恋人

やっと試験合格。
転職が決まって、朝9:00に初出社した。

みんなやさしく僕を迎えてくれて、
ここは長居できそうだと思った。

ここは、コピーライターから作家に転身した
ある有名な女史も在籍していたということで、
自分も頑張らねばと…。

ところが、なんだか面白くもない仕事が
あるもんだなぁ、と企画書を眺める。

しまいには、くだらない仕事だと結論を出すのに、
3時間かかった。

昼時。先輩の方々に飯に誘われ、
西麻布の小洒落たレストランで奢ってもらう。

いまでも濃い味だったこと以外、その店のことは
何も覚えていない。

申し訳ないなと思いながらも、
午後一で、「私、辞めます」と言って、
広尾の駅までとぼとぼと歩く。

外の空気が美味かった。

排気ガスまみれの、
通りの空気が美味かった。

午後の空いた日比谷線に乗り、
こんな電車、二度と乗るもんか、と思った。

自宅のマンションには誰もいないので、
僕は彼女が入院している病院へと
直行する。

「どうしたの?」と、彼女。

「会社、辞めてきた」

「なんで?」

「………」

僕は、つわりで入院している彼女に
早く会いたかった。

調子はどう?

かなり良いよ

そう、良かった

彼女の手を引き、
ふたりで病院の屋上へ出て、
洗足池のあたりを眺める。

また、いつものように
とりとめのない話。

次の日も、また次の日も、
僕は病院へ通い、
彼女の残した食事は
僕がたいらげた。

彼女が退院しても、
しばらく僕は家に居て、
彼女ととりとめのない時間を
過ごした。

あとで気がついた事だが、
僕はあの頃、
働くのが嫌だったのではなく、
あの会社の仕事が気にいらなかっのでもなく、
自分が働いている最中は、
抜け殻だったということだった。

あの頃、僕は彼女と一緒にいたかった。

ただそれだけだった。

「恋人」への4件のフィードバック

  1. 在りし日のスパンキーさんの面影が鮮明に際立ってくる素晴らしい抒情詩ですね。
    せっかく受かった転職先の会社を、初出社の日に断って去ってしまうという “潔さ”。
    そこまでは、小説を読むかのようなドラマチックな展開ですね。
    「なぜなの? なぜそんなにもったいないことをするの?」
    …という読者の疑問を、最後の行で答える鮮やかな結末。
    そして、“彼女” と2人きりで過ごす、静かな日常の日々。
    そこでゆったりと流れる平和な時間の底に沈んでいる、透明な寂寥感。
    その余韻が、最後のエルビス・コステロの 『She』 に収斂していく構成が見事でした。
    うまいですねぇ! 
    こういうふうに、人生をさりげなく、でも鋭く浮き彫りにする力量に、スパンキーさんの物書きとしての素質を感じます。
     

  2. 町田さん)
    いまだから冷静にみれるし語れる話なので、忘れないうちに書いておこうと思いました。
    いまも転職は相当厳しいですが、当時もそれなりのハイリスクでしたので、この先どうやって生活してゆくかという悩みは、いまでも鮮明に覚えています。
    例えば「東京砂漠」という歌がありますが、当時の私は調度あの歌詞のような心境だったのかな?とも思います。
    横浜と東京って、どうてことのない距離なんですが、当時の私にはとても東京がアウェイな空気でして、参りました。
    コステロは、私の大好きなアーティスト、いつかこの歌を使いたいと、ずっと思っていました。
    コメント、いつもありがとうございます。

  3. ステキだなぁと思いました。
    “あの頃、僕は彼女と一緒にいたかった。
    ただそれだけだった。”
    その感覚が少しわかる気がして、
    スッと沁み込んできました。
    男性はやはり女性よりも、仕事に対しての不安や家族を養っていくことへの責任感が強いでしょうし
    そういう意味では、”生きる”ということに直面し続ける…というイメージがあります。
    (上手な表現ができず、すみません)
    だからこそ、彼女と一緒にいたかったのかなって思いました。
    岡本敏子さんが、
    「女性は子宮を持っているから、自分で自分を抱きしめてあげられる。
    でも男性はそうじゃない。
    だから抱きしめてあげたいの。」
    というような内容のことを本に著していたのを思い出しました。
    細かいことを聞いたりせず
    おおらかな気持ちでいろんなものを受け止めてくれた”彼女”への安心感や一緒に過ごした時間が
    その後のエネルギーになったのでしょうね^^

  4. chiakiさん)
    「女性は子宮を持っているから、自分で自分を抱きしめてあげられる。でも男性はそうじゃない。だから抱きしめてあげたいの。」
    ↑この言葉は強烈ですね?かなり考えましたが、その通りだと思いました。当時は岡本敏子さんのような彼女も、いまは貯金通帳とにらめっこをしています(笑)。でも、どこかノー天気な人というのは、安堵感を覚えますよ。
    調度、80年代は、岩崎宏美さんの「聖母たちのララバイ」がヒットしたのですが、何故かこの歌の歌詞も、そんな雰囲気を漂わせています。そういう時代だったのでしょうか。
    いまはそんなことも言ってられない感じですが、心ののびしろだけは、大切にしたいと思います。
    いつも、コメント、ありがとうございます。

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