よく
人は幸せになるために生まれてきたと
言う人がいる。
果たして、大抵がそのようになっていないのではないか?
人は幸せになるために生まれてきた。
とても魅力的な言葉だが、ちょっと綺麗事に過ぎる。
私は、人は出会いと学びのために生まれてきたと
思っている。
まず、生んでくれた母親と出会う。そして
父親と出会う。
ここでまず、父親と出会わない人もいるだろう。
兄弟姉妹と出会う。近所の同世代と出会う。
そして
恋人と出会い。生涯の友と出会う。
伴侶と出会う。
この出会いのない人もいる。
子供を産まない、産めない夫婦だっている。
ここで、すでに人生のドラマは様々に枝分かれしてゆく。
そして出会いは
良い出会いだけでもない。
不幸な出会い、かかわり。
争うために出会うこともあるだろう。
こうして、めくるめく出会いの積み重ねは
人を幸にも不幸にもする。
そうした中で、人はいろいろなことを学ぶのだろう。
学びは人を堅くする。
それを知るがために、人は生きるのかも知れない。
だから幸せか否かというのは、人それぞれの学びによる。
幸せか否かは、個々が考えるものなので
そのバロメーターはかなりの振り幅があると思う。
では、我々はこうして生きてゆくと、何処へ向かうのかと
思う向きもあるだろうが、当たり前のように
私たちの向かう先には、死しかないのだ。
生まれてくる意味、生きている意義を疑問に思う日々。
私は若い頃、常々このような疑問に苛まれたことがある。
いろいろな哲学書や宗教関係のものも読みあさった。
人生訓や偉人の言葉など数多くのヒントも手に入れたが
どうもこの時点で、私の血となり肉になるものはなかったらしい。
しかし、こうしたものは潜在意識として私の何処かで眠り続け
いろいろな出会いや学びのなかで、発酵することになる。
こうして年を重ねる毎に、少しは堅くなってきているのだと
自分に言い聞かせるのだが、まだまだ分からないことだらけだ。
ただ、私がそれなりに最近感ずることがある。
幸せは人を内外から輝かせる。が、こうしたものに限って
いつまでも続くものではない。
良いことは、長続きはしないのだ。
何故続かないかという疑問は愚問になる。
人は、なかなか辛いことや悲しいことから
いろいろなことに気づくという習性があるからだと
私は思うことにしている。
気づきは、人を考えさせる糧となる。
その学びは、人生に於いての杖となり
食糧となり、自らを助ける。
だから、人は気づくために出会い、学ぶのだ。
この気づきが足りないと、いつかとても登れそうにもない山を前に
早気迫で負け、そこで力は尽きてしまうだろう。
私たちは、来るべきものを乗り越えるために学ばなくてはならないのだ。
こうして考えると、我々はひょっして苦労するために生まれてきたのか?
という疑問も生まれてくる。
これには、或る理由がある。
そもそも、私たちは母親の胎内に宿る前に、この世に出るための
或る契約書にサインをしている。
そんなの知らない、と言われそうだが、その契約書にサインをしなければ
この世にあなたは現れない、と私は思う。
そして、この世へのパスポートへのサインは
いつかあの世へ戻る、という約束を踏まえた契約書でもあるのだ。
だから、我々はいつか死ぬのだ、と私は解釈しているのだ。
私たちは、生きている限り、山を登るの如く
苦労が尽きないのは、このサインに起因しているのではないかと
私は考える。
このサインこそ、次のステージでまたひとつ何かを学ぶことにより
天上界へ近づく。
天上界へ昇るための唯一の道が、生きるという行為だからだ。
だから私たちは、死のサインにも署名できるに違いない。
死して、人はまたひとつ、天上界に近づくことができる。
では、天上界とは如何なるところか?
天上界は、いうなれば楽園とでも形容できようか。
人はここで永遠のやすらぎと平和と万能を約束される。
天上界に争いはなく、怠惰はなく、病や事故はなく、
だだ幸せな毎日とやすらぎの日々が流れる。
ということにしよう。
(でないと、辛くて悲しい毎日が続くと、人はやりきれないではないか!)
だから、天上界へ行くため、人はその世界にふさわしいものを
身につけるため、幾度となく生まれ、苦労し、
また死して生まれ変わろうとしているのだ。
こうして辿ってゆくと、なぜ私たちは苦労するようにできているのか
というメカニズムが見えてくる。
苦労することにより、精神性を上げ、人間であることの尊厳を学び
そして、徐々にではあるが
楽園の住人にふさわしい人間になろうとしてゆくのではないか。
だからこの世での幸せは、はかない。
幸せは駆け足で過ぎてゆくのだ。
辛い、苦しい、悲しいことばかりだが
人はそれでもある目的のために生きてゆくのだ。
人は幸せになるために生まれてきた。
この言葉はある意味で詭弁であり
また、実は人間の本質を言い当てている
深遠な真実でもあるのだ。
(この項終わり)
