雨に泣いている

柳ジョージを聴いていたら、なんだか悲しくなってしまった。

この人、死んでしまったし。

古い友達とか街並みとか、そんなもんばかりが浮かぶ。

そんなね、前向き、前向きって。

無理ですわ…

あのひとあのときなぁって、ひとつひとつ丁寧に

ストーリーが蘇るから、

アレコレ忘れられないことばかり。

最近では読むものも昔のものばかりで、

たとえば松本清張、初期作品に惹かれて読んでいる。

「理外の理」とか「削除の復元」とか。

どちらかというと大作の陰に隠れた名作で、

これらの中に大作家の性根がくっきりと表れる。

雲の上のひとでも、人並みに物欲があって、

見栄やジェラシーがあって結構せこいとこも持ち合わせて

なんだかふっと力が抜ける。

いまって時代は抜き差しならない。

清潔、正義、多数決。

そして偽物の制裁、圧力、胡散臭い正義の毎日。

そんなもんに背を向け、引き寄せられるのは、

色にたとえると、ブルー。

限りなく透明に近いブルー…でなく、

ラピスラズリの、あのブルー。

深みと雄大さと悲しみを、

その小さな塊のなかにいっぱいたたえていて、

スッとして清楚。

夢も希望もね、それこそあるけれど、

もうそこには華やかさもバラ色もありはしないし。

そんなに賢くない。

そんなに美しくない。

久しぶりの雨だよ。

いまさらクラシック音楽にめざめる。

私が割ときれいだと思う女優の藤真利子さん。

この人が先日「サワコの朝」に出ていて、

彼女の好きな曲として、

辻井伸行さんの「ラ・カンパネラ」を紹介していた。

朝飯をくいながらぼおーっと観ていたのだが、

辻井さんの弾く姿とピアノの音に、

なんだか目が覚めるような感動が起きてしまい、

それからというもの、彼の演奏を毎日聴いている。

我ながら、意外な反応だったのだ。

「月の光」「英雄ポロネーズ」チャイコフスキー「ピアノ協奏曲」

ショパン「12のエチュード」…うん、いろいろ聴いていくうちに、

どの曲の演奏も、とても魅力的でパワフル。

生命力に溢れていて、彼がとても格好いいのだ。

クラシックってなかなか素敵じゃんと、

彼のおかげで、いまさら気づくこととなった。

そこで後日、フジ子・ヘミングさんの

「ラ・カンパネラ」「トルコ行進曲」とも聴き比べてみた。

辻井さんのに対して、フジ子さんのピアノは包み込むようにやさしく、

ちょっとスローで熟練しているなぁと感じた。

個人的には、辻井さんのが好みと分かった。

以前は、こうした高尚とも思えるものを何十年と避けてきた。

理由は幾つかあって、その1は

小学生のときに音楽鑑賞の時間があって、

バッハとかベートーベンをじっと聴かなくちゃいけないのだが、

全く落ち着きのない私にはとても辛い時間だった。

一刻も早く、外に飛び出したかった。

それでも我慢をしてじっと座って聴いていると、

今度はひどい眠気に襲われ、

気がつくとよく先生に怒られていた。

以来、こうした音楽が苦手になってしまった。

その2は、クラシック音楽は権威の象徴であると、

勝手に思っていたフシがある。

または、暇な金持ちの聴くものと決め込んでいた。

何にでも逆らっていた若い頃の私は、

クラシックを聴くとなぜか生理的にいらいらしていたので、

全くと言っていいほど遮断していた時期がある。

その3は2と連動しているが、

社会人になってから、ある金持ちのドラ息子と

ビジネスで組むこととなり、結果こいつに振り回されたのだが、

このバカがいつもベンツで聴いていたのがクラシックだった。

ちなみに、このドラ息子は根っからの無気力で、

そのくせ、功名心のみ強い人間であったので、

以後、私的にクラシックに対する印象は最悪となった。

それでも高校時代は吹奏楽部だったので、

少しはクラシックに触れる機会もあった。

が、せいぜいショスタコーヴィチをやるくらいで、

なんら違和感がなかった。

ショスタコーヴィチはどちらかというとマーチが多いので、

そんなに辛いものではなかったと記憶している。

(ショスタコーヴィチの音楽がクラシックか否かは不明だが)

という訳で、以前の私はクラシックと出会ったときから、

そうとう相性が悪かったと、最近になって気がついた。

クラシック音楽に対する私の偏った先入観が、

単に事態を悪くしていただけかも知れない。

さらに言えば、過去の自分のクラシック音楽への

理解のなさだろうし、理解力のなさでもあるし。

それを辻井伸行さんが再び引き寄せてくれた。

私的に感じた事をひとつ。

クラシックって、人の根っこの部分、

人間の根源的な想いのツボのようなものを、

鋭角で追求してできたもののような気がするのだ。

音楽ってどれも皆そうなのだろうが、

実はクラシック音楽が、その源流に位置している。

いや、土着音楽だ、自然の音だと異論はあるだろうが、

人を揺さぶる何かを秘めているように思うのである。

昨日、辻井さんが自ら作曲した曲を聴いて、

なんというか、感情的にワーッときた訳だ。

タイトルは「コルトナの朝」。

全身で表現しているような、若い生命力に溢れるとても美しい曲だ。

きっと火星に移住する時代がきても、

人はクラシックを聴いているだろう。

夢でみる情景

初めてその夢をみたのは、

確か20代の頃だったように思う。

その後、幾度となく同じ夢をみる。

その風景に何の意味、教え、警告とかがあるのだろうかと

その都度、考え込んでしまうのだ。

30代のあるとき、友人と箱根に出かけ、

あちこちをGTカーで走り回っていた。

心地のいい陽ざしの降り注ぐ日。

季節は春だった。

ワインディングロードを走り抜ける。

とても爽快だった。

が、カーブに差し掛かったとき、

私はこころのなかで「あっ」と叫んだ。

そのカーブの先にみえる風景が、

私が夢でみるものと酷似していたからだ。

夢で、

私はアスファルトの道をてくてくと歩いている。

どこかの山の中腹あたりの道路らしい。

それがどこの山なのか、そんなことは考えてもいない。

行く先に何があるのかも分からない。

陽ざしがとても強くて、暑い。

しかし不思議なことに、全く汗をかいていない。

疲れているという風にも感じない。

カーブの先の道の両脇には、

或る一定間隔で木が植えてある。

その木はどれも幹が白く乾いている。

背はどれも低い。

太い枝を付けているのだが、

葉はいずれ一枚もない。

そのアスファルトの道が、

どこまでも延々と続いていることを、

どうやら私は知っているようなのだ。

夢でみた風景が箱根の道ではないことは、

その暑さやとても乾いた空気からも判断できた。

現に箱根のその風景は、

あっという間に旺盛な緑の風景に変わっていた。

夢のなかのその風景は、

メキシコの高地の道路のような気もするし、

南米大陸のどこかの道なのかも知れないと、

あれやこれやと想像をめぐらすのだが、

私が知った風景ではないことは確かだった。

つい最近も、仕事の合間のうたた寝の際、

夢の中にその風景が現れた。

立ち枯れた木がずっと続くその道の先は、

きっとその山の頂上に続いているのだろうと、

ようやくこのとき私は想像したのだった。

なんの怖さも辛さも感じない。

ただ、暑さと乾燥した空気が心地いい。

相変わらず強い日差し。

それが身体にエネルギーを与えるようにも感じられた。

あたりに風は一切吹いていない。

とても穏やかで静かだった。

覚醒した私は思うのだ。

頂上にたどり着いた私は、

やがて、空へと続く一本の階段を発見する。

そして、誘われるように、

その階段をてくてくと昇ってゆくのだろうと。

もちろん、その階段は天まで続いている。

マグロ少年

イルカにのった少年、

オオカミ少年ケンときて、

マグロ少年という流れで書こうかと思っている。

鳥になった少年というのもあった。

この歌はファンタジックなとてもいい歌だった。

いつでも少年は お祈りしたのです

大空自由に 飛べる羽根

ぼくにも下さいと

父も母も どちらもいない

とてもさびしい 身の上だから

いつでも少年は 夢見ていたのです

地上の悲しみない空へ 自由に行きたいと

1960年代にヒットした歌。

とても素敵な歌詞です。

で、少年つながりで、

まずイルカにのった少年ですが、

これは昔よく聴いていました。

歌うは、城みちる。

そこそこのヒット曲だった。

城みちるも人気があったなぁ。

最近、どこかの番組で観たが、

童顔が裏目に出て妙な爺さんになってしまった。

で、この歌はいつもあちこちで流れていたので

かなり聴いているハズだが、

いま思い出しても、なんで少年がイルカにのっていたのか、

それが分からない。

いまも分からないが、調べようとは思わない。

ただ頭に浮かぶのは、

イルカっていつも濡れてツルツルしているじゃないですか?

イルカにのった少年って、

座ってしがみついていてもキツイ。

立っては絶対に乗れないと思いますがね。

狼少年ケンは日本の初期のアニメで

狼に育てられて大きくなった少年の物語。

勇敢で困った人を助け、正義の味方を貫く。

そのキャラに心酔したね。

日に焼けた顔に長い髪がトレードマーク。

腰みの一丁の半裸姿で沢山の狼を引き連れているヒーローである。

テーマ曲は、ボバンババンボンボンバボンバボン…

この曲は、最近では佐々木希、佐藤健、渡辺直美が出ているロッテのCM

フィッツという商品に盛んに使われていたので、やはり名曲なのだろうか?

きっとCMプランナーだかクライアントに私と同世代のおっさんがいたのだろう。

じゃなきゃ、こんな古い曲を知る訳もない。

きっとその人も狼少年ケンが永遠のヒーローなのだろう。

幼い日に刻まれた記憶は生涯色褪せない。

という訳で、ちょっと話の似たジャングルブックと話を被せたかったが、

そんな知識もないのでやめようと思った。

しかし気になったのは、狼に育てられた少年だか少女だかが、

海外にいた、というテレビを過去に数回観たこと。

うーん、嘘だと思う。

ただ、ジャングルブックの冒頭だったかに、

 ―ジャングルの掟は青空のように古い真実―

というフレーズがある。

この一節はとても素敵だ。

さてこの話、前の話と前振りが長かったが、

ようやくマグロ少年の話である。

マグロ少年は、いまからざっと20年前に見た、

当時小学生のガキである。

元気なら、現在は30才くらいの若いおっさんに育っているハズだが、

とんと見かけない。

というか、見かけたところでいまさら判別もつかないが。

彼は当時、ぷくっとした肥満したお腹を抱え、

父親に連れられてウチの近所のこじんまりとした回転寿司屋に現れた。

かんぴょうだかセコい寿司をコネコネしながら食っていた私の横に

彼はどすんと座ると、突然せっつくような力のない声で、

「おじさんマグロ!」とカウンター越しの板さんに、

お願い事のように声を絞り上げたのだった。

うーん、こいつ相当腹が減ってバテているなぁと、

私はこの少年を本気で心配した。

それは他の客も同様で、

一瞬寿司屋店内がしーんと静まりかえったのを覚えている。

そうだ、この少年の腹を満たしてあげることを優先しよう、

我々は少しオーダーを控えて静かにしていよう、

どうしても食いたいのなら

ベルトで流れてくるカッパ巻きとか玉子でも食っていようっと…

ガキは、それから「おじさんマグロ、おじさんマグロ、おじさんマグロ

………これをずっと繰り返して、

ざっと10皿くらい食った後だったか、

突然「おじさんイクラ!」とオーダーしたのだ。

この頃にはその少年も正気を取り戻したようで、

さらに悠然となりつつ、どんと座っている。

目も座っている。

おお元気が出たのかと、

ずっと押し黙っていた私や他の皆さんも、

血色が戻った余裕の少年が、

「イクラね」と偉そうにオーダーをしたのを機に

だんだんとイライラとしてきたのだった。

一方、その少年の父親はというと、

華奢な細い体で肥満した少年の横にちょこんと座って、

なんだか薄ら笑いを浮かべているだけ。

でこの二人、なんだか全然似ていないのである。

が、少年は彼のことをパパと呼んでいたので、

それに従って親子として話を進めるがね。

エヘン!

で、この父親は終始何のオーダーもしないで、

我が子の食いまくっている姿をみては目を細めている。

なんだか店内に妙な空気が漂ってきた。

そろそろウニの軍艦巻きを食いたいなぁと思っていた私も、

連続で板さんを拘束しているその少年にムカつき始める。

思えば、そもそもの話になるが、

私の小学生時代なんぞ、寿司は年に一回のみの摂取だった。

正月しか食えなかったんだぞ!

あとは、誰かが死んだときに寿司が振る舞われる。

いわゆる精進落としのときだけしか食えなかったのになあ、

と考えると、さらに頭にきた訳だ。

これは他の客も同様らしく、

皆さんもみるみる不機嫌そうな顔になっていくのが分かった。

ああ、寿司食って不機嫌はよくないなぁと私は思ったね。

なのに少年がイクラを頼んだあたりから雰囲気最悪。

父親はというと相変わらずなんも食わないでニコニコしている。

これには輪をかけて頭にきたね。

しびれを切らしたか、客の一人である職人風の兄さんが、

「中トロ3皿握ってよ」と捨て鉢に言うが早いか、

その少年が後追いでデカくてパワフルな声で

「おじさんマグロ3皿ね!」と発した途端、

店内には凶悪な風がビュービューと吹きましたね。

さて彼は今頃どこでどうしているのだろう?

地元のジュース工場で働いているのだろうか?

いや、良い大学を出て、東京の商社にでも勤めているのだろうか?

あれから恋なんかして、少しはスマートになったのだろうか?

あの華奢で痩せたお父さんはいまもご健在なのであろうか?

気になるなぁ、

いろいろと下らない事を思い出しては想いを巡らせる、

今日この頃ではある。

ひょっとして私は年を取ると発症するという、

あの過去完全再現型妄想心配症候群なのであろうかね。

気持ちのいい景色

印象に残る景色というのはそれ相応にあるが、

気持ちのいい景色というのは、

どうも季節とか気温とか風なんかに影響されるようだ。

気温が30度をゆうに超している道路を、

なぜか独り歩いていて、

その道路は上り坂でゆっくりとしか歩けない。

先がカーブしていてブラインドになっているのだが、

まあその先も同じような景色が広がっているのだろうと、

私は勝手に思っている。

道路の脇には規則正しく、葉のない木が並んでいる。

幹や枝はそこそこ太く、途中で折れているのもある。

アスファルトが、暑さでゆらゆらと揺れている。

風が全く吹いていない。

この情景は架空だが、

私が幾度となく繰り返して夢で見る、

またはふっと想い出すように現れる景色なのだが、

それがホントは実在するものなのかどうかはハッキリしない。

が、この景色が浮かぶ度、

なぜか懐かしく気持ちがいいのだ。

中東の上空を飛んでいるらしいことは、

なんとなく分かっていたが、

機体が突然揺れはじめてものすごい嵐に遭遇した。

どうやら積乱雲に突っ込んだようだ。

稲妻が横に走って、翼あたりに落ちたような気がした。

窓側に座っていた私はその様子を見ていて、

ガタガタと揺れる椅子で目をつむった。

それからどのくらいの時間が過ぎたのかよく分からないが、

機内にふっと静けさが戻ると、

皆気が抜けたのか、知らない隣の人と

急に笑顔で話しだしたりしている。

私が再び窓越しに目をやると、

静けささえ感じることのできる

おだやかな暗い夜の空が広がっていた。

下に目をやると、暗闇のなかにひときわ際立つ、

燃えさかっていると思われる何かが見えた。

静けさに広がる闇とオレンジ色のコントラスト。

これが中東の油田地帯であることは、

機内アナウンスで知った。

まあ、これはほっとした景色とでもいうのか。

長野県の佐久にコスモス街道というのがあるが、

私はそこが有名な道路ということも知らずに走ったことがある。

夏とはいえ、信州の高原は風が吹けばとても気持ちがいい。

遠くの山並みの緑が光って濃淡を放っている。

道の脇に色とりどりのコスモスが群生している。

くるまを進めるとコスモスが風に揺れて、

ちょうどおじぎをしているようにも見えるし、

踊っているようにも思える。

くるまに吹き込む心地よい風。

カーステレオから流れるフォークソング。

意味のない彼女とのおかしな会話。

思えば、気持ちのいい景色などと書いておいて、

書きたかったのは、

忘れ得ぬ時間だったのかも知れない。

贅沢な時間

最近、自分で贅沢だなと感じるのは、

たとえば夜、風呂から出て寝るまでのわずかな時間に

古いポップスを聴きながらぼおっーとすること。

聴く曲は、そのほとんどが洋楽。

最近はなぜかカーリー・サイモンが多い。

他は、ジョージ・ハリスンのマイスィートロードとか

ジャニス・イアンの17才の頃とか

パティ・ペイジのテネシーワルツとか。

聴くのはYouTubeだから、音にはこだわっていないし、

曲の頭にPRが入っても仕方がないと思っている。

一体、これらの曲にどんな記憶が刷り込まれているのか、

自分でもホントのところはよく分かっていないのだが…

きっと10代の後半に何かがあって、

そのなかの忘れてしまったエピソードみたいなものと

リンクしているのかも知れない。

そのくらい鷹揚で、のんびりとした時間が過ぎてゆく。

そうすることで、とてもハッピーでいられる。

こうして聴くともなく流れる時間があるということは、

要するに緊急の問題とか心配事がないということ。

いや、あったとしても、必要不可欠な時間だ。

ふと、自分の若い頃の映像がよみがえる。

いま思い返すと幸せな時だったように思えるが、

現実的にその頃なにがあったのか、

冷静に振り返ればロクな事はなかった。

いまは穏やかな気持ちにさせられるから、

夜は、とりわけ遠い過去の記憶は、

私のアタマに巧妙な細工が施されるのだろう。

時間の流れというものは、とてもやさしい。

そして、やれやれとベッドに入って、

昨晩の小説の続きを読む。

ここでも最近のものは読まない。

ジャンルはアクションでも推理でもなく、

主に80年代のある種かったるいものが最近の傾向。

なぜか以前は全く見向きもしなかった片岡義男が、

現在の私の愛読書である。

近々では、「彼らがまだ幸福だった頃」が良かった。

この小説は、時間の流れが丹念に描かれていて、

その空気感のようなものに気づかないと、

この人の小説は結構辛いものとなる。

そしてもうひとつ。

彼の実験的な文が、

実はとても興味をそそるのだ。

「彼らがまだ幸福だった頃」という小説は、

或る男と女がバイクのツーリングで出会い、

夏から秋にかけてを過ごすストーリーなのだが、

主人公の青年が相当なカメラマニアで、

相手の女性が圧倒的に容姿が美しい。

小説全体は、心理的表現というより視覚的な描写が、

ほぼそのすべてを占める。

青年は、知り合ったこの美しい容姿の女性を

被写体として、夏の高原のホテルから

秋までを執拗にカメラに収める。

ストーリーの進み具合はとても細密で、

ひょっとして時間が

このまま止まるんじゃないかと思うくらい、

ある種執拗なまでの情景が描写されている。

最初の読み始めの頃に感じたのは、

この主人公はひょっとして変態なんじゃないかと。

しかし、これがやがて

主人公の絵づくりに対する探究心に変化する。

確信犯的な書き方もこの作家の才能であろうし、

なにより小説による視覚化、映像化に賭けた

片岡義男の挑戦ともいえる書き方には驚かされる。

とここまで書いてきて思うのだが

こうした作品は、或る人にとっては

時間の無駄になるのかも知れない。

冒険ものみたいなワクワクもドキドキもない。

だけど、彼の作品は、

とてもたおやかで贅沢な時間が流れている。

言い換えれば、創造力が作り上げた贅沢、

とでも言おうか。

深夜、疲れた心身をベッドにもぐりこませ、

さてと、こうした贅沢な物語りを読み進めるとき、

こちらも貴重な時間を消費する訳で、

これほどの相性の良さは他にないと、

最近になって心底思うのだ。

テレビもネットも、

ザラザラしたものばかり。

みんなとても窮屈している。

そしてキナ臭い。

やはり時として、

現実逃避的な時間って必要だ。

なにより救われる。

贅沢って素敵だ。