花束をあげよう

 

花束って、

もらうととてもうれしい

あげてもやはりうれしい

 

そこにはきもちっていう

不思議なものを伝える

電気とか空気振動にも似た

見えない伝達機能のようなものが存在していて

ちょっとした感動がうまれたりする

 

赤いバラの花、カーネーション、真っ白なユリのはな

黄色いスィートピー、すがすがしいキキョウの紫

そしてカスミソウ、麦の穂やら

 

いろいろな花でにぎわって

いろいろな色が交りあって

想いが込められて

花束はあたらしい生命に生まれ変わる

 

とても幸せないっしゅんは

きもちを伝える方も

受けとる側も

 

花の命はみじかいけれど

とてもしあわせな命

 

 

たき火とバーベキューは似て非なるもの


アウトドア、人気がありますね。

都会の方々がどんどん河原に集結しております。

コロナうんざりということで、いなかへ。

が、みんな考えることは一緒で、

郊外に集結してしまいました。

 

残念!

 

私は、いなか暮らしなので、

平日の夕方にちょいちょいこのあたりで、

たき火をします。

 

ほぼ誰もいない。

ここの近所の方が散歩しているくらいです。

水の流れる音が遠くからでも聞こえる静けさ。

西の山が燃えるような夕陽に染まると、

手元はもう暗くなっていて、

たき火の炎が赤々と揺らいで、

ふっと心身の力が抜けるのが分かります。

 

バーベキューとたき火って、

まあ似て非なるものだと思います。

最近になって分かったことですが。

 

 

厚木は、いなかの景色がいっぱいです。

 

 

 

 

空がでっかい、雲はながれてゆく。

はるか向こう、丹沢の峰々が、

シルエットでどんと鎮座します。

河川敷ぞいを歩きまわりました。

ついでに田んぼもウロウロ。

あちこちの草花に顔を近づけてみる。

じっと凝視すると、

どこもかしこもいきものでいっぱいです。

花も虫もむせかえるほどにあふれている。

もう夏はピークが過ぎたけれど、

まだまだ生命のほとばしる季節です。

それはまるで里山のおまつり。

大きなパーティーのように賑やかで、

なぜか騒々しくさえ感じます。

 

ふと我が青春のときが甦りました。

 

 

 

 

 

 

夏の絵

 

 

 

こんな夕ぐれが訪れる部屋があったらな。
それは日本かも知れないし、
どこか外国のアパートの一室かも知れないし。
なにはともあれ、花瓶に花をさして、
夕暮れを眺めるという贅沢を、
一度は試してみたいと考えている。

 

 

 

 

10代で初めてでかけた沖縄の与論島。
ホントにこんな海でした。
絵ハガキのような浜辺。
満ち潮になると島が隠れそうになり、
真っ白い砂浜が海に消えて、あとは何事もなかったように…
漁船が一艘、私たちの前を横切っていきました。
ぽんぽんぽんという音を立てて。

 

 

グラスの向こうの夏

 

「月と太陽ってお互いを知らないみたい」

「おのおの昼と夜の主役。

だけど、すれ違いの毎日だしね」

 

「スタンダールの『赤と黒』って

確か軍人と聖職者の話だったよね」

「そう、対照的な職業」

 

「南の海のエンジェルフィッシュと

北の海のスケソウダラが一緒に泳ぐ、

なんてことがあり得ないのと同じ」

「そうね、いずれ相容れない何かがありそうだね」

「なんだか私たちと同じ」

「そういうことになる」

 

仲のいい友人、夫婦、親子、兄弟、姉妹でも、

あらゆる面で相反するというのは、

多々ある事なのかも知れない。

私たちもそのような関係と思える。

 

それはお互いの思惑の違いから、

(それは恒例ではあるのだけれど)

たとえば夏の旅行の計画などの話になると、

途端に方向性が異なる。

相容れない。

行きたいところだけでなく、

趣味が全く違うのだ。

そしてお互いに譲らない。

そこは同じなのにね…と彼女は思う。

 

片方が海といえば、

相手は山へ行きたいと言い張る。

話は平行線のまま。

決して交わることはない。

やがて意地の張り合いになり、

ひどい喧嘩となって、

結局いつものように沈黙が続く。

 

やはり月と太陽

赤と黒か

エンジェルフィッシュとスケソウダラみたいに

相容れない。

 

しかし「今年こそは」とふたりは願っている。

そこは似ているなと、

ふたりはつい最近になって気づいた。

 

グラスの氷がカタンと鳴って、

そして静かに沈む。

トニックウォーターが震えるように揺れる。

ふたりはため息のあとでそれを口に含む。

庭の木で蝉が鳴いている。

とても暑い鳴き方をするミンミン蝉だ、

とふたりは同時に思った。

 

果たしてグラスの中の氷は彼女の熱を冷ませ、

それは相手も同様だった。

想いが冷めては元も子もないと、

ふたりに囁く誰かが、

この部屋に降りてきて…

 

「とにかく出かけようぜ!」

「そうね、私支度してくる」

やはり似たもの同士なのかも知れない。

 

ようやくお互い、笑みが浮かんだ。

 

 

五木寛之「不安の力」

 

本棚をまさぐってたら、

五木寛之の「不安の力」が出てきた。

奥付をみると2005年となっている。

中身はすっかり忘れている。

ちょっと読んでみようかと、

ベッドに寝転んでパラパラと読み始める。

 

なんだか、このコロナの時代にフィットしているなと、

改めて思う。

不安はいつでもだれの心にもあるのだが、

いまこの事態に「不安」は顕在化しているから、

タイミング的にピタリではないか。

再販、イケルと思う。

編集者気分になる。

 

五木寛之という作家は、軽いのに重い。

重いのに軽い。

何と表現したら良いのか分からないくらい、

光のあて方でどうとも解釈できてしまう。

 

「青年は荒野をめざす」「風に吹かれて」などから、

数十年を経て、仏教に傾倒し、

その深淵を追求したりと、

年代によって作風がみるみる変化している。

 

なにはともあれ、この人は風のようであり、

旅人であり、不定住のようであり、

生来孤独を愛する人なのでないか。

 

私の若い頃からの文章の手本として、

永年高いところにいる人であり続ける。

 

文章は基本的に平易かつ分かりやすい。

映像のようで美しい表現を何気に使う。

さらにこの作家の生き方の複雑さが、

作品のここかしこに宿っている故に、

それが全体として重くのしかかる。

 

一度死んだ人は強いとは、

この人のことだと思う。

それはこの人の若い頃のことを知ればしるほど、

この作家の背負ったものが如何ほどのものか、

考え込んでしまう。

 

この「不安の力」という本のなかに、

シェークスピアの「リア王」の台詞が、

五木流の訳で紹介されている。

 

『「…この世に生まれてくる赤ん坊は

みずから選んで誕生したのでない。

また、生まれてきたこの世界は、

花が咲き鳥が歌うというようなパラダイスではない。

反対に弱肉強食の修羅の巷であったり、

また卑俗で滑稽で愚かしい劇の舞台であったりする」

赤ん坊が泣くのは、

そうしたことを予感した不安と恐怖の叫び声なのだ。

産声なんていうのは必ずしもめでたいものではないのだよ、

という辛辣な台詞です。

嵐の吹き荒ぶヒースの野で、老いたリア王が

「人は泣きながら生まれてくるのだ」と叫ぶ。

これは、人生のある真実をついた言葉だと思います。』

 

五木寛之という作家は、

要するにこうした志向に傾く、

そこは若い頃からどうにも変化しない、

風に吹かれたりもしない、

不動の悲観論者なのである。

 

「不安の力」はこうしたネガティブな人間の一面を

賞賛する本でもある。

いや、市井の人間に真の希望とは何かを教えてくれる。

 

それがこの人の持ち味であるし、

この作家の魅力なのである。

 

この時代にぜひ読んでおきたい一冊と思う。

 

夏の少年

 

半ズボンのポケットのなか

ビー玉がジャラジャラと重くて

手を突っ込んでそのひとつをつまむと

指にひんやりとまあるい感触

 

強い陽ざしにそのガラスを照らし

屈折が放つ光の不思議に魅せられて

しばらくそれを眺めていた

 

猛烈にうるさい蝉の音が響き回る境内

 

水道水をゴクゴク飲んで

頭から水をかぶり

汗だか水だか

びしょびしょのままで

境内のわき道をぬけ

再び竹やぶに分け入る

そんな夏を過ごしていた

 

陽も傾いて

気がつくと猛烈に腹が減っている

 

銀ヤンマがスイスイと目の前を横切っても

のっそりと葉の上を歩くカミキリムシにも

もう興味はうせて

空腹のことしか頭にないから

みんなトボトボと歩きだす

 

道ばたの民家から

魚を焼くけむりとにおい

かまどから立ちのぼる湯気

とたんに家が恋しくなって

疲れた躰で足早に山をくだる

 

あの頃のぼくらの世界は

たったそれだけだった

きのうあしたは

意識の外のじかんだった

今日という日だけを

精いっぱい生きていた

 

町内のあの山の向こうはわからない

あの川の先になにがあるのか知らない

 

僕らの信じられる世界は

たったそれだけで完結していた

 

 

 

1964東京オリンピックのころ

 

三丁目の夕日という映画がありますね。

日本中のまちがこの映画のセットのような、

というとややこしいのですが、

当時小学生の私は、

あの映画の舞台のようなまちの片隅で、

家族4人で暮らしていました。

東京オリンピックが開催されたのも、

そのころです。

 

オリンピックというものがなんなのかは、

当時の私には、

いまひとつ分かっていなかったように思います。

とにかく、この国に世界のスポーツ選手や、

いろいろなひとたちがやってくる…

そんな認識でした。

まあ、当時小学生の私としては、

この程度の知識でじゅうぶんとは思いますが。

 

となり町の国道を聖火ランナーが走るというので、

私たち小学生は、日の丸の旗振りの練習を

小学校でさせられました。

させられたといっても、とにかく楽しかったし、

やはりなにか高揚のようなものがあったのです。

 

応援地点は、東京から横浜へと続く

国道15号線沿いの子安あたりだったと思います。

 

私の住んでいたところは町工場が乱立してまして、

みんな早朝から暗くなるまで一生懸命に働いていました。

いつも鉄をたたく音が町中に響いていた、

そんな環境でした。

 

歩いて10分ほどの国鉄の駅のまわりには、

大きな商店街がふたつありました。

そこはいつもにぎわっていて、

季節ごとに赤いガラガラポンの抽選会をやっていました。

 

私は母に促されてそのガラガラポンを幾度か回しました。

電気スタンドとふとんのシーツを当てたことがあります。

母は大喜びしていました。

それがどちらも2等でした。

当時は、かなり高価なものだったようでした。

 

私の通っていた小学校はいま思えば不思議なところで、

みな誰も勉強はよくしていたのですが、

いまでも鮮烈に残っているのは、

先生たちがとてもやさしく、

どの先生も凛々しく、

私たちに常々話してくれたのは、

どんな問題もしっかり考え、

自分が正しいと思ったことは、

しっかり主張しなさいと教えてくれたことでした。

 

教室はいつも自由の空気がみなぎっていました。

休み時間は、机といすをうしろにどかして、

当時流行っていたモンキーダンスを

みんなで踊ったりしていました。

 

給食は、パサパサのコッペパンと

アメリカから配給された脱脂粉乳のミルクと

カレースープとかそんな献立でした。

 

昼休みになると、拡声器から

♪僕らはみんな生きている

生きているから歌うんだ

…手のひらを太陽に透かしてみれば

真っ赤に流れる僕の血潮♪

という歌が毎日流れていまして、

手のひらを…の歌詞に

なぜか強く惹かれたのを覚えています。

これは、やなせたかしさんの歌詞だと

後年になって知りました。

アンパンマンというキャラクターも

この人のあつい想いからうまれたのだと

納得できます。

 

坂本九の「上を向いて歩こう」も

このころ流行っていたと思います。

クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、

弘田三枝子、そしてベンチャーズ。

この時代のスターそしてその音楽は、

いまでもアタマに焼きついています。

 

さて、1964年のオリンピックですが、

私の記憶に残っているのは、

重量挙げの三宅選手の金メダル、

ニチボー貝塚のバレーボールの金メダル。

このチームは東洋の魔女といわれ、

世界から恐れられていました。

そして裸足で走ったエチオピアのアベベ選手でしょうか。

そして、みなどこかで聴いたことのある、

オリンピック・マーチというのは、

いまNHKの朝ドラの主人公のモデルである

古関裕而という作曲家の作品です。

私としては、開会式の荘厳なファンファーに、

とても感動しましたが。

 

日本チームの赤白の制服姿はとてもインパクトがありました。

日の丸からのカラーリングだと私でも分かりましたし。

それを観るべく、我が家でも或る日、

父が電気屋を連れてきてテレビがついた次第です。

 

私のまちは、海まで歩いて15分ほどでした。

その岸壁あたりは、大きな工場がどんどん増えて、

煙突の煙でまちがうっすらと曇っていました。

丘の上からその手前を走っている鉄道を眺めていると、

汽車を先頭に、貨車は50両もあったこともありました。

 

当時の自分が、

そのころ世界でもまれにみる発展を続けている

日本という国のその現場である

京浜工業地帯のすぐ横で暮らしていたということは、

後年になって知ったことです。

 

横浜駅のまわりのいくつかの地下道には、

まだアコーディオンをひきながら

お金を乞う傷痍軍人と呼ばれるひとたちが

いっぱいいました。

足のないひと、手のないひと、

包帯を体中に巻いているひと…

暗がりからのぞく彼らの異常に白い目だけが、

いまでも私になにかを訴えてくるようです。

 

敗戦から十数年の1964年。

そんな時代に開催されたオリンピックは、

いろいろな意味での時代の転換点でした。

そこに意義のようなものをと問えば、

それなりの回答があると思います。

それも山ほど、あきれる程に。

 

ただ、時代の傍観者として、

こうした時代を振り返ると

万感の想いもある訳ですが、

結局、ときが流れていまがある、

としか形容できない気持ちが、

佇んでいるだけなのです。

 

それはなぜなのかと自問するも、

それが思い出というものだから…

とつれない訳です。

 

映画「この世界の片隅に」そして…

8月9日はとても暑い日だった。

長崎に原爆が落とされた日だ。

親父の命日でもある。

 

朝、仏壇に線香をあげ手を合わせる。

逝ってしまって、もう16年たつ。

たどたどしくも、いちおう般若心経を読む。

これがウチの習慣のようなものになっている。

親父もこちらも救われる。

なんだかそんな気がする。

「世の中はいま激変しているよ」と、

話しかける。

そして日課の筋トレを始める。

汗がとめどなくしたたる。

 

日中、簡単な仕事をいくつか片付け、

運動公園を歩き、買い物をして帰る。

 

夜、録画しておいた

「この世界の片隅に」を観る。

2度目だけれど、

とても気になる作品だった。

初回では見逃していた、

新たな発見もあった。

 

しかし、それにしても

この映画は辛いなと思った。

やるせない。

切ない。

呉という港町へいってみたくなった。

そして、丘から港を見下ろし、

時代をさかのぼるのだ。

 

愛おしい日常

死んでいくひと

死んでしまったひと

生きてゆくひと

生きなくてはならないひと

運命のようなものがどうあろうと、

実はたいして変わりはしない…

そんな思考の麻痺がおこるほど、

考えさせられる内容だった。

 

戦争って、のちの平凡な日々、

そして未来のすべての事象を、

おおきく歪めてしまう。

 

映画を観ていてふと気づいた。

終戦の日の8月15日といえば、

親父は確か満州にいたはずだ。

ソ連はすでに日ソ不可侵条約を破棄して、

満州に侵攻していたので、

この頃、親父はもうダメだと思っていた、

のではないか。

 

それでもシベリアでの壮絶といわれた

抑留から、親父は生きて帰ってきた。

昭和23年、終戦から3年経っていたという。

そしてふる里を捨て、

もともと遠縁だった母と結婚し、

横浜の親戚の家に間借りし、

公務員として務めることとなる。

そして姉と私が生まれた。

そこにいったいどういう意味があるのか、

親父が生きて帰ってきたというのは、

ただの偶然なのか。

そんなことをいくら考えても、

いつもいつも分からない。

 

ただ自分が存在することで、

家族ができて、

こんなことをぐだぐたと書いている。

ただ、それだけなのかもしれない。

 

親父が晩年に建てたさいごの家が、

どんどん朽ちてゆく。

そして年々あなたの顔が表情がしぐさが、

記憶のなかでだんだん薄らいでいく。

私は老いてゆく。

 

ただ、時が過ぎてゆくばかり。

 

 

寛斎さんのこと

 

山本寛斎さんが逝ってしまわれた。

オールバックのヘアスタイル。

大胆なファッションを難なく着こなす立ち姿、

笑顔を絶やさず、しかしふとした瞬間にみせる

神経質かつ気難しい表情が、格好よかった。

 

訃報に接し、或る記憶が鮮明に甦ってきた。

私は過去に一度、寛斎さんを取材したことがある。

当時、私は大手出版社の制作を専門としている

編集系の制作会社に在籍していた。

一応、前職の内容を買われての転職だった。

 

しかし、入社早々から戸惑うこととなる。

まず、大手出版社のやり方がさっぱり分からない。

そして、社内の人間さえ把握していない時期に、

いきなりディレクターとしての活躍を期待されてしまった。

一応、部下と呼べる人が4人ばかりいたが、

彼らのほうが数段レベルが高いと思われた。

 

私の担当は、或る出版社が企画している、

科学から文化など多岐に渡る分野の近未来の

ビジュアル事典なるものの巻頭の特集ページだった。

 

しかし、そのころ私自身悩みを抱えていて、

こうした世界にいること自体に疑問を抱いていた。

不安定な収入、家へ帰れないほどの仕事量、

〆切に追い立てられる日々。

この世界は、どこも同じような職場環境だった。

 

当時は、飲食業とかトラックの運転手とか、

学生時代に慣れ親しんだ仕事でもしようか、

と内心では転職を考えていた。

要するに、全く違う業界へ救いを抱いていた。

さらに、奥さんが最初の子を身ごもっていたので、

そちらへも気が散っていたのかも知れない。

 

しかし、とりあえずは働かなくては食べていけない。

そして目の前にある仕事に飛びついてしまったのだが、

こうした業界には、すでに幻滅を感じていた。

 

よって、毎日が激務なのに気はノラない、

すべてがうわの空なのに、

日に日に責任が覆いかぶさってくる。

〆切のページ項目がみるみる増えるなど、

猛烈なストレスの日々だった。

 

或る日、出版社の局長がぷらっと訪ねてきて、

「未来のファッション」を企画している旨を、

私たちの前でボソボソと話し始めた。

そしてこの人が、「寛斎さんはどうですかね」

と、なぜか私に話を振ってきた。

「いいんじゃないでしょうか」と

適当に答えた。

すると局長が、

「だよね、では君がすべての段取りつけて

本人のインタビューをとってきてください。

予算は大丈夫ですよ」と

あっけなく話がまとまってしまった。

後日談では、寛斎さんの件は

すでに決定していたとのことだった。

私はのせられた、試されたようなのだ。

それが何の為だかは、

いまだに謎ではあるのだが。

 

単独取材は、表参道にある寛斎さんの事務所で行われた。

そのビルの最上階にある真っ白い一室は、

防音が施されていると思えるような、

おそろしいほど静かな部屋だった。

 

私は寛斎さんとふたり、

白い机を挟んで向き合っていた。

 

寛斎さんはとても礼儀正しい方だった。

幼年時代の苦労した話は知っていたが、

そこは避けることにした。

寛斎さんの話している仕草や内容から、

異常とも思える忙しさが伝わってくる。

なのに快活でエネルギッシュな生き方が、

それを上回っていた。

「元気」「ゲンキ」をコンセプトとした、

ファッションという枠に捕らわれない、

複合的なイベントのことを盛んに話された。

 

私はとにかく終始気後れしていた。

なのに無謀にも、ノートとペンのみで取材に臨んでいた。

テープレコーダーの持参も頭に浮かんではいたが、

当時はメモの取れない奴が録音をあてにする、

などの風潮もあってか、メモのみとした。

 

さらに、肝心の下調べと質問事項などの

下準備を怠っていたのだ。

時間は刻々と過ぎてゆく。

世間話ばかりしていてもたいした材料にはならない。

 

事前の準備を怠っていたのは、

他の作業がすでにもうどうにもならないほど日程が遅れていて、

そちらの火消しをしているうちに、

気づいたら取材前日の夜になっていて、

まあ、半ばやけくそな気にもなっていたことだった。

 

取材が終わると、寛斎さんが

何か物足りないというような表情をみせた。

それは不審を覚えたような目でもあった。

私は当然と思った。

 

赤坂への帰りの地下鉄にへたり込み、

私は憂鬱かつ脱力した心持ちで、

車輪が発する騒音さえ遠くに聞こえるほど、

放心していた。

社に帰ってメモを見返すと、

とてもいい記事になるとは思えない、

どうでもいい走り書きばかりが目についた。

当たり前のことだった。

 

そして、とてもまずい事態がそのあと次々に起こる。

私の書いた原稿が突っ返される日々が続いた。

これは私も承知していた。

というより、書いた本人が一番分かっているように、

とても世間に発表できるほどの内容ではなかった。

それでも記事を書き直す日々は続いた。

それはとてもキツい毎日だった。

 

要するに、取材失敗である。

さらに善後策が皆無であり、

無策の私は、社内で全く身動きがとれなくなっていた。

いっそ逃げることも考えたが、

それではどうにも納得がゆかない。

後々、自分が許せなくなるだろう。

 

そうした状況が2週間も続いた或る日、

途方に暮れている私のところへ、

社内の編集者やライターなどを取りまとめている、

Aさんが近づいてきた。

この人がどういう人なのか、

私は話したこともなく、よく知らなかった。

 

Aさんはとても落ち着いた声で

「話は聞いています」

と切り出した。

「ご迷惑をおかけしています」

私は他に言葉がみつからなかった。

そしてこの人は余裕があるのか、

笑みさえ浮かべて

「事情をききましょうか?」

と少し身をかがめてきた。

私は、自分の仕出かしたことが、

まわりに多大な悪影響を及ぼしていること、

時間もチャンスも

すべて取り返しのつかないところまできていること、

そして事前準備を怠ったいきさつなどを、

包み隠さず話した。

 

彼は、かなりながい時間、

オフィスの天井あたりをじっと眺めていた。

そしてこう言った。

「そのメモを私にみせてください。あとは

あなたからみた寛斎さんの印象を私に教えてください。

そしてですね、後から調べた寛斎さんに関するもの

すべてを私に提出してくれませんか」

「はい…」

そしてこう言ったのだ。

「私は寛斎さんに関してはかなりの情報をもっているので、

後は私が何とかしましょう」

 

胸につかえていた苦しいものが、

ポトっと取れた気がした。

 

後で聞いたのだが、

Aさんは制作会社の社長に頼まれて、

出向で社内を統括している方らしく、

元大手出版社の優秀な社員であり、

企画、編集、執筆、さらには対外の折衝もこなし、

創作の世界においても

かなり名の知れた人とのことだった。

 

私は、このプロジェクトが終わると同時に、

この会社を辞めた。

なのに飲食をやることもなく、

トラック・ドライバーに戻ることもなく、

さらに制作会社を転々とした。

 

いま思い返してみても、

その転職理由はただただ悔しかったのだろうと、

自分では推測している。

そしてこの業界から逃げることは、

自分の性格からして、

後々後悔することは目にみえていた。

それより自分が巻き起こしたトラブルを

難なく解決してくれたあの人のようになりたい、

とも考えるようになっていた。

 

後、私は広告業界に転職したが、

スタンスの違いこそあれ、

感覚的にいえば前職となんら変わりはないと感じた。

 

その転職した広告会社は表参道にあった。

そしてそのビルが、偶然というべきか、

寛斎さんの会社が入っているビルだったことに、

私は心底に驚いてしまった。

 

(寛斎さんのご冥福をお祈りいたします)