普通である、ということ

今日は天気がいいので

窓の外が明るい。

パソコンを前にして

なんだか、そわそわする。

外が気になる。

「どう、今日は暖かい?」

買い物から帰ってきた奥さんに

さらっと聞く。

「そうね、もう春ね。向こうの山も

ちょっと霞がかかっているみたい。

動いていると汗ばんでくるわよ」

「ふーん」

気のない返事はしてみたものの

内心穏やかではない。

貴重な土曜日だというのに

朝から残務整理だ。

「まだ、かなりかかるの?」

「うーん、いや何とかするよ」

12時を回ったので、奥さんが

トーストとハムと卵のペースト、

そして簡単なサラダと紅茶を用意してくれる。

テレビをつけると、カウントダウン・TV。

まあ、私はどうでもいいんだけど、

東京の新トレンドスポットなんかを紹介している。

奥さんが、「ふうーん、ふうーん」と頻りに

関心している。

「美味しそうだね?」

私が水を向けると

「でもやっぱり高いわね。東京は」

「そうだね」

カーテンの向こうがまぶしい程にきらきらしている。

庭に、鳥の鳴き声が聞こえる。

「散歩、行こうか」

「いいの、仕事?」

「月曜日に早く起きて片付けるよ」

食事を済ませて、

一応、家の中の主な家電のスイッチを切る。

スニーカーを履いて表に出ると

私の頭の仕事のスイッチも切れた。

近所の家の屋根や外壁が

日差しで照り返っている。

「なんだか、牢獄から出てきたような

感じだな」

私がつまらない感想を言うと、奥さんは

ケラケラと笑った。

住宅街の西は、高い丘の上のようになっていて

下の国道が見える。

その向こうに山が連なり、

ゴルフ場の辺りの緑も、

心なしか色づきが濃くなったようだ。

空に、雲がぽかんと数えるほど浮かんでいる。

ふたりで、雲のかたちについて、

山の色づきについてや、

たわいない話をいくつか交わして、

住宅街の家々の前を歩く。

ひとの家の庭先の花を見て、奥さんが

「綺麗ね」と言う。

散歩のときは、なぜか実家の話や

子供のことや、リフォームしようか?

なんていう話題も飛び出したりする。

大方、どうでもいいような大事なような

そんな話ばかりだが、こうした時間が、

最近、私には愛おしいと思える。

普通の家に住み、何のことはない普通の生活。

普通に家のローンが残っていて、

人並みの預金残高なのだろうか?

思えば、何もかも普通なのだが

さて、この普通ということは

一体どういうことなのかと、ふと考える。

この定義は、割と考える程に難しく、

意外と奥が深いことに気がついた。

思えば、結婚して子供が生まれ

独立して、もう駄目だ、ということも

何度かあった。

家族の病気も危機も幾度かあった。

数年前に父がいなくなり、奥さんの母親もまた

いなくなってしまった。

が、いまはふたりの心もだいぶ癒え、

とりあえず普通の状態に戻った。

上をみれば切りがない。

下をみてもきりがない。

私がこの頃ぼんやり思う

「普通」というこの毎日の繰り返しが、

とみに愛おしいのに気がついたのは

つい最近のことだった。

「普通である、ということ」への4件のフィードバック

  1. いいですよね、普通☆
    とっても共感できました!
    なんてことない時間が、やさしい気持ちをつくっているような。
    ”同じセリフ 同じ時
    思わず口にするような
    ありふれたこの魔法で
    つくり上げたよ”
    読んでいたら、スピッツの「ロビンソン」が浮かんできました^^

  2. chiaki さん)
    振り返ると、あのときは下手したら死んでたんじゃないか、とか、破産していたな、とか、離婚していた他いろいろありまして、最近思うに、上の文のような心境になりました。
    じじいの境地ですかね?(笑)
    日常はとりとめのないものの連続ですが、何かそこに感じるものがあれば、普通もまた良いものです。
    私の普通は、もちろん他の方と較べれば、その基準が違うのでしょうが、軸はしっかりともっていたいと思います。
    コメント、ありがとうごございます。

  3. いいテーマですね!
    「普通の貴重さ」
    そういうものが、解るようになるには、やはりある程度の年輪が必要になってくるのでしょうね。
    「普通の生活」 って、実は、よく考えると実体のないものなんですよね。
    それは 「忙しい生活」 とか、「緊張した生活」 の中にいないと、見えてこないもので、そういう 「生きるための生活」 のちょっとした切れ目の中に、存在するようなものに思えます。
    だから、そこに温かさがあるし、優しさも見えてくるのかもしれませんね。
    家族との “ドラマ性を欠いた” さりげない日常会話が、いかに感動的なものなのか。
    それは 「追われる日々」 の対極にあったものだからで、だからこそ貴重なんだろうな…とも思います。
    そういうことに気づかせてくれた記事のように思いました。
     

  4. 町田さん)
    最近、ちょっと余裕が出てきたせいか、普通の生活にちょっと浸ってみまして、こういうのも良いんじゃないかと、ふと思った訳です。
    皆誰もいろいろなものを抱え、生きているでょ?あまり良い世の中ともいえないし、不安も相当ある、と思います。
    普通ってひとそれぞれですが、私は普通の生活というものに、とても平和を感じます。
    町田さんは察するに、いま戦闘状態ですね?早く普通の生活に戻れることを祈っていますよ(笑)
    5月か6月は富士の裾野でリラックスしたいですね?そのときは宜しくです。
    コメント、ありがとうございます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.