夏の終わりに
キャンプに出かけた
ディレクターズ・チェアに腰をかけ
コーヒーを飲みながら語らい
その日は
いつまでも湖面を眺めていた
あのとき
時間は幾らでもあるような気がした
夜明けに目が覚め
例のチェアでタバコを吸い
ふと見上げると
赤富士の姿が悠然と広がる
湖面も鏡のように
その姿を映し出す
それはつかの間だったが
いにしえからのいわれ通り
私は幸せになれるような気がした
キャンプから帰って数日後に
おふくろが倒れた
仕事を放り出して
いろいろやったような気がする
おふくろはいま
病院を無事に退院したものの
介護なくしては暮らせない
難しい問題も山積している
時間が足りないなと思った
一度だけ
なんとかやりくりして
再度行きたいと思っていた
出雲大社の分社へ足を運ぶ
雨上がりの日差しがまぶしい
気持ちの良い風が
社内の笹林を揺らしている
少し気が晴れたと思った
天気も良いので
そのまま海へ向かう
茅ヶ崎で渋滞にはまり
都合良く
ゆっくり考え事をする
(幸せは
相対的なものか絶対的なものなのか?)
それは
きっと自分の価値観に沿って
感じるものなのだろうと・・・
久しぶりの江ノ島は
なにかイベント事があったようで
人でごった返していた
ここからの夕景が見たかった
弁財天は行かず
おみやげ屋も覗かず
橋の近くに置かれた椅子に座り
海と空をじっと見ていた
それは飽きるまで
暗くなるまでそうしていた
あまり知られていない裏通りの喫茶店で
オリジナルブレンドだという
コーヒーを飲む
うまいかまずいかよく分からないが
独特の苦味と香りは良いものだった
秋の虫が鳴いている
人の雑踏がさらに消えてゆく
(幾ら生きても年を重ねても
分かったようで分からないこと
分からないようで分かったことが
増殖する)
私は
幸せの正体を掴んだような気がするが
果たしてその実相は
また駆け足で逃げてゆくような気もする
(まるでチルチルミチルだ)
打ち寄せる波
何も釣れていない釣り人
孤独そうな老人が
ベンチからじっと
暗く揺れる海を眺めていた
スパンキー様。
これは素晴らしい記事ですね。
コメントを入れるにも、厳粛な気分になります。
何が人間にとって、しあわせなのか。
分からないながら、その 「しあわせ」 たぐり寄せようとしても、つかもうと手を伸ばすと、もう虚空に漂う自分の手を、むなしく眺めているだけ。
そんな、微妙な心の動きを、さまざまな情景と小道具を重ねながら、見事にとらえていると感じました。
お母さんを大事にしてあげてください。
自分は、キャンピングカーを持ちながら、ついに、母を家族としてキャンプに連れていってやることができませんでした。
ただ、たった一度だけ、日帰りでしたが、母と二人だけで、春のキャンプ場を訪れたことがあります。
オーニングを出し、その下に椅子とテーブルをセットして、コーヒーを沸かしました。
母はそれをおいしそうに飲み、花を摘むように、キャンプ場の芝生の上を自由きままに歩いていました。
たった一度だけ。
でも、その時間を持てたことが、今としては、せめてもの救いです。
年をうまく取るということは、そのような小さな思い出をどれだけ抱えられるかで、決まってしまうのかもしれませんね。
このエントリーからは、いろいろなことを考えさせられました。
町田さん)
町田さんのお母さんの姿を以前ブログで拝見しました。確か、オーニングの下で座って居られたと思いますが、あの写真こそ、町田さんの思い出の一枚なんですね?
私も昨日、おふくろに付き添っていまして、なんとか歩いてもらおうとほぼ抱えながら何度か試しましたが、私の手に負えるものでもないようなので、今日は専門家と今後の方針を決める予定です。
さて、しあわせを考えるという意識は、言い換えれば贅沢な環境下の人間なのかも?という意識が私にはありまして、どうもそこがよく分からない。
どの時代のどの地域の人々が、こうした概念を思いついたのか私には分かりませんが、こうした意識は深く死生観にもかかわるような気がします。
こうなると、宗教とか哲学の出番なのでしょうけれど。
が、こういう事を考えられること事態、しあわせなのかなと思うこともあります。
例えば、先日アフリカのエリトリアという国に関してのレポートを観ましたが、誰もがいつ死んでもしょうがない貧しさと、圧政による労働と抑圧で、とてもしあわせなんて考える状況ではなく、生きているだけでもそれが良いのか悪いのかまで追い込まれるような人たちを見ました。
そういう訳で、私の頭の中は混沌としているのですが、こんなことをクリアにする必要はない、といのも私のいまの心境です。
だって、人間という生き物自体が大きな矛盾をはらんでいるとも思うので、それはそれで業だと観念しております。
コメント、いつもありがとうございます。