その湖は、
標高の高い山あいに位置し、
夏は白鳥が泳ぎ、
冬はワカサギの釣り場となる。
この湖を初めて訪れたのは中学生のときだった。
水泳部の自主練として、
バンガローに寝泊まりしながら、毎日泳いだ。
競泳目的で湖で泳ぐことは、あまり意味がない。
これは大義名分で、
みんな遊びたい一心でここに来た。
ボートを一艘借りて、皆で遠泳に出る。
湖の横断に挑戦するためだ。
部活仲間は皆、
躰を慣らすだけで数㌔泳ぐ猛者ばかりだったので、
なんのことはない遠泳だった。
が、泳ぎ始めると、水温の変化に躰がついてゆかない。
ときに冷蔵庫で冷やしたような水が、すっと躰を覆う。
これは事前に本で読んで分かっていたことだが、
皆、激しい体力の消耗に襲われた。
心臓がきゅっとなる気がした。
次々にボートに上がり、紫色になった唇を震わせた。
が、誰も棄権する気配はない。
タオルで躰を拭いて一息吐くと、また飛び込んで泳ぎ出す。
ゴール手前の湖面は藻が水面まで繁茂しているので、
足を絡まれないように、皆で用心深く泳いだ。
ここをなんとか通過して全員が岸に近づくと、
そこで寝そべっていた人たちが、
総立ちで僕たちに拍手を贈ってくれた。
歓迎された僕たちは、そのまま岸に倒れ込み、
その冷えた躰を甲羅干しにした。
どこからともなく森山良子の「禁じられた恋」が、
流れてきた。
誰かのラジカセから、それは聞こえた。
僕はその頃、同じ中学に好きな女の子がいて、
ずっと告白できずにいた。
噂によるとその子は大きな家に住んでいて、
とても親がうるさいらしい。
あの子は大変だよ、と誰かに聞いたことがある。
夕方は皆くたくたに疲れていたが、
飯ごうでご飯を焚くのが楽しみだった。
メニューは、カレー。
これしか知らなかった。
大騒ぎしていると、
隣の女子大生のお姉さんたちが、
後でキャンプファイヤーをやらないかと声をかけてくれた。
火を囲みながら、幼心にこの人たちに恋人はいないのだろうかと、
僕は思った。
マイムマイムを踊って盛り上がり、
どこから持ってきたのか、
このお姉さんたちと花火をバンバン鳴らした。
バンガローに戻っても寝つけない。
とても刺激的な合宿だったからだ。
ざこ寝仲間の気持ちもオープンになった。
お互いに好きな女子の名前を告白しあい、
僕は記念にと、
その女の子の名をバンガローの板に、
ナイフで刻んだ。
翌朝、湿気の多いもやの中を歩くと、
雑木林にうっすら陽が差し込んできた。
湖面をみると白鳥が動かないでいる。
シンとした不思議な時間だった。
どこかで早起きしたグループの騒ぎが聞こえてきた。
腹が減ったのか早々と朝食の用意をしているらしい。
その方角から、
浅川マキの「夜が明けたら」がきこえる。
夜が明けたら
一番早い汽車に乗ってゆくから…
あの夏から、僕は数え切れないほど、
この湖を訪れている。
ある真冬の日、ここの湖岸にクルマを止めて、
凍えるような朝を迎えたことがある。
ヒーターを全開にして、毛布をかけて仮眠していた。
氷の上で、男の人たちがワカサギ釣りをしていた。
白い吐く息がみえる。
そのうちのひとりがクルマに近づいてきて、
一緒にやらないかと誘ったが、遠慮した。
隣にいた彼女が、寒いのは嫌だと言ったからだ。
僕は眠い目をこすりながら、
白く凍った湖の対岸をみていた。
林のなかに、もうあのバンガローはなく、
白い立派なホテルのようなものが建っていた。
あの夏、一緒に泳いだ部活仲間はいまどうしているだろう、
そんなことをぼんやり考えていた。
大学生になった僕は、
なにもかも新しい世界に飛び出すことだけを目指していた。
しかし、あの夜、バンガローの壁板に刻んだ人の名が、
突然、胸騒ぎのように僕を急き立てた。
朝方、隣の彼女を寝かせたまま、
僕は峠を越え、クルマを走らせた。
もやもやとしていた自分の気持ちがハッキリみえた気がした。
後年、僕は、
あのバンガローに名を刻んだ奥さんと、
久しぶりの休暇でこの湖を訪れ、
例のキャンプの話をした。
女性の話は未だしていないが…