歌があるじゃないか

 

深夜の絶望というものは、

ほぼ手の施しようがない。

たとえそれが、限定的な絶望だとしても…

 

陽平はそういう類のものを

なるべく避けるようにしている。

「夜は寝るに限る」

そして昼間にアレコレと悩む。

いずれロクな結論が出ないにしろ、である。

 

意識すれば避けられる絶望もあるのだ。

 

70年代の或る冬の夜、陽平はあることから

絶望というものを初めて味わうこととなる。

 

高校生だった。

それは彼と彼の父親との、

全く相容れない性格の違いからくる、

日々のいさかいであり、

付き合っていた彼女から

ある日とつぜん告げられた別離であり、

将来に対する不安も重なり、

陽平の心の中でそれらが複雑に絡み合っていた。

 

根深い悩みが複数重なると、

ひとは絶望してしまうのだろう。

絶望はいとも簡単に近づいてきた。

ひとの様子を、ずっと以前から

観察していたかのように。

 

ときは深夜、

いや朝方だったのかも知れない。

ともかく、絶望はやってきたのだ。

 

陽平にとっては初めての経験だった。

彼は酒屋で買ったウィスキーを、

夕刻からずっと飲んでいた。

母親には頭痛がすると言って、

夕食も食べず、ずっと二階の自室にこもっていた。

 

机の横の棚に置いたラジオから、

次々とヒット曲が流れている。

ディスクジョッキーがリスナーのハガキを読み上げ、

そのリクエストに応えるラジオ番組だ。

 

どれも陳腐な歌だった。

そのときは、彼にはそのように聞こえた。

 

夜半、耐え切れなくなった陽平は、

立ち上がると突然、

ウィスキーグラスを机に放り投げた。

そして、荒ぶった勢いで、

ガタガタと煮立っている石油ストーブの上のヤカンを、

おもむろに窓の外へ放り投げた。

 

冬の張り詰めた空気のなかを、

ヤカンはキラッと光を帯び、

蒸気は放物線を描いた。

そして一階の庭の暗闇に消えた。

 

ガチャンという音が聞こえた。

程なく辺りは元の静寂に戻った。

親は気づいていないようだった。

 

手に火傷を負った。

真っ赤に膨れ上がっている手を押さえながら、

陽平はベッドにうつ伏せになって、

痛みをこらえて目をつむった。

 

ひとは絶望に陥ると

自ら逃げ道を閉ざしてしまう。

そして、退路のない鬱屈した場所で、

動けなくなる。

 

絶望は質の悪い病に似ている。

もうお前は治癒しないと、背後でささやく。

お前にもう逃げ場はない、と告げてくる。

 

絶望はひとの弱い箇所を心得ている。

それはまるで疫病神のしわざのようだった。

 

がしかし、不思議なことは起こるものなのだ。

 

そのときラジオから流れてくる或る曲が、

陽平の気を、不意に逸らせてくれたのだ。

不思議な魅力を放つメロディライン。

彼は瞬間、聴き入っていた。

気づくと、絶望は驚くほど素早く去っていた。

それは魔法のようだったと、彼は記憶している。

 

窓の外に少しの明るさがみえた。

あちこちで鳥が鳴いている。

彼は我に返り、

わずかだがそのまま眠りについた。

そして目覚めると早々に顔を洗い、

手に火傷の薬を塗って包帯を巻き、

母のつくってくれた朝食をとり、

駅へと向かった。

そういえば、母は包帯のことを何も聞かなかったと、

陽平は思った。

 

高校の教室では、

何人かが例の深夜放送の話をしていた。

「あの曲、いいよなぁ」

「オレも同感、いままで聴いたことがないね」

 

当然のように、陽平もその会話に混じることにした。

 

最近になって陽平はその曲をよく聴くようになった。

もっともいまでは、極めて冷静に聴いている。

 

過去に起きたあの幻のような一瞬に、

このうたが流れていた…

 

陽平はそのことをよく思い出すのだが、

なぜか他人事のように、

つい遠い目をしてしまうのだ。

 

「谷内六郎展」を観に横須賀美術館へ

 

谷内六郎展ということで、

ドライブがてら、

横須賀美術館へでかけた。

 

 

ここを訪れるのはおおよそ5年ぶり。

前回はニューヨークアート展だった。

海辺が至近の美術館で、

まわりの景色も

とてものったりとしている。

 

前回、リキテンスタインの作品とか、

ウォーホルのキャンベルスープなど、

興味深い作品をじっくりと鑑賞できたので、

印象がよかった。

 

もう一度訪れたいと思っていたので、

今回はそのよい口実がみつかった。

 

 

 

 

谷内六郎といえばやはり週刊新潮だろう。

彼の絵が、毎週この雑誌の表紙を飾っていた。

創刊から25年書き続けたというから偉業である。

 

 

 

僕はこの表紙の絵を、

通勤途中の駅のキオスクや本屋でみかけたが、

当時はたいして気にならなかった。

週刊新潮の中身そのものにも興味がなかったので、

目を引くこともなかったのかも知れない。

 

彼の描くものに俄然注目したのは、つい最近のことだ。

それは或るテレビ番組で谷内六郎特集を観てからだ。

このときは暇だったので一点一点じっくりと鑑賞。

解説をききながら絵を読み解くうち、

この画家のイマジネーションの壮大さに、

改めて驚いた。

 

むかし、キオスクでちらっとみたときは、

素朴なタッチの懐古的な絵で、

なおかつ奥行きのない平坦な絵との印象だった。

まあそもそも駅のキオスクで

ちらっとしか観ていない絵の印象を語るなんて、

そんなものは失礼極まりない。

 

 

僕は、絵というもの、

そのものを詳しく知らなかったし。

 

で今回の再認識だが、

この谷内六郎という画家の描くものには、

どの一枚にも必ず物質とはいえない、

我々の目には見えないものが描かれている。

 

曰く、それが爽やかな夏の風の色であったり、

囲炉裏のあったかい空気であったり、

木枯らしに乗ってきたかわいい妖精の姿であったり、

春のふるさとの桜のかおりであったり…

 

 

そしてこの画家の描くものには、

思い、想いというものが、

ぎゅっと詰まっている。

そのやさしさやおもいやりのようなものが、

夢と空想の世界をかたちづくり、

観る人を不思議な世界へと誘う。

 

 

横須賀は、彼が晩年を過ごした地でもある。

よってこの美術館には、

別館として谷内六郎館が併設されている。

現在は工事中だが、今回は生誕100年ということで、

本館で展示されている。

 

5年前に訪れたときは、

ニューヨークアート展に集中してしまい、

前述したように谷内六郎作品に対する印象も薄いものだったので、

この別館を素通りした。

いまになって深く反省をしている。

 

 

遅きに失したけれど、

アーティストだけでなくクリエーターも含め、

ものをつくるひとたちの作業というのは、

当然いろいろなことを考え、想像し、

それをカタチにしている。

そうした一連の行為に対して、

僕たちは軽々しく論じてはいけない、のではないか。

 

 

これが今回の僕なりの教訓。

 

作家や作品が好きか嫌いか、

私たちにとってはその程度のことで、

あるにしてもだ。

葉山の空とリゾート

 

湘南を一望できるスポットはいろいろあるけれど、

大磯あたりからだとやはり高麗山の展望台だろうか。

ここはかなり高いので眺めるというより

遠景を見下ろす感じになる。

 

藤沢はいいスポットが思い浮かばないけれど、

鎌倉まで来ると山が多いので、

幾つか眺めのいいスポットがある。

 

鎌倉プリンスホテルが建つあたりから、

晴れた日の富士山をバックにした江ノ島は、

なかなかの絶景。

サンセットの時間帯は海も空もオレンジ色に染まって、

ただボーッとしているだけで心地いい。

 

私の友人Aの話によると、湘南の眺めナンバーワンは、

逗子の披露山からの眺めだとのこと。

「それは見事だぜ」と興奮気味に話していたのを思い出す。

また別の友人Bによると、葉山の日影茶屋の近くの、

要するに葉山マリーナあたりからの景色が絶景と、

先日の電話でやはり興奮気味に話していた。

 

僕は先日、葉山の山の上からの景色はどうなんだろうと、

足を運んでみた。

そこは僕たちが若い頃は道もなかったような山深いところなのだが、

いまは広いアスファルトの道が山頂まで続き、

国や民間の研究機関をはじめ、大きくて近代的な建物が

点在する。

広大な公園や宅地まである。

 

山のてっぺんに広い駐車場があって、

そこにクルマを止め、

だだっ広くて何もない草場を歩く。

しかし、

「うん、ここからは海が遠すぎるし、

絶景とは言えないなあ…」

ここより、いま来た道の途中からの景色が、

絶景だった訳だ。

 

 

しかし、ここからの空の眺めは、

なかなかの一級品だった。

山頂なので空を遮るものが何もない。

季節もよく、空が近く感じられた。

空に適当に雲が配置されている。

 

 

 

 

湘南からの空の絶景は、ここに決定した。

近くに一戸建てがポツポツと建っている。

ここらの家は皆一様に敷地がとても広くて、

建物もデカい。

SUUMOで中古価格をチェックしてみたら、

1億前後の物件であることが判明。

 

どう考えてもかなり不便なのに、

こんな価格で取り引きされているのは、

やはり湘南だからということか。

 

僕はここを早々に引き上げ、

海に下る途中のホテルで、

軽い食事とコーヒーをいただく。

 

もう薄ら寒い季節なのに、

このホテルのまわりには椰子の木が

生い茂っていて、

中庭には水をたたえたプールが、

夕刻にはライトアップされていた。

そこだけに焦点を絞ると、

ハワイにいるんじゃないかとの

錯覚さえうまれそうだ。

後日ネットで調べたら、

このホテルは、ときおり撮影とか

テレビドラマなんかにも使われるとのこと。

 

 

湘南恐るべし。

この地は、やはり他とは何かが違うと思わざるを得ない。

ここでは何をやってもどこへ行っても、

まあまあサマになるのであった。

 

ジャズ入門

 

女性ジャズシンガーの方とお話する機会があった。

 

ジャズに関して私は初心者レベルの知識しかない。

が、ジャズボーカルは以前から興味があったので、

その辺りを尋ねてみた。

 

一体どんな曲から始めれば、早く上達するのかと。

質問が先走っているのは承知だった。

 

彼女の回答はこうだった。

「どんな曲でも良いんですよ」

「こころを込めて歌えば…」

 

なんだか曖昧としてる。

しかし話をはぐらかすようでもない。

適当にこたえている風でもない。

そしてこう切り出した。

 

「○○さんはビートルズはもちろん知っていますよね?」

「ええ、もちろんです」

「初期の頃の彼らの曲は、

単語もコードもシンプルで歌いやすいので、

私たちもライブでよく歌いますよ」

「えっ、ライブでですか?

だってビートルズってジャズではないですよね?」

と私。

 

「そうあまりかたく考えないでください。

ジャズ・ボーカルのとっかかりとしては、

最適なんです」

 

彼女がさらに続ける。

 

「だけど難しさもあります。

ビートルズの曲はみんな知っているし、

その印象が強烈なので、アレンジが難しいんです。

そこを自分のモノにできれば、

ジャズとして成立します」

 

「ジャズってそういうものなんですか?」

「そういうものです」

彼女は笑みを浮かべた。

 

私は正直すこし混乱した。

 

「ジャズで一番大事なのは、なんと言っても個性、

そのひとがもつ持ち味なんです。

そこがしっかりつくり出せると、

自分なりのジャズが歌えるようになります」

 

「個性、ですか」

 

「もちろん。ジャズって個性で歌うものなんです」

 

「………」

 

私は、サッチモが歌うジャズを思い出した。

あのダミ声が、あの笑顔が、

誰をも魅了するのがなんとなく理解できた。

そしてゴスペルのようなジャズが

教会に響き渡るようすもアタマに描いてみた。

都会的なフュージョン・ジャズとして、

シャカタクのナイトバーズもなかなか個性的だなと、

そんなことをつらつらと思った。

 

ボーカルに限らず、

さらに広くジャズを見渡すと、

そこにはとてつもない深みが待ち構えている。

 

ジャズピアニストのジョージ・シアリング、

ハービー・ハンコック、グローヴァー・ワシントン・ジュニア、

スタン・ゲッツ、マイルス・デイビス等等、

その個性がまるで、おのおの小宇宙なのだ。

 

この辺りになると、聴いていてとても心地がいいのだが、

その演奏における技術だとかアレンジの意味合いを考えると

とても難しい。

 

ジャズ評論家という人たちの文章も過去に散見したが、

どうも敷居が高くて近づけなかった。

それはジャズにおける言語化が、ひとを寄せ付けない…

そのように思うのだ。

 

さらに例えるなら、哲学を説く哲人の一言ひとことの

その背後に潜んでいる何かを掴むように、

楽譜にはない箇所にジャズの真髄が如何にあるのか、

それを探さねばならないとか…

 

かようにジャズは底なしなのだ。

 

そんな内容の話を彼女にぶつけると、

少し笑ってこう話してくれた。

 

「要は生き方なのではないでしょうか?

皆さんそれぞれにさまざまに考え、

行動して毎日を営んでいます。

ジャズもそれと同じだと思います。

とても単純なことから難解なことまで、

いろいろあるでしょ?」

 

確かにそのように思う。

 

「ジャズって大海原のような音楽なんです。

とりとめがないんですよ。

そして掴もうとしても掴めない。

人も同じですよね。

だから自分らしく、すべてに於いて自分らしくです。

それがジャズなんだと思います、

そう思いません?」

 

ふーん、なんとなく譜に落ちたような気がした。

 

ではと、

「テネシー・ワルツなら歌えるかも知れませんよ」

と私が図々しく申し出る。

 

彼女が、

「入り口としてはベストチョイス!

で、江利チエミのテネシー・ワルツ?

パティ・ペイジのテネシー・ワルツ?」

 

「いや、柳ジョージのテネシー・ワルツが

いいですね」

 

「それは良いですね、

とにかく一曲でもものにできれば大成功です」

 

「そういうもんですか、ジャズって?」

 

「そういうもんです」

 

ただし、と彼女が言う。

 

「自然にスイングできたらですよ、

スイングね。

技術やジャンルのスイングではなく、

こころがスイングしたら、ですよ!」

 

「………」

 

アタマが少し混乱してきた。

 

なんだか禅問答の様相を施してきたので、

そろそろ退散することにした。

 

それにしても、ジャズって、

なんか宗教に似ているなぁ、

というのが、

最近の私の感想である。

 

 

 

 

自由業ってホントにFreedom?

 

会社を辞めて独立した頃は、

所属も何もないので気楽なものだった。

と言いたいところだが、

世の中はそんなに甘くなかった。

 

特に金融機関である。

ここは外せない事情がある。

 

提出書類に必ず職業欄というのがあって、

その箇所でよく迷った覚えがある。

 

いまもそうだが、フリーなどという分類はない。

自営業とか自由業というのが目について、

まあフリーになったんだから自由業だろうと、

それにチェックを入れていた頃がある。

 

書類に目を通した行員が、

まず決まったように皆、同じセリフを発する。

「自由業ですか、うらやましいですね。

で、どういったお仕事をなすっているのでしょうか?」

だいたいこんな具合に尋ねてくる。

 

彼らは寸分違わず、

ビシッとした紺またはグレーのスーツを着ている。

何故か、銀フレームのメガネ率も高かった。

 

最初の頃は分からなかったが、

話の最中、

彼らはそのメガネの奥底で

こちらをあざ笑っているようだった。

少なくとも私はそう感じた。

 

フリーが銀行から融資を引っ張るのは大変だ。

こちらも事業の明るい見通しなんかを

一応は説明するのだが、

要は生活する金が足りない訳で、

そんな事情を百も承知でからかわれていたのだ。

 

担保などというものは当然ないから、

万が一借りられたとしても金利は高い。

しかし何としても借りなくては生きていけない。

よってやむを得ず銀行へアタマを下げにいくのだが、

そこらへんの事情をまるごと知ったうえで、

彼らは紳士然と振る舞っているから、

まあ、別の日にでも道でばったり会ったりしたら、

突然殴りかかっていたかも知れないけどね。

 

向こうも焦げ付きは出したくないのは承知している。

けれど、こちらは生活していけるかどうかだ。

引き下がる訳にはいかない。

舐められているのを承知で、

アタマを下げざるを得ない。

まあ、いま思い出しても虫唾が走る。

 

では一体、自由業というのは、

どういった方たちを指しているのか?

いまさらだけど、改めて調べてみた。

 

コトバンクによると、

開業医、弁護士、会計士、コンサルタント、芸術家など、

高度かつ専門的な知識・才能に基づく独立自営業者

ないしその職業のことで、第三次産業のサービス業に属する。

とある。

 

うーん、そういうことだったのか。

ひとくちに自由業といっても、

自分には縁遠いことがいまさら判明した。

こういう人たちは、

間違っても銀行に金なんか借りにこないだろうし。

 

で、こうした過去を振り返って思うに、

金も才能もない自由業はかなり苦労するということ。

いろいろな場面で不自由な思いをする。

生活も不安定極まりない。

当たり前だけど。

 

こうした環境は、そのうち心身に変調をきたす。

 

自由業の面々が次々と脱落していったのを、

私はこの目でしっかりと目撃している。

仕事がなくて田舎の実家に帰った者。

アル中で入院した仲間。

サラリーマン・クリエーターに戻った友人。

うつ病を患ったデザイナー等等、

思い出すとキリがない。

嫌になる。

 

こうなると、もはや自由業という名称を疑う。

不自由なことが実に多いのだ。

かつ万が一の保証もない。

そういえば、子供をあきらめた仲間や知り合いも、

何組かいたし…

 

ではなぜ、そんな境遇にもかかわらず、

自由業というカテゴリーを選択したのかだが、

そこがどうもうまく説明できない。

 

しかし、イマドキのフリーの方々に聞けば、

実に明快な解答が出てくると思う。

それもポジティブな意見として。

 

私たちの時代は、

おおげさにいえば社会的に虐げられていた時代なので、

自由業で生活してゆくには、

どうしても決意のようなものが必要だった。

さらに言えば、忍耐を伴う覚悟だ。

 

私的な意見だが私の場合は、

思春期あたりから抱いていた人生観のようなものが、

「自由業」へ向かわせたような気がする。

それは妙に拡大した自由奔放な自我と、

社会のシステムに対する不信、

とでも言おうか。

 

とまぁ少々暗い話をしたが、

リスクをとって余りあるほど面白いのもまた、

自由業なのである。

 

ここが不思議といえば不思議なのだが、

自由業というのは、

社会の或る一部の人間だけを魅了してやまない。

 

軽すぎる例えになってしまうが、

まず格好が自由であること。

私はスーツとか背広が大嫌いだったので、

会社を辞めた途端、

夏なんかはいつもTシャツと短パンで通していた。

あと、会社勤めのときはいつも

出社の際にタイムカードを押していたが、

ああいうものは身体によくないので、

辞めた途端スカッとした。

時間の使い方も自分でコントロールできるので、

子育てに参加できたことも

とても良かったと思っている。

 

ではさて、

いったい自由業を選択するとは

どうゆう事なのか?

 

そこをたいそうに語れば、

人生の賭けであり冒険でもあると、

言えないこともない。

だから多大なリスクをとる。

 

それと引き換えに得るものが、

なにものにも代えがたい。

目にはみえないものばかりだけど…

 

だからあなたや私を、

自由業へと駆り立てる訳だ。

 

 

p.s

新自由業と呼ばれるユーチューバー、独立プログラマーの方々も、

人生の宝島をめざして頑張っていただきたい。

 

p.s2

ちなみに、前出の銀行員の方々はその後バブル崩壊、

平成不況やら、合併に次ぐ合併で疲弊。

いまじゃゼロ金利で経営圧迫され、

人員削減の憂き目なんだそうです。

磐石なエリートでも未来は見通せません。

要は、この世にずっととどまる、

安定しているなんてものはひとつもないということ。

 

だって世界は刻々と変化し続けているのですから…

 

父母生誕100年の件

 

親父とお袋が生きていれば、

今年でちょうど100歳になっていた。

まあ、たらればの話だけれど…

 

ただ祝・生誕100年というフレーズが、

今年の初めから、

私のアタマに渦巻いていた。

 

当初、お寺さんに話をして

縁起の良いお経などをと考えていた。

そんなお経があるのかどうか、

いまでもよく分からないけれど。

 

が、何かが変だと思ったのが、

今年の春頃だったか。

 

もうこの世にいない人の生誕100年を祝ってのお経?

うん、何かがおかしい。

 

お経と既にこの世を去った人というのは、

相性がいい。

が、生誕100年という節目を祝うという行為と、

お経が相容れないのではないか。

 

で、いろいろ考えた末、

アタマに浮かんだのが神社だった。

けっこう安易な発想だなぁと自分に呆れたが、

これが俗世間に生きる者の限界だった。

 

で、近所の宮司さんに相談に行く前に、

まずネットで調べることにした。

で、うーんと唸ってしまった。

 

神社で生誕100年のお祝い事をやった話は、

いろいろなブログで散見されたが、

ウチの場合はすでにこの世にいないので、

こうしたケースは希有だった。

 

まあ、スタンダードではない祝い事と、

その時点で認識した。

 

で、アタマを冷やすべくその件から一端離れ、

ずっと猥雑な日常に埋没していたのだが、

先日、ふとその件がまたまたアタマをもたげてきたのだ。

 

そもそもこの件は、

生誕100年の祝い事なので、

ちょうど100年の節目である今年中に

是が非でも解決しなければならない。

よって夏も過ぎた今ごろは、

何かしらの具体策に入らねばならない…

 

そのように誰かが私にささやくのだ。

 

妙なプレッシャーが降りかかる。

 

ある夜の夕飯時に、この悩み事を奥さんに話した。

実はなんにも期待してはいなかったのだが、

彼女が面白いアイデアを出してきた。

 

この人はいわゆる「千三つ」のような人で、

千回に一回くらいの割合で

すげぇアイデアを私に授けてくれる。

 

「あのね、紅白饅頭がいいわよ。

大きい紅白饅頭を和菓子店に頼んで

それを墓前に置きましょうよ。

それがいいわよ」

 

おおっ、それだよそれ!!

このご時世だ。

人を集める訳にもいかないし、

少々安直だが、いいアイデアだと私は小躍りした。

 

和菓子店もだいたい目星がついた。

が、2.3日が過ぎた頃、

私のアタマに浮かんだのは、

腐ってくずれた饅頭にハエが集っている

我が家のお墓の姿だった。

 

この話を奥さんにすると、

もう話は行き詰まってしまった。

 

沈黙が続く。

 

が、次に彼女のアイデアが炸裂した。

 

「バームクーヘンにしましょ。

向こう(西洋)ではバームクーヘンは、

長寿のお祝いによくプレゼントするらしいわ」

 

おおっ、それだよそれ!!

なんにもアイデアのない私は、

その意見に激しく同意した。

 

千三つの彼女がヒットを2回連続で飛ばしのだ。

すげぇと思った。

 

バームクーヘンは、「ユーハイム」で手配することに決めた。

ウチと息子家族と東京の娘のところに配ろうということも決めた。

ただしバームクーヘンは墓前に置くのではなく、

我が家の仏壇に供えるのがいい…

これは私の意見として取り入れた。

 

この複雑怪奇な案件は、

こうしてようやく結論が出た訳だ。

 

やれやれである。

 

しかしだ、

なぜ両親が生きている間、

親思いでもなかった自分が

そんなことをしようと思いついたのかだが、

それがいまだに自分でも説明がつかない。

 

よく分からないのだ。

 

ただ、強引な結びつけとなるが、

それは、自分の死生観に関係しているような、

そんな気がしていた。

 

人はずっと生き続けている、

というのが私の死生観である。

それだけであるような気がした。

 

がしかしだ、最近になって、

新たな理屈が浮上してきてしまったのだ。

 

思えば、この一件に対する己の執拗な執着は、

実のところ、私の単なる罪ほろぼしではないのか?

という疑惑である。

 

これには自分でも思い当たる節が多々あるので、

前説より十分な説得力がある。

よって罪ほろぼし説に軍配を上げることとした。

 

もうひとつ、最近になって気づいたことがある。

それは、めでたい供物を墓前ではなく、

我が家の仏壇に供えると変更したこと以外、

紅白饅頭がバームクーヘンに変わっただけじゃねーか、

という事実である。

 

遠い世界に

 

一枚のハガキ届いて

ボクのココロにふたつの風船おどり出す

開け放った窓から飛び込む風に

ふたつの風船おどり出す

 

街へ出て

目ぬき通りのいちばん端のくだもの屋で

小さなオレンジをひとかご買った

 

ステップを踏むように歩いていると

太ったおばさんが笑っているのを

小さな少女がけげんそうに眺めていた

 

街の外れの道を逸れ

柵を乗り越え

牛の背中に飛び乗って

 

流れる白い雲につかまった

 

かごのなかのオレンジ

空に放たれ

黄色の風船も

空のかなたに消えていった

 

一枚のハガキ届いて

ふたつの風船おどり出し

そしてボクは世界を見渡し

ちょっとオトナになっのさ

 

 

ある男のはなし

 

屋根裏から古い段ボール箱をおろして、

中身を確認してから捨てようとしたが、

古く重なり合った手紙の束を1つひとつ開いて、

滲んだインクの文字を追いかけているうちに、

すとんと時がトリップして、私は時代を遡っていた。

 

若い私への手紙はアメリカのサンディエゴからだった。

彼が、アメリカのいとこに会いに行ったときに、

私によこしたものだ。

 

ハンバーガーもマックシェイクも異常にバカでかいから、

そんなもの完食できない。

そして、おまえが横浜で乗り回している改造ビートルなんか、

こっち(カリフォルニア)へもってきたらフツー過ぎて、

誰も振り返らないだろう、

そんな内容だった。

 

すり切れて折れ曲がったエアメールを丁寧にたたんで、

再び封筒に収めた。

 

いままでこの手紙のことはすっかり忘れていた。

 

彼はずっとアメリカ行きに憧れていた。

目的は不明確だったが、

向こうで生活したいとよく話していた。

が、彼のアメリカへの旅はそれ一度きりだった。

 

彼はこっち(日本)で役者への道をめざした。

が、結局その道も数年であきらめることとなった。

生活していくとなると、おのずと限界はあるものだ。

 

役者で売れるというのは、

いわば宝くじに当たるようなものだと、

彼はよく話していた。

端からみていた私にもそう思えた。

 

それから彼はいろいろな職業を渡り歩いた。

得意の英語を活かして

ツアーコンダクターをやっていたこともあったが、

あまりに過酷なのでそれも辞めざるをえなかった。

 

後年、彼はある大手半導体関係の系列会社の社長になっていた。

もがき苦しみながら、彼が手にしたひとつの成果だ。

 

お互いに忙しくてなかなか会えない時が続いた。

 

或る日、彼の訃報が届いたとき、

私は途方に暮れてしまった。

忙しさにかまけていたことを深く後悔した。

 

彼の奥さんからお墓が決まりました、

との連絡を受けたとき、

私はなぜかほっとした。

 

さっそく彼の墓を訪ねた。

その墓園は、若い頃二人でよく走った、

なじみの国道の近くだった。

 

彼の墓石にこんな言葉が刻まれていた。

Memories Live on (思い出は生きている)

 

遠くから国道を走るクルマの騒音が聞こえる。

私の胸が詰まった。

 

牧場へGO!

 

いい加減、視界の狭い室内にずっといるのはよくない、

ということで、人気のない牧場をめざしました。

 

暑い。

けれどちょっと涼しい風がほどよく吹いて、

全身を通り過ぎる。

久々に味わう心地よさでした。

陽はジリジリとくる。

この焼ける感じが夏なんだと実感。

 

視界が広いってホントにうれしい。

気が休まります。

 

よくよく足元をのぞくと、

草の上をいろんな虫が歩いています。

 

「君たちは自由そうだね」

「いや、そんことはないんだ。だって

いつ鳥に食われちゃうか分からないからね」

「そういうもんか。みんな大変だなぁ。」

と勝手に無言の会話を交わしてから、

無造作に草を踏んづけて売店へ。

 

 

ハムとかチーズとかいろいろな乳製品を売っている。

ここで牧場特製のアイスクリームを買う。

結構おいしい。

けれど甘ーい、甘過ぎだろ。

 

ペロペロとやりながらほっつき歩いていると、

汗が止めどなく流れる。

いい感じ。その調子だ。

いつもの夏が帰ってきた。

 

 

ヒツジがメヘェェーってなくんだけど、

こっちの勘違いなのか、

テレビで観たもの真似芸人のそれと、

ほぼ変わらないんだよね。

 

このヒツジかタレントのようにみえるねぇ。

牛もヤギもみな人慣れしている。

全然違和感なし。

そういえば微笑んでないているようにみえる

ヒツジがいたなぁ。

気のせいであればいいのだが 汗

 

 

遠方の山々に目を移す。

神奈川県とはいえ、なかなかいい山並みじゃないかと

感心する。

木々から蝉のミンミンという大合唱。

割と都会面しているけれど、神奈川県は

箱根・丹沢などの山々を抱えている、

山岳県でもある。

 

この牧場をずっと北上すれば、高尾山、

さらに行けば東京の多摩の山奥に出られる。

そこまで行くと、檜原村だとか、御岳山とか、

いやぁ、アウトドアに最適なところがいっぱいある。

 

そこから至近の山梨県境まで足を伸ばせば、

いま話題の小菅村とか大菩薩峠もあるし。

 

―考えてみれば、人間も自然の一部なのだ。―

この名コピーが、心身にが沁みましたね。

 

○○恐怖症がつくりだす妄想がヤバい!

 

視界のひらける場所に悪いところはない。

個人的な見解だけどね。

山のてっぺん、大海原をのぞむ見晴台。

飛行機の窓から眺めるサンセット。

ね、なんかいいでしょ?

 

反対に、谷底とか窪地とか洞穴とか地下施設とか、

そういう場所が僕はぜんぜん好きじゃない。

まあ嫌いですね。

いや、恐怖さえ感じることもある。

 

最近、あそこだけは通りたくないなと感じたところは、

東京湾アクアライン&海ほたる。

ま、ひとことで言うと信用ならないトンネル&パーキングだ。

一応、自分がクルマでアクアラインを走る想定で、

リアルにイメージしてみた。

 

うん、クルマがどんどん進むにつれ、下り勾配になってゆく。

おお、海の深いところを走っているらしい。

まわりを見るとキレイな照明がキラキラと輝いている。

トンネルの中は明るくて地上の真昼のようだ。

なかなかいいじゃないか。

快適なドライブだなぁ。

 

ある箇所を通過するとき、トンネルの壁にシミのようなものが、

ふと目にとまった。

なんだろうなぁ、こんなピカピカのトンネルなのに…

まあいいや。

時速70キロで僕のクーペは快適に走っているし。

 

あれっ、またシミのようなものをみつけた。

そのシミは徐々に数を増し、

やがてトンネルの天井あたりから、

ポツポツと水滴が落ちてくるようになった。

 

その水滴は徐々に頻繁となり、

僕はやがてワイパーを動かすことにした。

おや、前方でクルマが渋滞しているぞ。

減速して近づくと、数人がクルマから降りて、

右往左往しているではないか。

僕もクルマを止めて表にでる。

 

と、誰かの叫んでいる声が聞こえた。

「この先でトンネルが崩落しているらしい、

緊急電話はどこだ!」

「なんだって!」

突然、僕の背中が硬直するのがわかった。

さらに、その後ろから走ってきたご婦人ドライバーが、

甲高い声でこう叫んだのだ。

「もうこの先は完全に水没しているわよ。

水がどんどんこっちに押しよせてきているのよ」

そのご婦人の足下は、すでに水に浸っていた。

僕とうしろを走っていたドライバーは

反射的にいまきたトンルネを戻って走り始めた。

大勢の人間たちもわあわあ言いながら、

いま来たトンネルを走り始めたのだ。

 

しかし、そちらからも轟音が響いている。

そして勢いづいた怒濤のような水が…

 

わあ…

○○恐怖症の僕が考えると、

あの楽しいであろうアクアライン&海ほたるも、

こんな悲惨な結末になってしまう訳。

 

さて次回は、

僕もたまに必死で乗っている地下鉄新宿線の

壮絶パニックストーリーについてお話しますね。

はぁ、いい加減にしろってとこですかね。

 

話は冒頭に戻るけれど、

視界のひらける場所に悪いところはないと

僕は常々思っている。

山のてっぺん、大海原を望む見晴台。

飛行機の窓から眺めるサンセット。

 

ね、○○恐怖症の妄想だけど、

こうした話の後だと、

視界の良いところって

なんかいいイメージでしょ?