のなせる技だと思う。

良い大学に入りたい奴、大企業入社希望学生、公務員はいいね!という輩
ーーー時代は確実に動いているぜ!  
改めて、生きることの意について語りたいね。

腐る日は、そうだ! 瞑想をしてごらん?
瞼の隅の方から天使が降りてくるよ、そして聖書を読む…
…宗教なんてこの程度で良いと思う。
もっとも、内なる神と信仰は別だけれどね!

最近のキャバレーには愛がない、と言ったのは、
大学時代の友人・伊藤だが、いまはそのキャバレーさえ見なくなった。
一方、キャバクラには奥ゆかしさも何もないので、行かない。

お粗末…

   漂う女

火を喰う男は

いつも夢をみるんだ

砂漠の真ん中で

酒を煽ると

いつも泣いて

その女のことを思い出す、とね

遠い昔

その女は海から這い上がると

体中に海草や貝をぶら下げて

その男に会いに来たというのに

「お前は抱けないな」と

その男は火を喰いながら

女を突き飛ばし

そうかねとうなだれ

そうかねと

入り江に飛び込んで

その女は

永遠に

漂う女になったそうだ

火を喰う男は

また夢をみたんだ

海を見下ろす丘で

酒を煽ると

いつものように泣いて

その女のことを思す、とね

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近況 4題

1.

最近、コンビニへよく行く。主目的はタバコなのだが、

なぜか、ついで買いをしてしまう。

水や雑誌類ならまだ良いが、コーヒーに始まり、おにぎり、

サンドイッチ、肉まん、唐揚げと、私の食べるものは進化している。

おかげで、どこのコンビニのなにが美味いかが分かるようになった。

また、これらをクルマの中で食しながら、iPadでネットをしたり、

メールをチェックしたり、ついでにコーヒーを頂き、タバコを吸ったり…

こうなると、もう自宅の居間の感覚。仕事のデスク感覚ですから。

ケータイもあるし、もう内も外もなし。ONもOFFもない。

これが自由なのか不自由なのか、自分でもよく分からないが、

コンビニの罠にはまっているのは確かだし、確実に太っていることは

自分でも分かっている。

街中へでかけても、同じような行動、形態、食生活。

知らない間に、確実になにかが変わっている。

2.

ちょっと古くなってしまったが、映画館で「三銃士」、

「タンタンの冒険」を観て、レンタルで「ツーリスト」、

「ナルニア国物語3」を鑑賞。

でドキュメンタリー映画「ライフ」と立て続けに観た。

先の「三銃士」とタンタンは、封切り中に行ったにもかかわらず、

なんだか面白くなかった。

三銃士は、ラストに近づくに従い、

パイレーツ・オブ・カリビアンとどこか似ていて、

海から空へ舞台を置き換えただけのような気がした。

ストーリーにも映像にも新鮮さがない。

タンタン…は、スピルバーグが永年あたためてようやく実現した、

という触れ込みになのに、肩すかしをくったように面白くない。

主人公の探偵の少年は、とにかくとんでもない事件に巻き込まれるのだが、

彼と連れの元船長が超人的な生命力で、ビックリ。絶対に死なないし、

疲れない。こうなるとハラハラドキドキを通り越して、安心して観てしまった。

3G映像は秀逸なのに残念だ。

ツーリストはジョニー・デップの正体がラストまで分からず、

思わず唸ってしまった。がナルニア…は、イカン。

で、思ったのだが、神話や童話を原作にしたハリウッド映画は、

奇想天外で特撮も凄いが、こちらがもう驚かない程に、来るとこまで

来てしまったのではないだろうか。

3.

一方、「ライフ」はドキュメンタリー映画。

副題に、いのちをつなぐ物語、とある。

オープニングは、草原に一本の木が立っていて、

背景に美しい星座が回るところから始まる。

そして北極の果てしない氷の大地を空から観たシーン。

カメラは或る一点にフォーカスされる。

四方数キロに誰もいない氷の上で、オットセイがただ一頭で子供を産む。

そして、この親子をモーレツなブリザードが襲う。

母親は子供を守るため、氷ついた体で、吹雪と風の盾となる。

なぜこんな所で子供を産むのか? 答えは簡単だった。

天敵がいないからだ。

アザラシは、いつも集団で生活するものと思っていたが、

そうとも限らないらしい。

さすが、イギリスBBC放送の製作だけあって、

映像が鮮やかかつ精緻。カメラワークを観ても、

どうやってどこから撮ったのかという驚きのシーンが続く。

時間もお金もたっぷりかかっているな。

撮影は、世界にまたがり、

南米、アフリカ、アジア、アメリカ大陸、中国、ヨーロッパ。

海、陸、空それぞれの映像とさまざまないきものが主人公だ。

この映画のメッセージが秀逸だ。

生きるとは、

食べること、愛すること、家族をつくること、そして守ること。

とてもシンプルなメッセージ。

ひねくれた私に、なぜ生きるか、という問いに、

この映像は明快に答えてくれる。

あと、いきものは、みんな分け合って生きている、といこと。

この分け合って、というのが大事な点で、

我々人間の営みに? がつくところだ。

うまく言えないが、人間以外は皆バランスを知っているように思える。

知らないのは、人間だけなんだろうな…

また、映像のなかの主人公は、ときに強烈な愛をみせる。

それは、時にいのちをかけて闘う覚悟であり、

身を犠牲にしても子供や仲間を守ろうとする強さだ。

それは私たちといういきものも同じだろうが、

遠い何処かへ置いてきたもののような気がしてならない。

たとえば、私たちが普段喰っているタコも、感動の対象だ。

タコのメスは、生涯一度っきり卵を産むが、

この一度にいのちのすべてを賭けている。

卵がふ化し、泳ぎ始めるまで6か月間、

母親はここをピクリとも動かない。

子供がやがて泳ぎ始めると、タコの母親はそれを見届け、

そこでいのちを閉じる。

これは本能だけれども、愛でしょう。

そう思えてくるなにかがある。

理屈を簡単に超えるとは、このことだと思う。

4.

私が尊敬する職業に、登山家というのがある。

登山家はすげぇーと思うのだ。

近所の山へハイキングに行くだけでへたばっている自分がいる。

ああ、情けない。

登山家は、冬山へでもアタックする。

私の知り合いだった方は、ロッククライミング中に事故に遭って

亡くなってしまったが、生前のこの方の日頃のトレーニングは半端なかった。

仕事時間中も、常に小さな動作で、腕・足を動かし、

筋トレを繰り返していた。

自宅の壁には石を埋め込み、そこで毎日崖登りの練習を繰り返していた。

酒はいつも程ほどで、楽しい酔い方をする方だった。

彼の目に、登山家に、山はどのように映っているのだろう。

登山は、帰りの余力を計算に入れ、ぎりぎりの体力と選択のなかで、

前に進む。

冬山のマイナス20度のなかを行くとは、どうゆう世界か。

私のずっと年下だが、登山家の栗城史多さんは、自書のなかで、

こう語っている。

「苦しみを受け入れると楽になる」

ちょっと分かるような分からない言葉とも受け取れるが、

きっと登山家がもつ精神の強さなのだろう。

彼は、日本人初の、単独・無酸素エベレスト登頂を果たしている。

他、世界の山々も単独登頂で制覇。

しかも、自分の行動を逐一ネットで世界に配信する機材も、

自ら運ぶ。

これは、並の登山家にも不可能だと思う。

彼は、選ばれた人間かも知れないし、少し表現を変えれば、

神に一番近い人なのかも知れない。

が、彼の肉体は、日本人男子の標準以下だし、

登山のエリート教育を受けた訳でもなく、

金なしコネなしの普通の大学生から登山のスタートを切った人だ。

彼の本のなかで、満天の星を見下ろす、というくだりがあるが、

これこそ常人には見ることのできない景色。

富士山のご来光も見た方も然り。

羨ましくも、凄いなと思う。

私はこれから死ぬまで、果たしてこうした景色を見ることができるのか?

すべては、まず挑戦しなくてはなにも始まらないのだが、

まずは、コンビニ通いをやめることから始めなくてはと思う。