毎日が新鮮!

最近はなにかと忘れっぽいので
メモは欠かせない。

そもそもどんどん忘れる質なので
それに拍車がかかった。

夕飯にカレーライスを食べても
翌日もカレー、カレーでもOK!

なにしろ忙しいと、おやっ?とさえ
思わなくなった。

「おーカレーか、美味そうだなー!」
で終わり。

ラーメン、ラーメン、ラーメンでもイケル。

しかし
おじや、おじや、おじやっていうのは
流石に嫌だね。

私はおやじだから、語感が似ていると
即座に反応してしまうので、おじやは
かんに障る。

けんか腰になったりして(笑)

で、
仕事柄、やっていることも毎日違うので
ルーティーンワークというものがない。

案件というものは、ほぼ総て違うので
オーダーメイドと同じ。

流し仕事というものがないので、
疲れると言えば疲れますがね。

とこうして書いてみると
「毎日が新鮮!」
と言いたいところだが
いやいや、違う。

ムカシ、いろいろな所を訪ねて
取材し、写真なんかパチパチ撮っていた頃が
懐かしい。

これはホントに毎日が新鮮でした。

ところが旅ばかりしていると
やはり家が恋しいのね。

勝手な奴だな、とお思いでしょうが
人間、こんなもんです。

寿司屋の息子は寿司が嫌い。
肉屋の娘は肉が苦手。
八百屋の嫁は野菜以外が大好き。
なんだなー!

人間は社会が成熟してくると
贅沢になる。

どんどん嫌な奴になってゆく。

「縄文人が懐かしいな」

とつまらないオチで
この頁を終了します。

(このボケが!なんて怒らないでくださいよ。
時間ができたら真剣に書きます。ハイ!)

アメリカ

大っ嫌いなのに気になる奴っていますよね?

私の場合、アメリカなんですね。

アメリカ嫌い。

アメリカ本土になんか行こうとも思わないし
カリフォルニアもニューヨークもTVで観る度に
へぇと思って観ている程度。何とも思わない。

アメリカ圏には行ったことがあるが
嫌な記憶が蘇ってきた。

レンタカーを運転していて道に迷い
たまたま辿り着いた所に
米軍のゲートがあったのだ。

で、いきなり白人の女兵士から自動小銃を向けられ
怒鳴られたのだが
コイツ等本気で戦争モードなのが分かった。

アメリカはいつも傲慢だ。

自由と平和の名のもとに、数多くの殺戮を繰り返したし
それが対共産主義といえども見過ごす訳にはいかないものが
多すぎる。

ベトナム戦争は、その象徴だ。

世界の警察ともいえるアメリカだが
仲良くするには金がかかりすぎる。

MDシステムなんかは、その最たるもののような気がしてならない。

日本政府はアメリカに従順だ。外交で劣る日本政府はもう少し
目を凝らして世の中を見た方が良い。

世界は生きものなのだ。

アメリカ一本槍の片想いは、もうふられたようなものだ。

アメリカは日本を飛び越して、いま中国に熱心だ。

かように、アメリカという国は義理に欠ける。
打算で動いているだけだ。

と、かなり辛辣にアメリカ批判を書いたが、しかし
私は小さいときから学校でアメリカ配給の脱脂粉乳を
飲んで育った。

チョコレートといえばハーシーズが好きだったし
ディズニーのダンボの絵本は、私の宝物だった。

日本のマクドナルド1号店で、必死にフィレオフィッシュに
食いついていたのも昨日のことのようだ。

なんかイライラしてきた。
政治とカルチャーがゴチャゴチャだからか?

いやいや、
こうして、私たちは侵略されているのだ。

私はその昔、つまんねー歌ばかりが聞こえる頃
スゲーッと思った曲がある。

その歌は斬新でリズミカルで、なんだか自然にカラダが
踊り出すようなパワーをもっていた。

弘田三枝子が歌っていた「バケーション」だったのだが
私はこのとき、幼いながらアメリカの臭いを嗅いでいたような
気がする。

アメリカンポップス。R&B、ロック。映画では「風と共に去りぬ」
でスカーレット・オハラに恋をした。

こうして私に染みついているアメリカよ!

お前はホントに嫌な奴なのだが、なんだか気にかかる、
私には近くて遠い国。

この曲を聴くと、私の幼い頃の心象風景が鮮やかに蘇るのは
みんなアメリカのせいなのだ!

風の詩

飲み干したジンのグラスから

こぼれて溢れる言葉は

踊るように庭を飛び出し

外気に乗って

風になった

風は言う

私はこれから世界を巡るけど

もうあなたの所へは

帰れない、とね

風は旅人だという

二度と帰らない旅人だと

構わない

せめてこの言葉を

誰かに届けてくれ

世界の何処かに、誰かに

風は海を渡り

草原を越え

そして

果てしなく続く砂漠に

降り立つ

遠い遠い国の風は
年をとった

もうあれから
どの位の時間が
経ったのだろう

やがて

誰もいない砂漠で

風は命を閉じた

砂の上に

言葉だけが転がっていた

誰にも届かない言葉

風は旅人

決して戻ることのない

旅人

今夜もまた

言葉はグラスに溢れ

カーテンを伝い

窓際から表へと

消えてゆく

言葉は

風に混じり

そしてまた

世界を巡る

きっと私も

一夜の旅人なのだろう

ロンサムカーボーイ

決して沈まない太陽が
山肌に垂れ下がり
ほおづえをつきながら

笑う

ちりちりと枯れ草が焦げ

溶けたアスファルトが
悲鳴をあげる

ロンサムカーボーイ

赤い土を蹴飛ばす
傷だらけの
凹んだ皮ブーツ

「ここで
純白のドレスをまとった女神に
出会うことなんて
まずないぜ」

総ての想いが干上がり
そして
オレのアタマの中は
無に帰るのか?

ひび割れた唇から
懐かしいメロディーがひとつ

それは消えてなくなる
最後の言葉

ロンサムカーボーイ

あのオトコが
わかれ際に吐いた台詞が
笑わせる

「また会おう!」

土埃を舞い上げ
やがてオレは
ここから消えてゆくのだろう

一匹のサソリが
穴から這い出て
言うには

オレという人間は
ロクデナシ
らしい

ロンサムカーボーイ

裏切り者は
遠い町で女と恋に落ち
水をたらふく飲むことを
夢見る

ここは掟の町

なにも変わりはしないのだ

なにも変えたくないのだろ?

死人の町の秩序は
いつだって
こうして

保たれているのだ

ひまわり

何故

あなたでなければダメなのだろうと

アタマを冷やして

考えてみる

行きがかり上だよって

つぶやいてみる

でも

思いつく他の誰かを

幾つもの生活のなかに溶け込まそうとしても

無理があるのは

オレの想像力の限界なのか?

時計を逆回りにしてみても

ホントは何も変わらないんじゃないか?

みんなそう信じて生きている

だから愛っていうのは

喜劇なんだ

あなたでなければダメなんだという気持ち

だから

愛っていうのは面倒くさくできている

だから

愛っていうのは

切ない

切ない

悲劇なんだ

お家へ帰ろう

景色が泣いていたら
ひとりぼっちの証拠だ

心は嘘をつかないし
あなたを映し出す

孤独が好きだと
いつか想った

ひとりは気兼ねがなくていいねと
話したこともあったっけ

でも
どこまで歩けるだろう

ときどき感じないかい?

気持ちも一緒だったらって?

喜んでくれるひとがいる

悲しんでくれるひとがいる

ただそれだけで

人生って奴は

豊かに実るもの

さあ

笑って笑顔で

お家へ帰ろう!

私を育ててくれた?会社

私も最初から会社を興した訳ではなく、
コピーライターとして幾つかの会社を渡り歩き
育ててもらった。
そのなかで、とてもユニークな会社があったので、
ちょつとご紹介しておこう。

その広告制作会社は表参道にあり、取引先も一部上場の会社をはじめ
名だたる企業がクライアントだった。

いま考えると不思議なのだが。

私は制作チームにいた。
コピーライターとデザイナーは、部屋が分かれている。
お互いに用のあるときは、自らラフを持ったりして相手を訪ね
喧々囂々やり合う、と言いたいところだが、
何故かこの職場に気難しい奴はひとりもいなかった。

その頃、「気まぐれコンセプト」という本が売れていた。
広告代理店を舞台にしたマンガなのだが、タイトルどおり
かなりいい加減な会社が描かれている。

私のいた会社が、まさにそういう会社だった。

夏のある日、気温がガンガン上昇していた昼下がり。
私は食後ということもあって、眠気を催していた。
やる気がでない。と、ふと隣をみると
コピーライターのE君が、いきなりお香を焚き
何かを唱えだしてた。
彼のデスクには、白紙の原稿用紙が置かれている。

わぁーと思って席を立ち、隣のデザイナーの部屋へ行くと
ロックの音楽が大音響で鳴り響いていた。
「うるさいな」とわめきつつ、ヘッドチーフデザイナーと
午前の案件の話をしようと思ったのだが、彼がいない。

その部屋の入り口には、通勤に使われているサイクリング車が
2台置かれていた。世田谷から通勤しているデザイナーのものだ。
このふたりは、いつも遅刻していたように記憶している。

さてヘッドチーフだが、灼熱の屋上にいた。しかも短パンひとつの
裸。カラダにオリーブオイルを塗り、甲羅干しをしている。
ラジカセからレゲェの呑気な音楽が流れている。

結局、私も服を脱いで甲羅干しをすることになるのだが。

で、経理の女性を除いて、この会社はほとんどいい加減な人間で
構成されていた。

営業のB君は、なにかにつけ意味不明な用をつくり、愛車のアルファロメオに乗って
どこかへ出掛けて行った。帰社はいつも夜中。
何処で何をしていたか?なんて聞く人間は、誰もいない。

上司は上司で忙しいのだ。と言っても、自らの離婚問題やサイドビジネスの
ねずみ講のようなものにはまっていて、仕事どころではないのだ。

ある時私は難しい案件に悩まされ、最後の手段と思い、社長を尋ねた。
この人は、早稲田を出て、広告界では天才肌と呼ばれている凄い人だった。
彼はコピーも書き、一瞬にしてラフも起こしてしまう。
結果、ほほぅと唸るような広告の素ができあがる。

マルチな才人だった。

私がある案件について、コピーの表現方法が分からない箇所を
社長に相談しようと話しかけた。
社長曰く
「いま僕はモーレツに忙しいんだよ! 君と話している時間は30秒しかない」
と言ったと同時に私のラフに目をやり、殴り書きをして何処かへ消えていった。

まあ、よくよく後で考えるとこういうキャッチフレーズに落ち着くんだろうな
と納得できたが、社長はすでにその頃、仕事に意欲を無くしていたらしい。

じゃあ、何に忙しいのか?

笑っちゃうのだが、結局この会社は最後は潰れた。

社長は、その頃流行の「愛人バンク」なるものにはまっていたのだ。
若い女性に夢中になり、ほぼ骨抜き状態の社長が会社を経営していたのだ。

いま思えば、あの会社のダルい感じは、社長自らが醸し出す空気なるものが社内にまん延し、
社員の一人ひとりに伝染していったものなのだろう。

経営的にみれば、いま考えても恐ろしい。

私としては、後学のいい勉強にもなった。

しかし不謹慎だが、ああいう会社が存在していたこと自体が不思議だ。

いまでも時々思い出すのだが、やはり笑っちゃうのだ。

希望の詩

下弦の薄明かり
三日月の下

とぼとぼと人が行く

空には星の如く
飛行機が光ってやがて小さく
消えてゆく

何処へ?

すっと目線を上げれば
山々は遙かにたなびき

揺れて流れる雲海は
海の底に落ちてゆく

すべてが何をめざして
なぜ存在しているのかと思う

心を静寂にして想えば
知れども知れども
底なしの淵に沈み

やはり見えないものは
自分の内の行方なのか

いまだ消えない炎のように
誰も知らない秘密のように

月は東へ

悠久といえども
たったひとつの物語り
永遠といえども
限りある命

やがて月は
麓に下りれば

総てが時の溜まり場となり

そして陽は昇る

それでも
また陽は昇る

あの春の日

横浜駅より、JR(当時は国鉄)でふたつ目の駅あたり。
私が生まれ育った町だ。

いまではかなり都会だが、
昔は山あり田んぼありで
自然も満喫できた。

春も真っ盛りになると、
あぜ道にノビロという草が生える。
これを採って家に持って帰ると、おふくろは喜んだ。
なにしろタダで手に入るし、美味い。

水路にはタニシがいて食用ガエルも泳いでいた。
ヘビもカエルもバッタもモンシロチョウもみんないっぱいいた。

レンゲの花があぜ道に咲き誇っている。

周りの景色が綿菓子のようにやわらかい。

と、想い出をここまで書いたら郷愁が迫り、
少し悲しくなってきた。

みんな何処へ行ってしまったのだろう?
あの、私がいた時間は本当に存在したのだろうか?

私の記憶の断片は、ひょっとすると私のつくりものなのか?

自信がない。

いや、その風景は確かに存在した、と思う。

あんなに美しい春の風景は、私には描けない。

私の記憶の断片は、あの春の日の一日を描いている。

春は、だから私は桜ではなく、田園の春を思い出す。

私の春の原風景だ。

私は姉に連れられて、あぜ道を歩いていた。

私も姉も、ふたりしてニコニコしていたような気がする。

笑顔しか出てこないのだ。

私が足元に咲いている赤い実を摘もうとすると
姉が「だめっ!」と慌てて言う。

毒があるからダメなのだ。
その実はヘビ苺と言い、最近は見かけなくなったが
毒だらけなのだ。

その事の真意は、実は私はいまだに知らないでいるが、
ホントだと、いまでも思っている。

霞がかかった暖かい景色の中を、姉と私はずっと歩く。
やがてあぜ道が終わると、こんもりとした緑に覆われた森が表れる。

神社は、森の中程に隠れるようにして、鎮座する。

鈴なり神社。みんなはそう呼んでいた。

夜中に、誰もいない境内に鈴の音が聞こえるから、鈴なり神社。
ちょっと怖いのだ。

陽の高いうちは、みんなそこで遊んでいた。

姉は友達をみつけると、ゴム跳びの仲間入りをした。

私はいつもの缶蹴り仲間に入ろうと思ったのだが
その日は、
なだらかな斜面の中ほどに咲いている花の色に
目を奪われてしまった。

「ちょっと待って!」と言い残して、私はその花に近づいていた。

花は、太くねじ曲がったトゲのある枝に、たっぷりと咲いていた。
だいだい色をした、とても気になる美しい色だ。

私はこの木を引っこ抜いて、どうしても持って帰りたくなった。

最初は手で土を掘るのだが、トゲがあるし、根っこがみえない。

性がないので、近くに落ちていた木片をシャベル代わりに
周りの土を掘る。

しかし、掘っても掘っても根に辿り着かない。

なんだ、この木はどうなっているのだ?

私は、全身に汗をかいていた。

仕方なく、木片でトゲを削って、枝を力任せに引っ張る。
体重をかけて引っ張るのだが、枝はビクともしない。

疲れ切った私は座り込み、しばらく花をじっと見ていた。

その花は小さいのだが、花びらは厚く、とてもしっかりとしていた。

当時の私にとって、このだいだい色は、かなりめずらしい色だったらしい。

ほんわりとした春の日に咲く花。

あれから今日まで、あの花は数度しかお目にかかっていない。

それは、野生のボケの花、と後で知った。

季節も、そろそろ冬が終わろうとしている。

春になったら、私も田園地帯をめざそうと思う。

しかし、あの頃の田園風景は、もうどこにもないのではないのか。

記憶の中にしかない春なのではないのか?

せめて、花屋さんに行ってみよう。
造園にでもでかけてみようか?

もう一度
この眼で、ボケの花がみたいのだ。

愛のままで

夜更けにヨーカンをつまみながら
この曲に辿り着いたのだが

聴いてぶっ飛びましたね。

ほほぅ、ふんん、なるほど、うむむむ

気がつくと正座です。

シャキッとしております、私。

ヨーカンを食い過ぎると、またメタボが進行するのでヤメっと

自分にビシッと言い聞かせたのであります。

このおばさんは、真剣であります。

愛の唄です。

人間、生きていれば、その意味を問うこともあるでしょう!

何故生きているのか?

しかし、奥さん(?)に愛され
死ぬまであなたといたいわ!
愛し愛され生きていきましょ!

なんて言われるおっさんが
この世にどの位いるのか?

そのとき、なんと奥さんは言った!

「生きている意味を求めたりしない」

愛し愛されていればそれでいい、とね

これはオトコ冥利に尽きる殺し文句だな。

壮年になり、これからの老後をどう生きるかという

難しい年頃に、こうゆう殺し文句を

奥さんに言わしめる旦那さんは

あなた、あなたですよ!

相当の幸せ者ですよ?

まあ、奥さんがいろいろ大変なとき

あなたにはいろいろ助けてもらいました、なんて。

それだけじゃ、ダメ!

この唄は、愛なんだ!

覚めない愛、みつめなおす愛、熟愛?

愛は永遠? 愛は振り返らない?

この唄を聴いたおっさんは湯呑みでお茶をすすり

物思いにふけながら、じっくりぼぉーと考えるのであります。

「やべぇなぁ、これからの老後!」