ラテン系で行こう!

アルファ・ロメオというクルマがある。
イタリアのクルマだ。
ご存じの方も多いと思うが、あのクルマから
降り立ったオトコなら
少々のぶオトコでもなんとかサマになるから不思議だ。
その魅力溢れるアルファ・ロメオというクルマは
他と何が違うのか?

高級車にありがちな重厚さがある訳でもなく、
2シーターでぶっ飛び型の
本格的なスポーツカーの流線型でもない。

でも、格好いい。

特に、赤のジュリエッタという奴は最高でした!

しかし、そんなことを言ったからって
私はアルファを買ったことがない。

一度、知り合いに助手席に乗せてもらった他は
イタリアの高速道路で後部座席にお邪魔した位だ。

お金の問題もあるが、このクルマがよく壊れるため、
私はこのアルファに手を出したことがない。

直す自信も時間もない、というのが正直なところ。

隣に並んで走っているのを眺めているのが、グッドなのだ。

それにしても格好いい、イタリア車だ。

イタリアといえばラテンの国だが、他にもラテンの国は
結構ある。

南米なら、ブラジルなんかが象徴的かな?

で、何故ぶっ壊れやすいイタ車の話から始めたかというと
ラテン系の方たちの考え方に触れたかったからなんです。

この方たちは、はなっからクルマは壊れるもの、として
つくっているフシがある。

緻密じゃないといえばそれまでなんですが、
ラテン系の方たちの考え方、強いては
彼等の人生観になにか関係があるのかも知れないと
私は考えております。

気にしない。壊れたら直そー。直らなければ
誰かが通り過ぎるまで待っている。
ゆとりもあるのだ。
そうだ!、待っている間にダンスでも踊るか
愛の歌でも唄ってよっと!

簡単に言えば、こんな感じですかね?

近代合理主義とは違う他の思想が
彼等の血に流れていると思うのは
私だけか?

それは物事を適当にやる、というのではなく
彼等は正確性や効率に心血を注ぐ以上に大事なものが
あるに違いないのだ。

それは、
価値観の中心に情熱がほとばしっている生き方
と私は思う。

それは愛なのかも知れないし、恋なのかも知れない。
歌なのかも知れないし、ダンスなのかも知れない。

少なくとも、理知的に考えて生きることより
彼等の優先順位としてはまず「情熱」なのだろう。

負けない情熱、やり抜く情熱というのもある。
考える情熱、書く情熱というのもあるだろう。

サッカーにしたって、イングランドとアルゼンチン
なんかの試合だと、対照的なチームだな、とつくづく思うが
技巧に勝る情熱で試合運びをするのは
いつもラテン系なのだ。

ラテン系は、生きることにどん欲だ。へこたれない。
転んでも転んでも立ち上がる。
過去より、未来に希望を抱く。

だから楽天的にもなれるのであり、
なにより自分の人生を生きている。

だから格好いいのだ。
だから、強い。

そして
踊っても歌っても、
そのなかに人生の素晴らしさを見出す
才能に恵まれてもいる。

現代人もだいぶ飼いならされたような風景を見るにつけ、
私は、常々ラテン系の生き方が気になって仕方がなかった。

悲しいときは思いっきり泣けばいいし、
嬉しいときにも喜びを隠さない。
悔しいときも怒ったときもしっかりと
意思表示をする。

喜怒哀楽を人前で出すのは、悪いことでもなんでもない。
素直でいいじゃないか、とさえ思う。

むしろ、溜まりに溜まった感情を或る日爆発させる
ことの方が遙かに怖いことと思うのだが。

有名なテレビコマーシャルに
男は黙って○○ビール
というのがあったが
あれなんか典型的に格好いいのですが
やはり現代人には
ちょっと無理!

辛いんじゃないですか?

ここはひとつ

ラテン系で行きませんか?

僕は子猫を守れなかった。

僕が子猫を守れなかったのは
小学生のときだ。

飼っていた訳ではないが
校舎の縁の下にいるそのひ弱な
まだ生まれて間もない子猫に
僕は毎日牛乳を運んでいた。

みゃーみゃーと鳴くしかない、
やっとものが見え始めた頃だろうか?

真っ白い毛に薄い茶色が混じった
とても痩せた愛らしい子猫だった。

どうして親とはぐれたのかは分からない。

子猫をみつけて数日の間、
僕はそいつの為なら何でもしたような気がする。

授業の間も、休み時間も、下校のときも
ずっとそいつの事が気になって仕方がなかった。

給食の牛乳やパンは極力残し、休み時間にそいつの所に
持ってゆく。

自宅と学校が近かったので、夕飯も残して新聞紙にくるみ
すぐ学校の縁の下へ運んだ。

確か、その子猫は牛乳しか飲まなかったような気がする。
そして、みゃーみゃーとしか言わなかった。

いま思えば、僕はそいつのことが愛おしかったのだろう。

夜、目をつむっても、そいつのおぼつかない仕草と足取りが
僕を翻弄した。

そんな日が何日続いたのだろうか?

ある日、いつものように校舎の縁の下を覗くと
鳴き声が聞こえない。

子猫がいない。

校舎の遠く続く暗い縁の下の何処を覗いても
声を張り上げても、子猫がいない。

とても不安になって校庭を歩いていると
学校の脇を流れる川に人垣ができていた。

体の大きな上級生の男子たちが
みんな手に手に石を持って
何かに向かってそれをぶつけている。

みんな笑いながら興奮していた。

何だろうと思って川を覗くと
あいつが、僕だけの子猫が
もう石を相当ぶつけられたらしく
ダランとした体を水面に浮かべていた。

でもまだ口を動かしている。
生きている。

僕は呼吸がうまくできなかった。

なにか叫んだような気がするが
なにも言えなかったような気もする。

ただ、全身全霊で上級生たちに
刃向かったかというと
怖くてできなかった。

子猫はそのまま下流に流れていった。

その後のことは一切何も覚えていない。

弱者をいたわる。

これが社会の本音なのかどうか
私にはいまもって分からない。

人は時に牙を剥く。

弱肉強食。
こんなところも、人間にはある。

ただ、外敵から
守らなければならないものを
守れなかったとき
人は、どうしようもない虚脱に陥る。

あの記憶から、私は誰かを攻撃し
誰かを助け、何かに怯え
何処かへ幾度となく逃げたのだろう。

私の本質は、
あの日と寸分何も変わっていないのかも知れない。

愛する人が助けを呼んだとき
私はどのような態度でどんな風に
何をどう対処するのか?

私はまた
同じあやまちを再び犯すのかどうか?

記憶が私に問いかけている。

私という人間は
それほどのものなのだ。

私のことは

私自身が一番よく知っている。

らしくない都市伝説

その1
都会にいると偉いのか?

この年になると、交際範囲もさまざま、かつ決まった傾向や地域もなく、バラバラ感が否めない。
学生時代のように特定の地域に知り合いが固まっていることもまずない。で、ときには往ったり来たりもあるのだが、何故だか集まる場所は、田舎よりの都会が多い。
当たり前といえばそうだが、なんかしっくり来ないときもある。
都会はちょっとした店が多々ある、みんな土地勘がある他、
こうゆう機会に都会に行こうという人もいるんですかね?
あぜ道の自動販売機の前とか、しまむらで待ち合わせすることってないもんね?
で、いつも新宿!だったり渋谷だったりするじゃないですか?
まあ、電話やメールのなかで何となく決めるんですが、こうした場合、絶対に発言権が強い人は都会にいらっしゃる方、なんです。
この人たち、田舎者の苦労を知らないんです。
私は田舎に住んでいて、なおかつ駅からも遠いので、都会が集合のときはかなりキツイ。
で、往く先で「お前飲まないね。ウーロン茶かよ?」なんて言われてもスイマセン!べろべろにはなれません。
帰れなくなっちゃう訳です。
酔っぱらってバスに乗るのも嫌なので、
駅の近くにクルマを置いてくることもあります。
ああ、もう気持ち的に飲めませんよね?

がしかし、泊まりならOKなんだけどなー。

私どこでも寝られますから(笑)

その2

大きい会社で働いていると偉いのか?

東証一部上場、誰でも知っている社屋の広報室。○○課の××山課長は、今日も気難しい顔をして考えあぐねている。わたし等のつくった広告ラフを前に、眉間にすげぇーシワ。無言の時間は長いのだ。空気がピンと張りつめている。電話の音も人っ気も遠くに消え去る瞬間。考えれば、決断する彼の責任は重いのだ。そうだ、頑張れ××課長!
が、彼は考えすぎるきらいがあった。過去の履歴から、彼の考え過ぎはよくハズれ、課をグルリと回って、結局元の案に戻ることもしばしばあった。というか、彼の思惑は、いつもズレていた。
何故か?
私の観察見るところ、彼はいまの仕事が好きなのだが、また彼も希望してこの課に長く留まり、古株としても回りから一目置かれているのだが、如何せんセンスがねえんだな!
これ言ったらお終い、元も子もないのだが、彼の判断は甘くて不的確。みんななんとかしろよ!
私は心のなかで叫んだが、誰にも聞こえない。
彼は今日も決断を下すことはないだろう。いや、なにか意見を言い、私たちが再びラフ案を再提出したところで、なにも決まらないだろう。

(ラフの修正って結構大変なんだぞ!)

さて、この息を飲む瞬間は何を意味するのかというと、
これは儀式なのだ。彼は偉いのだ。彼が決断者なのだ!
だから儀式が必要なのだ。

こんな人間が、日本中の大企業と呼ばれる所に、
これまたゴロゴロと無数にいるんだな。

参った! 

私的イメージ論

私はどこから来たのか

という疑念に

星の静寂がこたえるというのだ

眼を懲らすも瞑るも

見えるものも見えぬものも

あなたは既に知っている、と

幾万光年の光が言う

すでに消えたあのあたりの星なのかと

想念で伝えるも

心すでにここに無し

遠く銀河を彷徨う

誰も

生まれ生き死んでゆく

悲しいか? 悔しいか?

それでいいじゃないかと言われても

無性に腹立たしく

じゃあ、私は何処へと星に問うも

既に暗闇は去り

木々の緑に

鳥たちは集う

たとえお釈迦様の瞬きの中に

私の一生があろうとも

果たしてこの生命は

捨てる様なものなのか?

閉じこめた種を開花せよ

考えるのではなく感じる

古代よりの遠いメッセージは

既に私の中にあるのだ

心の在りかを

探るのだ!

私は誰なのかを

掴み取れ!

幾万光年の記憶が

叫ぶまで

空の静寂が

語りかけるまで

あなたも私も

歩くのだ

悲しみのポレフ

自分に降りかかった悲しみを

過去の嫌なことを

いつまでもかみしめないこと

尽きないものは終わらないのだ

ましてや

深みにはまってはいけない

辛いときには

私は悲劇のヒロインではありません、と

神様に告げることにしよう

リセットする

生まれ変わる

真っ新な心

そして

簡単な身支度をして

旅立ってしまおう

心は広くて狭いから

手さぐると

奥へ奥へと入ってしまうので

いま生きなくてはならない旨を

天に告げておこう

涙を振り切って進むことは

私たちの義務である

生きることにしがみついてみる

新しい自分を探しに

新たな世界を創ることに

総てが燃え尽きるまで

前へ前へ

下手な笑顔は辛いけど

さまになれば本当になり

やがて

素敵なものを運んできてくれる

でないと

いつまで経っても

悲しみのポレフ

命がもったいないじゃないか!

アタマ力

走るのが速い人や、いわゆる力自慢とかいう人は、

それを拝見すれば、おおっすげっーなぁってすぐ分かる。

アスリートと言われる人は、動きがカッコ良いし、

サッカー選手なんかを見ても、その動きは

やはり我々とは違うな、練習してるな鍛えてるなと、

感慨深いため息なんかをついたりする。

要するに、カラダの能力は、割と誰でも理解できるものです。

しかし、あの人ってちょっとインテリそうね、なんて見えても

いざ話してみると、割と何も考えてなかったり空っぽ?

なお方もたまにいらっしゃる。

逆に、外見アホっぽくてごっついオッサンでも、なかなか鋭い事を

指摘してくる、ということもあります。

服装ほか外見で、その人となり、みたいなもんは

ぼんやりみえるのだが、

それでもなかなか人のアタマの中は分からないものです。

で、アタマ力。これ何かっていうと私たちの仕事に欠かせない

能力なんですね。

俗に言うアタマの良いい奴とは、この場合全然違います。

キレる頭脳でもなく、天才でもない。

ただただ考え続ける能力なんですね。

いわば、頭脳のマラソンマン。

アタマの持久力がある人。

これ、私たちの仕事に就く方に欠かせない能力だと

以前より感じておりました。

だって、オーダーを受けてから完成まで、

ずっとその会社なり製品を観察し、

あらゆる角度から考え、その表現方法を探り出すまで

ただひたすらアタマを使い続けなくてはならないんですからね。

で、いざ取りかかってみたものの、何かに狂いが生じると

振り出しに戻る羽目になることもあるんてすね(涙)

ともかく、完成まで気を抜かない忍耐と考え続ける力がなければ、

この商売はできないと断言できます。

私も駆け出しの頃、某石油メーカーから、

全国のガソリンスタンド向けに

サービスマンだけでできる365日簡単イベントマニュアル

みたいなものの制作依頼を受けました。

私の担当はコピーライティングのみだったんですが、

期限は3日!

これ、きついんですよね。

で、寝ないことに決めました。

当時はまだ若かったので、そんな決断をしたと思います。

はじめは季節ごとの歳事や記念日等々、

いろいろな事柄を絡めて企画していったのですが

いざ1月から書き始めたら、

途中から全然ペースが遅いことに気がついたので、ペースアップ! 

ブンブン飛ばしました。

が、二日目の徹夜も朝方を迎えたとき、遂に行き詰まりました。

何も文章が出てこない。

考えても考えても、いや何も考えられなかったのかも知れません。

で、一瞬寝たような?

ワープロの画面が真っ白になりました。

あれっと思い、気がついたときには、

私はアゴを突き出し、天井を向いていました。

ヤバイと思い、再び画面に向かって一心不乱に書き続け、

朝を迎えたんですが、

振り返るに、何故あのとき続きの文章が出てきたのか

いまでも分からないんですね?

私はあのとき、きっと神様が降りてきて助けてくれたんだと

現在でも確信しております。

なんたって、家族みんなの生活がかかっておりましたから

善良な私を助けてくれたんですね(笑)

いや

あのときほど

アタマ力が欲しいと思ったことはないですね(不眠力も)

この話は極端な例ですが、こういう仕事をしていると

近い状況は、常に存在します。

素早い対処とアタマの持久力は、こうした訳で必需品です。

そんなの嫌だなぁと思われるでしょうが、こんな能力は

ひょっとすると、どんな仕事にも通ずる共通項かも知れませんね?

みなさん、そういう訳で

もしこうした仕事をめざすんでしたら、

カラダを鍛えると同時に、

ついでに長編小説でも何でもいいですから

チャレンジ&チャレンジ!

アタマ力も、鍛えましょう!

プレゼン力

最近、プレゼンをよくやる。
好きでやっている訳ではない。
あまりやりたくないが、行きがかり上、
やることになることが多い。

本来、人前で話すのが苦手なので、
過去に結構避けてきたフシがある。

が、私は一応プランナーなので
こちらの企画意図などを説明しないことには始まらない。
で、お偉いさんの前で話すこともしばしば。

こうゆう時、自分のなかで嫌だなぁ、と思ったらもう駄目だ。
総ての事柄に対して、前向きに考える。テンションも上げる。
でないと、そのプレゼンはまず上手くいかない。

何故か?

私の経験則から考えられるのは、
皆さん、理屈や筋が通っていると、
うんうんと納得はして頂けるのだが、
話す側の人間に、
なにか明るい未来を示すオーラのような迫力がないと、
いざ、やるか否かの決断になった際に、
決まらないものなんですね。

人は理屈だけでは動かないし、
ましてや話す人間に、
目には見えないけれども惹かれるものがなければ
何も決まらないのだ。

じゃぁ、何なのか?
人の決断を後押しするものって何なんだろう?

永年この仕事をやってきて気づいたのだが、
まず人は上っ面だけでは動かないっていうこと。

どんなに理屈を並べ立てても、
駄目なものは駄目なのだ。

人は合理性だけで生きているわけではないので、
そこがキーポイントになる。

よく、「これは蛇足ですが」などと言って
余計なことをしゃべったり
会議がお開きになった後に、
本音をぽろっと漏らす方たちがいる。

私が思うに、
割とこうした発言のなかに答えが隠れています。

建前や理屈だけでは、人は動かないんですね。

そう、
人間って割と感情的な生きものであり、
また本音が「うん」と言わない限り、
決断しないんですね?

どんなに合理的に考えて生きようとしても、
人って無駄を出します。

建前にも限界があります。

いや、無駄や本音にこそ、
人間の本質が眠っているとさえ思います。

そこを上手にすくってあげる行為、
それが感情でありスイッチなんです。
これ、能書きを超えるパワーをもっています。

で、私事に戻りますが、
プレゼンのとき、場の空気は大方堅いものです。

そんなとき、
私はまずその場の雰囲気を柔らかく変えることに
全力を使います。
で、場違いなジョークなどを平気で飛ばすところから
お話を進めさせてもらうことにしています。

後は、リズムと抑揚に注意し
企画やものの仕組みを丁寧に説明し、
小難しい内容の後は、私なりの考えや予想などを、
エモーショナルなトーンで情感を忘れずに、
発言するように心がけています。

が、それでも駄目なものは駄目!

これって、何が原因かというと、
そもそもその企画の予算自体に無理があった。
また、相手にその環境が整っていなかった、
いわば時期尚早ということもしばしば。

単純な話、
私の企画自体に無理があったって事なんですね?

(見込み違いと見積の甘さは私の欠点でもあります)

いやぁ、プレゼンってホントに奥が深い。

むずかしいですね。

時代を読む?

先日、仕事で原宿へ。

クライアントさんへ行く時間に少し余裕があったので
タバコでも一服しようとあたりをキョロキョロするも
全く吸うところ無し。

街は綺麗。

全方位禁煙。

徹底しております。

ふーん。

で、ぶらぶら歩いていたら「喫煙OK」みたいなプレートが貼ってある
喫茶店をやっとひとつみっけた。

店に入ったら、ほぼ満席。どいつもこいつもぷかぷかやっておりました。

ほほぉ
これって新しい商売?と思わず突っ込みを入れたくなりました。

私も何本かラークを頂いて
さて伝票に目をやるとコーヒー一杯¥900也。

コーヒー美味かったけど、ちょっと高くない?

かくして、ニッチな商売は徐々に広がりつつありますね。

新しいマーケットの登場です。

さて
神奈川県では健康とカラダと街のクリーン化のため(?)
少々骨抜きながら、受動喫煙防止条例が公布されたようです。
先駆け。先鞭をつけましたな。
パチパチパチ(拍手)

骨抜きじゃなかったら誠にクリーンな素晴らしい前例、
他都道府県も追随するんじゃないでしょうかね。
寸分の隙もない健康と清潔な街づくり。
だって良いことはどんどんやらなきゃ、だよね?

時代はもう完全に、クリーン&エコ! ですね?

私なんかいろいろな企業へお邪魔していますので
エコなんか凄いです。

なんでもエコ。とりあえずエコ!
エコはビジネスの味方なんです。

エコは地球のためであり、正義でもあり、大儀でもある。みたいな

エコじゃなくてエゴもかなりあって、もうひどいことになっている
所も多々ある。(これは余談)

いまエコを語れない奴は死んでしまえ!位のパワーはあるな。

ある調査によると、今度クルマを買い換えるとしたら80%以上の人が
エコカーを希望しているらしい。

これ、ホントです(キッパリ)

みんな道徳観強し。いい人。トレンドに敏感?

いや、集団ヒステリーなのか(爆)

どちらにしろ、時代のうねりに凄いものを感じるのは私だけか?

翻って

ところで私はなんでタバコを吸い、
一日中電気を付けっぱなしにして
いまどき
10年位前の排気量のデカいドイツ車なんぞを探しているのだろ?

完全に出遅れた私は、一体いままで何を考えていたのか?

いやぁ、このズレた感じが私のどうしようもない短所なんだな。

今日はひとつ、人類の未来のために

光合成の勉強でもして
植木でも植えようかな、っと。

ドラマ

光のしずくがひとつこぼれて

自分が生まれたと

思うことにしよう

私は私であって

他の誰でもないこと

かけがいのない私であること

じゃないと

生きていけないだろ?

たとえば

有り余るほどの時間と

物語を消費する歴史に

やさしさはあるのかなと

ふと考えてしまう

ましてや情が絡んでくれると

涙が出るほど嬉しいけれど

歴史って奴は

思いの外

残酷なんだ

潰されるなよと時間が笑う

いま

この舞台で生きているということ?

演じているのか

演じさせられているのか

ここはひとつ

考え所であると

いつも思いあぐねる

役者のひとりとしては(笑)

真剣に真摯に

取り組んでいるつもりなんだが

いつも吐く言葉は

単なる台詞なのか?

きのう

あのひとにつぶやいた言葉は

果たして

あらかじめ用意されたものなのか

という問題は

私という存在の意味を問う

歴史的な難問でもある

はじめに言葉ありき

その拠り所を知ることに

生きている意味が隠されている

私はその事柄にいつか気づくのだと

信じるようになった

人生のペテン氏にならないために

自分が代役しか務まらないことのないように

生きるのだ!

今朝は

初夏の日差しがまぶしいくらい

陽気な幕開けなのだが

さあ

どんなスペクタクルが用意されているのか

凡庸な一日が待っているのか?

まずは用意された

いや!

私だけの

せめて私が考えた

アドリブの台詞を

私に語らせて欲しいのだ。

拝啓 元気です!

いまの俺が親父に初めて

ホントは親父の事

好きだったんだよと言った。

それを聞くと親父は俺に近づいてきて

俺のアタマに手を乗せてくれた。

その瞬間に俺のカラダは急に小さくなり

小学生の頃の俺に戻っていた。

ああ、やっと言えた。

小学生の俺は泣きじゃくっていた。

朝方にふっと目覚め

いまのは夢だったのかと

ぼぉっとしていると

今度はホントに

涙が止めどもなく流れてきた。

まだ眠いのに

涙が止まらない。

オヤジ、いるんだろって

思わず口走ってしまった。

永年の確執があって

俺とオヤジの仲はうまくなかった。

小学生の頃から

オヤジは俺を無視していた。

俺はオヤジを避けていた。

いろいろなものが絡み合い

男同士の話なんていうものも

遂に最後までなかった。

だからなにも解決なんかしてはいない。

だけど、いまはオヤジの気持ちが痛いほど

よく分かる。

オヤジも俺のこと、見抜いていたんじゃないのか?

オヤジが死んで四年強。

あの日

オヤジはあの世からやってきて

俺と話そうとしたんだろうな?

ホントの気持ちが言えて良かった。

伝えたいことは思い切って

伝えなくては。

心底そう思った。

いま、俺は息子と娘を育てている。

決して同じ繰り返しはないようにと

いつも考える。

考える。

だって

オヤジの孫だもんな!