ノマドでクラウドな生き方と仕事スタイル

ノマドは遊牧民、クラウドは雲。

固定の場所に住み着かない生き方で、

遊牧民は、自由に住み処を変える。

仕事も同じ。

固定のオフィスに毎日通わない、

また、そこに縛られることなく、仕事をする。

例えば、それは街の喫茶店でも公園でもOK。

大げさにいえば、この日本にいなくても良い。

連絡手段は、スカイプなんかが適当だ。

通信費はタダだし、音も安定している。

そんなとき、情報や書類等は、ネット上に預けておく。

身近なもので、ストレージサービスがある。

どこでも、IDとパスワードで、書類を引き出し、

そこで作業ができる。

iPhonやiPadとか、アンドロイドがあれば、事は足りる。

何もない場合は、ネットカフェからでもOKだ。

あとは、こうしたスタイルに適した仕事か否かということ。

私の場合を言わせてもらえば、まあ半分ほど一致している。

で、ノマド化、クラウド化は進行中だ。

せこい話だが、問題はバッテリーの消耗。

私の場合は、何処でもネットに繋げるよう、

iPadにWi-Fiルータを使っているが、ルータの持ちがせいぜい4時間。

電源の確保が必須だ。

クルマの場合は、シガーソケットから、

手持ちのパソコンは、USBから電源が供給できる。

旅行に行ったときなど、

私は、ホテルの部屋に入るとまず、コンセント探しをする。

都会にいる必要性とか、ラッシュに揉まれる毎日、

そして、渋滞のストレスと時間の無駄…

この辺りを解消する術が、ノマド&クラウドスタイルだが、

こうしたスタイルを実践している方たちは、確実に増えている。

が、古い体質の企業などでは、管理する側からいえば、

こうした方たちが気に入らないだろうね。

働いている姿を監視ができないと不安になる。

働かされている方も、同じ。

マゾっぽく机にしがみつく習性が残っている方も、

いまだに多いことだろう。

しかし、時代は確実に動いている。

見せかけの生き方や仕事は、いま綻びつつある。

勘で申し訳ないが、居住も仕事も、これからは全く違ったものが

脚光を浴びるような気がしてならない。

例えば、がんじがらめのローンを組んでマイホームを建て、

そこに束縛されて住み続けるというのがいまの主流だが、

これは誰かの策略なかと、最近思うようになった。

これからは、各地を転々とするのも悪くはない。

極端なことをいえば、昨日は東京にいたが、今日は沖縄、

で明日はロンドンなんていうのもアリ。

季節や数年ごとに住む処を変えている方も、実際にいる。

住所不定で一見怪しいと思われるも、

こうしたスタイルは、人を自由にする。

生まれ育った処にずっと住み続けている、

地元が大好きでなんら不満はないという方は、

その価値観に従えば良いと思う。

が、諸事情により、そうでない方が多いのも事実だ。

私事だが、いま自分のふるさとが何処なのか、

よくよく考えると分からない。

こうしたとき、私は、脳のソフトを入れ替え、

新しい価値観に準ずることにする。

こうして、ノマド&クラウドな生き方は、

ライフスタイルを変えることができる。

自分で生き方や仕事を考え、見通し、自分の力で

生きていかなければならないこのスタイルは、

必ず結果を出す必要がある。

でなければ、

経済的に立ちゆかなくなることは目にみえている。

結果が出さなければアウトなので、自ずと能動的になる。

このスタイルは、その位の刺激がある。

自由に生きるには、パワーとエネルギーが必要だ。

そして、自由と厳しさは、裏腹だ。

上辺だけを掠め取って、いい加減に始めると、

このスタイルは火傷をする。

私も多少の火傷をしている(笑い)が、

次第に、そんな時代になりつつある。

テレビという装置

疲れたアタマを休めるためにはどうしたらいいかということで、

私はテレビをつけることを推奨する。

テレビは、天気や映画やドラマ、ドキュメンタリーなど、情報の他、

楽しみはいろいろある。

が、とみに疲労しているときは、ワイドショーやバラエティを観る。

なんだか大変そうな話題や面白そうな話が満載なので、こちらもつい

その話にのる。

ほうほう、そういうことなんだ。そうそう、そうゆうネタね?

と、こちらも引き込まれる。

そんなことで、1時間でも観ていれば、疲れは軽減され、

あーあとなって、リラックス状態に入り、脳は居眠りを始める。

いや、ヒートしたアタマが冷却され、低回転へとシフト、

程よいアイドリング状態となってくれることだろう。

その効用は大きい。

かように、テレビとはありがたいものだと合点がゆく。

テレビには、人知れぬ効用と癒やしが、密かに仕込まれているのだ。

世間で言われるテレビへの非難など、あまり意味はないのではないか?

小難しいことなど、テレビには必要ないのだ。

番組は、楽しくテキトーに考えて頂きたい。

テキトーが、いまテレビには求められている。

テキトーな番組づくりには、倫理も中立も真実もいらない。

そんなことは目に見えていた。

だから、今日のようなテレビとなったのだ。

これは、みんなの総意であり、要望の結果なのだ。

大事なのは、疲れた現代人を如何に癒やしてあげられるか。

この一点に注視し、いい加減な番組づくりを心がける。

テレビは、思考停止装置として、いま

その役目を全うしている。

メデイア追撃

ヒガシコクバルのような目つきをする奴に
誠実な人間はいない。この人が果たして政治家には向いているのかどうかは、
私にはよく分からないが…

キムタクはいま、いやずっと以前から悩んでいる。
もう自分では身動きできない程、周りからの評価は
「イイオトコ」。但し、この評価がただの記号でしかないことは彼自身が
一番よく知っている。

AKBではなくモーニング娘。竹井咲ではなくゴクミ。
それなりに年をとると、はじめて美しいか否かは
よく分かるものだ。

五月みどりは美しい。瀬戸内寂聴はいやらしい感じがする。
小池真理子は綺麗だ。藤原紀香は恣意的でイライラする。
IKKOはごつい。これは本当

森三中の芸というのは、想像するに、或る趣味の奴から
見れば、とてもエロいのかも知れない。私には伝わらないが、
ふとそんな気がした。

ロシアではデモが盛んだが、プーチンには想定外だったと思う。
彼はとんでもない勘違い人間で、自分ほど強くて格好良い奴は
他にいない、と思っているフシがある。

小沢さんという人は、希有な政治家だと思う。が、いつも
悪い人というイメージがついて回る。それは、彼が既成に逆らい、
アメリカという国を客観視したときから始まっている。

石原都知事は、とても臆病な人間だと思う。彼はよく極論を
言うが、こういう人間に限って自分に葉っぱをかけている。
虚勢とは、まさに彼のことを指す

細木数子さんがしばらくテレビから消えてほっとしている。
あの方が好きなことを言って偉そうにしているのは勝手だが、
或る人にとっての彼女は犯罪者そのものだ。

加藤茶とかラサール石井が若い嫁さんをもらっているが、
なんだか凄く嫌な気がするのは私だけだろうか?
彼らはきっと心が広いのだろうし、ホントの自由人なのかも…
あ~あ、私はつまらない人間です!

或る虚人の告白

悲しいことが多い世の中です、と言いたい。

震災のとき、私はまず、神さまの存在を疑った。

救われない現実と思った。

振り返るに、震災前の今年の正月、

私は幾つかのお願いごとを書いて、神棚に上げた。

そのなかに何故か、大きな地震が起きないようにとある。

元来、信心深い性質なので、

それが神道だろうが仏法だろうが、

そんな教えを身近に感じて、

いままで生きてきたように思う。

そして最近、漠然とだが、

神的存在とやらを疑っている。

また、

神的存在はあるが、そのなかで生きている私たち、

という冷めた世界観もあるのでないかと考えた。

例えば、宗教は単なる慰めなのか?

生きること自体が苦行と考える宗教なら、

そんな教えを与える存在とは、

かなり傲慢とも思えるのだが。

神話では、

神同士が戦い、更には殺し合っている記述もある。

また、嫉妬という割と下世話な心の動きも多々ある。

我々と何が違うのかと深読みも試みたが、

そこは意外に受け流されている記述が多い。

答えようがないのかも知れない。

もし、古神道またはアニミズムのように、

この世総て、隅ずみに至るまで神が宿るのなら、

この神的存在は、私たちをじっと眺めているだけということになる。

逆に、悲劇さえもコントロールしているとも考えられ、

それはまた、救われない解釈としか言いようがない。

信じるものは救われるというが、本当にそうなのか。

聖書の

ヨハネの言葉には、予言めいたものが多いが、

そこには、良いことはほぼ書かれていない。

例えば、或る章に、

子羊が七つの封印を開封する、と言うのがあるが、

これは、簡単に書いてしまえば、

勝利、戦争、飢饉、死、復讐、地震と天災、祈りだ。

人間の傲慢さが、いろいろな災いをもたらすと言っているのは分かるが、

ほぼ世界は、苦しみに満ちていると表現しているように思う。

それが人間の業なのだと、突き放しているようにもみえる。

(私たちは、幸せになるために生まれてきた)

誰だって、心の拠り所がなければ、

永らくは生きてゆけないだろう。

よく、何かとんでもないことが起こると、

神がお怒りになったと言う人がいるが、

そんな短絡的な思考停止は、

人間を益々臆病にするだけだ。

(実際、聖書で、神はよくお怒りになる)

また、人間こそ神の子だとする教えもあるが、

ならばと反論する意欲も失せるほどに、

いま、私たちは疲れている。

が、尚更に強く、

いま、私たちは幸せになるために生まれてきた、

と思いたい。

拠り所は、心に宿る意志だけなのか。

これで充分だろうとも思う。

しかし、

いまこの時代に

不安定な心に、

もし、神が手を差し伸べてくれたらとも考える。

それは、私たちの存在理由を問うたときの、

生まれ出ずる悩みであり、

やはり、神的存在は欠かせないと思うからだ。

如何様にもがいても、

それが人間なのだから。

戦争というもの

もう、民主党もダメだろうな。
時間の問題と思う。

野党時代の勢いは何処へ?

政権を手に入れると、
次々とその無策が露呈する民主。

で、次期、自民党が返り咲くかというと
そうも思わない。

永年の疲弊した自民党政治が、
政権交代を機に露呈したとも言えるのだから…

どっちもどっち。

時代は新しい誰かの登場を待っている。

それは、イデオロギーであるにせよ、
経済であるにせよ、
現状を思うと
ヒーローと呼ぶにふさわしい
政治家が求められてくる。

経済通、外交通。
いや、それらの総てに精通したうえで、
もっと問われるべきは、
官僚をコントロールする手腕だろうと思う。

いま、世界は経済戦争のまっ只中だ。
そこに、政治力が加わる。
いろいろな軋轢が生まれる。
リアルな戦争はいつも、ここから始まる。

戦争はいつも人を不幸にするが、
笑っている奴らがいる限り、
いつになっても繰り返されるだろう。

私は若い頃、
戦争は海の向こうの事だと思っていた。
今更ながら、愚かだなと思う。

よくよく考えてみれば、
私の住む神奈川県には、
厚木基地、海軍横須賀基地、
座間キャンプなど、
米軍関係の施設が多い。

小さい頃からそうした環境で育ってきたので
麻痺していたが、
こうした現状をあまり深く考えたこともなかった。

私たちの上の世代は、
嫌でも60年安保、70年安保の闘争をリアルに知る世代だ。

私は、それをテレビで眺めていた呑気者な子供だった。

中学生のとき、自衛隊の北富士演習場に入ってしまい、
タラタラ歩いていたところを発見され、
実践部隊の人たちにぶっ飛ばされそうになったことがある。

そして
20代の頃、グアム島の米軍基地の回りで道に迷ってしまい、
その行動を不振に見られたのか、
屈強な米兵に自動小銃を向けられたこともあった。

よくよく考えれば、戦争はとてもリアルだと知るべきだった。

最近、我が家の上空を
軍用ヘリが複数機で飛んでいるのを、
頻繁に見かける。

厚木基地では、実践さながらのF15戦闘機の
タッチアンドゴーの訓練が増えていると聞く。

対岸の火事は冷静に見ていられる。
ただの野次馬だからだ。

が、もし対岸の火が何かの弾みで、
こちらに飛び火すると、
誰も他人事では済まされないだろう。

いまの日本を考えると、そんな危機を感じる。

戦争はいつの時代も、
こうして始まるのだろう。

清潔な時代

今年もまた、インフルエンザが流行しそうな気配だ。

外から帰ったら、手洗いと、うがいは欠かせない。

先日TVを観ていたら、手洗いも徹底的にやらないといけないらしく、

手術前の外科医のように、とても丁寧かつながーい手洗いを推奨していた。

これは、めんどくさがりの私には無理だ。

うがいにも、コツがあるらしい。

ガラガラという音の音程を変えて、うがいをする。

アタマの角度を変化させて、うがいをする。

これも、私にはかったるい。

近頃は、街のどこにでも、消毒液のスプレーが常備されている。

一度試してみたが、手がガサガサになってしまい、

以来、一度もこのスプレーには触らないようにしている。

私が幼い頃は、みんな青っ鼻を垂らしていた。

いま思えば、とても不潔そうなのだが、

これは、ウィルスから体を守る防御システムが働いての

鼻っ垂らしらしい。

拾ったものを食べて疫痢になった友達もいたが、

彼の家は、保健所からきた人達に徹底的に消毒され、

しばらく使えない家になってしまった。

いまは疫痢という病名さえ聞かなくなった。

貧乏も減り、清潔で良い時代になったとも思うが、

ちょっと危惧することがないでもない。

思うに、日本は先進国のなかでも飛び抜けて清潔である。

そもそも水道水がそのまま飲めるというは、

日本という国が、自然からの恵みの豊かさと

インフラの整備が進んでいる結果といえる。

そして、清潔好きな国民性も相まって、

生活のすべてに、この清潔さが蔓延しているようにもみえる。

逆に考えれば、諸外国に較べ、

日本人の抵抗力の弱さも際だっているような気さえしてくる。

こんな弱い体の私だから、一度インドにトランジットで立ち寄ったときさえも、

当然、ぬるいコーラのみで喉を潤していた。

これは生水が危ないというより以前に、

自分の抵抗力のなさを自覚していた私は、

あらゆる水分を極端に控えていたことを覚えている。

考えるに、いま世間は無菌をめざしているように私には思える。

それも、ちょっとヒステリー気味に…。

菌と人類の付き合いの歴史は長いが、このままいくと

そのうち菌のない生活がくる、ということはないと思う。

ペニシリンの発見は、私たちにとってはとてもありがたい事だった。

なにしろ、この薬により、何人もの命が救われたのだから。

が、時代が変わり文明はより高度になり、薬も菌も進化し続けた。

新たな抗生物質も、時が経てば、新たな耐性菌を生む。

その耐性菌を殺すために、また更に強力な抗生物質が開発される。

この迷宮のようないたちごっこは、無意味な喧嘩や戦争にも似ている。

どこかで折り合いをつけないと、そのうち

とんでもないことが起きるような気がしてならない。

まずは、清潔を心がけるのは良いが、

潔癖をめざすような病にはかからないように、

日頃からテキトーという抵抗力をつけておきたいと思う。

ネット依存

ネットは、鏡の世界だ。

実生活と別の世界だが、

リアルな生活と似た世界、

いやそれ以上の途方もない世界が

広がっているようにも思える。

底なしだ。

欲しい情報は、ほぼ手に入る。

が、そこが怖い。

例えば、ネット以前。

本などで学んでいた時代は、

そこで分からない、不明なことは

本屋や図書館にでも行って調べるか、

人に聞くかとか、

まず行動を起こした。

それでも解決しないことは、

答えを求めて悩んだり、

さらに動いたりしたものだ。

また、あきらめるという選択肢もあった。

ネットは、いわゆる知識の宝庫なので

いまやネットを操る人は皆、知識人だ。

(どうでも良いものや間違った知識も満載だ)

知識は人を物知りにはするが、

そこに経験が加わらないと、

何の創意工夫もないままの

あたまでっかちが出来上がる。

ついでに、カラダだって鈍ってくる。

いつまでもパソコンの前にいる抑制のない人間は、

それこそ大切な時間の総てを注ぎ込んで

ネットに見入る。

なにしろ鏡の世界だから、

ネットの海原に漕ぎ出したら

帰ってこない人間は数知れない。

事の程を知ってる大人は、

生活の総量と時間のバランスを考える。

ネットの特性を知った上で、

夢中になっても、

心の陽が沈む頃に引き返し、

あとは、誰かと会話を楽しんだり、

散歩でもしたり、料理をつくったり、

スポーツでもやったりするのが

まっとうな人間というものだろう。

バランスを崩したネットの達人は、

パソコンやケータイの前であたまでっかちになり、

鈍ったカラダをもてあまし、

もはや鏡の向こうの世界の住人になってしまう。

いまや、こうした人間で溢れかえっている。

いろいろな事を知っている達人の知識は

たいしたものだと思うが、

五感は正常か?と言いたくなるような輩も、

最近、多々見かけるようになった。

例えば旅行。

ネットの達人は、実際の旅行なんかしないんじゃないか。

パソコンの前で、行く先の総てを調べた挙げ句、

もう旅行へ行ってきたような錯覚で、行動しない。

恋愛なんかも同じような要領で、

ネットの上で真剣な交際相手を探し始める。

付き合い始めたとしても、一度も会わずに別れたりする。

私たちはいま、ネット情報に支配されている。

テレビ、新聞などの情報には限界があるが、

ネットの中の情報は、途方もないコンテンツが仕組まれている。

そろそろSOSを発するべき時が来たのではないか?

ネットはいわばハサミと同じように語れる。

使い道次第で、私たちの生活も仕事も快適にしてくれる。

しかし、ネット依存人間などにみられるように、

使い方を間違えると、

生き方そのものが破壊されると思った方が良い。

そもそも、人が生きてゆくというのは、

毎日の生活一つひとつのリアルな行為の積み重ねであり、

行動と思考を繰り返すなかで、いろいろなものを学ぶように仕組まれている。

そこで五感が活動し、喜怒哀楽を繰り返し、実感を掴むものなのだ。

人は経験から学び、知識も経験を踏まえてはじめて、

知恵をものにする。

現代人は、バランスを崩してしまった。

私たちはいま、

知恵も肉体もおろそかにしてはいないだろうか?

さて、この文章は、自戒を込めて書いた。

毎日毎日、パソコン漬けネット漬けの私たちの仕事は、

一体何が実体で何がバーチャルなのかが、

一瞬見えなくなる時が、多々ある。

何処に線を引くか?何が境目なのか?

いつも気をつけながら歩いてはいるが、

危ない山の稜線をふらふらと歩くことも、時としてある。

今後、リアルな体験の少ないバーチャル人間は、

ますます増殖する。

生活実感のない人間、知恵なし人間が集まって

これからの社会を形成してゆくことになるのだろう。

そこに、確かな感情は機能するのだろうか?

血の通う社会は築かれるのか?

他人の痛みが分かる思いやりがあるのか?

自然に帰れ、とは

まさにいまの時代に叫ばなければならない

スローガンなのかも知れない。

らしくない都市伝説

その1
都会にいると偉いのか?

この年になると、交際範囲もさまざま、かつ決まった傾向や地域もなく、バラバラ感が否めない。
学生時代のように特定の地域に知り合いが固まっていることもまずない。で、ときには往ったり来たりもあるのだが、何故だか集まる場所は、田舎よりの都会が多い。
当たり前といえばそうだが、なんかしっくり来ないときもある。
都会はちょっとした店が多々ある、みんな土地勘がある他、
こうゆう機会に都会に行こうという人もいるんですかね?
あぜ道の自動販売機の前とか、しまむらで待ち合わせすることってないもんね?
で、いつも新宿!だったり渋谷だったりするじゃないですか?
まあ、電話やメールのなかで何となく決めるんですが、こうした場合、絶対に発言権が強い人は都会にいらっしゃる方、なんです。
この人たち、田舎者の苦労を知らないんです。
私は田舎に住んでいて、なおかつ駅からも遠いので、都会が集合のときはかなりキツイ。
で、往く先で「お前飲まないね。ウーロン茶かよ?」なんて言われてもスイマセン!べろべろにはなれません。
帰れなくなっちゃう訳です。
酔っぱらってバスに乗るのも嫌なので、
駅の近くにクルマを置いてくることもあります。
ああ、もう気持ち的に飲めませんよね?

がしかし、泊まりならOKなんだけどなー。

私どこでも寝られますから(笑)

その2

大きい会社で働いていると偉いのか?

東証一部上場、誰でも知っている社屋の広報室。○○課の××山課長は、今日も気難しい顔をして考えあぐねている。わたし等のつくった広告ラフを前に、眉間にすげぇーシワ。無言の時間は長いのだ。空気がピンと張りつめている。電話の音も人っ気も遠くに消え去る瞬間。考えれば、決断する彼の責任は重いのだ。そうだ、頑張れ××課長!
が、彼は考えすぎるきらいがあった。過去の履歴から、彼の考え過ぎはよくハズれ、課をグルリと回って、結局元の案に戻ることもしばしばあった。というか、彼の思惑は、いつもズレていた。
何故か?
私の観察見るところ、彼はいまの仕事が好きなのだが、また彼も希望してこの課に長く留まり、古株としても回りから一目置かれているのだが、如何せんセンスがねえんだな!
これ言ったらお終い、元も子もないのだが、彼の判断は甘くて不的確。みんななんとかしろよ!
私は心のなかで叫んだが、誰にも聞こえない。
彼は今日も決断を下すことはないだろう。いや、なにか意見を言い、私たちが再びラフ案を再提出したところで、なにも決まらないだろう。

(ラフの修正って結構大変なんだぞ!)

さて、この息を飲む瞬間は何を意味するのかというと、
これは儀式なのだ。彼は偉いのだ。彼が決断者なのだ!
だから儀式が必要なのだ。

こんな人間が、日本中の大企業と呼ばれる所に、
これまたゴロゴロと無数にいるんだな。

参った! 

人は2種類しかいない

ある日、老婆が僕の所へやってきて
3億円で僕の寿命を半分譲ってくれないか?
という。

「いいですよ」
僕は快諾した。老婆もよろこんだ。

僕は3億円の内、1億円で寿命を3倍に伸ばす薬を手に入れ
残りの1億円で借金を返し、更に残った1億円でラーメン屋を
オープンした。

さて、これが商売の基本。
答えは情報を知っているか否かにある。

または先行者利益という。

世の中にはこのような話がゴロゴロしているのだが
そうそう誰にも伝わる話ではない。

しかし、特定の人間たちにはよくある話で
彼らを世間では、偉い人と呼んでいる。

偉い人は「いつも私は皆さんの幸せを考えています」などと
笑顔で近づいてきて、大方の誰もが気がつかぬように
ラクに儲ける術を身につけている。

既得権益というのもその一つだろう。

仕事はたいしてしていない、が基本。

そう
世界は2種類の人間で構成されている。

騙す人間と騙される人間。
むずかしいことではない。

よくよく考えてみれば
国境や肌の色や宗教などというものは
この際、たいしたことではない。

下らないことでいがみ合う暇があったら
僕は先に言ったことに気をつけろ!
と叫びたい。

なぜなら、いがみ合いの素をつくって稼いでいるのが
もう1種類の人間なのだから。

彼らは、神が遣わした人間ではない。
私たちがつくってしまった人間だ。

だからよくよく考えてみれば
国境や肌の色や宗教などというものは
この際、たいしたことではないと
僕は思うのだ。

みそ汁をつくる

割と早起き、というか仕事柄、朝まで起きていることもしばしばあるので、まず、台所に立ち、石けんで手を洗う。これは、私の朝のケジメをつける儀式でもある。次に一杯の御神水を、まっさらな湯飲みでありがたく頂く。普段は普通の水道水なのだが、この御神水に関しては、後日、占いのお話で詳しく書く。
いや待て、その前にご先祖様に備えるお水を、五つのコップに注ぐのを忘れていた。この儀式も済ませないと、私の朝は始まらないのだ。
いろいろと朝は、儀式の行列なのだ。
まず、お茶を飲むため、ケトルでお湯を沸かす。さて、ここからが今日の本題だ。
男子厨房に入らず、というしきたりは、ウチでは死語だ。掃除だってなんだってやるのだ。これは、修行といってもいいだろう。特に掃除は、仏道では基本中の基本といってもよい。掃除を終えると気持ちも体もスッキリするのは、なにか異空間の空気が流れ込むからだろうか、実働以上にすがすがしい。
話が大きく逸れた。次。
我が家も、トーストとスクランブルエッグなどと、格好いい朝食の時代もあったのだが、アレコレ試行錯誤の上、いまでは玄米入りのご飯とみそ汁に漬け物などのおかずが少々、というスタイルに落ち着いた。子供たちも同様だ。誰も文句は言わない。朝食とはこういうものなのだ、という不動の信念が家中に漂っているのだ。
で、みそ汁なのだ。
まず、鍋に適当に四人分であろうと思われる水を入れる。私の場合、あくまで目分量。それをレンジの上にのせるのだが、間違っても火を入れてはならない。まず置いておいて、冷蔵庫を開け、全体をチェックする。そろそろ傷みそうだな、などと思われる大根などがあると、ちょっと微笑んだりする。不気味ではある。
というわけで、今日の朝飯は、大根のみそ汁に決定。
おもむろに、大根を10センチぐらいの長さのところで、ザクッと包丁を入れ、ぶった切る。そしてまわりの皮は、0.5ミリぐらいの厚さで、包丁で均一にかつら剥きにして
捨てる。このかつら剥きだが、コツは、包丁を上下に動かしながら大根をゆっくり回してゆくとうまくできるようになる。
で、ザクザクと大根を輪切りにしてそれを重ね、これも均一に切ってゆくとあーら不思議、マックのポテトのような大根の具の出来上がりなのだ。パチパチ
これを鍋に入れ、はじめてレンジのスイッチを押す。要するに、水から茹でると美味しい大根のみそ汁が完成するのだが、ふぅーなどと気を抜いてはならない。
大根のみそ汁には、いとしい恋人のように、油揚げが寄り添うことを忘れてはならない。油揚げは、適当な時間になったら鍋に放り込み、大根と混ざり合うのをじっと見届けるのだ(変だよなー)。
私の場合、グズグズと沸騰する前に、生協のダシの素を大さじに一杯とちょっと入れる。ここで「あなたはなぜ生協のダシの素なのか?」という疑問が生じるだろうが、ここでは語らない。話が長くなるので、この事柄も後日にまわす。
さあ先を急ごう。沸騰してきたら3分は暴れさせよう。大根と油揚げのディスコタイムだー! 大根に芯まで火が通るまで、ともかくこの間だけは先を急いではならない。その間に味噌とおたまを取り出し、この量だ!という強い意志の元で味噌の塊をおたまに乗せる。
鍋の大根が適当にしなっとしてきたら火を止め、味噌の乗ったおたまを鍋のなかに浸し、さいばしでゆっくりゆっくりと溶かしてゆく。
ハイ、お疲れ様。これで大根のみそ汁の完成なのだが、確認のため、最後に小皿にみそ汁を少量入れ、味をみる。そして「うん」などと、ひとりでうなずいたりするのだが、時を同じくしてケトルもけたたましく湯気を出したりするので、油断がならない。
こうして私の朝は始まるのだが、ぼぉーっとしているオヤジとはほど遠く、ときおり気の抜けない日々を送っている。事はみそ汁なのだが、気持ちを引き締めてかからねばならない。眠い目をこすりながら新聞をふんぞり返って読むなんぞ、私にとっては夢のなかのお話なのである。
だから、みそ汁をつくり終わった後の、熱くて香ばしい緑茶が、よりいっそう美味いのである。