ひとり遊びができない子だった
いつでもお父さんかお母さんが
私のそばにいてくれた
友達もできて、いつも誰かと
遊ぶようになり
恋人と呼べるような人も現れ
私は幸せだった
いまでも変わらず
ひとり遊びはできないけれど
ああ
ひとり遊びを覚えなくては
それは
葉が散るように
大切な人が
私から消えていったから
そして
追い打ちをかけるように
恋人もだんだん遠い人に
なってゆく
さみしさも悲しみも
いっぱいだけど
誰かを想いながら
泣いてばかりいるのは
辛いこと
ひとりでなにもできないで
泣いてばかりいるのは
悲しいこと
だから
ひとりが忍び寄る
その前に
私
心が負けないように
ひとり遊びを覚えなくては
何かちょっと切ないですね。
でも、そのキモチよくわかります。
恋人って一番の理解者であり、遊び相手なんですよね。
だからその恋人とかいなくなると、その寂しさと不安とかで、他の人で寂しさを紛らわしたりする人もいると思うので、ある意味ひとり遊びできる人って大人な気がちょっとします。
なんで、こんな詩を書いたのか自身も不明な部分があります。
しかし、表面的であれ潜在的であれ、人は不安を抱いて生きていると思います。
で、私の潜在を書いたのでしょう。
私は結構平気なのですが、ひとり遊び、もっとうまくなりたいです。
コメント、ありがとうございます!
>「大切な人が遠い人になっていくから、独り遊びを覚えなければ…」
切ないフレーズですね。ジーンときます。
特に木々の葉がすっかり無くなり、昼を過ぎると、もう夕暮れが忍び寄ってくるような今の季節には、よけい寂しさが胸に迫ります。
独り遊びは、「孤独」 を代償にして手に入れる 「喜び」 なんですが、ただ、その 「孤独」 をギリギリまで追い詰めていった挙句にポンと弾けるような遊びには、必ず、どこからか共感者が現れてくるんですね。
独り遊びに共感者が付き合ってくれたとき、初めてその独り遊びに 「芸術」 などという言葉がつくのかもしれません。
いつか話しましたけど、町田さんってひとり遊びの達人でしたよね?
だからいざというとき強い。私なんぞは、その秘訣なんかも教えて欲しいです。
モノを書く仕事もそうですが、ミュージシャンや画家さんたちも創作中は孤独ですものね。
ゲージツて、こうして生まれるのでしょうね。
スパンキーさんが書く詩、以前と少し違いますよね?ありのままっていうか…
なんだか、今スパンキーさんが書く詩は、やわらかくてあたたかい雰囲気に文字と気持ちが裸で包まれている。そんな感じがします。
そして、ひとり遊び。
幼い子は、まず母親とのコミュニケーションが一番最初の遊びで、始めのうちは母親がいないと不安で仕方なく、離れられないそうです。けれど、信頼関係ができてくると、”お母さんはここにいてくれる”ことを感じることができ、少しずつ離れて遊ぶことができるようになります。
子どもにとって、すぐに大好きな人の元に戻れる”安全基地”ができるんです。
そうやって、ひとり遊びをしたり、友達と遊ぶことを覚えていきます。
大好きな人との愛着関係があってこその、ひとり遊びですよね☆
そう考えると、ひとり遊びをするココロには、必ず誰か大切な人の存在がある気がします。
だから
素敵な絵や詩や音楽は響くんですかね◎
ひとりでいられるって、大きなバックボーンがあることが前提だと初めて気づきました。
ああ、知らなかった!
前述のように、芸術なんていうのもそこから誕生するのでしょうね?
いろいろな意味で、まだ歳に相応しくない私ですが、よろしくです!
何年かぶりに電話を通して聞いたスパンキーさんの声は20代の頃のまんまでした。きっかけは友人の訃報という寂しいものでしたが。詩はどれもオトナのそれですが、少年の心を感じさせられ癒されました。これからも娘と一緒に読ませていただきます。いつかお会いできたらいいですね♪
ふーみんさん)
コメント、ありがとうございます。
とても懐かしい!
詩はまだ稚拙でゴメンナサイ。
もっとオトナの詩をと思うのですが
どこかがガキなのでしょうね。
しかし、許しましょう!
人間、そんなに劇的に変わるものでもないし。
またお会いできる日を!