記憶の風景―1969

村上龍の「69」という小説を読んでいたら、

当時の自分は何をしていたのか気になった。

「69」とは1969年の意。

かなりムカシの話だ。

私はまだ幼い中学生だったが、

1969年という年はよく覚えている。

確か大きな事柄がふたつあった。

万博、そしてベトナム戦争である。

1969年。

翌年に大阪万博を控えた日本は高度経済成長真っ盛り。

誰もが「平和」を享受していた。

日本中のみんなが大阪万博を盛り上げていた、

そんな感じだった。

翌年、大阪万博が開催され、

学年の金持ちの同級生はみんな家族と大阪へとでかけた。

貧乏な友達に悔しがる奴もいたが、

だいたいこういうものは下らないと即断した僕は、

毎日水泳部の練習に明け暮れた。

しかし、家へ帰っても誰もいない。

我が家は共働きだったので、当然お袋もいない。

いつものように即席ラーメンをふた袋分まとめて鍋にぶっ込み、

それを平らげると、居間で独り汗だくで寝た。

テレビをつけると「長崎は今日も雨だった」と

「ブルー・ライト・ヨコハマ」ばかりが流れていた。

しかし、ウンザリした覚えがない。

幾ら見ても聴いても、退屈しない。

当時のテレビの魔力は相当なものであったと思う。

その頃

海の向こうのベトナムは戦争のさなかだったが、

日本にその危機感は薄かったように思う。

グローバル以前の時代の感覚のなかで、

戦争はまだ対岸の火事のように感じられた。

その5年後、ようやくベトナム戦争が終結する。

この戦いは旧ソ連とアメリカの代理戦争であり、

ベトナムという国が割を喰ってしまう。

ベトナムは焦土と化した。

この戦争は結局、

ベトナムにとって約15年という大切な時間と、

多くの命を無残に葬っただけの、

大国のエゴの犠牲でしかなかった。

世界中で反戦運動が一気に広がったのも、

このベトナム戦争がきっかけだった。

平和な日本も例外ではなかった。

ベトナム戦争が始まった頃といえば、

私はまだ小学生だった。

授業では、この戦争の話を幾度となく教えられたが、

担任がバカで、幼ごころに下らないと、

その腹立たしさを抑えるために、

そっぽを向いて窓の外を眺めていた覚えがある。

要するにバカ担任はどっちが勝つとか負けるとか、

そんな話ばかりをしていた。

戦争の本質を何も語らない、

そこが腹立たしかったのだ。

ビートルズが「カム・トゥゲザー」をヒットさせたのが、1969年。

同じ年、ローリング・ストーンズが

「ホンキー・トンク・ウィメン」をリリース。

横浜にもフーテンと呼ばれる若い奴等がウロウロしていた。

皆ラリっているので恐かった覚えがある。

お姉さん方は皆、ミニスカートかパンタロンという出で立ちで、

街を颯爽と歩いていた。

VANに代表されるアイビールックが流行ったのも、この頃だ。

映画「イージー・ライダー」は、

病めるアメリカの一端を映し出していた。

僕の大好きだったロックグループ、C・C・Rは、

「雨を見たかい」でベトナム戦争の悲惨さを告発したと、

私は解釈している。

村上龍は「69」のなかで、

佐世保という地方都市の高校生ながら、

学校でバリケードを築いた首謀者であったことを告白している。

すでに時代の風をいち早く感じていたのだと思う。

まあ、較べるべくも無いことだが、

その頃の僕は、

横浜のどこにでもいる平凡な中学生で、

毎日が平和だと信じ、

いや何も知らぬまま、何も感じることなく、

毎日毎日泳いでいるだけだった。

しかし、1969年という年は、

何故かよく覚えているのだ。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

創造と追憶のホテル

南洋の幻覚

まだ成田からの直行便がない1970年代の後半。

パラオ・コンチネンタル・ホテルは遠かった。

羽をばたつかせた727が、

グアム、ヤップ、トラック、ポナペの各島を経由、

空の各駅停車で辿り着いたパラオの空港はバラック建てで、

屋根がヤシの葉の平屋。

ここが税関兼ロビーということで、かなり面食らった。

滑走路は珊瑚と貝を砕いたものを敷き詰め、

白くゴツゴツとしていたから、かなり不安だった。

さて、現地のガイドさんが運転する日本製のポンコツで辿り着いた、

イワヤマ湾の絶景を見下ろす丘に建つ同ホテルは、

一応、五つ星ホテルで、すこぶる快適。

フロントとレストランのある大きなメイン棟の他は、

すべて斜面に立ち並ぶコテージで構成され、

インテリアはすべて手作りの籐製。

やたらにデカいベッドとその上を回るシーリングが目を惹いた。

朝のコテージからの眺めは、私としては楽園の感があり、

一度だけワニがひと筋の波を引いて泳ぐのが見えた。

当時、この辺りにくる日本人観光客は希少で、

太平洋戦争で戦死された方たちの遺骨を探すため、

遺骨収集団の方々がここからペレリュー島をめざし、

セスナ機が頭上を飛んで行くのを幾つも確認した。

浅瀬に沈むゼロ戦。

その波間から伸びる竹の棒に、

おびただしい千羽鶴が、南の風に揺れる。

コテージの一室で存分にくつろぐも、

あの鮮やかな折り紙の鶴がアタマを離れない。

そこには空間、そして時代も定まらないような、

酔ったような時が流れていた。

ヨコハマの追想

ホテルニューグランドを右手に、山下公園を左手に、

初夏の気持ちのいい並木道をゆったりと走り抜けると、

正面のみなとの見える丘公園の山裾に張り付くように、

そのホテルはあった。

―バンドホテル―

かなり古めかしいホテル。

なのになんだか敷居が高い。

当時、大学生だった僕は、この通りを好んで使っていた。

その度、このホテルには自分と全く異なる、

いや、凄い金持ちだとか芸能人とか、

そんな人達しか入れないんだと勝手に思っていた。

ある先輩から聞いた話では、

このホテルの中にシェルルームというクラブがあって、

夜ごと有名なミュージシャンが来て派手なパーティーをやっている、

らしい…

そんな先入観があってか、僕は余計に怖じ気づいた覚えがある。

結局、このホテルは90年代の終わりに取り壊され、

現在はMEGAドンキ・ホーテ山下公園店となってる。

(ウンザリ)

最近になって、このホテルが気になり、ちょっと調べてみた。

と、やはり一筋縄ではいかないホテルだったことが判明した。

1.戦争中は、ドイツ軍専用ホテルだった

2.五木ひろしの「よこはま・たそがれ」は、

 このバンドホテルが舞台だった

3.シェルルームには、ブレンダ・リー、プラターズなど、

 世界の名だたるミュージシャンが出演していた

4.いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」のブルーは

 シェルルームのネオンサインからヒントを得たと言う

5.バンドホテルが日活映画「霧笛が俺を呼んでいる」のロケ地だった

6.後年は若手のアーティストの場として、ゴダイゴ、桑田佳祐、

 尾崎豊などが出演していた

ああ、若気の至り、

はたまた勢いだけで行かなくて良かった、

とつくづく胸をなで下ろした。

この頃、バンドホテルとホテルニューグランドの間の

ちょっと引っ込んだ角に、イタリアンレストラン

「ローマステーション」があって、

当時としてはイタリアン・レストランはめずらしく、

結局、バンドホテルより少し敷居が低いこのレストランで、

僕と彼女は飛び切りのピザをいただいた。

文学の妄想

いるかホテルは正式にはドルフィンホテルと言うらしい。

北海道の札幌にある、という設定。

架空のホテルにしては、行ってみようかなと思わせる辺りが、

村上春樹の凄いところだと思う。

小説「ダンス・ダンス・ダンス」は、

このホテルに滞在してしていた「僕」が、

いるかホテルの夢を見るところから始まる。

×××以下「ダンス・ダンス・ダンス」より転載×××

よくいるかホテルの夢を見る。

夢の中で僕はそこに含まれている。

つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに

含まれている。

夢は明らかにそういう継続性を提示している。

夢の中でいるかホテルの形は歪められている。

とても細長いのだ。あまりに細長いので、

それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいに

みえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。

そして僕はそこに含まれている。

そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。

ホテルそのものが僕を含んでいる。僕はその鼓動や温もりを

はっきりと感じることができる。

僕は、夢の中では、そのホテルの一部である。

そういう夢だ。

×××以上「ダンス・ダンス・ダンス」より転載×××

いるかホテルがどういうホテルなのか?

最初は表現が観念的に過ぎて、私には全く分からない。

しかし頑張って読み進むと、

かなり具体的にこのホテルの様子が見えてくる。

そして更に読み進むと、

そこにこのホテルの数年後の変貌ぶりが描かれている。

その辺りから作者の意図するところがほんのり理解できてくるのだが、

まだまだ上巻の序の口である。

「ダンス・ダンス・ダンス」は上下刊の大作であるからして、

私も現在進行形にて読書中。

いるかホテルを解明している真っ最中なのである。

村上龍の「ラッフルズ・ホテル」よりは確実に面白そう。

そんな予感がする。

砂漠のかげろう

さて音楽は、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」。

この作品は謎な歌詞が幾つも出てくるので、

そこに多彩な解釈が加わることで、更に魅力が増すこととなる。

ホテルカリフォルニアは、砂漠の中に忽然と現れるホテル。

その正体は、実は刑務所か、精神病院か?

はたまた麻薬の園か?

物質文明への皮肉、

強いてはロック産業への警鐘とも解釈が加わることで、

更に謎は深まる面白い作品。

ギターのアルペジオワークは、かなり聴き応えがある。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

45年目の夏

この夏の高校野球はなかなか面白かった。

本来、野球というものにあまり興味がないので、

地元神奈川の代表校が東海大相模高校で、

甲子園に出場していることさえ、夕方のニュースで知った次第だ。

興味本位で、第2試合あたりから幾つかのゲームをテレビで眺めた。

プロ野球とはまた違うドラマがそこに繰り広げられているなぁ、と思った。

やはりというべきか、高校野球は面白い。

だって、選手一人ひとりが、一生に一度の舞台だものな。

45年前の夏、私は甲子園でトランペットを吹いていた。

この年の夏、母校の東海大相模高校が神奈川県地区大会で優勝し、

甲子園行きが急きょ決まると、

私たち吹奏楽部内もにわかに慌ただしくなった。

吹奏楽部のこの夏の最大の目標は、

秋の神奈川県コンクールで優勝することだった。

私も、課題曲と自由曲の楽譜と格闘しながら毎日練習を繰り返していた。

しかし、唇から血が出るほど練習していたにもかかわらず、

すべてが一端中止となる。

部活のメンバーは急きょ、高速バスで甲子園入りとなった。

そして連日の炎天下のなか、

私たちは甲子園名物のかち割りをかじりながら、

猛烈に演奏した。

かの有名な甲子園での応援演奏であるコンバットマーチは、

私たちが最初に演奏した、らしい。

真偽のほどは定かではないが、

私はそのように先輩から聞いた。

しかし、甲子園に来て一週間ほど経った頃、

心底、家に帰りたいと思った。

まず、家のベッドでゆっくり寝たかった。

そして海かプールで、思いっきりはしゃぎたかった。

気にかかっていたのは、コンクール曲の練習不足だ。

連日粗い吹き方もしていたので、唇がバカになっている。

応援を離れ、基礎からじっくり練習し直さなければ、

という不安もアタマを駆け巡っていた。

帰りたかった理由はまだある。

好きな子に遭いたかったからだ。

甲子園近くの赤電話から一度だけ電話をしたことがある。

10円玉を相当用意したにもかかわらず、

たいした話もしていないのに、

10円玉がジャジャラとなくなってゆく。

「いま甲子園に来ているんだ」

「エッ、ホントに?」

そんなことしか話せなかった。

我が校の野球部は私の意に反し、次々に勝ち進む。

そして遂に、決勝まできてしまった。

こうなったら、もうヤケクソである。

我が校に勝ってもらうしかないと、遅まきながら本気でそう思った。

決勝の相手はPL学園。

噂通りの強豪校だった。

このときの東海大相模のエースは上原投手。

キャプテンは確か津末という選手だった。

客観的にみて、負けると思っていた。

しかし、甲子園ってやはり魔物が棲んでいるとはよく言ったものだ。

運は、東海大相模に向いていた。

結局、私たちは10日以上を甲子園で過ごし、

その夏は燃え尽きてしまっていた。

そして、吹奏楽部の最大の目標であった秋の神奈川県コンクールは、

結局3位だか銅賞だったか、そんな感じで終わった。

いま思えば快挙と思うが、優勝を狙っていた先輩達の悔しい顔が、

いまも思い浮かぶ。

訳あって、私は一年でこの吹奏楽部を退部した。

あれから母校へ顔を出したのは、若い頃にたった一度だけ。

卒業証明書を取りに行っただけである。

大学の付属校にいながら、そこへは進まず、

結果、大学も別のところを選んだ。

あの夏から45年経った今年の夏。

私は母校の校歌を久しぶりに聴いた。

果てしも知らぬ平原に
   
相模の流れせせらぎて
  
天に星座の冴ゆるとこ
   
これ我が母校我が母校

天に星座の冴ゆるとこ、

という表現がとてもロマンチックだなと、

初めて気づいた。

記憶の底に眠っていたものが突然目を覚まし、

アタマの中を忙しく駆け巡る。

意図せず、目頭が熱くなった。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

自由が丘のオッサン

自由が丘へは所用で時たま行くので、

その度、コーヒーを飲む店も決まっていて、

窓際から行き交う人たちを眺めるにつけ、

やはり自由が丘は格好良い老若男女が多いなぁと、

都度、感心する。

東横線でも近隣の繁華街である武蔵小杉とは、

だいぶ人のようすが違う。

武蔵小杉には私の幼なじみが暮らしているが、

彼にしても、極めてフツーのオッサン。

お洒落度も並である。

オバサンもみな庶民的。

武蔵小杉はムカシからそういう街である。

一方、自由が丘のオッサンである。

彼らは、何故かお洒落度がグンと高い。

もちろんキッタナイのもいるが、

逆に格好良いオッサンも際立って多いのが興味深い。

なぜか、

横浜・元町のフクゾーのシャツでキメているオッサン、

リネン素材の鎌倉シャツにトートバッグ、

白のデッキシューズで闊歩しているオッサンなどなど、

この街には格好良いオッサンがゴロゴロいる。

まあ、ユニクロ、イオン、ヨーカ堂シャツ仕様もいるだろうが、

自由が丘のオッサンは総じて、

着こなしが上手いのが特長だ。

私の目を惹いた極めつけのオッサンは、

大型犬を連れ、遊歩道を悠々と歩いていた。

なんというか、

あの独特の赤い発色のポロは、イタリア製と踏みました。

そしてたっぷりした太い自然素材のスラックスは、

パパスであろう。

パパスブランドは、やたら値が高いんで、

私なんぞは店の前を素通りするのみと決めている。

なのに、そのオッサンは

そんな服で遊歩道の何処にでも腰掛け、

犬の機嫌にのみ集中。

汚れたって関係ねぇようすなのである。

その大型犬がなんという種類なのか、

私は初めて見た犬なので全く分からない。

レトリバーであるとかハウンド種であるとか、

そうしたワンコは私にも分かるが、

スラッと伸びた足に程よい小顔。

ウーン、利口そうだ。

うむ、いかにも高そー、

希少ですよ的大型犬であった。

そしてこのオッサンだが、

犬を連れているからには、

ご近所からやってきました、

歩いてきましたよと誰の目にも明らかなように、

適当に人混みを悠々と闊歩したのち、

奥沢方面へとゆったりと去って行ったのであった。

こうした感じのオッサンは早朝の山下公園とか

みなとみらい地区にも現れるが、

なんというか、

自由が丘のオッサンと較べると極めて自然、

ナチュラル、フツーに感じるのである。

何故か自由が丘のオッサンの場合は、

異彩を放っていたなぁ。

この違いが何であるのか、

未だ私には解明できていない。

街が醸し出す個性、犬とオッサンの相乗キャラ、

こんなことをいろいろ考えるのだが、

いまだ結論には至っていないのが悔しい。

分かることといえば、

この自由が丘のオッサンの場合、

金も暇もありますよ、と

暗黙のうちにアピールしているということである。

このオッサンを思うにつけ、

自由が丘の特異性が浮かび上がる。

と同時に、

世の中の生活の格差というものも、

街中においても歴然と露出している訳で、

自由が丘という街は、そうしたサンプルとして、

結構面白い。

まあ、ひがみ根性も混じった私見に満ちた話ではあるが、

こうしたサンプルは、

日本中、いや世界中の至る所にゴロゴロしている。

救われるのは、こうした方々が成功者であるかどうか、

それは分からないが、

そんなことはどうでもいいのであって、

幸せかどうかは、

いずれ知らぬことであるということ。

なんたって、幸せの尺度っていうのは、

外見では分からないどころか、

本人の主観でしか計れないのだから、

やはり世の中は不思議に満ちているのだ!

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

テネシーワルツ

最近、テネシーワルツをよく聴きます。

なんというか、じんとくる。

私の幼い頃、

江利チエミさんがよく歌っていたのを記憶していますが、

あの頃はなんとも思わなかった。

ただ、のんびりした曲だなぁと。

柳ジョージさんが亡くなられ、

彼のテネシーワルツを聴いたのがきっかけですが、

パティ・ペイジが歌うのを聴いて、

更に感動。

その意味が知りたくなりました。

テネシーワルツの歌詞を、ざっと書いてみます。

私の愛する彼と、テネシーワルツを踊っていたのよ。

そこで古い友人とバッタリと会い、彼にその友人を紹介した。

彼がその友人と踊ることになり、

そして友人は彼を、私から奪っていったの。

あの夜の出来事とテネシーワルツの調べを、

私はいまでも決して忘れない。

私の失ったものが如何に大きかったか、

いまになって、痛みと共に心に沁みるわ。

そうなの、私はあの夜、とても大切な彼を失った。

二人が、

テネシーワルツの素敵なメロディーに合わせて踊っていた、

あの夜にね。

歌詞を知るに至り、

結構ヘビーな内容なんだなと…

が、よくよく思うに、そんな男って

同性からみても怪しいと言わざるを得ない訳で、

「彼」を想い続ける主人公の純情さに、

更に悲しみが増す、という具合。

この曲の良さって、

メロディーの美しさに加え、

やはり歌詞の意味を知るほどに、

改めて更に深く好きになります。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

断酒とチョコレート

アルコール類をやめて、なんだかんだ10年以上になる。

最近は、なめる程度だが、

再びアルコールに興味をもつようになった。

不思議なのは、舌が酒の味を覚えているということ。

顕著なのは日本酒で、ひとくちで「あぁ、この味ね」と、

飲んでいた頃のことまで思い出せる。

アルコールをやめた訳は面倒なので割愛するが、

アル中になったとか飲酒運転で捕まったとか、

そんな物騒な理由ではない。

以来、飲み屋へでかけることも激減し、

ヤバイ場所へも行かなくなった。

付き合い程度だけとなったが、

そうした席でも、ノンアルコールの飲み物しか飲めなくなってしまった。

相手に飲めない、というとまず返ってくる言葉が

「ウソだろ!」だ。

が、本当に飲めない、飲みたくないのだから、

仕方がない。

酒は飲んでいないとメッキリ弱くなるものらしい。

一時は蔵元まで酒を買いに行ったりしていたのだから、

いま思えば不思議だ。

で、アルコールをやめると、

なぜか甘いものに手を出すようになる。

若い頃から甘いものは一切口にしなかった質なのだが、

アイスクリーム、チョコレート、ケーキなど、

節操なく食すようになった。

甘いものは、よく健康を害すと言われている。

そしてよく太る。

これは間違いない。

いまだチョコレートが切らせない私は、

太るだけでなく、

いい年をして、虫歯の治療に通うようになった。

結果、現在の私は、

チョコにやたら詳しい人間である。

当初は森永とか明治、ロッテの安いものばかり摂取していたが、

あるときから、これらのチョコはカカオの含有量が少ないことが、

カラダで分かるようになった。

同時に香料とか混ぜ物が気になってきた。

こうなると、高級品に手を出すようになる。

先のメーカーの上級品、ロイズ、ハワイ産、

スイスのチョコレート、

果てはベルギーのものまで取り寄せ、

いろいろ食い散らかしてみた。

結局、現在では味も価格的にもほどほどのものだが、

そろそろやめようと思っている。

酒代は浮いたが、チョコの代償は高く付く。

歯医者の治療費、

そして、痩せなきゃという強迫観念。

が、おいしいので、やめられない止まらない!

脳が疲れると、どうしても甘いものを欲す。

冷蔵庫を開け、摂取してしまうのだ。

血糖値も急に上がるので、健康上も良くない。

ターミネーターは強くそして再び蘇るが、

私は現在、チョコレーターである。

チョコレーターは、不健康に太るだけである。

蘇りはしないし。

そこで全然甘くないチョコに挑戦したが、

これがまずいんだなぁ。

ほとほと参った。

いま、再びアルコールに戻ろうか、

真剣に検討している最中である。

チョコレーターを続ける代償が、

余りに重いんでね。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

飯リテラシーを上げろ!

いきなりリテラシーなんていうと、

IT系とか情報に関するアレコレを思い浮かべるが、

ちょっと趣が違う。

飯である。

リテラシーという語は、

最近になって頻繁に使われてる。

元々は識字とかそんな意味だったようだが、

ジャパニーズイングリッシュにより、

「何らかの表現されたものを適切に理解・解釈・分析・記述し、改めて表現する」

という意味に使われている言葉である。(ウィキペディアより)

で、飯をつくるというテクニックも、

リテラシーという括りで捉えてみた。

この飯をなんとかするリテラシーが、

かなり低い私に、

先日、奥さんがこんなことを言った。

「私に何かあったら、

あなた食べるもの、何かつくれる?」

「ううん、駄目かな…」

「でしょ!、

少しつくる習慣をつけた方がいいわよ」

納得!

思えば、最近の自分は何もつくれない。

ウチの息子は、スパゲッティーくらい茹でている。

いや、中華鍋を振っている、という噂もある。

私はというと、即席ラーメンはつくれるが、

スパゲティの茹で方はおぼつかない。

茹で時間とか量がよく分からないのだ。

こんな私でも、

料理人をめざしていた時期があった。

小さな店の厨房に入り、

材料の買い出しから仕込み、

簡単な調理などもこなし、

店を仕切っていた時期もあったのだ。

思い出したが、

あの頃は魚も三枚に卸せたし、

イカもキレイにこわせたのだが…

そういえば、

私は調理師の免許を持っていたのた。

あれから、ん十年、
(きみまろ風に)

私の飯リテラシーは極度に衰えていた。

つい数年前まではやたらに早起きだったので、

せっせと凝った味噌汁ばかりつくっていた時期もあったが、

現在はなんというか、

起きてダランとしているだけ。

キャンプなどへ行っても、

私のアウトドア仲間は調理意欲が極度に低いので、

行きがけのコンビニで、

おにぎりやフライドチキンなどを買い込んで済ましてしまう。

しかし、焚き火とか火起こしリテラシーは高いのだがね。

思えば、料理はクリエィティブな作業である。

冷蔵庫をおもむろに開け、

すばやく目配りをして素材をチェックし、

瞬時にメニューを考える、という早業が要求されるのだ。

私はそもそも冷蔵庫とかに興味がないので、

あまり開けない。

用があって開けることはあるが、

何が入っていたのか、ほぼ覚えていない。

冷凍庫に至っては、

冷気の中に固まっているものに、

そもそも興味も出ない。

よってどこに何があるのか、

まずそのことがよく分からないのだ。

アタマに叩き込んであるのは、

床下収納庫に即席ラーメンとカップラーメンがあるということ。

あとは、ストッカーにレトルトカレーが時たまある。

必要時のみこれらを眺める訳。

しかし、いまどきの男たるもの、

これではイケナイ。

己に強い反省を促してる次第。

できれば、タケノコの酢味噌和えとか、

海の幸の三杯酢のひたしとか、

パルマ産ハムと本場フランスから取り寄せたトリュフをあしらったサラダとか、

手づくりの地中海ヨーグルトをまぶした国産第5等級の仔牛ステーキ、

こんな料理づくりをめざしたい。

切磋琢磨、精進しよう。

そのため、

まずは白米を炊くことからと思いついたが、

炊飯器の使い方さえ分からない己に、

改めて気づいた次第。

我ながら唖然とするね。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

人生という名の契約

フリーとか自営業者、

中小の会社経営者というのは、

長患いをしてはいけない。

なぜなら、早々に喰っていけなくなるからである。

資産を蓄えている、

多額の保険に入っている人は別であるが…

永年、病欠をしたことがないのが自慢であった。

それが2年前に患い、あえなくダウン。

経済的には、なんとか乗り切ったが、

短期間ではあるが、

生活をしていく上での不具合を少々体験した。

特に車椅子に乗って分かったのは、

この国は道路や建物は弱者にはやさしくはない、

ということ。

なにより健康なのが一番だが、

個人的な感想としては複雑で、

多様な人の位置を知る上で、

学ばせてもらったというほうが正しい。

更に本音を言えば、傲慢だった己の反省だ。

そして、その件から遡ること数年、

身内や友人を送り出した頃から、

改めて死という、

その不可思議を深く考えるに至った。

幾ら想いを巡らしても、

この得体の知れないぼんやりとしたものへの不安は、

そもそも幼い頃から取り憑いていた。

最も、20代は仕事や恋愛にもがいていたので、

生きてゆく辛さが身に堪える時期ではあった。

ここで一端、死への不安から解放されるが、

換わりに、生きてゆく或る違和感、

というものを知ることとなる。

それは感覚というか、

価値観のようでもあり、

突き詰めるほどに未だに分からないのだが、

人とズレているという実感。

群衆のなかの孤独、

たった独りという意識の芽生え、

こういうものに気づいたのも、この頃だ。

やがて世間並みに家族というものができ、

孤独感から解放されたのは良いが、

子供が育ってゆく様をみて、

なにがしかの重圧が、

どっと躰を覆っていたのも事実だ。

それは単純に金があれば解決するというものでもなく、

しかし金がなければおぼつかないのは確かで、

馬車馬のように働くのだが、

むなしさなどというものを感じているほど、

暇ではなかった。

そして、

人生も後半にさしかかる頃に、

ひと息ついていたら患った。

いや、自ら求めて患った、

という表現が正しいのかも知れないと、

最近になって思うようになった。

それは、死への不安が、

再び頭をもたげたからに違いない。

かように、生きるとは疲れる。

気がつくと、

行く先には「死」がぱっくりと口を広げ、

にやにやと舌舐めづりしているではないか。

ああ、また死という不可思議である。

やはり、幾ら想いを巡らしても、

この得体の知れないぼんやりとしたものへの不安は、

全く拭えないことを理解する。

そこで、

或る日、私は意図的に

夢をみることにした。

その夢は、

私がこの世に飛び出すとき、

或る契約書を差し出され、

それに夢中でサインをした、という代物。

そのとき、契約書を差し出したのがまた、

摩訶不思議な相手であった。

あの閻魔大王によく似ていたのだから…

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

半日で会社をクビになる。

前項に続き、会社を辞めたシリーズ。

いや、今度は辞めさせられたケース、なんですがね。

若い頃はなかなか職場が安定せず、

ふらふらしていた時期がありまして、

短期間に数社を渡り歩きました。

まあ、今回の会社の話も応募者多数だったのですが、

一応、試験をくぐり抜けて入社できたのですが。

出社初日に合格証みたいな紙切れをいただきまして、

ありがとうございますと、まずはおめでたい朝でした。

で、この会社は一般広告だけでなく、

就職関係の雑誌の巻頭カラーページを請け負っていたりと、

煩雑な会社でして、

その雑誌の巻頭には著名な会社がズラリと並んでおり、

我が社はこんなにすげぇ会社なんです、

あなたの夢が叶いますよ、

福利厚生に手厚いんです、

などと美辞麗句が面々と綴られる訳なんですが、

どうもハッキリいってウソ臭いんですね。

そのなかで内情を知っている会社も幾つかありまして、

これから私は毎日毎日ウソコピーを書くハズでした。

ちょっと嫌ですが、

私にはズシンとくる生活というものがありまして、

キレイ事はいってられない事情があった訳で。

東京のマンションの家賃は高いです。

子供が産まれそう~

いろいろな悩みを抱えていまして、

なにはともあれ頑張ろうと意気込んでいた私なのですが、

直属の部長というお方がお得意様のところへ出かける前に、

私にひとつ、その就職関係の雑誌の巻頭コピーを書いておいてくれと、

用を頼んで出かけたのですが…

で、ここからが苦痛となりました。

資料を片手に良いものを書こうと頑張るのですが、

初めて担当した会社がですね、

たまたま良くない噂をかねてから聞いておりまして、

それがどうも上手く払拭できない。

格好良く書こうと思えば思うほど、

冷や汗が噴き出すんですね。

もう格闘です。

確か、部長は昼前に帰ってくるので、

すぐ原稿をチェックするぞと、確かに言い残して出かけました。

こうなると強烈なプレッシャーに弾みがつき、

いよいよ書けない。

しかし、そこはプロとしてですね、

時間ギリギリにとにかく体裁を整え、

キッチリ仕上げたのであります。

が、読み返してみると、

まるで自分のことばになっていない。

結果、空々しい単語の羅列となってしまい、

どうも自分が書いたものとは思えない、

白々しい作文ができあがった次第です。

予定どおり、

サッサと帰ってきた部長が私の原稿に目を通すと、

不機嫌な顔をしたまま、

いきなり部屋を出てどこかへ行ってしまいました。

そして、昼休みに社長室に呼ばれた私は、

問答無用に「辞めてくれないか」と促され、

怒る気もなく、なんだかほホッとして、

その目黒駅近くのキッタナイビルを後にしました。

クビではありますが、

その開放感というのが嬉しくて嬉しくて、

権之助坂商店街で旨いラーメンを食したのを、

いまも鮮明に覚えているのです。

まあ、

あまり自分に無理をかける仕事はイケマセンよ、

ということでしょうか?

この出来事は、後の良い教訓となったのでありますが、

いま思い返しても自虐的に笑えます。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村

半日で会社を辞める。

4月になると、新社会人とおぼしき、

初々しい姿を街で見かけるにつけ、

どうしても思い出してしまうことがあります。

或る会社にやっとこさ、入社できたときのこと。

私の場合は中途入社、転職、

それもムカシの話ですがね。

が、気持ちだけは初々しかったと記憶しています。

西麻布のとある広告会社でした。

で、初出社した朝にマイ机をいただき、

なんでかじっとしている訳です。

やることがあるようなないような、

私も廻りもちょっとした緊張感がありましたね。

しょうがないので、

社内の先輩方の仕事ぶりとか、

壁に貼ってある制作済みのポスターなんかを眺め、

まあ、ヒマでそろそろうんざりしてきまして、

午前11時を過ぎたあたりから、

なんだかクソ面白くもねぇーと

内なる私が呟く訳です。

コピーライターとかデザイナーとかディレクターとか、

そうだ、この会社では或る業界の月刊誌も出していまして、

編集の人間も混じってウロウロしている。

要するにみんな忙しいんですね。

で、「私」という即戦力?を使えば良いのに、

そういうことを考える余裕さえないような、

つまらない職場のように思えましてね。

とにかく各自が仕事に没頭しているのか知らんが、

対照的に私は超ヒマでして、

ざっとこれから毎日ここで働いている自分というものに

想いを巡らすのですが、

どうも笑顔のオレさまがいなのであります。

昼になって、朝一で紹介されたなんとかという先輩上司が、

笑顔で私に近づいてきて「メシ、行こう!」っていうのですね。

「ハイ!」

とりあえず良い返事。

(腹減った~)

都会の雑踏のざわついた部屋の片隅で、

寡黙な私は、数時間ぶりに声を発したのです。

その瞬間、天から声が降りて参りまして、

「辞めちまえよ」ってささやくんですね。

ホントは天ではなく、

私の直感のような内なる声なのでありますが、

まあ、そんなことはどうでもいい。

先輩と私と数人が連れ立って、

夜は酒を出しているとおぼしきスナックのような店で焼き肉定食を喰いまして、

帰りに用があると言い残し、

みんなと別れてそのまま日比谷線に乗り、

恵比寿で山の手に乗り換え、

目黒で目蒲線(現在は目黒線)に乗って、

外をぼぉーっと眺めておりました。

その頃、妻がつわりで大岡山の病院に入院していまして、

真っ直ぐ行こうかなとも思いましたが、

心配させるのもなんなので、

大井町線で自由が丘へ出まして、

くたびれた映画館で「パンツの穴」という映画を眺めていたのですが、

さすがにこれはまずいなと思い、

さきほどの西麻布の会社へ電話を入れ、

正式に辞めさせていただきますと…

で、そのまま妻の病院へ行きまして、

「パンツの穴」の話をざっと致しまして、

ついでに会社辞めましたと正直に話しまして、

ゲラゲラ笑っていたのを覚えています。

こうした勝手な決断の反動は、

後々の我が家の経済に大きく響くことになるのですが、

思うにいま同じ境遇にあっても、

私はやはり同様の判断をするのだろうと…

「三つ子の魂百まで」

諺ってホント、

真実を語るなぁ。

にほんブログ村 ポエムブログ ことばへ
にほんブログ村