或る虚人の告白

悲しいことが多い世の中です、と言いたい。

震災のとき、私はまず、神さまの存在を疑った。

救われない現実と思った。

振り返るに、震災前の今年の正月、

私は幾つかのお願いごとを書いて、神棚に上げた。

そのなかに何故か、大きな地震が起きないようにとある。

元来、信心深い性質なので、

それが神道だろうが仏法だろうが、

そんな教えを身近に感じて、

いままで生きてきたように思う。

そして最近、漠然とだが、

神的存在とやらを疑っている。

また、

神的存在はあるが、そのなかで生きている私たち、

という冷めた世界観もあるのでないかと考えた。

例えば、宗教は単なる慰めなのか?

生きること自体が苦行と考える宗教なら、

そんな教えを与える存在とは、

かなり傲慢とも思えるのだが。

神話では、

神同士が戦い、更には殺し合っている記述もある。

また、嫉妬という割と下世話な心の動きも多々ある。

我々と何が違うのかと深読みも試みたが、

そこは意外に受け流されている記述が多い。

答えようがないのかも知れない。

もし、古神道またはアニミズムのように、

この世総て、隅ずみに至るまで神が宿るのなら、

この神的存在は、私たちをじっと眺めているだけということになる。

逆に、悲劇さえもコントロールしているとも考えられ、

それはまた、救われない解釈としか言いようがない。

信じるものは救われるというが、本当にそうなのか。

聖書の

ヨハネの言葉には、予言めいたものが多いが、

そこには、良いことはほぼ書かれていない。

例えば、或る章に、

子羊が七つの封印を開封する、と言うのがあるが、

これは、簡単に書いてしまえば、

勝利、戦争、飢饉、死、復讐、地震と天災、祈りだ。

人間の傲慢さが、いろいろな災いをもたらすと言っているのは分かるが、

ほぼ世界は、苦しみに満ちていると表現しているように思う。

それが人間の業なのだと、突き放しているようにもみえる。

(私たちは、幸せになるために生まれてきた)

誰だって、心の拠り所がなければ、

永らくは生きてゆけないだろう。

よく、何かとんでもないことが起こると、

神がお怒りになったと言う人がいるが、

そんな短絡的な思考停止は、

人間を益々臆病にするだけだ。

(実際、聖書で、神はよくお怒りになる)

また、人間こそ神の子だとする教えもあるが、

ならばと反論する意欲も失せるほどに、

いま、私たちは疲れている。

が、尚更に強く、

いま、私たちは幸せになるために生まれてきた、

と思いたい。

拠り所は、心に宿る意志だけなのか。

これで充分だろうとも思う。

しかし、

いまこの時代に

不安定な心に、

もし、神が手を差し伸べてくれたらとも考える。

それは、私たちの存在理由を問うたときの、

生まれ出ずる悩みであり、

やはり、神的存在は欠かせないと思うからだ。

如何様にもがいても、

それが人間なのだから。

「或る虚人の告白」への2件のフィードバック

  1.  
    スパンキーさんとしては、かなり異色のテーマに挑戦されたようですね。
    しかし、宗教というもの、神様というものに対して真っ向からぶつかっていく姿勢に、共感するものを感じました。
    そして、ものを考えるときの、いくつかのヒントをいただきました。 
    個人的には、 「宗教とは何か」 を考えることは、永遠の迷路に入り込むようなものではないか、という気がしています。
    信仰を持てば、その問い自体が消えるのでしょうが、信仰の世界に入らないかぎり、それは 「答のない問い」 を探すための、荒野の旅であるように感じています。
    そして、私は、その 「荒野の旅」 が好きです。
    別の言葉に置き換えれば、それは 「哲学に挑むこと」 であるかのように思います。
    私は、最近ある本を読んでいて、キリスト教とか仏教の経典に描かれているような 「神様」 や 「仏様」 と、実際のキリストや釈迦が視ていた 「神様・仏様」 とはまったく違うものではないかと考えるようになりました。
    彼らが視た 「神」 というのは、たぶん、われわれが、いろいろな物語とかドラマからイメージする 「神様」 とは、違うものではないかと思うのです。
    もちろん、それがどんなものであるのか、私の乏しい想像力では理解できませんし、また実際に信仰を持っている多くの信者たちも、きっと把握できていないでしょう。
    ただ、ふとしたときに感じる 「神の影」 。
    おそらく、そんな気配としてのみ、神は姿を現す。
    それは、命においても、思考においても 「有限」 である人間には、誰も把握できないし、想像することさえできない。
    「無限」 という観念を手に入れたときだけ、それは解かる。
    でも、「有限」 の人間には、その 「無限」 が想像的できない。
    スパンキーさんの考察を拝読し、自分はそんなことを考えることができました。
     

  2. 町田さん)
    —信仰の世界に入らないかぎり、それは 「答のない問い」 を探すための、
    荒野の旅であるように感じています—確かにおっしゃる通りです。
    —そして、私は、その 「荒野の旅」 が好きです。別の言葉に置き換えれば、
    それは 「哲学に挑むこと」 であるかのように思います—私もそのように思います。
    きっかけやアプローチは、人それぞれですが、誰もが一度は通り過ぎるテーマのような
    気がします。
    答えのない問題、やすらぎのない荒野。ここを通るとき、人は何かに試されているような気もします。
    そもそも、足りない想像力と知識で考える神的なものは、その取っ掛かりからして間違っている—
    そのようにも思うのですが、町田さんの言われるように、神さまの影・気配のようなものは、感じることがあるので、
    とても探求心をそそられます。
    ホーキング博士のように、「神はいない」と断言される方もおられますが、彼は特別。この問題はいつも
    迷宮ですね?
    だだ、有限な私たちが、なにかよく分からない、得体の知れないものを感じて掴むとき、
    それは心中に一種、悟りのようなものが得られるかも知れない。それは、
    人としては画期的に面白い体験ではないかと思うのですが。
    いつも、コメントありがとうございます。

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