昭和

僕たちには、笹薮という基地があった。

学校から帰ると、きび砂糖をなめて、

握り飯を頬張って表に飛び出る。

みんな同じだ。同じ顔。

刀とかコッペパンとかBB弾とか

銀玉鉄砲をポケットに押し込み、

笹薮に入る。

そこは放課後の楽園だった。

笹薮は、丘の上にあった。

真下を国鉄が走る。

僕らは、それぞれ武器を手に、

立ち上がり、僕たちの町を見下ろす。

ひときわ高い望楼が見える。

向かい合う向こうの丘には牧場があって、

サイロと牛が草を食んでいるのが分かる。

腰に手を当て、みんな無言で立っていた。

基地から、町を見渡す僕らには、

あの頃、

夢も希望もあったような気がする。

昭和39年、東京オリンピック。

僕は、父と母とまだ造成したての、

新横浜駅の前に立っていた。

ブルトーザが置きっぱなしだった。

赤土がむき出しの駅だった。

引越し先を探すため、僕は

新横浜駅にいた。

結果、そこから3つ先の町に引っ越して、

違う生活が始まった。

その町に、笹薮はなかった。

そんな仲間もいなかった。

僕はその町で恋をして、

大人になった。

丘の上の笹薮は、その町にはなかった。

僕はその町で大人になり、

夢と希望というものを

一切捨てたことがある。

だから、泣いたときに

何度もあの町へ戻りたいと思った。

でも、あの町へ帰ったとき、

あの丘の上に笹薮はなく、

家がびっしり立ち並んでいた。

丘に向き合って見えたサイロと牛たちは、

色とりどりの屋根に変わっていた。

あの頃の仲間はそれぞれに

大人になっていた。

そんなことがあって、

やがて、

僕は本当の大人になろうと思った。

 

「昭和」への4件のフィードバック

  1.  
     スパンキー様
     
     ここに描かれた牧歌的な風景と、それを眺める子供たちの “王国” は、確かに私の地元にもありました。 「サイロと牛」 というほど雄大なものではありませんでしたが、町の機能とは別の働きを持つ子供の天国 (ゆえに大人たちには無駄な場所) が許された時代があったんですね。コッペパンとBB弾の時代には。
     
     昭和の中頃に生まれた私たちからすると、 「大人になっていく」 というのは、そのような無駄な場所 (子供の王国) が、役に立つ場所に変わっていくのを眺める過程だったのかもしれませんね。
     そんな私たちの心の風景が、このエッセイには見事に綴られているように思いました。
     
    最近、昔の映画をよく観ます。特に昔の日本の映画を観ていると、私たちが気づかないうちに失っていた 「風景」 を発見して、驚くことがあります。
    そして、自分たちの世代とは何だったのかと考えることがあります。
     
     そんなことを自分のブログに綴っていると、いろいろなコメントが入ってきて、面白くもあるのですが、中には返信に気をつかうようなコメントも増えてきて、ちょっとシンドイな … と感じる今日この頃です。
     

  2. 町田さん)
    余白を残しておくことは、とても大事だと思います。ムカシは、そんなものがいっぱいありましたよね。いろいろな場面に、無駄や寄り道がありました。
    いまは効率一辺倒。
    現在の街には、いや野山にだって柵があったり所有者の許可なく伝・・・。
    要するに、自由な空き地もなければ、息苦しい決まりごとばかりがはびこっています。
    ドラえもんだって、空き地がなければ成立しない漫画だと思うのですが。
    あまりにキチンとした世の中は、例えばシンガポールのように息苦しい国になってしまいます。悪い意味で、清潔極まりない。
    昭和は、私たちを育ててくれた時代ですが、ホントはろくでもない時代なのかも知れません。
    だけどその中に、いまはない強烈なエネルギーのようなものが眠っていた。
    そんな気がしてなりません。
    最近、ビジネスブログなんか見ているとつまんなくなることがあります。
    だって売り込みばかりですからね。
    私は好き勝手にやりたい。総て分かっていてやってます(笑)
    苦情は来ませんが、いやたまにはマーケティグとかネットの話したほうが良いのかな?
    いずれにせよ、コメントは難しいというのが、お互いの一致した意見ですね。
    p.s
    週末から遠くへ行っていまして返信遅くなりました。スイマセン!

  3.  
    スパンキー 様
     
    >「ドラえもんは空き地がなければ成立しない漫画…」
     
    返信いただいて、その言葉にドキッとしました。
    すごい指摘のように思います。
    ちょっと、頭の中が弾けました。
     
    考えてみれば、「ラえもん」 よりもっと古い 「サザエさん」 には、実は空き地がない。
    「サザエさん」 にあるのは、家の中と路地です。
     
    しかし、「サザエさん」 は今でもテレビアニメとして続いている。
    それに対して、「空き地」 を描いた 「ドラえもん」 は終わってしまった。
     
    それって、何かを意味していません?
     
    自分には、まだ、そのへんの “こじつけ” が思い浮かばないのですけど、スパンキーさんの >「いまは効率一辺倒」、あるいは >「 (昭和の) いまはない強烈なエネルギー」 という言葉とつながっていきそうに思えるのですが ……。
     
    いや、つまらない着想で、失礼いたしました。

  4. 町田さん)
    思うに、サザエさんは、メルヘンなのかな?とも思います。
    今はいない空想の家族像、現実離れした無邪気さ、どこにも悪者がいない凄さ等、考えてみれば不思議な番組ですね?
    で、そこそこ視聴率を上げている。
    で、ドラえもんは、私が思うにですが、受け手の嗜好と思考が変わったという小難しい話もありますが、何と言っても大山のぶよのドラえもんがいなくなったことが要因と思っています。これは簡単で主因と思っています。
    あの方の声は、誰も超えられないと思います。
    考証は、またお会いしたときにでも、話のつまみにしましょう!
    コメント、ありがとうございます。

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