本日は本音で…

スター伝説。

スターっていうのは辛いものだと思う。

南沙織だって百恵ちゃんだって、いまは伝説である。

どんな生活しているか、ほぼ皆知らない。

が、素人が思うに、

あまり人が集まるユルイところではしゃいだり、

のんびり羽なんか伸ばしてはいられないだろう、

ということ。

通報とか写真とか報道とかある訳で、

あの可愛いかった娘がとんでもばあさんに、

なんて見出しが躍る。

そこは、例え億の金を貰っていても、

本マグロが幾ら食えても、

ちょっと辛いんじゃないだろうか?

この生活は死ぬまで続く。

一般人をですね、まあ天気に例えれば、

うす曇りのような人生なのか知らんけれど、

スターのように、あまりにコントラストの強い、

ピーカンのち豪雨、というようなのもどうかと…

黒柳徹子とか吉永早百合張りにいけばいい。

森光子、森繁久弥然り。

タケシとか健さんのようになれば、これは官軍だ。

が、大半の元スターが食うためか目立つためなのか、

整形の他いろいろ小細工までして、

テレビのバラエティなんぞで、

恥も外聞もなくプライバシーを晒し、

晩節を汚すことを厭わない。

赤木圭一郎、坂本九、夏目雅子、

そして裕次郎。

いまでも永遠のスターであり続ける。

ジェームス・ディーン、グレースケリー。

この人たちも、皆若くしていなくなってしまったが、

全盛期の輝いた伝説だけが残る。

皮肉なことだなぁと、つくづく思う。

日本、自立。

いま思えば、彼は不思議な人だ。

野田という元首相のおっさんだが、

選挙ボロ負けを覚悟して、

一体なにをムキになっていたのか。

ここは謎である。

消費税を上げるといって、頑なだった。

増税の道筋をつくるとして、

周囲の意見も聞かなかったという。

この一点に於いて彼は一途だった。

誰かに頼まれたのか、と私は勘ぐりましたが。

で、挙げ句、民主党はご覧の通り。

それはそれで良かった。

で、行政改革に関して、

彼もしくは民主党は、全く無能だった。

そこに手をつけず、

原資を消費税に求めたのだろう。

片手落ちの政策に皆が納得する訳がない。

が、この法案が通ったとき、

野田さんは晴れやかな顔をしていた。

震災後の復興に遅れを生じさせ、

また尖閣の対中国政策では戦略的な考えもなく、

その弱みを突かれた。

この一連の流れをみても腹立たしい。

で、替わって登場した自民党の阿倍さんだが、

みんながこの政治家を、

手放しで喜んでいる訳ではない。

時代がうねるとき、ああいう人は必要だ。

その一点に於いて彼の存在が光っている。

が自民党も相当の悪役揃いで、

元を正せばとんでも利権集団のように思える。

これは、この政党の過去が示している。

こうなると、

この国の利を考えて行動している政治家は、

ほんのわずかではないかと思えてくる。

でなければ、

日本はいろいろな意味で、

とっくに自立している。

もちろん、外交、軍事に於いてもだ。

猿との攻防

元来、猿が嫌いだ。

以前、伊豆の波勝崎で、

猿の集団に囲まれたことがある。

どんなに手を出されても相手にせず、

決して目を見ないこと。

この原則どおりにその場を切り抜けたが、

かなりアタマにきた覚えがある。

これは思うに、

猿と人間の近親憎悪から生じるもののようだ。

人間でも猿顔の方とは縁が薄い。

過去、ロクなことがなかった。

きっと相性が悪いのだろう。

で、先日ベランダへ出ると、

さっと走ってゆく何かがいた。

とっさのことで一瞬アタマが働かなかったが、

その後ろ姿を見てカッときました。

我が家の庭に猿が佇んでいたのである。

更に腹立たしいことに、

コイツ、途中でこっちを振り返り、威嚇を始めたことだ。

私の知り合いの農家で、こんなことがあった。

畑を荒らされ、罠を仕掛けた。

犯人はイノシシらしかったが、

猿がかかった。

で、一晩放っておいたところ、

翌日に警察が来て、

動物虐待の容疑をかけられたという。

嘘のような話だが、本当だ。

猿も大変と思います。

生きる事情は皆同じ。

元を正せば、我々がいけないのも承知だが、

なんだかイライラするな!

でですね、

奴等をよくよく観察すると、

どいつも筋肉隆々なんです。

で、すげぇ毛深い。

とこれは関係ないが、

とにかく鍛え方が違うのである。

参ったな、というのが本音。

贅沢は素敵だ!

地球温暖化、そしてエネルギーが枯渇する懸念から、

そもそもエコは始まった。

当初、エコは悪く言えば、単なるブームに過ぎなかった。

が、やがてその地位は安定し、

現在はしっかり足が地に着いている。

というより、エコ度はいま、さらに加速している。

シェールガス供給にメドが立とうが、

メタンハイドレートが出ようが、

地球全体で、温暖化阻止、

もったいない運動は推進されている。

例えば、クルマ。

私がたまに行くカーデイーラーでも、

ショールームに展示してあるクルマは、

どれも排気量を下げ、

車体の軽量化と燃焼効率、Co2削減に知恵を絞る。

特に、燃費の善し悪しは、

買うか否かの最大の焦点となる。

ハイブリッド車も現在は全盛だ。

クルマの魅力や価値観も相当変わった。

だから、

大排気量で疾走するスポーツカーなんぞ、

いまや時代遅れ、と私は思っていた。

が、世の中は広い。

多様化の時代なのである。

エコとは全く無縁のクルマもどっこい健在のようで、

それが時代遅れなのかというとそうでもなく、

そうした市場はしっかり形成されている。

この場合、ただデカイだけのクルマなら、

アメ車の話だけで充分だが、

そのアメ車だって、ダウンサイジングしている。

そんな時代の流れのなかで、

価格面でも仕様でも全然エコじゃないクルマが、

幾つか存在する。

例えば、欧州のスーパー4WDがそれだ。

レンジローバー・イヴォーグは、45°の急勾配でも難なく登るし、

50㎝の水深でも走り続けられる設計になっている。

で、車体価格が600万円弱。

贅沢。

そんな坂、どこにあるのかとか、

いつ水の中を走るのかなどと、

野暮なことを言ってはいけない。

いまこのクルマは、欧米や日本でも飛ぶように売れているのだ。

で、お馴染みのベンツやポルシェも、

大排気量4WDを発売した。

ポルシェに至っては380馬力の怪力を秘めているというから、

これは贅沢というよりも無駄のようにも思えてくる。

現実的に考えて、いま世界の道路で、

この怪力を試す機会は皆無と思う。

で、車体価格だが、

ベンツCLSシューティングブレークが1000万円弱~1800万円。

ポルシェカイエンSハイブリッドが、1113万円。

私からすれば、まず4WDっていうのが、そもそも贅沢である。

あと、こんなに高額で、ローンなんて組めるのかとか、

そういうセコイことしかアタマに浮かばない。

ポルシェは驚くことにハイブリッドだが、

それにしてもリッター10kmを稼げるのは、

高速巡航の場合だけらしいということ。

うーん、贅沢!

で、もっと凄いのがフェラーリ。

4人乗れて、荷物もいっぱい積みたいと誰が言ったか知らないが、

最高速300㌔くらいの性能は維持したまま、

その要望をカタチにしたのが、フェラーリFF。

V12気筒エンジンを搭載し、高速道路を330㌔で疾走する。

で、車体価格が3200万円也。

こうなると、超高級4WDだの超豪華RVだのと言っている場合ではなく、

なんだこの価格は、となってくる。

一戸建て住宅のようなこの車両価格で、

一体誰が買うのだろう。

が、現実に売れているというから、

世の中はやはり広いのだ。

格差社会とか経済格差ということばが閃くが、

私としては、こういうものが売れる社会というものも、

まんざら悪くないような気もする。

それより注目すべきは、

エコだけで地球を救えるか、ということ。

私が思うに、

エコだけでは、きっと人類を救えないのだ。

人の歴史は無駄の歴史でもある。

その最たるものが、

芸術とかアートとかいわれている領域ではないだろうか。

で、これが無駄かというと、そんなことはない。

これは、皆が認めるところだ。

華やいだ時代や地域には、必ずといっていい程、

芸術・アートが開花している。

贅沢や、一見無駄なモノ・コトは、

巡り巡って、やがて私たちの生活・人生を潤す。

これは、皮肉なことだ。

実用一本槍で、私たちは暮らせない。

だから余暇があり、レクリエーションがあり、

遊びがある。

クルマのハンドルだって、遊びがある。

遊びのないクルマは、怖くて運転もできない。

エコで地球は救えるかも知れない。

しかし、私たちを救ってくれるのは、きっと無駄なのだ。

では、例えば上記した超贅沢なクルマたちは、

一体何を生むのか?

想像できることは、

きっと、あんな無駄なものを買う人たちは、

他でも有益な無駄をしているということ。

それが寄付なのか、テクノロジーなのか、

芸術家やアーティストの手助けなのか分からないが、

とにかくその辺りに期待はできる。

要は、無駄が巡ることが、

次の創造に繋がるということではないだろうか。

こう考えると、

やはり人間というものは、

つくづく複雑系ないきものだ。

「いま」という時代の広告表現

ツィッターやmixi、フェイスブック等のSNSを除くと、

ネットはほぼ検索の世界である。

で、検索をしていて思うことだが、

目的に辿り着く前に、

アレコレと売り込みが始まる。

ポータルサイトをぼぉ~っと眺めていても、

クリックの先で、

いつの間にか、なにかを売り込まれている。

油断も隙もない。

そういう私も、サイトづくりなどの仕事をしているが、

それが楽しいかと聞かれると、

最近は正直「うーん」と考えてしまう。

企画・制作者として売り上げに貢献できるのは、

素直に嬉しい。

が、表現する一人として思うところもあり、

ムカシのほうが良かったと思うこともしばしばだ。

ネットは、

検索で辿り着く先の情報を見聞し、

その親切で事細かな説明に納得したりして、

ちょっとその気になったりもする。

また、知り得ない情報を発見することもあり、

思わぬ勉強にもなる。

しかし、

キーワード検索で訪れた先のリスティング広告は良いにしても、

或る記事などの内容に連動する目的でつくられたコンテンツマッチ広告は、

追いかけ過剰の感もある。

バズの類いに至っては、

商品や事柄にまつわる噂や推薦で溢れていて、

文字通り、もう視覚の騒音だ。

ネットの特質といえばそれまで。

そういえば広告の性格もひと昔前と違い、

マーケティングテクニックを駆使した広告やサイトも多く、

いまは、いわば延々の説得型が主流となっている。

そして、それを証明するかのような数字と、

お客様の声の数々が、コンバージョン(成約)を後押しする。

考えてみれば、検索で辿り着く先は、

自ら探す、いわば能動的な行動であり、

その先に納得させられるものがあるのだから、

当然コンバージョン率(成約率)も高くなる。

このとき、広告やサイトはロジックで構成され、

後述する手法を完全にマスターすれば、

サイトの持ち主は、億万長者も夢ではないのかも知れない。

最も、世の中はそんなに甘くはない。

いまの時代の広告づくり、サイトづくりは、

苦労が絶えないのだ。

サイトの仕掛けの裏はいま、

数字やグラフで詳細をチェックできる。

アクセス解析は、

訪問客の入り、滞在、離脱等を、すべて記録する。

裏を返せば、

リスティングなどのキーワード広告は、

このアクセス解析に則って各所を改善すれば、

より高い売り上げをめざすことも可能である。

それはコピーの改善であり、デザインであり、

値付けの的確さを追求するものでもある。

いろいな角度から、広告の検討を加えることができる訳だ。

こうした効果測定は売り上げを改善し、

同時にクリエーターや制作者に、

科学的アプローチに基づいたチェック(文句?)を入れることもできる。

要はビジネスなので、

そこに昭和の匂いのするような文学的表現は不要と思われる。

そして、美しいデザインではなく、売れるデザイン。

いまの広告は、すべてがこのように動いている。

視点を変えれば、

ムカシに較べて味も素っ気もない。

売り込みに優れた表現だけが生き残り、

そうした表現が蔓延するいまのネット広告に文化があるのか、

と問われれば、

そんなものがあるのかどうか、怪しい。

いまのネット広告は、感覚ではなくロジック。

遊びではなく、計算。

文学・アート的ではなく、説得が多勢を占める。

そして、余韻と余白。

ここが実はムカシの広告の面白いところなのだが、

これを無駄といわれるのが、

いまという時代の広告の姿なのだ。

的確に時代の匂いを嗅ぎ取り、

人の心を反映するのが広告である。

あなたも私のように、

いまの広告を世知辛いと感じたなら、

きっとこの時代は、

そのような世の中なのだろう。

ヒット商品の仕掛け

「太陽のマテ茶」が売れているという。

日本コカ・コーラの久々のヒットでしょうか?

まず、マテ茶は、無糖飲料で、ダイエット効果の他、
テレビや雑誌等で健康に良い、というイメージで流れ始めた。

これにはきっと仕掛け人がいる。私はそうにらんでいる。

で、マテ茶?
私は以前からこのお茶を知っていたが、知らない人も多かったに違いない。
(私は個人的にこのお茶を愛飲していた過去がある)

が、ずっと続く日本人の健康ブームに、久々の大物の登場ということで、
マスコミとテレビで火がついたと考えれば合点がゆく。

それが意図したものであるにせよ、
浸透に成功し、市場に認知された。

洋食化が進む日本。
いま人気の草食系だけでなく、やはり肉食系も健在なのだ。

ポジティブに健康になりたいのは、誰もが抱くもので、
コマーシャルも水着姿の健康な方たちに踊って頂く。

で、ネーミングだが、マテ茶だけでは面白くもなんともないので、
太陽の…がこの商品の肝になっている。

売れるネーミングの良い例。
太陽…付けるだけでイメージが広がる

それに付加するように、デザインは陽気なラテンのイメージで太陽を象った。

ここまでやると、不況だろうと「もの」は売れる。

イメージとタイミングの勝利だ。

生きるを、デザインする、ということ。

松尾芭蕉の奥の細道に、

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり

とある。

これを解釈すると、

松尾芭蕉は、自ら旅をしているにもかかわらず、

時の流れを旅人として詠っている。

これは、中国、唐の時代の詩人、李白の『春夜宴桃李園序』の

「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」を意識し、

自分なりにアレンジしたものとして伝えられる。

こうしたことばには、壮大な宇宙観が漂い、

その隅々に至るまで、計り知れないロマンが宿っている。

解釈は違うが、

人が生きていくことの感慨に触れ、

その過程を、旅と解釈することはよくある。

凡人の私には、こちらがしっくりくる。

これをマーケティング的に捉えると、

旅におけるバリューを考える、などとなる。

旅の価値を高めることこそ人生における最大のテーマだ、

と誰かにプレゼンすることもできる。

さて、人生を旅であると定義すると、

旅をするのなら素敵な旅を、と誰もが考える。

そして旅における「素敵」とはを追求すると、

これは高度な話となり、

尚且つ、人それぞれの価値の分だけ多岐に渡る。

そもそも実際の旅とは、

時とともに空間を移動することにある。

そこに感動やよろこびなど人の心が凝縮され、

旅は完成する。

辛い旅もある。が、そんな旅は誰もしたくない。

バリューは、欠かせないのだ。

それを人生に置き換えると、

夢であり、志であり、愛なのかも知れない。

このすべてが、生涯のバリューの素材である。

こう考えると、マーケ的に捉えた旅も、

自分をみつめる上で、試す価値はありそうだ。

またこれを、

旅をデザインする、

人生をデザインする、と言い換えると、

若い人は将来のプランを、

定年退職を迎える人は老後の有意義な過ごし方等を、

かなりビジュアル的に分析することもできる。

落書きでOK。

思いついたことをメモしたりスケッチすることは、

自分のなかに眠っているものを吐露するのに最適だ。

このように、商業的な用語の中にも、

人生考える元となるノウハウは潜んでいる。

「人生をデザインする」とは、

突き詰めれば、これからどう生きるか、

未来の「私」と真剣に向き合うきっかけにもなる。

光陰矢の如し。

芭蕉や李白に迫る必要はなくとも、

時の流れのなかにいる私たちは、

やはり旅人だ。

そこにバリューがあれば、と皆思う。

やはり、生きるデザイン力は必要だ。

才能ってなに?

柄に似合わず絵が好きで、

一時期、美術館巡りをしたことがある。

ピカソやルノワールなどの巨匠と呼ばれる画家、

日本の著名な画家、

そして現代作家でまだ名の知らない画家も含め、

とにかくじっと観てしまう。

そうした時間は、とても幸せな気持ちになれる。

よく、自分にも絵の才能があったらな、と思うことがある。

が、学生時代から絵は特別下手だった。

働くようになってからも幾度か描いたが、

人にみせられたものではない。

音楽も同様。

吹奏楽部に所属していたとき、トランペットを吹いていた。

毎日マウスピースを持ち歩いて、時間が空くと吹く。

あまりやり過ぎると、唇から血が出た。

当時はニニ・ロッソとかハーブ・アルパートという

スターのトランペッターがいて、

いつかあのようになりたいと思っていた。

が、同じ部内の先輩の透き通るような高音を聴いて、

どうしてもその音が出せない私は、かなり落胆した。

その先輩に将来は何になりたいのかと訪ねたところ、

サラリーマンと聞いて、余計に驚いてしまった。

結果、トランペッターは無理と判断。

徐々にやる気をなくし、退部してしまった。

写真の道も、経済的な理由で辞めてしまった。

当時、カメラマンになるには、とにかく高い学費が必要だった。

お金のない私の家では、諦めるしかなかった。

が、最近この頃のことを思い出す度に、

ホントに無理な道だったのかと考えることがある。

何故そう思うのか、だが、

まず私は精一杯努力したのか、

とことんやってみたのか、ということ。

そこが自分への疑わしさなのだ。

これはうぬぼれとかそうした次元の話ではなく、

誰にでも当てはまる共通項のような気がしている。

才能ということばがあるが、そもそも才能とはなんだろうと、

最近よく思う。

都合よく考える私は、人の才能なんていうものは、

あったとしてもたいしたものではないなと…

みんな、環境や好み以外に、

スタートは大差ない。

これが真実のような気がするのだ。

人並み外れた天才は確かにいるが、

こうした方たちは神に選ばれた人なので、

ある使命を携えているのだろう。

なので、今回の話には無関係だ。

私はいま、コピーライターという職業に就いているが、

別段、特別ななにかをもっている訳でもない。

前職は編集という仕事をしていたが、

ただ頑張るしかない。そうした世界だ。

他は、好きかどうか、それ以外、なにもないのだ。

学生時代にこうした世界にあこがれ、

まず作文教室に通ったとき、

私の作文を読んだその教室の先生は、

まず私にこう言った。

「君はなぜこの教室へ来たのか知らんが、

マスコミ関係をめざしているのなら考え直しなさい。

止めたほうがいい」と。

当時、いろいろな本を何冊も出版していた、

この超有名糞野郎先生のひとことで、

私は止めるどころか、産まれて初めて真剣に勉強をした。

こいつの言うことにアタマにきたからである。

お前なんかに、俺の将来が分かってたまるかと…

結果的に、この超有名糞野郎先生は私の先生となってしまった。

現在も一応プロとして、細々とこの仕事を続けているが、

少なくとも、このとき、そのことば通りに諦めなくて良かったと、

心底思っている。

他人のいうことなんか糞食らえなのである。

やるときはやる。

これしかない。

やろうと志せば、できるような気がする。

いま、ここまで生きてきて、やっとそう思うようになった。

こうした話は、すべて結果論となる。

いまは時代も違う。

が、人はみな、最初は大差ないことだけは確かだ。

偉大なる勘違い。

自分を信じる。

負けない心。

地道にやる。

こうしたプロセスを経て、みな伸びてゆく。

きっと、才能なんていうものは、

人のうわっ面を適当に表現した、

都合の良い言い訳でしかないのだ。

日々雑感コラム

話せるって、いいね!

最近、NTTが音声翻訳アプリを開発したらしい。

その名も「はなして翻訳」。

iPhoneとかiPad使用者でコレが欲しい人は、

ドコモのAndroidへ乗り換えですかね?

私も気になって調べましたが、

これはひょっとすると凄い。

中国語と英語と韓国語に対応。

これからも順次、他の言語も増える予定なので、

近い将来、とんでもないことが起きるのかも。

だって、おおざっぱに中国語を話す人って約10億人でしょ。

英語圏と韓国語圏で約4億人だから、

これは創世記に登場するバベルの塔の崩壊以来の

コミュニケーションの発明となる。

スマフォやタブレットを介しての会話って、

絵的に少し変ですが、

このスタイルが浸透すると、日常の風景になる。

ううん、なんだか話せば分かる、気がしてきた。

イマドキのフェィスブック

一日に何度かフェイスブックを開くが、

まあ、どん引きなのが、すげぇホテルに泊まりました、とか言って

部屋のドアップ掲載。私、稼いでいます! みたいな…

本人はさぞドヤ顔しているのでしょう。

この位、図太くKYじゃないと稼げない世の中なのかね?

次に多いのが、スタバで仕事頑張ってます系。

まあ、仕事なんかどこでしてもいいんだけど、

だいたいスタバ。格好いいらしい。

間違っても昭和の匂いのするルノアールではない。

ってどうよ?

アップされている写真はみな同じようなカットで、

スタバのカップとノートパソコンがワンセットと相成る。

だからどうしたの?

そこからなにを感じたら良いのか、分からない私です。

JT広告

デパートとかショッピングモールの喫煙室でお目にかかる

JT広告。

みな、ぷかりとやりながら、その広告を眺めている訳です。

で、上手いのはこんな感じ↓

●たばこを持つ手は、子供の顔の高さだった

 (うん、リアル。確かに気を付けなければと納得できる)

●煙の幅は、体の幅よりぜったい広い。

 (これも吸っている本人が気がつかない角度からのアプローチ)

●夏。たばことすれ違う腕は、裸だ。

 (上手いですね、なんだか80年代の名コピーのノリ)
  

と、ここまではGOOD!

が、酷いのになるとこんな感じ

●人ごみって言うけれど、何人からが人ごみなんだろう。

 (そんなこと、自分の感覚に聞け! たばこから遠いな)

●私に手を振る人がいた。煙を払う仕草だった。

 (一見分かるような気もするが、つくり過ぎの感)

●吸われて。燃えて。捨てられて。たばこじゃなければ泣いている。

 (こいつ、なんか勘違いしてないかな。の演歌コピーライター)

コピーの善し悪しって、かなり人の気分を左右させます。

自戒を込めて。

石川遼君の件

以前、大手スーパーの1Fの宝石店の前を通りかかったとき、

そこで綺麗なパワーストーンをみかけたので、

じっとそれを見ておりました。

(私はなぜかかこの手のものが

好きなんです)

そこへ体格の良い(?)女性店員さんがあらわれ、

いきなり磁気ネックレスをすすめる訳です。

そしてその磁気ネックレスのPOP広告に、

なんと石川遼君が写っているではありませんか。

彼は、磁気ネックレスをふたつ首に巻いて、

ニカッと笑っている。

そこにはもう、彼のハニカミは全くありません(古っ!)

「いや、それはちょっと興味がないので…」

と私が引き気味に言うと、

「売れてますよ、今日もふたりお求めになりましたよ」

「そうですか…」

「石川遼君を知らない人はいませんよね」

その太っちょの店員さんが、いきなりたたみ込んだ。

「ええ、そうですね」と私。

冬至も近いし、陽もとっぷりと暮れている。

私がぐだぐたしていると、次の瞬間この店員さんから

信じられない言葉が発せられた。

「石川遼君も付けているし、みんな買いますよ。

どうします?」

私は無言のまま駐車場へ向かいました。

とここまで書くと、

いきなり女芸人の渡辺直美さんの顔が

アタマに浮かんでしまいました。

私的に渡辺直美さんは綺麗だと思っています。

あの人の目は素敵です。

彼女は他の国では、確実に美人に分類されると思います。

そして「遼君、もう少しマシな広告に出ろよ」と

つぶやくのでありました。

己と巳

ダイエットなんて全くしていませんが、

少しはスリムになろうと運動しています。

健康のためにもですね。

しかし、カラダを動かすと腹が減ります。

で、よく喰う。

すると太る、の悪循環の繰り返しです。

全く、腹が立ちます。

そんな訳で、

先日も運動前に、

カマンベールチーズをちぎって喰ってしまいました。

で、痩せない今年もいよいよ終わるのに、

己はこの一年何を成したのか?

そこが辛いところですね。

さあ、来年はいよいよ巳年です。

が、勢い、間違っても己の年などと思わないよう、

気をつけたいところであります。

マックの立ち位置を考察する

マック(マクドナルド)の売り上げが落ちているらしい。

ここ、緊急避難として寄ることはあるが、

しょっちゅう喰いたいとは思わないですね。

だってあのバンズってジャンクの味がするでしょ。

歯ごたえなし。肉の塩味、濃すぎ。

以前、コーヒーをタダで配っていて、

それはそれでありがたいとは思ったが、

振り返るに、

マックのプライスほどコロコロ変わるものもない。

これでは不信感も生まれるし。

一方、いわゆる健康志向のモス・バーガーは

堅調に伸びているという。

健康志向といっても所詮はハンバーガーなのだが、

野菜がしっかり入っているので、

なにかこう納得できてしまう訳ね。

バンズもしっかりしているし。

で、マックの不振は上記の事柄に加え、

やはりコンビニの存在も大きいと思う訳。

この場合、コンビニのハンバーガーがどうのこうのではなく、

コンビニの圧倒的な品揃えが、

遠巻きにマックの収益を圧迫しているようにも思える。

コンビニは食品に限って考えても、

ハンバーガーが喰いたくないのなら、おにぎりがある。

肉まんもあんまんもあるよ。

おでんだってあるからね。

品揃え豊富、選択の楽しみもある。

よって、コンビニに飛び込めばなにかある、という心理。

ここはコンビニの強みと思う。

では、モスだって売り上げが落ちるでしょと

突っ込みが入りそうですが、

モスはモスの商品特異性があるので、

コンビニとは真っ向ぶつからない。

その点、

マックはコンビニと諸にバッティングしていますね。

まさに市場の力学。

こうした現象を傍観している分には面白いが、

彼らの立場に立つと、相当過酷でもある訳です。

では、マックは再び浮上するか? だが、

このデフレの下、堅調に売れているものもある。

100円マックとか100円コーヒーがそれ。

が、如何せん利益が薄い、利幅が出ない。

で、高級路線を幾度か打ち出し、テキサスバーガーとか

ジューシーチキンフィレオとかやった訳ですが、

店ってある固定したイメージがあって、

それをなかなか超えられない。

そこをなんとかしなくてはならないのですが…

で、仮に私がマックの統括責任者だったら(あり得ない)、

まずドリンクをいじると思う。

とりあえず健康ってところに特化し、野菜ですね!

野菜の種類、味、飲み心地、ブレンド等を徹底的に研究して、

オリジナルジュースを展開すると思います。

だって肉喰ったら野菜、

バランスの時代ですよ!

だから、メニューをいじるのなら、野菜がキーワード。

ドリンクの方がいじりやすいし、特長も出せるしね。

思えば、私の学生時代のごちそうはマックだった。

カレーじゃなく、天ぷら大盛りうどんじゃなく、

マクドナルドだったのだ!

特にチーズバーガーの後に喰うフィレオフィッシュは、

なんだかよく分からないが、かなり力んでいた記憶があるので、

きっとうまかったんだろうな…

という訳で、ここは是非ともマックに頑張って頂きたい!

思い込みのみでこの項を書いてみましたが、

原田さん(日本マクドナルド社長)、どうですかね?

旧型人間のデジタル戦略

仕事ネタをひとつ。

ワープロ時代から仕事をしているというと、

とても古い人間のように言われることがある。

精神年齢は若い人とあまり変わらない。

これは強がりではなく、彼らといろいろ話していてそう思う。

反って、いまの若い人の方が、しっかりした人が多い。

ただ、古い人間はだいたい腹の肉とシワが多い。

能書きを垂れ、疲れ易くなり、もの忘れが激しい。

これは致し方ない。

そして、切り替わらないのが「かな入力」なのだ。

かな入力派は、割と中年に多い。

ワープロ世代と重なる。

この世代のかな入力技は、ワープロの普及と共に叩き込まれた。

いまさらローマ字入力といわれても、

どうも考えていることと書くことが、乖離しているように感じる。

いや、乖離しているのは事実で、簡単なメールなどは

さっとローマ字入力で書いているが、その文中にちょっと

意味深とか気の利いたことを書こうとすると、

とたんに筆?が止まる。

というか、次に書くものがなにも出てこない。

これは我ながら不思議だと思い、或る友人にそのことを尋ねると

やはり同様の答えが返ってきた。

これは思考回路の問題なのだろうが、

私自身、ローマ字ではたいした思考ができないことを認識した。

英会話を覚えるとき、英語で考えなさいなどと言われるが、

私は、一旦自分のアタマで日本語に変換しているように思う。

だから、こちらも上達しないのだ。

で、かな入力だが、最近iPadもかな入力対応となった。

これは私たち旧世代には朗報で、AppストアでATOKを手に入れ、

アップルのBluetooth(ブルートゥース)のキーボードを使うと、

鬼に金棒となる。

(ATOKは日本語変換力に優れているし、iPadのディスプレイキーボードは、

結構疲れる)

外出の機会が多いと、当然、出先でメールチェックの他、なにかしらを

書くこともある。こんなときiPadは、かな入力技を手に入れたことで、

私には、以前にも増してその魅力が光るものとなった。

内輪の話をすると、こうだ。

まず、外出時にiPadとWi-Hiルーターは必携。

で、本格的になにかを書くことを想定すると、

誕生日プレゼントで子供たちから貰ったポメラを持とうか、

いや新しくミニノートでも買おうかと、

そんなことを半年も考えていた矢先のことだった。

(ポメラも、狙っていたミニノートも、

軽量・コンパクトでかな入力が可能なのだ)

思えば、iPadはディスプレイに触れれば、

拡大・縮小は自在。老眼鏡世代にも都合良くできているので、

ユーザー層の年齢はかなり高いのではないかと推測していた。

で、その世代は当然「かな派」が多いので、

そこに配慮したものと思うが、

この小さなバージョンアップが、

タブレット市場全体を眺めるにつけ、

ユーザーの取り込みにも、良い配慮になったようだ。

そんな訳で、私のカバンは今日も重くてパンパンだが、

後は、カード(お金)とガラケーのケータイがあれば、

当分帰ってこなくても、仕事はこなせる。

便利な時代になったと思う。

iPadには電子書籍も幾つか入れてはある。

音楽もバッチリ。ラジオアプリも入っている。

が、なぜか出掛けるときに藤沢周平なんかの文庫本が

カバンに一冊入っていないと落ち着かないのだ。

ついでに、

使いかけの黒ずんだ消しゴムなんかを入れておくと、

さらに落ち着く。

これはアナログへの郷愁とでも言おうか。

思うに、この平成という激動の時代は

大げさに言えば明治維新にも似て、

ものごとの価値の変換の激しいときのような気がする。

大きなうねりの潮目なのだ。

こんなとき、明治のサムライが靴を履いていたように、

刀ではなく鉄砲がスタンダードになったように、

原稿用紙ではなくとも、

IPadと藤沢周平の文庫本の併用は必須なのだ。

AKBというビジネス

「会いに行けるアイドル」なので、他のスターより敷居が低い。

まずここが、AKBのポイントなのだろう。

アイドルをつくるほうも、その方が簡単につくれる。

で、アキバだ。

アキバ辺りをうろついているオタクが飛びつきそうな女の子は、

かなり以前からテスト済みだったらしい。

(地道にライブをやっておりました)

というか、フツーの女の子か?

それがいまや、破竹の勢い。

オタクだけでなく、国民のアイドルにまでのぼり詰めた。

正直にいうが、私からみるとどうでもいい女の子の集団が、

テレビのなかを、学園祭のノリで飛んだり跳ねたりしているだけ。

それがいいらしいのだが(怒)

メディアは、なんのためらいもなく、

連日AKBえーけーびーを露出させて、連呼する。

これでは、誰でも巻き込まれるわな。

この点が、実は問題なのだが…

そういうもん?

そういうもん!

下世話なテレビの面目如実だ。

素人の時代をつくりあげた秋元康という人は、

過去にも「おにゃんこ」をヒットさせている。

で、AKB。

柳の下にどじょうは二匹いたのだ。

おおむね、プロデュースというのは、

その人の趣味趣向からはじまると思う。

秋元康という人は、元々オタク的視点をもっており、

そのメガネにかなう女の子を集めて、

カタチにしたかったのだろうと想像する。

実際、彼は元おにゃんこの一人を、奥さんにしている。

趣味と実益を兼ねた彼のビジネスは、

ではどのように肥大化したのか?

「会いに行けるアイドル」は、

地道にライブをこなさなくてならない。

でないと、会いに行けない。

ということで、当初より彼女たちの活動は、

相当活発だったという。

「握手会」を頻繁に開いていたのも、

うなずける話。

その下地はしっかりつくった上で、固定ファンを徐々に増やし、

アンダーな活動が少しづつヒノメをみるようになると、

ここからはもう、メディアに取り上げてもらえば、

ネタはなんでもいいのだ。

要は、AKB選挙にしろ卒業とかスキャンダルでも、

話題があることが大切なのだ。

他のスターと違い、AKBはつまらないことでは挫折しない。

なんたって、普通の女の子の物量作戦だ。

玉はいくらでもいる。

一人くらい消えたって、入れ替わったってなんともない。

というか、それが「ウリ」なのであり、

AKBは、常に進化することが大事なのだから…

着せ替え人形のような彼女たちは、

プライベートも本音も吐き出すことで、

またさらに新しいスター像を披露し、

そして浮かんだり消えたりする。

いわば、泡沫のような存在なのかも知れない。

また、人の好みはさまざまなので、

一人くらい好みの子がいるだろう?という仕掛け。

そういうもん?

そういうもん!

だいぶ前に、

インドネシアのAKBみたいのがテレビに映っていたので、

ほほぅと驚いた記憶がある。

まあ、名古屋や大阪や福岡のほか、このビジネスモデルは、

どんどん増殖しているので合点がいったが、

要は、フランチャイズなのだ!

コンビニだ。ファミレスなのかも知れない。

同じシステム・スタイルを広げて増殖し、社会現象になり、定着する。

そういう意味で、AKBはセブンイレブンでありローソンであり、

ファミマであり、マックでありスタバであり、

夢庵であり、ココスであり、オリジン弁当であり牛角なのだ!

本部(秋元康)は、新規顧客にノウハウを提供し、

その看板料をかすめとる。

いや、ロイヤリティか、失礼!

このビジネスモデルは、以前、海外でも報道された。

確かニューヨークタイムスだったと思うが、

そういう意味で、このビジネスはメイド・イン・ジャパン。

秋元康という人は偉大だ。

世の中は、勝てば官軍なのだ!

まずある違和感から始まり、それに慣れ、

いつのまにやらフツーになることってあります。

韓流もそうなのかも知れないし、

東京スカイツリーも同じ。

AKBは、まさにその王道です。

文化・風俗はいつの時代もまず違和感、

そして知らず知らずのうちにすっと入り込み、

馴染み、そして市民権を得る。

それが良いのか悪いのかは分からないが、

時代はいつも、

このように動いてゆくものなのかも知れない。