イノチノジカン

崖の上の柵につかまって

下をのぞき込む

削れた赤土の上に溜まった池のなかを

一匹のサカナが泳ぐ

数日前まではなかった池なのに

キミはどこからやってきたの?

あの大雨の日に流されてきたのなら

キミはあの山で泳いでいたのかな

と僕は問うて

ほらっ

池の淵に気をつけなよ!

クチバシが長く

鋭い目をした大きな鳥が

きみの行方を追っている

あぁ

きっとキミはもうすぐ喰われちゃうんだ

そうだ

キミはきっと天から降ってきたんだ

そう思うことにしたよ

いいね

僕はキミのこと

すぐ忘れるよ

いや

いつか山の上を尋ねてみよう

それでいいかな…

僕はこの春の陽ざしが好きだし

この季節の空気はいい薫りがする

キミはきっと天から降ってきたんだよ

僕はね

サカナなんか

大嫌いだ

愛の、クラウン。

トヨタが、遂にピンクのクラウンを登場させた。

TVCMを観たが、正直うーんと唸ってしまう。

ピンクのボディカラーは特別色らしいが、

この色を前面に打ち出すには、当然訳がある。

曰く、ピンクは愛の色らしい。

という訳で、クラウンが突然、愛を語り出したのだ。

このCMには、たけしとジャン・レノという大物が共演。

「愛は勝つ」という唄をモチーフに、

クラウンの新しいコンセプトを、

力技で語っているようにも思える。

キャッチフレーズは、

「権力より、愛だ」

で、ピンクのクラウンなのだ。

それが格好いいかどうか、

そしてクラウンが愛を叫ぶことに、

私のアタマはしばし混乱した。

クラウンといえば、かつては当然ように白だった。

ムカシから白いクラウンは、ある意味、

成功者の乗り物だったのだ。

中小企業の社長さんも、

サラリーマンとして順調に昇進したお父さんも、

最後の「上がり」のクルマとして、

みな白いクラウンを選んだ。

その頃のクラウンのキャッチフレーズは、

「いつかはクラウン」

頑張って努力して、いつの日にか

クラウンに乗れるような人間になりたい…

そういう意味合いが、

「いつかは、クラウン」というコピーに込められていた。

また、

クラウンは成功の証としてのシンボルだけでなく、

日本の代表する高級車であり、

気品と風格も兼ね備えているという点で、

右に並ぶクルマはそうそうなかった時代もあった。

ライバルとして日産セドリックが挙げられるが、

ブランド力として、クラウンの方に軍配は上がった。

これらの評価は、クルマの性能ではなく、

やはり広告によるイメージの力が担っていた、

ように思えるのだが…

そして、

クラウンは今更ながら、権力を捨てた。

権力はレクサスにバトンタッチしたのかな?

はたまたとうの昔に、ベンツに奪われていたのか。

今頃になって愛に気づいたクラウンは、

まずピンクのボディカラーで、

出直す事を決意したのだ。

で、愛はピンクなのかどうか私はよく分からないが、

急にそんな事言われても困りますと、

かつて置いてけぼりを食わされた家族とか恋人からは、

かなり責められそうな気がするクラウンの、

今回の方向転換。

人に例えると、

そんなこといまごろになって言っても遅いわよと、

そっぽを向かれるのが関の山のような…

調子いいゾ!

しかし、

「生まれ変わるためだよ」とたけしが真剣に語る表情に、

トヨタの必死さがみえるのは、私だけか。

ちょっと様子をみようと思う。

そういえば、純と愛(いとし)の結末って、気になるなぁ。

意外とNHK朝ドラのファンです。

永く観ているので、

「純と愛」の違和感はかなりのものがある。

純と愛だから、

単純に純愛ものだろうと思っていたが、

そうではなかった。

とにかく最初から、NHKの朝ドラとしてはあり得ない、

訳ありばかりのてんこ盛りで、話は進む。

で、ふと気づいたら、

登場人物の誰をも、私は好きになれないということ。

これって、致命的。

まず、純という主人公は、

綺麗とかかわいいとかの次元ではなく、

とにかく落ち着きがない。

いつもガチャガチャしている。

そして、常に感情的な物言い。

料理が上手くないという設定も、

このドラマの狙いだろう。

彼女の家族も、かなり癖のある性格づけで、

このドラマを、

余計とっつきにくいものにしている。

相手役の愛(いとし)も、

例えば霊感があるとか精神的に病んでいるとか、

作為的に風変わりな奴に仕上げてあるので、

そこが斬新といえばそうなのかなと思う。

そして、弁護士である彼の母親も、

かなり尖った性格の持ち主。

でである。

交わす台詞がいちいち嘘くさい。

この流れで、前半がすでに終わってしまったのだ。

正直、このままだと、

毎朝観るのが、かなり憂鬱になる予想。

なんだか、見終わった後のやるせなさだけが残るような…

いつもの朝ドラとは、明らかに違うな。

例えば、純の母親が吐く台詞のひとつに、こんなのがあった。

「やはり純をあなたと結婚させなければよかった」

愛に向かって、この台詞を平然と言ってのける様は、

かなり異様だ。

このドラマでまず目につくのは、

言ってはいけないことばを、平然と言ってのけることである。

うがった見方をすれば、それが作者のめざすものと想像できる。

脚本の遊川和彦という人は、かなりのベテランだそうで、

調べるといろいろ戦歴が出てくる。

代表的な作品は、やはり「家政婦のミタ」と、

「女王の教室」だろう。

他、田村正和が主演の「オヤジぃ。」や

「演歌の女王」なんていうのもあった。

「家政婦のミタ」は、

鬱屈した家族のなかに家政婦としてミタが入ることにより、

最後はミタの影響で家族がまとまるというような話だったが、

最初からかなりの違和感で、話を強引に引っ張っていった。

そして、その違和感がラストのどんでん返しで、

それまで視聴者がずっと引きずっていた憂鬱を払拭する。

これは、ラストの鮮やかさを際立たせるための、

ドラマの新しい昇華法なのか。

「純と愛」も、この匂いがぷんぷんする。

意図的な環境設定。

あり得ない、登場人物の行動。

救われない台詞の数々。

しかし、作者が、

NHKの朝ドラということを意識してではなく、

故意にあり得ない斬新さを狙うでもなく、

最後のどんでん返しがあるでもなく、

このまま淡々と後半が進むとしたら、

これは救われない話だ。

私の勘ぐりが過ぎたと反省しなければならない。

だとしたら、

このドラマはリアリティをめざしているのか。

それならば、いまはそのような時代なのだと、

作者は警告を鳴らしているのかな。

どうかこのドラマが、

私の勘ぐり通り、斬新でありますように。

最後に、

とんでもないどんでん返しがありますように。

要は、

作者お得意の「お伽話」に仕上げて頂きたいのだ。

ああ、正月から、先行き不安。

ふと、世間というもの、

人の気持ちなんぞが気にかかってしまう訳で…

紅白百景

大好きだな
ゴールデンボンバー
あの女々しさがリアル

うぶな男の子を騙しそうな
一見純情そうですの悪い女たち
AKBー48

毎度の森進一は
松本隆の詩がしびれるが
顔の崩れがちょっと怖い

せっかくの紅白なのに
お前酒飲んでいるだろの
細川たかし

霊長類最強の化粧に
着物あでやか
かんざしは凶器?
吉田沙保里

紙飛行機いい詩だけど
なんでいつもドヤ顔する訳?
コブクロ

つけまつける
なに言ってるのかな?
でやっぱり言えない
キャリーぱみゅばみゅ

おお相変わらず若いし
お元気そうで!
まむしドリンクでも飲んでるのか
郷ひろみ

メインの司会なのに
なんだか遠くを見ているような
嵐の大野君が気にかかるぅ

選曲間違いだよぅ~
上を向いて歩こうは
やはり九ちゃんしかいない
あなたは壊れかけのれぃでぃお
徳永英明

もういまは誰も実感できないだろうの
よいとまけの唄
知っているおばさんに似ていた
美輪明宏

アフリカの砂漠で
衣装も絵になるなぁ
が熱唱感動は金かかる
MISIA

プリプリ大好きだった
僕の東京の生活ダイヤモンドだったね
おばさんになってもイイネ!

大御所矢沢のロックは
やはり圧巻
だけどなんだか札束の匂いが…

キーホルダーのキャラのような
天童さん
あっ、動いた

このスキャットを聴きながら
受験勉強をしておりました
いまでも綺麗
由起さおり

天城越えと津軽海峡
名曲ふたつを交互に使えば
一生食っていけるね
石川さゆり

もうなにも言わない
やっぱり紅白は
紙吹雪の北島だ!

風が吹いているって
なんだか爽やかな気にさせてくれる
いきものがかりに
死角なしです、ハイ

司会で全く動揺しない
梅ちゃん先生
いい度胸しているな
ホントはなに考えてんだろ?

いつも格好いいんだけど
なんだか可笑しい
館ひろし
なんでだろ~

なんでハラハラしなくちゃいけない
大取りの中居スマップの音程
学祭じゃねぇぞ

花伝説(その3)

皆を先へ行くよう促し

私は敢えて森に臥せて

隠れることにした

いま街に運んでもらっても

まず生きながらえることはない

殺されるだけだ

私は森のなかで

数日息を殺していた

そして這いずれるようになると

生きる術を次々と身につけた

小川を探して水を飲み

生えている草を恐る恐る口に入れ

這っている虫を食い

そうして生き延びた

もう家族に追いつくことも

あきらめた

だが、森で暮らして

季節が巡る頃

私は敵兵に見つかってしまった

そして

ここで数奇なことは起こった

私の森で生きる知恵を買われ

軍隊に入隊することとなったのだ

私のすべてが変わり

狂い始めたのも

その頃からだった

自分の運命を呪うことでしか

生きる意味がなかった

私は敵の軍人としてではなく

狂人として生きていた

懐かしい街に火を放ち

何人もの顔見知りを殺した

私が狂っていることを

軍隊は最初から知っていたのだ

川をさまよい

野を這いずり

そこに隠れている人々をも

私は殺した

そして

私は私の役目が終わると

軍を追い払われた

そして

私は廃墟の片隅で

自分をみつめる日々を送る

そんな孤独の日々が

数年続いた頃だろうか

私にも

やがて安堵が訪れる

それは

最愛の母を花にたとえ

来る日も来る日も

花を植え

育てることだった

花が咲く度に

私は救われるような気がした

それは私が少しづつではあるが

正気を取り戻す日々でもあった

廃墟の街に花が咲き乱れ

彩りが戻ってきた頃

私は新しい種や苗を探しに

再び森へ出かけるようになった

何日目かの朝だったろうか

それは黄色く淡く咲く野辺の草花を

みつけたときだった

それが幻想だったのか

いま思い出してもよく分からない

花をのぞき込むと

白いワンピースを着たとても小さな少女が

花弁につかまり

必死で私になにかを叫んでいる

叫ぶ少女に耳を近づけ

私は何度も息を凝らした

「私のおじいちゃんが

あなたを待っています」

「………」

「約束を忘れましたか?」

その瞬間、私ははっとし

そして、耳を疑った

いままで私は何をしていたのだろう?

私は軍隊に入って

一体何をしていたのだろうと

薄暗い記憶が鮮明に蘇る

私は殺人者だ

私は人殺しだ

私は再び狂乱し

その場へ卒倒した

そして再び気がつくと

私は森のなかの小屋にいた

季節は秋から春に変わっていた

私を助けてくれた森の小人は

或る老人から私を助けるよう

頼まれたと言う

木の切株でできた小人の家

テーブルの下には

その老人がくれたという

金貨が5枚置いてあった

小人は私に木の実だけのスープを

毎日欠かさず飲ませた

そしてそのスープは

私が正気を取り戻すまで

根気よく続けられた

(つづく)

花伝説 (その2)

私は店を閉めざるを得なくなり

山ひとつ向こうにある兵器工場で

働くこととなった

あれから数年戦いは続き

その戦いに

私と家族は疲れ果てていた

そして

街にも火の手が迫った頃だった

私は家族を連れて街を出たが

いく宛もなく途方に暮れていた

飢えをしのぐため

食べ物を探しに森へ入ると

木陰から

白いものをまとった老人があらわれたのだ

ふいに私が身を引くと

「やはり来たか」

と私の名前を呼んだ

老人は、手にパンを持っていた

老人は、このとき

私がここへ来ることは分かっていたと言った

私はその老人に尋ねた

「あなたは…

まさか…予言者ですか?」

「うん、そう言う者もおるな」

「ではこの酷い戦争が

いつまで続くのか

私に教えて頂けませんか?」

「よかろう」

と言って渋い顔になった

「ずっとじゃ、ずっと続くのじゃ」

「それは酷いことです」

「そうじゃ。酷いんじゃよ、人間はな」

「私は争いは嫌いです」

「そうじゃろうが戦争は続くのじゃ、だが

この争いを終わらせる方法はある」

そう言うと、老人は一切れのパンを

私の手に渡した

私は思わず老人の顔をのぞき込む

「その方法とはなんですか?」

「おまえじゃよ」

と笑った

「えっ、この私が…」

私はパンを入れた麻袋を手に

家族の元へ戻った

飢えは回避されたのだ

そして老人との事の顛末を話すと

他に望みのないもない家族は

老人の話を信じた

が、恐ろしい事が起こったのだ

或る日

母が食べるものを探しに

森へ入ったが

帰らぬ人となってしまったのだ

私たちは必死で何日も探し回った

が、見つかったのは

餓死した母の姿だった

戦火はいよいよ迫ってきた

みなは移動を開始していた

私はといえば

母を捜し回ったときのひょんな傷が元で

毒でも入ったのだろうか

ついに

歩けなくなってしまった

(つづく)

僕らにとってのコカ・コーラという存在

いまでは、どうということのない飲み物だが、

コカ・コーラを子供の頃に初めて飲んだときは、

ホントに驚いた。

それは味であり、色でもあったと思う。

当時の炭酸飲料といえばサイダー位しかなかったので、

コーラはなんというか、

表現しづらい不思議なインパクトがあった。

うまいといえばうまい、かな?

そんな初めての味が、みんなを虜にしていったと思う。

しかし、薬っぽい味といえば、そんな気もする。

そもそもコーラを発明?した人が薬剤師だったというから、

当初は疲労回復とか、そんな売り方をしていたらしい。

しかし、全然売れない。

で、この権利を買い取った人が飲み物として売り、

大ヒットした。

商品のポジションって重要だな。

中身に関しても、当時はいろいろな噂が飛んだ。

南米産のコカの葉(麻薬の一種)が入っているとか、

飲み過ぎると骨が溶けるとか…

これはいまでも都市伝説のひとつだろう。

コーラといえば、日本の場合はコカ・コーラなのだ。

ペプシが強い国もあるらしいが、

日本はペプシではなく、コカ・コーラ。

コカ・コーラが日本に根付いた理由は、やはりコマーシャルの力だと思う。

味ではない。

ペプシもそれなりに頑張ってはいたが、

コカ・コーラのプロモーションのうまさは、

当時から群を抜いていた。

この飲み物は、まずアメリカというリッチな国の生活を

体現させてくれた。

その頃は、

映画・若大将シリーズで大人気だった加山雄三が、

実にうまそうにコーラを飲んでいた。

もちろんCMでだが、僕らへの売り込みは成功した。

日本がこれからリッチになろうという時代に、

コカ・コーラはタイムリーに上陸したのだ。

贅沢な生活シーンとコカ・コーラ。

この憧れが、徐々に世間に広がりをみせた。

で、コピーはまずこんな具合。

♪コカ・コーラを飲もうよ

コカ・コーラを冷やしてね♪

実に単純なコピーだか、

当時はこの「冷やす」という行為が贅沢だった。

いまは冷えている飲み物は当たり前だが、

電気冷蔵庫が普及したての当時の日本では、

冷やすというのは、なかなかリッチなことだったのだ。

余談だか、この頃のコカ・コーラのボトルは、

個性的な曲線でつくられ、

それが独特の存在感を表していた。

一説では、

女性のボディラインを元にデザインされたということで、

後に、僕がいまの仕事についたとき、なるほどと思った。

その頃の僕らにしてみれば、

コカ・コーラは、ひとつのお洒落なアイテムだった。

これもコマーシャルの力だ。

夏場は、コーラとの付き合いも親密で、

海ではサンオイルじゃない、コパトーンじゃない、

コーラを振りかけて陽に焼くというのが、流行った。

で、夜はいまでいうカフェバーみたいた店に集まり、

アメリカンロックなんかを聴いて踊ったりしたが、

そのときの飲み物が、ウィスキー&コーラ。

要するに、コークハイだ。

冷静に味わえばうまくはない。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

バーベキューをしながらコーラを飲む、

というシーンをテレビで観たときも、

僕らは、その初めてのスタイルに驚いた。

肉をガンガン喰いながらコーラをグイグイ飲むーーー

これは贅沢の極み以外のなにものでもなく、

そのインパクトは日本中に伝搬したに違いない。

アメリカン・ライフ・スタイルは、

こうして世間を席巻し、

僕はぼんやりと、

ああ、アメリカという国には勝てないな、なんて思ったものだ。

ま、こうした驚きもインパクトも当然意図的だが、

それが素直に伝わったというのも当時の日本を映しているし、

コマーシャルにもパワーがあったといえるのだろう。

こうして時代も流れ、日本も豊かになると、

コカ・コーラもコマーシャルスタイルを変え、

日本という国に併せたコマーシャル展開となる。

町の魚屋さんのおっさんとかOL、

サラリーマンとか京都の舞妓さんとか、

普通に働く人と日常の生活シーンのなかにコカ・コーラがあるという

スタイルをとるようになる。

これで外資、

いや、コカ・コーラ文化が日本に確実に根付いてゆくこととなる。

僕らが大人になっても、

コカ・コーラのコマーシャルは相変わらず印象に残るものが多かった。

それは、

映像の秀逸さに併せるように、コピーに共感できるメッセージ性があったからだ。

スカッと爽やか、も素晴らしいコピーだが、

僕が凄いと思ったのは、単なるコーラのコマーシャルが、

愛だの自由だの、人間を語り出したことだった。

♪本当のひととき 本当の人生

生きている心

自然にかえれと誰かが呼んでる

そうさコカ・コーラ

この広い空の下

生まれてきてよかった

そうさ

人間は人間さ

コカ・コーラ♪

※この記事は、オールアバウトプロファイルコラム及び弊社ビジネスブログを転載したものです。

スパンキーの時事放談

大飯原発再稼働に反対するデモは、

なぜテレビでは一切やらないのだろうか?

小林幸子ばかりを追いかけている場合ではないのです。

原発の是非は後にしても、まず報道すること。

議論を深めるきっかけって大事だと思います。

メディアってホントに信用ならない。

意図的な無視、見て見ぬふりは、犯罪と同等だ。

これは見過ごせない。

ツィッター、ユーストリーム。

この辺りでチェックいれると分かります。

飛行機とヘリコプターが合体したような

米軍のオスプレイ。

以前より事故率が高いことで有名だった。

が、オスプレイが今度、沖縄に配備されるという。

酷いとは思いませんか?

そもそも構造的な欠陥があるともいわれており、

なぜいま沖縄へ?

首を捻るばかりです。

1977年に米軍機が横浜で墜落したとき、

私の家は、墜落した地点と数㌔しか離れていませんでした。

現在も、厚木基地周辺には所用で出掛けますが、

あの爆音ときらりと光る機体には、

嫌悪を覚えます。

消費税法案が可決された。

野田という人は一見ダチョウ倶楽部の上島竜平に似ているが、

表情をみると、笑えません。

この人を観察していると、なにかに取り憑かれたように、

可決までの道程は強引だった。

まあ、社会福祉という観点で考えれば、

老人が増え続け、働き手が減っているこの国に必要な税とは思うが、

先にやらなければならない行政改革はどうしたのか?

で、誰もが避けて通る公務員改革。

化け物組織をいじくるのは、政治家にとって鬼門だ。

私は以前、或る公益法人のコンサルをしていたが、

これとて同じようなもの。

ひとつ新しいことをやろうとすると、

足をすくわれ、策に引っ掛けられ…

彼らの企みは、そのおとなしい外見からは想像もつかない程に、

次々に巧みな手を打ってきます。

まさに、

羊の皮を被ったオオカミでして…

日本の近海から、続々と天然資源が見つかっている。

まず、新潟県沖からメタンハイドレードという

油田が見つかった。

面積では、海外の大油田に匹敵する規模という。

また、日本の最東端にある南鳥島周辺の海底で、

いま話題のレアアースが見つかった。

レアアースといえば、現在は中国が独占し、

世界市場を操っているが、この貴重なものが

日本でも採れることとなる。

このままいけば、日本は資源大国だ。

私たちにしてみれば、信じられない認識の転換となる。

で思うのは、資源のある国は狙われる、ということ。

過去を振り返っても、戦争と資源が絡んでいる例は多い。

アメリカ、中国、ロシアーーー

こうした大国が、指をくわえて黙ってみていると思います?

そういう意味で、この国は新たな火種を抱えました。

これを危機と考えるのは、ひねくれ者の発想でしょうかね。

ヒット商品の仕掛け

「太陽のマテ茶」が売れているという。

日本コカ・コーラの久々のヒットでしょうか?

まず、マテ茶は、無糖飲料で、ダイエット効果の他、
テレビや雑誌等で健康に良い、というイメージで流れ始めた。

これにはきっと仕掛け人がいる。私はそうにらんでいる。

続きを読む ヒット商品の仕掛け

噺二題

100円の運勢

ダイソーとかキャンドゥとかをうろうろしていて、なんかないかな?と。

いや、買うものがあって「ヒャッキン」なるものへ

行ったことがあります。

私ははじめ、ああいうところはロクなものがなく、

つまんない金を使ってしまうと、

バカにしていました。

が、最近違います。充実しています。

えっ、これが100円って、驚くものばかりです。

茶碗とか湯飲みも100円。絵の額も100円。えーい、まな板も100円です!

なんでも100円。

「これいくらですか?」って店員に聞いているじいさんがいましたが、

この勘違い、分かります。

で、あるとき本がずらっと並んでいまして、もちろんすべて100円。

私はひぃひぃ言って、このなかの運勢の本を買い、

家へ帰って読んでみました。

普段は、年の始めか年末に、高島易断みたいなものを

買っておくんですが、今年はこれでいいだろうと…

で、読むと何を言いたいのか分からないような箇所が多く、

文章も怪しい。

で、今年は吉か凶かというデリケートなところも、ほぼ曖昧。

ま、こういう運勢本は、曖昧ななかにも

「○○はいいぞ、だが○○に気をつけろ」的な表現がある訳ですが、

この本の場合は、そこがわかんない。

このとき、ついでに星座の本も買ったんですが、こっちは更にひどく、

ぺらぺらやって、数分後には投げ捨てていました。

どうです? 100円で知る運勢。イケマセン。

今年は、安っぽい運となってしまいました。

宝くじ売り場の前を通ると

以前、私は宝くじなるものを、やはりバカにしていまして、

あんなものは当たる筈はないと…

が、サラリーマン時代に、宝くじ部長みたいな人がいまして、

この人が宝くじを熱く語るので、彼のまとめ買いに付き合いました。

で、何回目かに当たったんですね! 私はこのとき、

ホントに当たるんだと、感心しまして、

みんなに1万円ずつだか分配されまして、それで飲んだ記憶があります。

しかし、それからずっと宝くじは買わず、人間はやはり地道だろうと!

働く対価としてお金を頂くんだろうと考えておりまして、

ああいうもんに夢中になる奴はけしからん的に見ておりました。

が、あるとき、街の宝くじ売り場の前を歩いていると、

この売り場から1億円出ました!!!って書いてある張り紙を見て

驚きまして、うわーって、3000円買ってしまいました。

で、結局なにも当たらない。が、最近またまた、

「宝くじが気になる病」が出て参りまして、

あの売り場の前を通ると、じっと立ちつくし、

張り紙を眺めている私がいるんですね?

で、100万円か、ちっ安いな、とかエラソーにやってるんですね。

結局、震災復興宝くじにハマリまして、というか妙に気になりまして、

宝くじ売り場の前を通るときは、いちいち時間がかかる私でした。