無粋な広告

こんな広告はイケナイナと思う代表が、

YouTubeに入れ込んだ広告だ。

あれは、なんというかTVCMより腹が立つ。

所詮、TVは受け身の姿勢で観ることの多い媒体だから、

そんな場合はしょうがないねぇ、となる。

別の言い方をすれば、TVCMの歴史は永い。

こっちも体にしみついているから、

まあいいだろう、となる。

一方、YouTubeを聴く場合、

「あっ、あの歌が聴きたいなぁ」などと、

かなり能動的なアクションを起こしている。

なのに、聴きたい曲の前や途中に、

動画広告が挟んである。

最低5秒は我慢しなくてはならない。

これってかなりイライラする。

こんな場面で登場する広告なんぞ、

まずいい印象など残らないだろうと想像するのだが、

しかし、この手のデータの専門家に聞くと、

ソコソコ視聴されているらしい。

が、そのパーセンテージはやはりというか、

俄然低調であるとのこと。

やはりね。

では、すべてアウトかというと、

成功例はしっかりある。

一例をあげるとフォードのCMで、

頭から5秒で、シートベルトをカチャッとしめるCM。

これは好評だそう。

要はシートベルトは5秒あれば締められる、

とアピールしている。

こうなると社会的意義もある。

これは無粋ではない。

ただ、難しい。

YouTubeをしっかり研究しないとつくれない。

ひょっとすると、TVCMを制作するより難しい。

だから、無粋なのが多い。

ひどいのになると、

5秒でスキップすることもできないものもある。

こうなると、私の場合、YouTubeを終了します。

あと、リマーケティング広告と呼ばれるものだが、

これは通称追っかけ広告と言い、

こいつも用もないのに過去にみた広告とはいえ、

いつまでもパソコンのIPアドレスを頼りに出現するいやらしさがある。

当然、成約率(コンバージョン率)は極端に低い。

リマーケ、嫌いだなぁ。

よって、ウチの場合は、リマーケはお客にはすすめない。

やめましょう、と。

その点、検索結果画面に出てくる広告、

いわゆるリスティング広告は、なんだか許せる。

しっかり「広告」とも書いてあるし。

というか、リスティング広告の場合は、

訪問者もかなりの情報を欲して検索してくるので、

そのマッチング度は高い。

有用である場合が多いし、

コンバージョン率も前記した広告に比べ、

飛躍的に数字が上がる。

また、フェイスブック等にみられる広告は、

個人情報、趣味、嗜好に合致したもののみ展開されるので、

そのマッチング精度も高く、

ユーザーの気を惹くものが多い。

(だけど私はなんだか嫌いですがね)

と、ここまで書いて気がついた。

世の中はうまくできたもので、

成約率の高い広告媒体というのは、

やはり広告料金も高い。

そこがなんというか、

世の中甘くないですよ、という訳。

ネット広告で気になるのは、

TVCMのように、まず内容ではなく、

それ以前の問題が多いように思う。

内容はその後の問題で、

そこはTVCMとなんら変わらない。

ネット広告の良し悪しは、

まず、いつ、誰が、どんなときに、という

タイミングなのだと思う。

「こんなときに広告かよ」と思われるタイミングは、

質の良くないTVCM以上に、

ユーザーの広告に対する、

いや、広告主に対する印象が悪化する。

無粋な広告というのは、

広告主も制作側も実はそうとは気がつかず、

お金を使ってまで流している。

これはもう悲劇であり、喜劇でもある。

では、こんなタイミングに、この広告って、
どうでしょうね? ↓

コピーライターって何?

私の職業を友人たちに尋ねられた娘が、

「コピーライターよ」というと、

一同口々に「知らないなぁ」と言ったとか。

時代遅れだよと言わんばかりの娘に向かって、

私は、「そいつらはみんなバカか」と言い放った。

しかし、そうは言ったものの、

そうかもなぁと思う自分もいる。

よくよく考えるに、コピーライターって職業は裏方。

そうそう表に出るものでもないのに、

なぜかムカシ騒がれたことがあって、

そのブームが去った後というか、

日本が不景気になって久しく、

それでもコピーライターの残党が、

息も絶え絶えに生き抜いて現在に至っている―

といったイメージなのかなぁと、

我ながらしみじみ思うのだが、

たとえば江戸の提灯を細々とつくっている職人がまだいる、

というテレビを観たりすると、

いいなぁあの頑固さと、不気味に笑う自分が

いまの職業にピタリとくるように思うので、

やはりこれで良しと考えている。

さて、いまから約30年前の名コピーで、

サントリーのバレンタインギフトの広告はこんな感じでした。

―ハートをあげる。ダイヤをちょうだい―

ちょっといい。

ちゃっかりしているけれど、

しっかりハートをあげると宣言しているあたり、

いまでも通用する。

さて、ダイヤを買う金はないけれど、

俺はまごころで返します…と。

だって若い頃って、金もないしね。

ハートをあげる。ダイヤをちょうだいって、

ひょっとしたら、結婚もOKとも受け取れる。

かなり意味深な威力も秘めている。

蛇足はともかく、コピーライターって言葉を駆使して生活している。

なので、一発必中の矢を放つことにかけては、比類無い力を発揮する。

次は、新潮社の新潮文庫のコピー。

― 一冊、同じ本を読んでいれば、 会話することができると思うの。 ―

さりげない女性の話し言葉の美しさ。

気になる女性にこんなことを言われたら、

たとえ百科事典でも岩波の国語辞典でも完読しますね。

1027ページの花の写真はキレイだったね、とか、

○○の五段活用について、君の意見を聞きたいとか…

上記のコピーも80年代と記憶しているが、

いまだ色褪せない。

一瞬のブンガクというか、

一行小説と言っても過言ではない。

で現在では、こうしたコピーはほぼ見かけない。

テレビもネットもこうしたコピーは、

もはや威力がないと考えているのか。

もてはやされているのは、

かなり幼稚で言葉尻だけ捉えたコピーづくりとか、

ヤンキー言葉なんかを使ったりして、

そこはとても自然のようなのだけれど、

後に何も残らない。

そして少し嫌な気分だけが残る。

他は安いのみの強調とか、

奇抜な映像のみでガンガン押してくるから、

押しつけがましい事この上ない。

だからつまらない。

果てはコマーシャルがウザいとなる。

そしてまた、いまはテレビのコンテンツも面白くないから、

問題は一層根深いものとなっている。

こうした負のラビリンスって、

もはや止めることのできない時代の流れでもある。

よって、コピーライターの力量が発揮される出番がない。

いや、受け手がそれを欲していない、または理解しない。

そこに曖昧さが残っているのも事実ではある。

自分の実感として、

まず先方の要望が言葉より他をめざしている場合がある。

たとえばカッコイイデザイン第一主義。

これはこれでアリの場合もあるにはある。

デザインでモノは売れる時代ではあるが、

言葉の強さを信じていない、という点で、

現在の風潮はちょっと寂しい気がする。

総じて皆忙しいから文字なんか読まないんだよなぁ、

という思い込みが蔓延している。

これは一部正解で、他方大きく間違っている。

私は一発で相手を射貫くようなコピーはつくれない。

が、どんな仕事でも最大限それに近づくよう、

努力をしている。

まあ、仕事を受けた時点で、総合的な判断、

次に企画の概要、デザインのアウトライン、

そしてコピーも同時に考えるのが我々の仕事なのだが、

いろいろとサンプルテストを繰り返して分かる事がある。

それは、やはりコピーの出来不出来により、

反響に大きな差が出ること。

これは事実。

目立たないポジションではあるが、

やはりコピーライターの仕事って、

かなり重要だと自覚している。

そしてやがてまた、

言葉なりコピーの時代が来るように思う。

何故って、結局時代は常に巡っているからです。

記憶の海を漂う

あなたの人生を振り返ってみてください、

如何でしたか?

こんな小難しい質問を誰かに投げかけられたら…

うーん、皆さんかなり戸惑うことになるでしょう。

ところが、こうした質問に対する回答は皆、

同じ思考を辿ってこたえるらしい。

それは「記憶の集合体」を語ること。

言い換えれば、覚えている過去の記憶を総合的にまとめ、

それを主観で言い表す、とでもいおうか。

NHKのEテレで毎週「TED」という番組を放映している。

アメリカの番組をそのまま持ってきたものだが、

毎週、その道のプロ・専門家が、広い会場でプレゼンテーションを行う。

別称「スーパープレゼンテーション」と呼ばれる所以は、

登場する方々のプレゼンがとても感動するものばかりだからだろう。

最近では、記憶力の世界チャンピオンという方が登場。

物事の覚え方のコツなどを話しているのだが、

これはめずらしくつまらないなぁと思いながら観ていた。

まず記憶力の素質は皆たいして変わらないということ。

そして記憶しておくポイントは、物事を関連づけて、

物語として、または立体的に覚えてゆくこと等々。

こういうことに一切興味がない私は、

フムフムと寝転がって観ていたのだが、

最後の3分という話の総括の頃だろうか、

彼が目からウロコが落ちるような、

ハッとすることを口にした。

曰く、

「人は人生を振り返るとき、それは記憶しかない。

だから皆さん、忘れずに覚えておきましょう」と。

この言葉がやけに気になった私は、

体を起こしてひととき、うーむと考え込んでしまった。

その人の人生がどうであったか、

それは覚えている事以外は当然のことだが、語れない訳だ。

この至極当たり前の事に私はハッとさせられた。

そして私たちは、それが良い思い出だろろうとなかろうと、

月日が経つうちに記憶は変化し、ときに編集され、

更に記憶は進化しながら積み重なってゆく。

この過程での記憶の変化、編集には、

主観が多いにかかわっているので、

それがどのような記憶であろうと、

その人の心理状態というか性格なども大きく影響している。

よって、例えふたりの人間が同じ経験をしても、

それが良い思い出となるのか否かは、

それぞれのパーソナリティにより、

記憶の形態も掛け離れたものになる可能性がある訳で、

そこに後年、記憶の編集などが加わることにより、

それぞれの歩んできた道が大きく異なるように語られる、

ということとなる。

おおざっぱに言えば、

それがどんな事柄であろうと、

記憶とは本人が良しと記憶していれば、

それは良い思い出となるであろうし、

その逆もまた然り、なのである。

なんでもポジティブに、とかいう人がいるが、

私はこういうのがあまり好きではない。

が、こと人生における記憶に関しては、

この考え方を採り入れたほうが良さそうだと、

「TED」を観て以来思うようになった。

これは、私がいままで見落としていた、

とてもシンプルかつ重大な発見だった。

一度きりの人生だと思うからこそ、

やはり振り返るときくらい肯定したい…

こう考えるのは私だけだろうか。

働く、についての考察

60歳も過ぎたきょうこの頃、

「あんあ、じじいになったなぁ」と鏡を見て実感。

シワがメッキリ増えたなぁ、

あれ、こんな所にシミができている!

で、改めて己の事をまじまじと考えた訳だ。

アタマに浮かんだのはリタイアという言葉。

この言葉に、己は良いイメージがない。

しかたなく将棋なんかを打っていたりね。

挟み将棋しかできないので、コレはパス。

時間はタップリとあるので、

図書館でじっと新聞なんかを読みふける。

幾ら読み続けても、2時間余。

喫茶店に入って、今日のオススメのコーヒーなんかを注文する。

顔なじみになってしまったこのこの店のねーちゃんも、

清楚な笑顔で対応してくれるものの、

つくり笑顔が引き攣っている、

お互いにバツが悪い。

と、こんなのは嫌だなぁと思ったが、

よくよく考えるとこうした暇人には、

そもそも金がある、という前提があることに気がついた。

年金は65歳にならないと原則支給されない。

己は自営なので、そもそも年金も少ない。

己はやはり働かねばならない!

という事で現役続行という結論に至ったのだが、

このとき、なんだか暇人というのも

なかなか大変そうな事に気づいた。

ポジティブな暇人というのを

幾度かテレビで観たことがあるが、

豪華客船なんかに乗って、

世界各地を巡る船旅などというものに

夫婦揃って参加したりしている。

もうエンジョイしているんですね!

が、これが己的にどうしても羨ましくないですね?

それが何故なのか原因が全く掴めない。

有り余る財産、有り余る時間…

まあ、そうゆうものに全く縁がない。

他人事と端っから興味がないのか、

どうもそのあたりが原因らしい。

更に考えるに、働くという行為に対して、

己の人生観が喜んでいるフシがある、ということ。

これに気づいてしまった。

そもそも好きで始めた仕事なので、

働かされているという意識もない。

定年もない。

勤め人は30歳くらいで見切りをつけたので、

いま思えば良かったと思う。

誰に文句も言われないし、肩叩きにあう訳でもない。

が、これからも仕事を続けるには、

相当メンタル的な強さが要求される。

きっと、己が自分の肩を叩かねばならない日が、

いつの日かくるのだろう。

その日まで、仕事に対して常にチャレンジしなければ、

己の恥となる。

廻りに迷惑をかけてしまう。

そういえば、数人の占い師さんに、

「あなたは一生働きますよ」と言われた己であるからして、

筋金入りの労働者なのである。

ムカシ、お袋さんからよく言われたのが、

「働かざる者、食うべからず」という

古い伝説のような呪文で、

これがいまだ己に取り憑いていて、

その呪縛が解けないでいる。

嫌々働いている訳でなく、

いまのところは、

たいそうな病気もしていないことを、

神さまだか仏さまに感謝!

今日も働かせていただいていると思うと、

「ありがたい、ありがたい」と頭を垂れる、

己なのでありました。

こうした考え方が、

いわゆる日本人の詰まらない人生観らしいことは、

海外からよく指摘されている事は知ってはいるが、

そんな事は大きなお世話。

人生観など、廻りに揶揄される筋合いのものではない。

時の長さと質、その観念について

「パイレーツ・オブ・カリビアン」の映画のなかで、

絶対に死ねない刑を受けた男が出てくる。

その男が死ねない辛さを話すシーンがある。

ジョニー・デップ分するキャプテン・ジャック・スパロウは、

その男の告白を相変わらずへらへらとして聞くのだが、

死ねない刑の辛さをまるで分かってあげようとしない。

それは想像の域を超えているとでも言いたいように。

この映画を観ていて、あるくだらない記憶が蘇った。

勉強などするハズもない高校生の頃の或る夏休み。

その年はえらく暑かった。

気力を失っていたその頃の私は、

いま思えばちょっとどこか患っていたのかも知れない。

部活を辞めた後の毎日は、

生活から何か大事なものが抜け落ちたように、

ポカンと穴のあいた空虚さだけが残った。

とにかく何もしない。したくない。

一日中だるい。

辛うじて毎日昼過ぎに起き、

パチンコ屋に通い、

ひたすらパチンコを打ち続ける。

玉が出ようが出まいが、実はどうでもよかった。

他に何もすることがない。

パチンコには全く集中していない。

が、玉がなくなると、

これはもうどうしていいか分からないほど、

心身が消耗していた。

店を出て炎天下のなかをふらふらと歩く。

で、今度はボーリング場へと行く。

他に行くところが見当たらない。

が、ボーリングなどしない。

あんな重い球を持つのが嫌なので、

ペプシコーラを買ってベンチへへたり込む。

で、夜までまんじりともしないで、

誰かが投げる球の先をぼんやりと見ていた。

いま思えば、

ほとんど思考すらしていなかったのではないか。

ああ、こんな時間が延々と続くのか―

それが永遠に続くように思ったとき、

人生は退屈で憂鬱なものと思ったし、

時間は残酷だなと…

こうして部活を辞めた初めての夏休みは、

私は途方に暮れていた。

いま振り返ると馬鹿者の典型だと自戒できる。

翻って、日々の時間が足りない現在。

あの頃の自分に戻って時間を持ち返りたくなる。

そしてその頃には全く意識もしなかった「死」というものもまた、

最近はぐっと身近な存在として、

私のまわりをうろうろしている。

オヤジは、或る朝、突然逝ってしまったし、

おふくろは施設、病院の入退院を繰り返し、

数年患っていなくなってしまった。

後、自分も目を患い、

一時期危険な状態が続いたことがある。

加えて、この数年の間に、友人・知人の死が続いた。

さて、時間に弄ばれていた、

いや、人生というある種の退屈さを味わったあの夏だが、

どうにも自分というものの存在自体に嫌気が差し、

思い切って友人を誘い、

東海汽船で伊豆大島へ渡った。

泊まる所は砂浜と決めていたので、

テント、飯ごうなどのキャンプ用品を詰め込み、

心機一転を狙った。

そして砂だらけになって一週間を過ごした。

飯は自分でつくらなければならない。

誰もつくってくれないので、

いつもメシと飲み水のことばかりを考えていた。

生きてゆくため、毎日が忙しい。

手応えがあった。

あとは適当に浜に寝て、適当に泳ぐ。

そして時々魚を釣ってメシの足しにした。

かなりひどいキャンプ生活だったが、

こんな些細なことで、

その後の自分が大きく変化したのだから、

我ながら不思議だった。

帰える前日の夜、浜にたたずんでずっと海を見ていると、

月に照らされた波間が自分の足元まで届くように、

ポチャンポチャンと心地良い音を立てていた。

久しぶりに生きている気がした。

そして人生ってそうそう悪くもないなと、思い直した。

それから後、パチンコ生活とは一切縁を切った。

好きだった女の子に思い切ってラブレターを書こうと思った。

それが一生懸命過ぎて、散々書き散らした紙くずが、

たちまち山のようになった。

そうしてなんとか付き合い始めた女の子との時間は、

驚くほど早く過ぎていった。

そう、時間は瞬く間に過ぎていったのである。

時の長さと質、その観念について

相対するこの不思議は、

私がいまもって分からないもののひとつである。

漢方的生活ー夏の漢方薬をセレクトする

今年は予想以上に暑い夏になりました。

先日、屋外で35℃を体験しましたが、

あれは焚き火を囲む拷問のようなものですよ。

埼玉とか群馬は神奈川よりもっと暑いので、

あちらの方々にはホントにアタマが下がります。

さて、こう暑いと冷たいものが欲しくなる。

私も以前は冷たいものをガンガン飲んでいましたが、

なんというか、年をとると用心深くなる、というか、

結構カラダが冷えるのが分かる。

アイスコーヒーもほどほど、

かき氷なんぞは怯えながら喰っています。

さて、

汗をかいたカラダに冷房の風があたると、

いや、寒い。

これは良くないですね。

夏風邪って、こんなところから始まります。

あと、就寝中も要注意です。

真夏の就寝中は熱中症も恐いので、

エアコンは良しというのが、最近の考え方だそうです。

私の場合、だいたい28℃設定にして寝ていますが、

こんなときは風向きに注意します。

扇風機も同様ですが、

直接カラダに風があたるのは、

やはり良くないですね。

夏風邪は、上記の要因が絡み合っています。

また、夏風邪の主原因が冷えであるとは、

漢方的な考えです。

だからといって、こういう場合、

葛根湯ではないんですね。

私のオススメはなんといっても、

カッ香正気散(かっこうしょうきさん)です。

カッ香正気散がなぜオススメなのか、ですが、

漢方的な夏風邪の直し方は、

まず内臓を温めることから考えます。

そして内臓の機能を上げ、

カラダ全体の気・血・水の巡りを良くし、

抵抗力をあげることをめざします。

夏って結構内臓が冷えていますから、

そうした不調が続くと、夏パテになってしまします。

こんなとき、今度は

補中益気湯(ほちゅうえっきとう)などに切り替えると

かなり体力も戻ります。

補中とは、中が内臓という意味。

これを補うと言うことです。

そして益気は気を巡らせ、元気を出させるということ。

西洋薬とか栄養ドリンクばかりに頼らず、

漢方的な夏の乗り切り方も、

実はなかなか理に叶っていると思います。

さて、コピーライターの私がなんで漢方なのか、ですが、

もうかれこれ30年前ですか、

社会に出て人生初のカラダの不調に悩んだのが、きっかけです。

いまでは、自分の薬方は自分でチョイスしています。

もちろん、私には

漢方他いろいろな知識をもっていらっしやる師匠がおりまして、

その方の知識は途方もなく凄いです。

漢方は幾ら勉強しても分からないことが後から後から出てきます。

なので、後は自らの体験と検証の繰り返しです。

町の薬局の薬剤師さんと話をしていても、

漢方の分かる方は非常に希です。

もしくはデスクの上の知識のみの方が非常に多い。

漢方は西洋の学問のように、

ピシッとした回答が出ない場合が多いので、

ファジーなアタマで望むのがベスト。

そうして少しづつ学ぶと、心身に関する面白い事例などが、

芋づる式に分かることがある。

こういうところが漢方を学ぶ醍醐味でしょうか?

さて、少しはお役に立てたでしょうか?

次回は、

えーっと漢方的ストレス解消法にいたします。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

グレートサムシング(Great Something)

私事だが、

昨年11月末に母の3回忌を済ませ、

ようやくひとつ荷を下ろせた気がした。

菩提寺は横浜の外れにあり、

ようすから思うに、

まだ檀家の数が減っている気配はない。

そして年を越し、

近くの氏神様にお参りに行くと、

そこもなかなか盛況。

だが、人の数は、

以前に較べてかなり減っているようだ。

なにより若い人が少ないのに驚く。

そういえば、年越しのNHKは、

地方の名刹からの中継が多いが、

やはりお年寄りばかりが目に付く。

私たちは、

日頃から、神社と仏閣を平然と両使いする。

それが平均的日本人の姿のようでもある。

しかし、あなたの信仰はと問われて、

即答はできないのは私だけだろうか。

いま地方では檀家の数も減り、

僧侶不在の寺も多いと聞く。

一部の著名な所を除けば、

神社も同様ではないか。

日本人の生活に根付いている神仏も、

人口減と価値観の変化からか、

将来に暗い影を落としている。

死生観においても、

そして経済的な理由からも、

もう若い人を繋ぎ止めておくことは、

無理なのではないか。

私が所持している般若心経に、

このお経は万能であり、

どんな宗教を信じる者にも通ずる、

とある。

海外では理解しがたい解釈と思うが、

日本人の生活のなかに生き続ける信仰は、

かように複雑に絡み合い、

それが自然と暮らしのなかに

息づいている。

こんな信仰の姿を、

翻って信仰心がない、と片付ける輩もいる。

それを、いいじゃないかと軽くあしらうのも、

私たちの術ではあるが…

しかし、こうしたものも廃れてゆくのが、

いまという時代の姿である。

更に不可思議なことは、

人は誰も一端なにかが起きると、

少なからず、

天に、宇宙に、

そして海の向こうに想いを馳せ、

祈ることさえあるという事実。

それは、

信仰とは少し違った、

心の有り様なのかも知れない。

そんな心の揺らぎを

「Great Something」

と呼ぶらしい。

得体の知れない、

しかし、

この世の法則、そして事象を司る、

偉大な何か…

人はやはり何かを信じたいのだろう。

Great Somethingが、

あなたを見守ってくれていると感じることで、

救いのひとつにはなる。

―教え、宗教、信仰―

こうしたものに熱狂することを、

私はあまり好まない。

だからというか、せめてといおうか、

Great Somethingなのである。

その程度でいいんじゃないかと…

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

「青い鳥」の考察

大きな洋館に住み、海外を豪華客船で巡る。

こんな老夫婦を先日テレビで観た。

仕事をリタイアし、悠々自適の老後である。

如何にもテレビ向きと思った。

また、あるIT実業家だが、

彼は、仕事はやりたいときにやる主義だそうだ。

事業をできるだけ自動化するため、仕組みを構築し、

収益は、常に銀行に溜まるらしい。

ふーん、凄いな。

観ている側が羨ましがるだろう企画満載の番組だった。

ネットでは、ある投資家が、

アパート経営を成功させ、

それを資金に財を成した話が有名だ。

趣味のクルマがガレージにズラリと並ぶ写真。

その投資マニュアルが飛ぶように売れたことがある。

成功者の話は総じて面白い。

なぜ面白いのかというと、

その人が成功したからに他ならない、

と思いがちだが、

実はそんなことはないと私は思っている。

それは、

財という、誰もが分かるものさしで、

とりあえず人を惹くからに他ならない。

だからそう思ってしまうだけのことなのだ。

そもそも人って、

どんな生き方をしていても、それぞれが面白い。

人の数だけドラマがあると言われるように、

それが喜劇だろうが悲劇だろうが、

総じて、その内容に惹かれるものなのだ。

話を成功者の事柄に戻すと、

成功者は幸福かとの問いに、

それは当たり前だろ、と言う人は多い。

私のまわりにも、大なり小なり、

成功者と呼ばれている人たちがいる。

しかし、問題はここからなのだが、

成功がイコール幸福とは限らないところで、

話はややこしくなる。

あくまでこれは私の知る限りの状況なので、

他に通用するかどうかはその限りではないが、

持て余すほどの財産を手にしながら、

不幸を吐露する人を、私は幾人かみた。

単なる成功者が、

人生の勝利者であるかの如く周囲が感じるのは、

まず財というものが分かり易い指針であるが故に、

誤った判断に陥る為だ。

後は、まわりの観察眼が足りないか、

節穴のどちらかである。

さて、人生の勝利者なんていうと語弊を招くが、

成功者がすべて人生の勝利者と被るとは、

到底言いがたい。

それが現実だ。

では、人生の勝利者が幸福な人と仮定して、

それは、果たしてどんな人を指すのだろうか?

私も長らく生きてきて、いろいろな人を見てきたし、

己の経験も巻物の如く延々と語れる年になった。

思うに、人生の大半はほぼ日常だと、

或るとき気がついた。

日々、何を楽しいと思えるか、

日々、嫌な事をどのように昇華できるか。

要は些細なことの積み重ねだ。

それをどのように味わい尽くすのかによって、

人の幸・不幸は、いとも簡単に分かれてゆくのだろう。

例えて言えば、日々の生活のなかで、

喜怒哀楽を味わう心が、

人の幸福度を左右すると言ったらおおげさか?

こんなことを書いている自分は、

いつからこんなことを抜かすようになったのだろうと振り返るも、

発端は曖昧模糊としていて釈然としない。

ただ、私が前述した成功者の一人ではないことは確かであるし、

そうであったなら、

こんなつまらないものは書かないだろうしね。

正岡子規は、病床に伏してなお、

身の回りだけでなく、

森羅万象を美しく捉えた。

海外を豪華客船で巡ることなく、

その感性で世界観を形成した。

それは置かれた環境・状況で、

己を最高に楽しませる、感動させるための

メンタルを手にしたからに他ならない。

例えるならば、

毎日、屋根のある下で寝られる幸せ。

質素でもいいから、

ごはんが食べられる幸せ。

なんとか自分の手足を動かせることの幸せ。

そして、身近なものに寄せる愛なのだろう。

気がつけば、

青い鳥はどこにでもいるのかも知れない。

いや、青い鳥はいつもあなたの側にいるのだろう。

きっと見ていないだけの事。

それだけの事なのだ。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

私見的フェイスブック

フェイスブックの右によく「おすすめのページ」
なんてのが出ていて、
コーヒーのスターバックスに○○さんと××さんが
「いいね!」と言っています。と表示されている。

うーん、○○さんと××さんは確かに私と繋がりのある人だが、
この表示をみるにつけ、
「君の知り合い、みんないいね!しているけれど、
君もいいね!しないのかい?」と言われている気分になる。

これは私の思い過ごしか?

スタバは時たま入るが、そこしかコーヒーを飲む所がない場合のみ、
入る程度。

私は、あの不思議に疲れるスタバより、コーヒーのコロラドなんていう、
昔ながらの喫茶店が好きなんだよね。

タバコも吸えるし。

で、フェイスブックのスタバの下に、ミッキーのバナーが出ていて、
ディズニーに、819,143人がいいね!と言っています。
と出ている。

ほう~、だからどうした。

オレ、ディズニーランドって行ったことないし…
というか、なぜかああゆう所に馴染めない質なので、
子供がちいさかったときは、もっぱら子供の国とか、
よみうりランドとか、向ヶ丘遊園とかしか連れて行かなかった。

そのことで奥さんとは何度もケンカしましたが…

で、ディズニーの映画は大好きなんだけれど、
ディズニーランドはイケマセン!
私の場合、きっとアメリカのディズニーランドへ行こうと誘われても、
ノーって言うと思います。

どうしてものめり込むことができない訳です 涙

私は、どちらかというと、長崎のハウステンボスの方がいいね!

でですね、フェイスブックの更にその下に
オリンピックのマークのバナーが出ていて、
東京2020オリンピック・パラリンピックに、
誰々さんがいいね!と言っています。
と出ている。

ホント、うるせぇな、フェイスブック。

私も広告の企画だとか制作だとかを生業としているので、
世の中に広告って必要、アリだとは思っている。

が、誰々さんがとか、みんながいいね!って言っているからって、
私がいいかどうかは、私の勝手だ。
なのに、みんながいいね!と言っているという、
このフェイスブックの押しつけがましい仕組みだかシステムだか知らないが、
そこにイラツキを覚える。

ま、こっちもプロモーションを考えるとき、
選択肢として、この手はイケル、拡がるとは思いますよ。

(特に日本においては、みんなが…というあたりはかなり有効と判断できる)

が、私はあまりこの手はやらない気がする。

だって、ムカシから性格がねじ曲がっているから、
ホントは自分は広告には不向きとも思っているし、
だから、みんなのいいね!をネガティブに捉えてしまうのである。

さて、今日も我が貧乏会社の売上げでも見てみますか?

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

乗り越える力――レジリエンスとは?

レジリエンスとは聞き慣れない言葉だが、

ひと言でいうと、

折れない心をつくる―となる。

私は或るテレビ番組で、この言葉を知った。

私的に言えば、ここまで生きてきて、

挫折した人間を何人もみてきた。

立ち直った人間もね。

鬱になっちゃった奴、自死した人…

辛い記憶は、こちらもそう簡単には癒えない。

折れない心か…

レジリエンスはもっと言えば、

逆境から立ち直る力とも言い換えることができる。

肉親の死、自らの病と、

最近の私は嫌な事の連続だったので、

まあ、一時は心が折れそうになりました。

で、立ち直ったかと聞かれれば、いまは道半ば。

…これからですね。

ウィキによれば、レジリエンスとは心理学用語。

精神的回復力、抵抗力、復元力、耐久力などと訳される。

要するにこうだ。

極度の不利な状況に直面しても、

正常な状態を維持することができる能力、

という定義。

これは、結構厳しいなぁ。

私たちは、兵士ではない。

特殊訓練を積んだグリーンベレーでもない訳で、

また、禅の求道者でもないしね。

がしかし、経験上、強い奴はいるにはいる。

一般的に心が強いというと、

神経の図太そうな丈夫そうな人をイメージしますが、

レジリエンスは少し意味合いが違う。

例えば、ストレスの強い状況などに一喜一憂しない、

感情をコントロールする力。

これもレジリエンス。

これは心が鈍いのではなく、

自分の力をしっかり評価するとか、

自尊感情が大きく関係するという。

だから一喜一憂しない。

辛いことがあっても失敗しても、

自分は成長している、

前進していると考える思考と感情。

レジリエンスを持つ人には、このように特徴的な要素があることが、

最近の研究で分かりつつあるとも。

まあ、カギはなにはともあれ、楽観性なのでしょうか?

レジリエンスは心理学的アプローチだが、

これを実践するとなると、

ある意味、宗教的であり、哲学的でもある。

これからの時代に欠かせないキーワードであることは確かだ。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村