桜の頃

満開の桜が、風に散る。

この頃になると

私は、新しい教室と、

初めての職場の頃を思い出す。

転校してきて、私が見知らぬ仲間の前で

紹介される。

そして、緊張したのも束の間、

授業中の居眠りの癖が出るのもこの頃だった。

思い出したかのように、遅刻も始まる。

何処へ行っても怠惰な習性が抜けなかった私も

さすがに社会人になってからは遅刻が減った。

が、居眠りは続いていた。

これはどうしようもない。

病気だなと思った。

が、会社を辞め、独立してからは

遅刻も、仕事中の居眠りもなくなった。

調子がいいというか、現金な人間だ。

人は、自覚が生まれると頑張るものらしい。

お客様との待ち合わせも

約束の場所へは、遅くとも10分前には行く。

仕事中の居眠りは皆無。

我ながら、当たり前のマナーを身につけた。

自らを振り返って思うに、

自身の自覚がないと、人は流されるものらしい。

目的もなく彷徨っていると、やる気など出る訳もない。

その昔、飛行機で隣あわせたインドの青年と

どちらともなく話すことになり

お互い片言の英語でやりとりする羽目になった。

彼は、これからアメリカに渡って働きながら勉強をし、

絶対にアメリカン・ドリームを掴む、と私に話した。

そういう大きな事を考えもしなかった当時の私は、

軽い衝撃を受けた。

いま思い返しても、彼の鋭い目が印象に残る。

先日、花見の帰りに中国人が経営している店で

夕飯を食べた。

この店には、

中国のモンゴル自治区から来ている女性の従業員がいて、

行く度に、愛想を振りまいてくれる。

店のリーダーとして、彼女の他の従業員への指示も的確だ。

決して安くはないメニューだが、味は良い。

いつも繁盛している。

店が暇なときに、彼女と一度話しをしたことがある。

彼女は、家は貧しいらしいのだが、

親にかなりのお金を工面してもらい、

相当の覚悟で来日したそうだ。

そのはつらつとした笑顔からは想像もできないものを

彼女は背負っている。

絶対に失敗は許されないということらしい。

まして、つまんないとか飽きたなどという甘いものなど

あるはずもない。

彼女の目的は、日本のサービスを学ぶことだと言う。

中国に、つい最近までサービスという概念はなかった。

私も、彼女を見るまで、中国の女性の無駄(?)な笑顔は

見たことがなかった。

曰く、キメ細かい日本のサービスは凄いし、これを中国に

持ち帰ればビジネスになる、ということらしい。

決心の違いは、ここ彼処に現れる。

昨日、両脇が満開の桜の道を、クルマで走り抜けてきた。

風に舞う桜の花びらが、日差しのなかで踊る。

春の色模様だ。

春眠暁を覚えず

つい居眠りをしてしまいそうな陽気だが、

思えば、桜の散るこの時期ほど

身の引き締まる季節もない。

私が会社を興したのも、春だった。

普通である、ということ

今日は天気がいいので

窓の外が明るい。

パソコンを前にして

なんだか、そわそわする。

外が気になる。

「どう、今日は暖かい?」

買い物から帰ってきた奥さんに

さらっと聞く。

「そうね、もう春ね。向こうの山も

ちょっと霞がかかっているみたい。

動いていると汗ばんでくるわよ」

「ふーん」

気のない返事はしてみたものの

内心穏やかではない。

貴重な土曜日だというのに

朝から残務整理だ。

「まだ、かなりかかるの?」

「うーん、いや何とかするよ」

12時を回ったので、奥さんが

トーストとハムと卵のペースト、

そして簡単なサラダと紅茶を用意してくれる。

テレビをつけると、カウントダウン・TV。

まあ、私はどうでもいいんだけど、

東京の新トレンドスポットなんかを紹介している。

奥さんが、「ふうーん、ふうーん」と頻りに

関心している。

「美味しそうだね?」

私が水を向けると

「でもやっぱり高いわね。東京は」

「そうだね」

カーテンの向こうがまぶしい程にきらきらしている。

庭に、鳥の鳴き声が聞こえる。

「散歩、行こうか」

「いいの、仕事?」

「月曜日に早く起きて片付けるよ」

食事を済ませて、

一応、家の中の主な家電のスイッチを切る。

スニーカーを履いて表に出ると

私の頭の仕事のスイッチも切れた。

近所の家の屋根や外壁が

日差しで照り返っている。

「なんだか、牢獄から出てきたような

感じだな」

私がつまらない感想を言うと、奥さんは

ケラケラと笑った。

住宅街の西は、高い丘の上のようになっていて

下の国道が見える。

その向こうに山が連なり、

ゴルフ場の辺りの緑も、

心なしか色づきが濃くなったようだ。

空に、雲がぽかんと数えるほど浮かんでいる。

ふたりで、雲のかたちについて、

山の色づきについてや、

たわいない話をいくつか交わして、

住宅街の家々の前を歩く。

ひとの家の庭先の花を見て、奥さんが

「綺麗ね」と言う。

散歩のときは、なぜか実家の話や

子供のことや、リフォームしようか?

なんていう話題も飛び出したりする。

大方、どうでもいいような大事なような

そんな話ばかりだが、こうした時間が、

最近、私には愛おしいと思える。

普通の家に住み、何のことはない普通の生活。

普通に家のローンが残っていて、

人並みの預金残高なのだろうか?

思えば、何もかも普通なのだが

さて、この普通ということは

一体どういうことなのかと、ふと考える。

この定義は、割と考える程に難しく、

意外と奥が深いことに気がついた。

思えば、結婚して子供が生まれ

独立して、もう駄目だ、ということも

何度かあった。

家族の病気も危機も幾度かあった。

数年前に父がいなくなり、奥さんの母親もまた

いなくなってしまった。

が、いまはふたりの心もだいぶ癒え、

とりあえず普通の状態に戻った。

上をみれば切りがない。

下をみてもきりがない。

私がこの頃ぼんやり思う

「普通」というこの毎日の繰り返しが、

とみに愛おしいのに気がついたのは

つい最近のことだった。

冬景色宗介、現る!

どうも!

景色評論家の冬景色宗介です。

お久しぶりです。さて

横浜の観光スポットであるみなとみらいの夜景は
一体どこから見ると最も綺麗で美しいか?

この一年の間、私は仕事でこの辺りに来る度に、
常にこの課題に果敢に取り組んで参りました。

端からみれば、つまらない事やってるな、とお思いでしょうが
本来、研究というのはかなり地味なものです。

そこをご理解頂きたいなどとは申しませんが、
結果としてかなり興味深い内容となりましたので
ご一読頂きたいと思います。

まず最初に、
私は新しい横浜を少し引き気味で見てみようということになり、
山下公園前の幾つかのホテルに泊まり、横浜港の夜景を満喫したのですが、
みなとみらいを眺めるには、ちょっと遠くに引きすぎた感がありました。

みなとみらいが見えることは見える。が、ちょい遠いので、ランドマークや
観覧車も迫力がない。良いんですが、海を正面とすると、
みなとみらいは、港の左に位置しているので、ちょうど視界の
端ということもあり、画面的には鶴見辺りの工業地帯がメインになる訳です。

この景色もなかなか捨てがたいものがあり、
やはり日本の高度成長期の礎を築いた京浜工業地帯を見るにつれ、
幼い頃、この辺りに住んでいた私の遠い記憶が呼び起こされる訳です。

あっ、済みません。皆さんには関係のない私事でございました。

で、この山下公園辺りは、夜になると人通りもかなり少ないので、
スターホテルの1Fにあるイタリアン・レストランが
静かで空いていてムードも満点。オススメです。

うめぇ、うまくないは別です。私の感想を言わせてもらえば、
パスタなんかはフツーでした。
しかし、山下公園沿いの道路に面した窓際のテーブルで、
キャンドルなんか点けてくれる店内の雰囲気は、上々と申せましょう。

しかし、オトコ同士はキモいので、ヤメテ頂きたい。

さて、この並びには、老舗ホテル・ニューグランドの他ホテル・モントレや
ゆうぽうとなんかがありますが、私はいまはなきバンドホテルに
一度でいいから、泊まりたかった。

バンドホテルは、私の伝説のホテル。
私がまだ若かりし頃、おにいさんやおねえさん世代が集まり、
生バンドが入って踊り語る、横浜でもハイセンスなポイントでした。

ニューグランドは、何といっても旧館がオススメです。
シックで落ち着いた部屋と使い込んだ家具類は、
クラシック・ホテルでしか味わえない気品と優雅さがあり、
ゆったりとしたときの流れを満喫できます。

さて、
山下公園あたりからの新スポットの景色が遠いということもあり、
後日、私は宿泊場所を関内へと移動いたしました。
まず、横浜球場の横にある横浜ガーデン。ここは関内というより中華街寄り。
ここの部屋の窓からの眺めはカナリイケテルのですが
目の前の横浜球場のライトがかなりキテイマス! まぶしい。
構図的には、ランドマークタワーとそれに連なるビルの感じがほどよい重なり具合で
みなとみらいの近未来を醸し出しているんですがねぇ。

で、今度はぐっと近づき、馬車道辺りのホテルからの景色をチェックすることに
致しました。ホテルルートインからの景色はまあまあ。というより、私はいつも
高層階を取るのですが、夜は目の前の横浜歴史博物館の、まるでドーモのような
屋根を見るにつけ、イタリアのフィレンツェで見たドーモにそっくりなのに驚き、
ここは外国か? と自分に突っ込みを入れてしまいました。

で、このルートインの近くにホテル・リッチモンドがあり、ここから見上げるみなとみらいは
なかなかグッドなのでした。眼下に馬車道のにぎわいがあり、
みなとみらいもかなり近景なので、ビル群と観覧車の明かりの競演も美しく
見いいて、かなり絵になります。

しかし、もっとズームアップのすげぇ景色はないのか、という方のために
ホテル・ナビオスがオススメです。ここでは街側のお部屋をリザーブしてください。
横浜コスモワールドが目の前。観覧車なんか、窓枠からはみ出てしまう迫力なので
近景を好まれる方には、絶好のホテルです。

ところで、あなたは気づきましたか?
お前は、どのホテルからみなとみらいがよく見えるのかという話ばかりじゃないか、
という、この私のレポートを?

そうなんです。
もっと、表に出て、ぐいぐい歩き回り、がんがん走り回って汗をかいて、
まるで記者がスクープを取る如く、猛獣のようなハングリー精神はないのか?
といわれそうです。

ベストポジションを探るという努力を、私は全然しないんですね。

なぜなら、いつも疲れているからです。
しかし、ちょっと外出して、凄いポジションもみつけたのでありました!

それは、馬車道から港方面に歩き、5分くらいのところに万国橋という橋がありまして
ここへ来ると視界がぐっと広がり、海と高層ビル群が一気に視界に飛び込んで参ります。
吹く夜風は海風で、いつ来てもホントに心地よい。
で、眼前に色とりどりにライトアップされた観覧車がズームアップされ、
背後にインターコンチネンタルホテルやクィーンズスクエア、パシフィコ横浜、
万葉倶楽部、パンパシフィックホテル、そしてランドマークタワーが
にょきにょきと天をも突くようにそびえ立っております。

そうです!
ここが、現在の横浜の観光スポットみなとならいを最も綺麗かつ美しく見せる
ベストポジションなのです。
しかし、真冬は死ぬほど寒いので、まあ、3分が限界でしょう。
さっさと帰ってください。

で、これまた偶然なのですが、みなとみらい限定でなければ、さらに美しい景色を
私は発見致しました!

それは、この万国橋より先にあるワールド・ポーターズという
戦艦のようなショッピングモールがあるのですが
偶然ここの上階の駐車場にクルマを止めていたことがあり、夜クルマに戻ろうとすると
なんと、ここから見える横浜港の夜景が絶景!

港の湾に沿ってオレンジの明かりが、もう満点の星の如く煌めき、
その明かりが遠く本牧の辺りまでにじんでいる。
眼の先には、ベイブリッジが架かり、この橋のライトアップの美しさも必見です。

遠くは、川崎の鹿島田辺りだろうか?
その向こうは都心のビル群までかすんで見えるのであります。

こうなると、私こと冬景色宗佑、景色評論家冥利に尽きるのであります。

ここ地元横浜に生まれ、早半世紀。
東京の世田谷にも15年ばかりお世話になりました。
現在は、丹沢山系の片隅で、仙人のような静かな暮らしを営んでおります。

しかーし、我が生を授かりました横浜の地を忘れたことなど一時たりとも
忘れたことなどないのでございます。

「街の明かりがとてもきれいね横浜」なのです。

さて、次回は山梨県か静岡県辺りのお話を書きたいと思いますので
また、お会いしましょう!

景色評論家の冬景色宗介でした。

コレデイイノダ

ユルさ加減がほどほどに良かった
「笑っていいとも!」が
最近はイマイチ面白くない。
すげぇマンネリなのも、了解済み。
なんと言っても、バブル前?
いや約30年位前からやっている超長寿番組だから
その辺はOKだけど
この番組は、以前は、マンネリや
ユルさのなかにあって
常に笑いに対するチャレンジ精神のようなものが
あったような気がする。
それが最近、私にはみえないんだな。

で、裏でも観ようものなら、
アクの強いみのもんたに代わり、
最近では、微妙な立ち位置の中山の秀くんが
番組を取り仕切っている。
彼にしてみれば、絶好のポジション確保!
このMCは、
向こう30年位は誰にも渡さないゾ、
というオーラが、
その目力からピッピッと放たれていた。
この手の番組は
たまにチラッチラッと観る程度だが、
日に日に中山くんのみのもんた化が進行している。
その口調、おちゃらけぶり、
なんだかつまんねーギャグが、おばさん受けする。
ツボはオッケー、
オリジナルなんかねぇーんである。

はたして、
私の疲労したオツムを快く癒してくれる
ヒルメシ時の番組は消えたので、
最近ではFMに切り替え
空中なんぞをゆらゆら見ながら
ラーメンなんかをすすったりしている(怖)
が、気づくとまたテレビを観ていりするから
恐ろしい。
これがテレビなのだ。

で、
ストレスがピークに達する夕方なんかは、
私はもう仕事を一切拒否しちゃうときがある!
こうゆうときは、小鳥のさえずりや、波の音、
はたまた宗次郎のCDなんかがベスト
と思っていて実行したことがあるが、
全然駄目で、辿り着いたのが、
なんと夕方のニュースだった。

スクープまがいのテンションで話す
安藤優子さんも、、久々に観ると貫禄がついた。
そして寄る年波に勝てないのは明白で
TVのハイビジョン化と相まって
その様相はかなり作り物化のような
厚メイクが目立つ。
でもそれはそれでイインデアル。
誰でも年はとるのだ。許そう!

ココロの広い私は、
そんな彼女を笑顔で受け入れます。
彼女は若い頃、
雑誌「J・J」のモデルをやっていたらしいので
その美貌の片鱗はちらちらみえるのだが
いつの間にか、
政策通らしきコメントを垂れるにつれ
嫌な大物感が漂うのは、私の錯覚か?

で、気になる天気予報になると、
いつも思うんだが
イイ男かイマイチ男なんだか不明の石原良純が
早口と妙な音程で
気圧配置なんかを分かりやすく説明してくれるのだが
そんなことはどうでもよくなるような
彼のピチピチホワイトジーンズは
誰がセレクトしたんだ?
あと、ん十年前に流行ったような
セーターはどこで買ったんだ?

もう、天気予報なんかどうでもいいんで、
石原くんが気になるな。

ご存じ、石原くんは誰もが知る、
生粋のおぼっちゃまである。
おぼっちゃまの考えていることはわからん。
おぼっちゃまのセンスなんか
全然わかんねぇーんである。

生きる世界が違うなーと、
私なんか妙に納得してしまうのである。

あっ、明日の天気はなんだっけ?聞き漏らした、
ということで
急いで大御所NHKへ、リモコンをピッ!

と、出ました!やせ形の無難なオトコ、
平井さん!

彼の天気予報は
その行き渡るような天気の全体像から
細かい分析、そして
「何故雨が降るのか、いまからその説明を致しましょう」
という丁寧な流れに好感なのだが、
彼の天気のエキスパートとしてのちょっと偉そうかつ、
自信満々な口調が、このところ、
どうしても私の鼻につく。

そんなことはどうでもいいんだが、
このNHKの天気予報が
次の日、なんだーというように、
当たらないことが多々ある。
という訳で、あれこれ気象についてこねくり回す
平井さんの自信過剰ぶりが鼻につくんである。

それにしても、こんなことを書いていると
「お前、ホント暇そうだな」と言われそうだが
コレ、私のストレス解消法。何も考えなくても
テレビはいろんなことを教えてくれるので、
アリガタイ。

いまや、ネットに押され、視聴率激減のテレビ。
そのビジネスモデルが危ぶまれているといわれる
テレビだが、私に言わせれば
まだまだテレビは面白いのだ!

見方を変えれば、テレビの良いところは
まだまだいろいろある。
突っ込みどころも満載だ。
優良なコンテンツの急が叫ばれているが
そんなものはいらないんじゃないか?

テレビはこれてでいいんである。
だいたいでイインデアル。
テレビは私の逃げ場所なのだ。

テレビは疲れた現代人を癒す
テキトーな「箱」でイイのだと思うんです。

だって利口なテレビって、怖いでしょ。

お地蔵さん

お地蔵さんは、子供が大好きだ。

昭和30年代のこと。

小学校低学年の私は、その頃耳鼻科と歯医者に通っていた。

当時はみんな鼻水なんか平気で垂らしていたし、

私は歯も数本抜けていた。

しかし耳鼻科で診てもらうと、蓄膿症とのこと。

放っておいては悪化するということで、耳鼻科通いが始まった。

同じ頃、歯も虫歯だらけということで、耳鼻科の近くの歯医者へも

通う羽目になった。

耳鼻科では、先生なんか診てくれない。5円玉を持っていくと、

いきなり中に通され、現在の耳鼻科がやっているのと変わらない、

例の二股に分かれたガラス管を鼻にあて、蒸気を通す治療を

繰り返すだけだった。

怖いのは歯医者だ。

昔はどこの歯医者も、入り口に赤い電球を点けていた。

中では、誰かの泣き声、いや、叫び声が聞こえることもあった。

当時の歯医者は、戦場帰りの軍医上がりが多かったらしく、

痛くて泣くと、必ず「泣くな!」と怒鳴られ、同時に頭を叩かれた。

で、余計に泣くと、そのまま治療を放棄する先生もいた。

とても偉かったのだ。そして、怖い。

私は、そんな痛い思いをした帰りや、耳鼻科の帰りに、

急に腹が減るのだった。

当時のおやつは、良くてかりんとうに砂糖水だ。

いまでは信じられないだろうが、少なくとも貧乏な私の家のおやつは

そんなものだった。

いつものように治療が終わり、とぼとぼと歩いていると、

途中の道端に、細い目をしたお地蔵さんが立っていた。

木でつくられた小さな家の形をした中で、そのお地蔵さんは

いつも笑っているようにみえた。

見ると、お地蔵さんの前に、お魚の形をした煎餅が皿に乗せられ、

山盛りになっている。

私は、その煎餅をじっと眺めていると、すっと私の手が伸びて

その煎餅を食べていた。ちょっと気が引ける感じがしたが、

しまいにはお地蔵さんの横に座り込んで、全部食べてしまった。

次の日も鼻の治療だったので、帰りにその前を通ると、

前の日と同じように、お魚煎餅が山盛りになって置いてあった。

私は当時、それが誰かが置いたものとは知らず、

不思議なお皿だなっと思っていたことを、いまでも覚えている。

ポリポリ食べながら、お地蔵さんをじっと見ていると、

お地蔵さんは笑っているようにみえた。

そんな日が何日か続き、何かの用で母親と歯医者へ行くことになった。

歯医者で泣いている間中、母は何かの用足しに行っていた。

私の治療が終わって涙をいっぱい溜めていると、

母親が「男が泣くんじゃないよ!」と笑っていたのを覚えている。

帰り道、私と母の前に、例のお地蔵さんが現れた。

私はお地蔵さんに駆け寄り、またその煎餅を食べ始めていた。

すると振り返り様、いきなり母親に殴られた。

私は訳が分からず、

「なにすんだよ、お地蔵さんがボクにくれたんだぞ!」

と泣いて母親に抗議した。

「バカ野郎!このばち当たりが!」と言って、また頭をひっぱたかれた。

母親は、通りがかりの人にぺこぺこ頭を下げて何かを口走りながら、

必死に謝っていた。

幾度となく叩かれながら、私は引きづられるように、家に帰った。

そして、延々と説教された後、

我が家の伝統でもあるお灸を手の甲にすえられた。

後にいろいろなことが分かった私だが、

あのときは「お地蔵さんって凄いな」と思っていたし、

お地蔵さんはやさしいな、というのが私の偽らざる思いだった。

あのやさしい目。

毎日私のためにお煎餅を用意してくれていたお地蔵さん。

いまでも、時折、お地蔵さんにお目にかかることがあると、

私は、手を合わせて頭を下げてしまう。

最近見た景色

ほぼ、神奈川県内をウロウロしているが

所用で東京へ行くこともしばしばある。

世田谷には長いこと住んでいたので

違和感はないが、山手線の内側は

その頃から疲れるエリアだった。

新宿、渋谷は何となく分かるが

新橋あたりに泊まるのは初めてだった。

東京湾に面したホテルを取ったのだが

夜景でも見ようとカーテンを開けた。

対岸にお台場あたりだろうか?

海の中から天に向かって

高層マンションが建っているようにしか見えない。

お馴染みのフジテレビの社屋が遠くに光っている。

(すげぇなぁ)

翌朝、この景色を眺めながら朝食をとったのだが

どうも落ち着かない。

腰が引けている。

そういえば、昨夜見た

反対方向のシオサイトあたりは

もう未来都市の様相を醸し出していた。

巨大なビル群がいろいろな光りを放ち

夜空を明るくする。

(都会で星なんか見られないのだ!)

遠くに、六本木ヒルズや新宿のビルまで見えたときは

東京は怖いか、と自分に自問してみた程だ。

品川や田町、浜松町辺りも随分と

変貌を遂げていた。

名も知らないビルの中の飲食街でメシを食ったとき

気のせいか、皆さんお疲れのような顔をしていました。

で、街を歩いていても、座るところがない。

(ベンチぐらい置いておけよ!)

ついでにワガママを言わせてもらうと

タバコなんか吸うところ、ないのね?

たまに喫煙エリアなんていうのがあるんだけど

人が溢れかえっていて大変。

喫煙者の私でさえ、煙ったい。

山手線に乗ろうと浜松町の駅に近づいたとき

人人人の波がワットこっちに向かってきて

思わず私はひるんでしまいました。

(どっきりカメラかと思ったんだけどな)

私の知っている東京はもうバブルの彼方。

どこへ行ってしまったのだろうね?

蜘蛛の巣地下鉄の乗り換えと

出口を間違えたときのミステリーは

もっと凄いぞ!

(つづく)

景色評論家 冬景色宗介

コピーライター事始め

コピーを書いてもうだいぶ経つが
最初の頃は、全く書けなかった。

何をどう書いていいのか?

オーダーがきても、どこを抽出してどう表現するか
そのコツが私には分からなかった。

加えて、書き始めが、からきし難しく感じる。

もう、ここから萎えてくる。

良いものを書こうとする気負いが
益々その趣旨と核心をみえなくしていた。

元々、私は出版社にいたので
原稿を書くのは慣れているハズだった。

が、事はそんなに甘くはなかった。

いまは、出版物の文章もかなり広告チックなものもあり
広告コピーといっても普通の原稿のようなものも増えている。

当時は、この両者の中身にかなりの隔たりがあった。

広告コピーの世界は、かなり特殊な文で組まれていた。

ある時は詩的であり、短文のなかに優れた世界観があった。
ある時は、あり得ない言葉の組み合わせにより
とんでもないフレーズを生み出す方もいた。

私は、そのどっちも書けなかった。

まず、キャッチフレーズが浮かばない。
どう考えても、出てこない。

しょうがないので、ボディコピーから
なんとか書き始めるのだが、出来が
これでよいのかどうかも分からない。

上司からは、イマイチといわれ、
その理由が怖くて聞けないこともあった。

悩みの日々が続いた。

後から徐々に分かったのだが、ここに第3者の目が
加われば、そのコピーの出来具合は、ほぼ分かる。

他人の目を自分がもてば、自ら書いたものも
ある程度は評価できる。

決め手は、やはり「もし自分がお客さんだったら?」という
視点だろう。

いま思えば当たり前のことなのだが、これがいまでも結構難しい。

当時は当たり前のようにまるで駄目だった。
しかし、そのことを意識するようにして書き始めたら、
客観性が少しずつ身に付くようになり、
少しずつコピーの出来も上達するようになってきた。

問題はキャッチフレーズだ。

これは、もうコピーライティングの肝ともいうべき
代物なので、私の場合はかなりの時間を要した。

キャッチフレーズは、広告文全体のコンセプトを
担うものなのだが、私はコンセプトという言葉自体が
当初よく理解できなかった。

よほど出来の悪い、遠回りしてきた新人だった。

私は日夜、このコンセプトとはなんぞや?という答えを
みつけるため、図書館に通い、本屋でその筋の本を買い、
しまいには、恥ずかしさも忘れて年下の同僚に

「ねえ、コンセプトって何?」と聞いたこともある。

ところが、この年下の同僚が上手い言葉を発した。

「ううん、なんていうか、人間に例えるとヘソのようなものじゃないの?」

嘘のような話だが、私はここから一気に視界が明るくなった。

どの本よりも、この言葉に救われたような気がした。

きっと、頭で理解したのではなく、この時の同僚の言葉が
私のカラダ全体で反応したのだと思う。

感覚で分かったのだ。

以来、何となくこの道を歩いている。

というか、喰えていると言ったほうが正しいのか?

仕事は、何にでも通ずることだが、
まず人まねから始まる。

しかし、いつまでもまねている訳にもいかない。

ある程度経験を積んだら、いつか自分の道を探す時がくる。

来ない人は、ちょっとまずい。

コピー人間のままで終わってしまう可能性がある。

自分だけの道を探さないと、
自分にしか出せない味という強みが出ない。

「道は、星の数」とは、かの糸井重里のコピーだが

みんな自分の道を探さなくてはいけない。

オリジナリティは、人それぞれの持ち味のように
なくてはならない大事なものなのだ。

コピーライターの場合、特にオリジナルな文が要求される。

新人時代、私はこの要求に翻弄された訳だが、
良い意味でも悪い意味でも、
それは性格にも反映されるようになった。

私の友人のなかには、お前は元々そういう奴だったという
のもいるが、私は後天的と勝手に思っている。

曰く、
良い場合は、個性的とか、
ものの見方が変わっているなどと言われることがある。

その逆は、まあ
変人とか、へそ曲がりとか、
その他はもうぼろくそに言われているので
これは、職業病ということにしておこう。

おかげで、
かなり図太く生きる訓練をさせて頂きました(笑)

格好いい爺さんになろう!!

誕生日を機に、ふとアタマがひらめいて

格好いい爺さんになろうと思った。

格好いい爺さんが、派手なスポーツカーから降りてくる。

格好いい爺さんが、イタリアンスーツで歩いている。

これ、イメージもシチュエーションも、ベタ。

格好いい爺さんのビジュアルは、例えば誰か?

私のアタマには、すぐにあの007のショーン・コネリーと

名優スティーブ・マックィーンが浮かんだ。

格好いい!

が、私には遠すぎる存在なので、

話をもう少しフォーカスすることにした。

格好いい爺さんは、歯が丈夫だ。

格好いい爺さんは、ももひきなんかはかないのか?

格好いい爺さんは、シワが少ない。

格好いい爺さんは、エネルギッシュ!

分かんないなー?

きっと、格好いい爺さんは、禿げてない。

きっと、格好いい爺さんは、小走りできる。

きっと、格好いい爺さんは、姿勢が良い。

おっ、なんかだんだん見えてきたぞ!

格好いい爺さんになるには、まず

健康でなければいけないのだ!

タバコ、やめようかな?

いやいや、格好いい爺さんは葉巻なんかが似合ったりするので

まだいいや。

この案件は、棚上げにしよう。

ときどき、スーパーなんか行くと

独りで寂しそうに買い物をしているお爺さんを見かける。

身なりは適当なのはいいが、暗い表情でうつむいてコロッケなんか

じっと見ている姿を見ると、身につまされるものがある。

ポイントはこの辺りだろう。

落とし所が少し変なのは分かっているが

この辺りを研究することにより

格好いい爺さんを考えることにした。

その格好いい爺さんは、

レモンイエローのフォルクスワーゲンから

颯爽と降りてきた。

髪は白髪。

まぶしいほどのざっくりとした白いシャツに

綺麗なシルエットのジーンズが印象的だ。

青いスニーカーに見え隠れするのは

なんと素足ではないのか?

彼は、姿勢良く大股で店内へ入ろうとするが

前方目線を動かさずに、サッと片手でカゴをゲット!

運動神経もまだまだ若者に負けていない。

その格好いい爺さんは店内をパッと見渡し

野菜と肉を少々カゴに入れると

例のコロッケ売り場の前で立ち止まる。

興味なさそうにちょっと手に取るが

こんな揚げ物はカラダに悪いだろうと

嫌悪の表情を見せながら、

その揚げたてのコロッケを元の位置に戻す。

が、そこで爽やかに笑みを浮かべながら

「しょうがないな」と言い

姿勢を崩さずにサッとそのコロッケをカゴに入れ

その場を立ち去る。

うん?

格好いい爺さんって大変そうだな?

どこかに無理がある。

嘘くさい感じもするな。

ここまで書いて気がついたのだが

人間やはり外見だけではどうにもならない。

やはり格好いい爺さんになるには

上辺だけでなく

まず内面を磨くしかない。

やはりそこに辿り着くのだ。

で、考えた。

格好いい爺さんは、人生のなんたるかを知っている。

格好いい爺さんは、経験則から発する言葉をもっている。

格好いい爺さんは、哲学がある。

格好いい爺さんは、自然を愛する。

格好いい爺さんは、人を愛する。

格好いい爺さんは、自分の人生を後悔しない。

おっ、格好いい!

なんだか、器に身が入った気がしてきた。

カッコいい爺さんは

そもそも人生の達人なのだ。

心がともなって初めて

格好いい爺さんになれるのだ。

しかし、ここまで書き進めて

格好いい爺さんになるのはかなり大変だ

と言うことが分かってきた。

格好いい爺さんになるには

常日頃の心身の鍛練が必要なのだ!

という訳で

今日からいまから

格好いい爺さんをめざして

頑張りたいのだが

まず、このお腹をなんとかしなければならない。

そろそろ健康診断の季節になったが

今年の血圧は大丈夫か?

最近、物忘れが多いが

アタマはまだ大丈夫なのか???

格好いい爺さんへの道は

まだまだ険しい。

その前に、目の前の仕事を

なんとかしろよと、

自分で自分に突っ込みを入れて

お茶をすする

午前5時のオッサンの姿がありました。

時代なんかパッと変わる

夏を引きずりながら

外の気配は秋めいている

日差しは心なしか斜めに差すも

まだまだ勢いがある

その中を

時折乾いた風がすっと抜ける

空が高い

今年初めての赤とんぼ

こうしてふっと気を抜くと

まばたきする間に

秋なのだ

目を凝らしていないと

分からないものがある

予兆はひたひたと忍び足

ある日恋人にさよならを言われても

それが心変わりなのか

気まぐれなのか

久しぶりに走る道路に

いままでなかった分岐点が現れて

驚いたことがある

何度か通った店の前に立つと

もうそこは私の知っている

イタリアン・レストランではなく

小ぎれいな美容院に変わっていた

それは何事もなかったように

当たり前のように

日常に溶け込むから

関係者や観察者

にしか分からない

明治維新で日本はパッと変わった

昨日までの価値が

今日は色褪せる瞬間

軍国少年は敗戦を経て

狼狽した自分を取り戻そうと

歌をつくろうと決意したという

ある日ベルリンの壁は崩れ

ソ連は崩壊し

世界の地図は変わった

誰もじっとみつめていないと

分からない変化の瞬間がある

自らが立ち上がらないと

ただ流されてしまうだけの

一人の目撃者で終わってしまう

危うさ

今回の選挙で

永年の地盤を築いてきた

政権政党が倒れた

名もなき人々は

その他大勢ではない

誰もかが時代を築いてきた

「時代なんかパッと変わる」

私の尊敬するコピーライター

秋山晶さんの渾身の作品だ

愛は尊いが

愛があれば
なんでも乗り越えられる
なんて言うが
世間は
そんなに甘くはない

愛だけでは
腹一杯にならない

割と理想主義(?)の私だが
その性格のおかげで
生活に窮したことも
たびたびあった

私が知らない間に
貯金も底をついた頃
家賃を払っていないことに気がついた

子どもの粉ミルクとオムツがないと
奥さんが言い出した

私は企画書を書く手を止めた

普段は貯金通帳も見ない私だが
このときばかりは
通帳の残高をつぶさに追った

無機質に印字された数字は
入るものより
出る額が上回っている

しかし待てよ!

結構仕事をこなしていると思っていたが
そのギャラはどうなっているの?

「外注さんの支払いが先でしょ
先方さんは手形だからね」

聞けば、その手形は6ヶ月を過ぎないと
割れないとうことらしい

ということで
近くの大手銀行へ相談にでかける

いわゆるつなぎ融資の頼みなのだが
当時の私はどこの馬の骨か分からない
取引実績もないただのフリーだった

いまでも忘れない

銀行の融資係は
バシッっとした背広に銀の縁の眼鏡をかけ
いかにもエリートという感じのまじめそうな男だった

話の途中、私の話を聞いているようで
全く聞いていないことが分かった

しまいに彼は
「そうですか」と言い
薄ら笑いさえ浮かべていた

当時のフリーは、プータローと同義語だ

審査結果はみえていた

一匹狼を標榜する私だったが
このとき以来
法人化の計画を練るようになった

決算書だの前年度比売上げとかなんて
全く興味がなかったが
一応、数字を追う意識が
このとき芽生えた

このときから現在まで
この銀行とは
一切取引はしたことがない

話は逸れるが
私の感覚で言わせてもらうと
一見まじめそうでいて
実は誠実ではない人間が
私はこの世で一番好かない

大嫌いだ

一見まじめなんて糞食らえと思っている

誠実か否かは、人の全く別の所の
奥深いところに宿っている

正直さと誠実さは
いざというときに垣間見えるものだと
私は思っている

人は見た目とは言うが
いやいや
そんなことはない

一筋縄ではいかないのが
人の面白さであり
怖さと思う

話を元に戻す

ときはバブル全盛いやバブル前夜か?

私といえば、働けど働けどなのである

モーレツに仕事をしたのに
いい思いをした記憶が一切ない

世間は羽振りの良さの勢いが止まらない

六本木でタクシーが朝までつかまらない

日産の高級車シーマやBMWがバカ売れしていた

有明のお立ち台では派手なボディコンお姉さん達が
扇子を持って踊り
羽目をハズしていた

浅田彰の「逃走論」をはじめ
ニューアカミデニズムのような思想が
世間に浸透したのもこの頃だった

ときは80年代

私の生活は
こうした風景のなかで
風前の灯だった

いま思えば私の采配ミスと
数字の甘さ
そしてプロデュースミスという
悪い偶然が重なったとしか
言いようがない

要は経験不足
力量がなかったのだ

幸い、最悪の事態を脱した私だったが
このままではまずい

のう天気な私に危機管理能力が身に付いたのも
この頃だ

私は自分の仕事を法人化すると同時に
スタッフの数字にもシビアになった

経験は人を堅くする

自分に厳しく回りに厳しく

と書いたところで
生来の性格が直るものではない

いまでも決算書なるものは
年に数回しか目を通さないし
通帳も奥さん任せ

ともかく総てがだいたいで
決めてゆく性格はそのままだ

が私は
かなりありふれた事に気がついた

愛があれば何でも乗り越えられる
なんて言う甘い言葉は
もう私は信じていない

ありふれたことは案外奥が深いことがある

幸せになるには

愛と

どうしても

あと少々のお金が必要なのだ